私は見知らぬ町へ行ったことがあります。群馬県の山の中の淋しい下仁田町です。妻が1945年に疎開した山里の小さな町です。
私は深く溜息をつき、「はるか遠くに来たもんだ!]と独りつぶやきました。当時は高速道路も無く、遠路はるばる群馬県の下仁田町に着いた時のことでした。そこは皆様も多分ご存知ない遠い、山に囲まれた町で名物は葱とこんにゃく。妙義山麓のささやか町です。
今日は下仁田町をご紹介し、そして下仁田ネギの話を書きたいと思います。
下仁田町は群馬県の西端の妙義山の麓にあります。水田が無く、小麦やコンニャク、ネギなどの野菜しか採れない山郷です。しかし、養蚕業や織物産業もありかなり裕福です。
1番目の写真は下仁田町から見た妙義山の主峰です。
この下仁田町へ終戦の直前に家内は鎌倉から疎開しました。海辺から移った山での生活は家内にとって毎日楽しかったそうです。
2番目の写真は疎開した家内が通っていた下仁田小学校です。2017年に行った時に撮った写真です。
家内は毎日山や川で遊び回っていました。とくに鏑川(かぶらがわ)にはよく泳ぎに行っていました。溺れたこともありました。
3番目の写真は下仁田小学校のすぐ下を流れている鏑川です。
こんな妻の縁で私も何度も下仁田へ行きました。そして名産の下仁田ネギのことを詳しく知るようになりました。小学校の同級生だった横山君から毎年見事なネギが沢山贈られすき焼き鍋を楽しんでいます。
4番目の写真は下仁田ネギの畑の風景です。
この「下仁田ネギ」は江戸時代中期以後に有名になったネギです。大変美味しいネギなので大名や武士の間のお歳暮などの贈答品として珍重されたそうです。
明治になって鉄道貨物輸送が始まると下仁田ネギの出荷が急に増加し、多くの人々によって美味しさが認められました。有名な群馬県の特産品になったのです。
「下仁田ネギ」には独特の甘味があり、熱を加えることで柔らかくなり、うま味が増すのです。11月から収穫の時期になります。
里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」という本に以下のことが書いてあります。
ネギは渡来植物として非常に古くから日本人が栽培し食べてきた野菜です。
ネギの古い名前は葱と書いて「キ」と読んでいました。キの一字なので「ひともじ」という名前も使われてきました。
原産地は中央アジアや中国西部と言われています。日本には縄文時代晩期の焼き畑農業の始まる頃に渡来したと想像されます。その後ネギは日本各地で栽培されるようになり地方、地方の風土に適した品種が出来たそうです。
西日本ではネギの葉を柔らかく大きく育てた「葉ネギ」が主流で、東日本では白い根を長く育てた根深ネギが主流です。
日本のネギの品種群は加賀、千住、九条の3群に分類されます。加賀群には下仁田ネギ、松本一本ネギ、秋田太ネギ、青森地ネギ、などなどがあります。
この里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」の29ページには実に30種ものネギの一覧表があります。
東京で有名な深谷ネギは千住ネギの一種で、加賀群の下仁田ネギとは素性が違います。関東地方では九条ネギ群はあまり流通していないようで主に西日本で栽培されています。
この様にネギは各地で昔から改良が進んだ伝統野菜の一種なのです。
ネギが何時の時代から文献に出て来るでしょうか?
一番古い記録は「日本書紀」の493年の記述にネギが秋葱(あきぎ)と記されています。その後、他の文献にも葱(き)の名前がいろいろ出ています。
それでは下仁田ネギはいつ時代から有名になったのでしょうか?
作者の里見哲夫さんは地元の高崎藩の文献を探し丁寧に調べ上げました。また下仁田の古い家々の倉に埋もれている昔の手紙や注文書などの古文書を根気よく探しています。そして下仁田ネギの名前が書いてある幾つかの文書を発見したのです。
それらを総合して里見哲夫氏は「下仁田ネギ」は江戸時代中期以後に有名になったと結論しました。
この本の感動的な部分はこのような歴史的経過を根気よく調べ上げたことにあります。
5番目の写真は収穫時期の下仁田ネギです。畝を高く盛り上げて根の部分を白く柔らかにしあげます。
下仁田ネギは冬に種を蒔きます。そして晩秋が収穫時期になるのです。それは1年がかりの仕事です。
今日は皆様よくご存知の下仁田町をご紹介し、「下仁田ネギ」のことを少し詳しくご説明しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)