後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(14)ライン河の鰻の蒲焼と船上パーティ」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流の流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れると説明します。

1番目の写真はドイツの鰻の写真です。
ドイツではウナギは棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。
2番目の写真はウナギを割いて蒲焼の下準備が終わった状態の切り身です。
この写真の出典も、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。
さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を充分、蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。
家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
招待した日本人の青年の前に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。
一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。トイレに駆け込んで全て吐き出して、うがいをしました。
席にもどると客の青年が顔をゆがめています。泥臭いウナギを礼儀上、吞み込んでいたのです。
私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いは恐ろしいものです。

さてライン河の思い出にはもう一つ船上のワインパーティの楽しかったことがあります。
まずライン河の風景を見ましょう。
3番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。3番目と4番目と5番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です
4番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。
列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。
5番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船にご注目ください。

1978年前後の頃でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が出席して「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。
6番目の写真はその民族衣装を着た娘さんの写真です。
ドイツの民族衣装の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのようにワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「地方色豊かなドイツのカーニバルの写真」

2024年11月29日 | 写真
「カーニバル」は、特にラインラント地方やドイツの中でもカトリックの影響が強い地方の古い風習です。その中心地はマインツ、ケルン、デュッセルドルフ、ボンです。南ドイツではアレマン地方の伝統的ファスネットを祝います。
https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/willkommen/karneval-gegend/967296

1番目の写真はケルンのカーニバルです。

2番目の写真はデュッセルドルフのカーニバルの王子です。

3番目の写真はチューリンゲン州ヴァーズンゲンのカーニバルで
す。

4番目の写真はソルビア地方のカーニバルです。

ソルビア地方のカーニバル
ドイツ東部の少数民族ソルブ人の独自の風習を持っています。冬を追い出すため、騒々しい音を立てながら村の中をねり歩く、この仮想した集団は、村はずれまで行進する間、農家一軒一軒の前で止まり、ベーコンや卵、お金などを恵んでもらいます。農家の主人には焼酎をご馳走し、おかみさんとはダンスを踊ります。これはスラブ民族のカーニバルの古い風習で、「ツァムペルン」とよばれます。

「年老いて振り返る我が人生(13)ドイツ人の誇りのシュパチーレンの趣味」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は近所を散歩なさいますか?公園を散歩しますか?
昔ドイツに住んでいたとき驚きの光景を見ました。ドイツ人は襟の小さい背広にネクタイを締めた姿で森の中を真面目な顔をして歩くのです。これをドイツ語でシュパチーレンと言ってドイツ人が誇りに思っている趣味なのです。郊外の森や葡萄畑の中にシュパチーレン専用の道が続いています。正装した男たちや夫婦が無言で歩くので静かです。

今日は平凡な散歩の趣味について書いてみようと思います。
さてその前に散歩以外の趣味のいろいろを見回してみましょう。本当に色々あります。
海を帆走するヨットの趣味や、登山などの趣味は厳しさがあり克己心を必要とします。
猟犬とともに銃を担ぎ人跡まれな山に入り彷徨する趣味もあります。
日本ではシュパチーレン専用の道は広い公園の中にあります。
その趣味では人生の平凡な時間のうつろいを大切にして、自然を愛し周囲の人の幸せを想います。
そんなドイツの森の写真を示します。

樹々の下に散歩道がえんえんと続いています。空気が新鮮で空が高く広いのです。樹木の中を歩いていると自然に人生のあれこれを想います。邯鄲の夢と思います。そして人生で一番大切なことは何かと考えます。
そうして自然を愛し周囲の人の幸せを想うことが非常に重要なことだと思うのです。
老境に至って初めて散歩の趣味の楽しさが分かりました。しみじみと分かったのです。
以前は仕事に打ち込むこと、仕事の上で素晴らしい成果を上げることが重要だと思っていたのです。自然の美しさを深く理解していませんでした。家族や友人を大切にするのを怠って自分の専門分野に埋没していたのです。それは恥ずかしい生き方でした。歩きながら樹木の姿を見ているとしみじみそう思います。
「散歩」も趣味として味わい深いと感じたのです。これも体力も知力も衰えたおかげで理解出来たことです。
昔見たドイツのシュットガルト市の郊外を妻や子供たちとよく歩いたことを思い出します。それはシュパチーレンの趣味です。懐かしいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(12)ドイツ留学で受けた影響」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。
はじめにアメリカへ留学しました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。
アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。
外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。
今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。
まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。

1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。
写真の出典は、
https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-… です。

2番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

3番目の写真は「市庁舎の塔」から眺めたローテンブルク市内の家並みです。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

4番目の写真は世界遺産に登録されている「バイエルンの真珠」と称えられるバンベルクの風景です。
出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。

5番目の写真は木造家屋が並ぶ、レグニッツ川沿いの風景です。出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに受けた大きな影響を書きます。
それはドイツの暗くて寒い冬の影響でした。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。
もう一つドイツで受けた大きな影響は歴史に関する考え方です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
戦争の発端はカトリックとプロテスタン宗派との争いでしたが、すぐに領土をかけた地方の領主同士の欲得にからんだ戦争が30年間も続いたのです。そしてフランスやスエーデンやウイーンのハプスブルグ家の軍隊を巻き込んだ大戦争になってしまったのです。誰が敵で、誰が味方か分からない混戦になってしまったのです。丁度、現在の中近東の戦乱状態に似ているのです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。
「歴史は権力者に都合良く書かれている」ということは昔から知っていました。
しかし歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
それでは「30年戦争」の時代は誰が権力者だったのでしょうか?それが判らないからビールを飲んだ時の格好の話題になったのでしょう。
ビールと言えば面白いエピソードがあります。
「30年戦争」の時、ローテンブルグを包囲した敵将が市長に難題を言います。この大ジョッキのビールを一気に飲み干したら町は焼き尽くさないと言ったのです。市長は喜んで飲み干し、町を救ったのです。現在も市庁舎の上にビールを飲む市長の動く人形があります。
アメリカでビールを飲んだ時の話題はプロ野球やアメリカン・フットボールに関することが多いのです。あるいは趣味の話が多いのです。歴史が話題になったことを私は知りません。これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。

ドイツ留学で受けた影響はもっといろいろありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)