ついに南米原産の皇帝ダリアが咲き出しました。
老境で思い出すのは空襲で全国200市町村が焼け野原になったことです。
アメリカ空軍のB29の空襲で全国200市町村が焼け野原になったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。死者数が10万人以上で、罹災者は100万人を超えた大空襲だったのです。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
1番目の写真は焦土と化した東京の本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川です。
2番目の写真は3月10日未明の大空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺です。
3番目の写真は大空襲後の鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)です。
アメリカ空軍のB29の空襲で全国200市町村が焼け野原になったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。死者数が10万人以上で、罹災者は100万人を超えた大空襲だったのです。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
1番目の写真は焦土と化した東京の本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川です。
2番目の写真は3月10日未明の大空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺です。
3番目の写真は大空襲後の鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)です。
終戦当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っています。
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4番目の写真はすっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真です。この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
4番目の写真はすっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真です。この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
仙台市の南の高台の向山に家があったので防空壕から抜け出して、広瀬川の崖の上に立ちました。足元の広瀬川の北側の市街地が一面に燃えています。
写真で示したようなアメリカ空軍による徹底的な空襲は東京や仙台だけでなく全国200市町村に対しておこなわれたのです。日本民族の歴史に無かった空前の悲劇でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
写真で示したようなアメリカ空軍による徹底的な空襲は東京や仙台だけでなく全国200市町村に対しておこなわれたのです。日本民族の歴史に無かった空前の悲劇でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
老境に至るとしきりに少年だった頃のことが懐かしく思い返します。生涯の仕事のことは忘れても少年の頃のことは忘れないのです。
今日は私の少年の頃の思い出を書きたいと思います。
私の祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。 叔父も祖父の後を継ぎ住職を長く務めていました。そのお寺は大阪駅から山奥に入った兵庫県にありました。
祖父は和尚でしたが長男の父は仙台の大学に勤めていました。毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。
大阪・梅田から阪急電車です。 能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅でした。
私は昭和11年生まれですが、記憶に残っているのは4,5歳の頃からと思います。 里帰りは戦後の昭和26年、中学校3年の夏まで続いたので10年間くらいの記憶であります。
1番目の写真は現在の正林寺の写真です。 写真の出典は、http://sp.raqmo.com/syorinji/ です。
お寺は山合いの内馬場という集落の端にありました。 高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵が、狭い敷地にまとまって建っています。
石垣の上の白壁の塀の上からは集落全体が箱庭のように見下ろせます。
お寺の生活は子供心に珍しく、いろいろ思い出があります。 一番お面白かったものに施餓鬼法要という儀式があります。 飢饉で悲しくも餓死した農民の供養をするのです。供養をするため近隣のお寺の住職が10人くらい集まり、本堂で、お経を読み、鐘やシンバルを鳴らして輪になって廻るのです。
曹洞宗がこのように派手な儀式をするのはその後あまり見たことがありません。帰郷した一家は本堂の左奥にある離れに寝ていました。
2番目の写真は施餓鬼供養の場面です。
3番目の写真も施餓鬼供養の場面です。
4番目の写真は施餓鬼供養に集まった村人です。
本堂の左右の客間には集落の人が合掌して座っています。 そして人々は供える野菜や果物を祭壇に溢れるほど持ってくるのです。その施餓鬼法要が終わると叔父の住職は私と弟に子供用の墨染めの衣を着せて集落へ降りて行きます。一軒一軒全ての家を廻って、仏壇へ向かって、お経を唱えるのです。お経が終わると、どの家でも冷やしソーメンと果物を出してくます。 少し食べて帰ろうとすると、お布施の袋を3つ出してくれます。小坊主には小さな袋でくれます。 これが小坊主にとって一番嬉しいのです。 夏の小遣いが溜まるだけでなく、小さなお布施袋を貰うのが嬉しいのです。 一人前の坊主になった気分で嬉しいのです。大学を卒業し、結婚し、生活の苦労をするようになって、能勢電鉄の奥にあったお寺のことは忘れがちになりました。
しかし老境にいたると無性にそのお寺のことが懐かしくなります。そして祖父母の暮らしを客観的に考えるようになります。とにかく貧乏なお寺で、後に叔父に聞いたことですが現金収入が一切無かったそうです。お寺の裏側は山が迫っていて墓地を作れないのです。 集落の端の山裾の彼方此方に墓があったのです。
今日は正林寺と施餓鬼供養の思い出を書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)