後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「町々にボンネットバスが走りマツダクーペやスバル360が走っていた頃」

2023年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは随分と昔になってしまいました。まだ高度経済成長の時代に入る前の1950年代から1960年代の初めまでの人々が必死に生きていた頃のことです。日本はまだまだ貧しく、必死に働かないとに生きていけなかったのです。
そんな時代に町々に走っていたのはボンネットバスと路面電車でした。自家用車が憬れの時代でした。
スバル360やマツダクーペが出始めました。トヨペットクラウンやダットサンを買う人も出始めました。
外車と言えばアメリカ車や、イギリスのヒルマンや、ドイツのフォルクスワーゲン、そしてフランスのルノーなどが少しずつ増えていった時代でした。
住宅はまだ貧しく一部屋のアパートに家族で住む人も多かったのです。南こうせつさんの「神田川」という歌では4畳半のアパートに住む若い男女の様子がせつなく唄われていました。皆様は「あなたはもう忘れたかしら~赤い手ぬぐいマフラーにして~」という歌詞を憶えていらっしゃいますでしょうか?
そんな時代の生活を思い出させるボンネットバスとルノーの写真とマツダクーペやスバル360の写真をお送りいたします。
1番目の写真は1950年、昭和25年に日野自動車が作り、1966年まで製造されたボンネットバスです。日本全国の路線バスとして日本の風景の一部になったいたバスです。写真を撮った所は「日野オートプラザ」です。
アクセスなどは、http://www.hino.co.jp/autoplaza/access/index.html にあります。
直列水冷6気筒、80馬力のジーゼルエンジンがついていました。家内が撮ったので私も写っています。
2番目の写真は運転席です。当時はパワーステアリングでなかったのでハンドルを回すには力が必要でした。ですから運転手は男に限られていたのです。ギヤーもシンクロされていませんから運転手はダブルクラッチをしてギヤーを入れ替えていたのです。男の子は必ずのように運転席の後ろに立って運転の様子を見ていたものです。
3番目の写真はバスの椅子の様子です。椅子は全てこのような長いベンチ形式で、乗客が座ると女性の車掌が切符を切りに回って来るのです。満員になると車掌は動かないで、バスが止まった時、一番先に下りて出口の下で切符を切っていました。
4番目の写真は日野自動車が1957年、昭和32年から製造し始めたフランスのルノーです。フランスルノー公団と契約し製造技術を導入しました。当時は日本で製造される外車は珍しく数多く売れたようです。自家用車やタクシーとして広く普及しました。
私はルノーの如何にもフランスらしい姿に憧れて、タクシーに乗る時はルノーを選んで乗っていたものです。
後ろに水冷4気筒、750ccの15馬力のエンジンを積んでいました。現在の軽自動車のエンジン760ccと同じだったとは驚きです。その割には機敏に走り回っていました。
5番目の写真は日野自動車が1958年から販売していたハスラーという名前の小型三輪トラックです。製造は三井精機工業でした。エンジンは空冷単気筒、285cc、8・8馬力でした。
昭和30年代から40年代にはこのような小型三輪トラックが多数、全国に走っていたのです。マツダもダイハツも小型三輪トラックを大量に生産していました。

6番目の写真はマツダクーペ360です。私もアメリカ留学から帰国した1962年から数年間乗っていました。アメリカではダッジの大型車に乗っていたのでマツダクーペの小ささに驚いたものです。

7番目の写真はスバル360です。町をいっぱい走っていました。叔父もスバル360を持っていたのでマツダクーペ360を私が運転して2台で奥多摩湖までドライブしたこともありました。
日本の経済も成長してやがて高度成長期に入りました。
そうすると街から路面電車が消え、ボンネットバスやルノーやマツダクーペやスバル360も消えて行ったのです。愛用していたマツダクーペが懐かしいです。
こうして日本の車の風景がすっかり変わってしまったのです。
皆様は町々にボンネットバスが走り自家用車が憬れだった頃の思い出がありますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の秋の紅葉は本当に美しい」

2023年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の自然は四季折々美しい姿を見せてくれます。そしてその山野には可憐な花々が季節のうつろいとともに次々と咲いてくれます。
早春の梅の花に始まり、絢爛な櫻花、そして梅雨時になればアヤメやアジサイが野山を飾ります。秋になると紅葉が華やかに野山を飾ります。日本の自然は本当に美しいのです。
今日は2016年10月に撮った北海道の支笏湖と紅葉の風景写真をお送りします。そして2015年の11月に撮った茨城県の袋田の滝の紅葉の写真をお送りします。
2016年10月の中旬、北海道の千歳空港の西の支笏湖の近くの北湯沢温泉に泊まり、羊蹄山の麓から日本海の岩内町に出て、海岸沿いに積丹半島まで行きました。余市のニッカウイスキー工場に寄り、2晩目は羊蹄山の麓のルスツリゾートに泊まりました。そして千歳から羽田に帰りました。その折に撮った写真です。
1番目の写真は支笏湖です。
2番目の写真は支笏湖の岸辺の紅葉です。北海道の紅葉は本州の紅葉より色あざやかです。
3番目の写真は支笏湖の岸辺のナナカマドの樹です。ナナカマドの実が美しい紅色になっています。
4番目の写真は高低差が大きく何段にもなっている袋田の滝です。周りの紅葉が美しく滝を飾っています。
5番目の写真も袋田の滝です。写真の左には昔の滝の展望台が写っています。昔はこんな高い展望台まで歩いて登って行ったのです。新しい展望台にはエレベーターがついています。

自然の風景や花々を愛するのは日本民族に限ったことではありません。
しかし日本では緑豊かな山々に囲まれ、花々が溢れるように咲き、秋には紅葉が野山を飾ります。
このように自然が四季折々美しい国はそんなに多くはないのです。
その上、緑に覆われた列島は美しい海にかこまれているのです。
それは幸運なことです。日本民族はその美しい風景に魂を吸いとられ、一層強く自然を愛し、崇敬していると思います。

これから紅葉や黄葉が益々美しくなります。
皆様も野山に出て紅葉を楽しむように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「感動的だった旅(10)海に向かって並ぶ伊根の舟屋に魅了された旅」

2023年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
「感動的だった旅」という連載記事を書いているともう一度旅をしているような気分になります。書きながら昔行った所へ旅するのです。鮮烈に記憶が蘇ります。
今日は1990年前後に3度訪れた伊根の舟屋をご紹介致したいと思います。
「伊根の舟屋」は本当に美しい風景です。日本三景の天の橋立のすぐそばです。
伊根の舟屋は京都府の日本海側の与謝郡、伊根町の海沿い立ち並ぶ家です。1階にある舟の収納場所の上の2階に人が住んでいます。これは独特な伝統的建造物です。舟屋は江戸時代中期頃から作られ ました。現在、240軒ほどあります。この地区は「伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。
この舟屋の多くは民宿をしています。民宿では舟屋の2階がお客の寝室になっているのです。私が泊った時には夕食に生け簀に泳いでいた地魚の塩焼きが出ました。ゆっくり地元の辛口の酒を楽しみました。もう30年も前に3度ほど行った旅を懐かしく思い出します。
その風景写真をお送りします。出典は、https://reki4.com/00201.html です。
1番目の写真は伊根湾の東側から見た伊根の舟屋の遠景です。
2番目の写真は舟屋の近景で1階が舟の収納庫になっています。2階は宿泊客の部屋です。私も2階の部屋で海を眺めながらゆっくり地元の辛口の酒を 飲みました。夜はその部屋に寝ました。
3番目の写真は漁船が大型化して1階の収納庫に入らなくなった様子を示します。大きな漁船が舟屋の前に舫ってあります。あまり良い光景ではありませんが私は仕方がないと諦めました。これも時代の変化です。
4番目の写真は伊根湾の夕日です。日本海にゆっくり沈んで行きます。

ここ伊根という地名は建久2年(1191年)に「長講堂所領注文」という史料に初めて出てきます。鎌倉時代末期には集落が形成されていたようです。
はじめは湾内だけの漁業だったようですが江戸時代以降は湾外へと舟が出て行きました。
江戸時代末期には短冊型の地割りが見られ現在の舟屋群の基礎が確立しています。
それにしても何故か旧懐の情をかき立てる風景です。

今日は私の曾遊の地、伊根の舟屋の写真をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)