今日は「感動的だった旅」の(9)として美しき猪苗代湖と会津若松の鶴ヶ城への旅日記をお送り致したいと思います。福島県の会津盆地にある湖と城です。
では早速、会津地方の魅力を写真でご紹介いたします。
1番目の写真は冬の猪苗代湖と磐梯山です。この湖へは白鳥が群れをなしてシベリアから渡って来るのです。写真の出典は、http://find-travel.jp/article/6221です。
2番目の写真は夏の猪苗代湖のヨットの写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。
自分も今は亡き友人のこの写真のようなヨットに乗って猪苗代湖の花春カップレースに数回出たことを思い出します。
3番目の写真は春の夜の鶴ヶ城の写真です。出典は、http://www.tif.ne.jp/jp/photo/photo_disp.php?id=13337です。
戦国武将の蒲生氏郷が領主になって、城を拡張しました。その氏郷が茶道を持ち込み、城跡や御薬園には風雅な茶室があります。
4番目の写真は会津城主の蒲生氏郷が造った茶室の「麟閣」です。
蒲生氏郷は安土桃山時代の1590年に42万石(後に92万石)の大大名として会津城主となり会津若松城と城下町を整備しました。
私どももこの茶室で抹茶を楽しむことが出来ました。懐かしいです。
5番目の写真は「麟閣」の庭です。
天正19年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられました。利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、会津城主の蒲生氏郷は利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまいます。そして秀吉に千家の再興を願いでたのです。この時に建てたのがこの「麟閣」ですその後、少庵は許され京都へ帰って千家を再興したと伝えられています。
6番目の写真は白虎隊の墓の写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/chi_hiro_0926/53039601.htmlです。
白虎隊は会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊でした。戊辰戦争の時、江戸幕府軍として西軍と戦い、敗戦に追い込まれ19人が郊外の飯盛山で落城寸前の鶴ヶ城を見ながら自刃しました。
この事件は日本が明治維新によって近代国家に生まれ変わる過程で起きた数多くの悲劇の一つになりました。
7番目の写真は白虎隊の19人の墓の説明板の写真です。出典は、http://www.360navi.com/photo/07fukusima/02aizu/03byakko/10page.htmです。
さてこの会津地方の排他性について書いておきます。
他の地方の人をのけ者にし、排斥する文化は私の生まれ育った東北地方の各地にあります。津軽藩、南部藩、鶴岡藩、伊達藩などのあった地方は城下町を誇りにし、一般的に排他的な雰囲気があるのです。会津地方も排他的な文化を持っています。若者にとってそのような地方の息苦しさに耐えかねて、自由な東京に出て来る人も多いのです。
この感じは地方で生まれ育つた人には理解出来ると思います。都会で生まれ育ちの人にはなかなか判らない地方の文化なのです。東京の自由な雰囲気が若者を呼び寄せるのです。
21世紀にもなって、排他性など日本から消えてしまったと言う人もいるでしょう。しかし外国からの移民を絶体に入れない日本に、本当に排他性は消滅したと言えるでしょうか?そんなことを考える今日この頃です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
白虎隊(びゃっこたい)とは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A より抜粋。
会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。・・・以下省略。