後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「近所にある農村の風景の写真」

2024年11月13日 | 写真
近所に学芸大学があります。その敷地の一角に農村の風景があります。学生に日本の農業を教えるために使うのでしょうか。
先程、家内が散歩しながら写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。

「インドの馬頭観音の写真」

2024年11月13日 | 写真
馬頭観音とは?
ヒンドゥー教の最高神・ビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話を起源とされています。 他の観音様は女性的な美しい表情であることが多いですが、馬頭観音は憤怒の形相で表され、馬頭明王と呼ばれることもあります。
写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_35062028_2014-%E5%B9%B4-2-%E6... です。


「日本人の信仰の変化(4)道祖伸と馬頭観音の写真」

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本の道端にある信仰の対象について書いてみようと思います。道祖神、馬頭観音などについてです。 (1)道祖神 道祖神は村の守り神として村の中心、道の辻、三叉路に立っています。 村人たちが五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄を祈願するもっとも身近な神です。具体的な男女像です。信州の安曇地方の独特の信仰です。ローカル文化です。 1番目の写真は長野県の安曇野にある道祖神です。 さて、道祖神は、路傍の神で村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されているのです。 中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれています。全国的に広い分布をしていますが出雲神話の故郷である島根県にはありません。甲信地方や関東に多くあります。多い長野県の安曇野市では、文字碑と双体像に大別され庚申塔とともに祀られている場合が多いのです。 (2)馬頭観音 馬頭観音は仏教の信仰対象である菩薩の一つです。観音菩薩の変化身の1つであり「六観音」の一尊です。 2番目の写真は馬頭観音の石仏(千葉県)です。 近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなります。農作業にも使われていました。これに伴い馬が急死した路傍や馬捨場などに馬頭観音が多く祀られ馬への供養塔として建てられました。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑の多くは愛馬への供養として祀られたものです。2番目の写真では馬に跨った馬頭観音像です。このような馬頭観音も多くあります。 以上、道祖伸と馬頭観音の写真をお送り致しました。

「日本人の信仰の変化(3)道教の庚申信仰の変化」

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
いろいろな宗教が日本に入ってくると時代、時代の文化的土壌によって変化するのが当然です。
日本に中国から入ってきた仏教の諸宗派も、そして道教も時代に流れに従って変わって行ったのです。

そこで今日は中国の道教の庚申信仰が日本に伝承された後どのように変化して来たかを説明いたします。
庚申信仰の時代による変化をいろいろ調べてみましたところ、実に精緻な、そして学問的な記述を発見しました。
それは、戸原のトップページ:http://y-tohara.com/ でした。
それは素晴らしい研究報告なので感動いたしました。そこで以下にその一部をそのまま転載させて戴きました。
=======庚申信仰の時代による変遷==========-
庚申信仰とは:
今、“庚申(コウシン)信仰”とか“庚申さん”といっても知る人は少ないであろう。“庚申”とは干支(エト)でいう“カノエサル”で、昔、年や日などを干支で記していたとき、60年(日)の周期で巡ってきた。庚申日は年に6回(年によっては7回、この年を「七庚申年」と呼ぶ)巡ってくるが、その庚申の夜、人々は身を慎み徹夜して過ごしたという。
Ⅰ、庚申信仰とは
 庚申信仰とは、教祖もなければ経典・教義らしきものもない信仰で、今の我々からすると何とも得体の知れない俗信である。もともと中国の民間道教の一つで、その源淵は東晋時代の古書『抱朴子』(ホウボクシ、葛洪著・283~363)に記されている『三尸(サンシ)説』によるという。

※三尸説
 『三尸』とは人の体内に住む三匹の虫で、それぞれ頭部・腹部・脚部に潜むとされる。抱朴子には、『人の体内に潜む三尸は形はないが、実は鬼神や霊魂の類である。人が死ぬと、三尸は体外に出て好き勝手なことができるので、常に人の早死を望み、庚申の夜、眠っている人の体から抜け出して天にあがり、人間の罪過を事細かく天帝に告げる』とある。天帝(司令神ともいう)は、庚申の日には門戸を開いて多くの鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すが、その最たるものが寿命の伸縮である。
 人間は誰しも過ちはあることで、それを60日ごとに天帝に報告されて寿命が短くなるのは困るわけで、そのために庚申の夜、三尸の虫が体内から抜け出られないように徹夜して過ごすことが必要、と説くのが庚申信仰の骨子で、特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な宗教行為で、これを『守庚申』といった。
※庚申の御遊
 この三尸説あるいは守庚申がわが国へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが、はっきりしない。しかし平安時代、宮中で天皇を中心とした守庚申がおこなわれていたのは確かで、これを『庚申の御遊』と呼んだ。「続日本後記」(869編纂)仁明天皇・承和元年(834)七月庚申の条に『中旬はじめの庚申の日だから、天皇出御のもと侍臣に酒を賜り、御前で囲碁をして遊んだ』とあることや、慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」承和5年11月26日(庚申日に当たる)の条に、『(中国揚州の地で)廿六日の夜、人々は皆睡らない。これはわが国正月の庚申の夜と同じである』とあること、その後の史書あるいは公卿の日記などからみて、9世紀末から10世紀のころ庚申の御遊は半ば恒例化していたという。
 宮中でおこなわれていた庚申御遊がどんなものだったかははっきりしないが、清少納言の「枕草子」(1000年頃)に、『(中宮さまが)「庚申御遊をなさいます」というので、内の大臣殿がいろいろお世話なされた。夜が更けてきた頃、題を出して女房どもにも和歌を詠ませることになった。みんなが緊張し、良き歌を詠もうと苦吟していたが・・・』(94段)とあるように、人々は管弦を奏したり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、時には酒なども出して夜を過ごしたようで、睡らずに三尸の虫を体内に閉じこめるという庚申本来の趣旨からは外れた遊興的なものだったらしい。
※庚申待(コウシンマチ)
 この庚申の御遊という形で、一夜を睡らずに過ごして長寿を願う守庚申の風習は、鎌倉・室町時代になると上層武士階級へと拡がり、「吾妻鏡」にも守庚申の記事が散見され、また.続く室町将軍家あるいは織田信長が庚申待と称して酒宴乱舞の宴をもったとの記録もあり、これを『庚申待』といった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのであろう。
 この庚申待が一般庶民に広まったのがいつ頃かは不明だが、古書「庚申之本地」(1527、室町末頃)に『貴賤上下ともに庚申を守れば七福が生ずる。貧人はその分にしたがって供物せよ』とあること、関東地方にその頃の庚申塔が残っていることなどからみて、室町末期(16世紀前半)には一般に広まっていたらしい。
 ただ一般庶民の庚申待には、宮廷貴族のそれとは異なり礼拝対象となる神仏が登場してくる。はじめの頃は阿弥陀仏や薬師如来・文殊菩薩などの諸仏だったが、江戸時代にはいると、それらの庶民信仰を主導した密教僧や修験行者の影響を受けて、仏教系では青面金剛が単独の主尊となり、神道系では猿田彦命へと収斂していったという。
 いずれにしろ、そこでおこなわれる庚申待は、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので、三尸説など影も形もないものに変貌している。換言すれば、庶民の庚申待とは、古くから続いているカミ祀り(カミ祀りは夜おこなうのが本来の姿)・先祖祀りが庚申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。
 庚申講の人々は、入浴するなどして身を浄め、庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱えるといった“おつとめ”をおこない、その合間に酒を飲んだり世間話をしたりして夜を過ごした(「長話は庚申の夜に」ともいったらしい)が、完全に徹夜するのではなく、鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝にはいったともいう。古くから鶏が鳴くと夜のあいだ跳梁していた悪霊・邪鬼どもが退散するといわれ、すべての禍は去っていくといわれていた。これが今、庚申尊掛軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁でもある。
※庚申の神仏
 今、庚申信仰で礼拝対象となっているものは、仏教系では『青面金剛』、神道系では『猿田彦』というのが大方である。
◎青面金剛(ショウメンコンゴウ) 
 庚申尊としての青面金剛は、室町末期頃に諸仏の一尊として現れ、江戸時代に入って主尊として崇拝されるようになったが、庚申と青面金剛との関係はよくわからない。
 青面金剛とは仏・菩薩ではなく、ましてや神でもない。仏教(密教)パルテノンの天部に属する夜叉(ヤシャ)の類である。夜叉とは、ヒンドゥー教にいう荒々しく怖ろしい鬼神だが、仏教に入って帝釈天の使者で毘沙門天の眷属となり北方を護るとされる護法善神で、中国で民間道教と習合して庚申尊となったという(仏教辞典)。
 また雑密経典・「陀羅尼集経」によれば、“大青面金剛呪”という真言陀羅尼を唱えて青面金剛に祈れば、諸病たちまち治癒するという。特に江戸時代に死病として恐れられた労咳(ロウガイ、今の肺結核)は“伝尸(デンシ)病”とよばれ、これの予防・治癒には体内に潜む三尸九虫を駆除する要があり、それには青面金剛に祈ることが肝要とされていたという。この伝尸・デンシが字形・音ともに三尸・サンシに似通っていること、病気治癒に験があるとされたことなどから庚申と混同され、青面金剛が持ちこまれたのかもしれない。

1番目の写真は庚申信仰の青面金剛童子像です。

 陀羅尼集経に記す青面金剛は、一身四手(下手に三股叉と棒、上手に法輪と羂索を持つ)、身は青色、眼は三眼で牙をむき、髑髏を頂く逆立った頭髪や両腕には大蛇がまといつき、足許に邪鬼を踏まえるという恐ろしい姿で、その左右に童子二人を従えるという(中央に青色の主尊、左右に赤色2躰・黄色2躰の五夜叉一組が普通)。

 これに対して庚申尊としての青面金剛はほとんどが主尊の一躰のみで、身は青色と経典に準じるが三面六手と腕が多くなり(一面もある)、中段の2手には弓と矢を持つのが普通で、二童子とともに三猿・鶏などを従えるという違いがある。他に二手・四手・八手などがあるというが、いずれもその忿怒相を以て邪霊を威嚇調伏し、教えに従わない衆生を教化するとされる。ただ庚申尊掛軸での青面金剛が、前に4夜叉を描いているところは経典に忠実といえる。

◎猿田彦
 仏教にいう青面金剛に対して、神道の側から「庚申の夜に祀るべき祭神は猿田彦大神である」と説いたのは、江戸前期の儒者・神道家である山崎闇斎(1618~82)で、その流れを汲む神道家によって広まったという。
 サルタヒコとは記紀神話で天孫ニニギ尊の降臨に際して道案内者として現れた国つ神で、簡単にいえば“赤い顔をした鼻高の天狗”である。そのサルタヒコを庚申尊とするわけは、猿田彦の“猿”が庚申の“申”に通じることもあるが、サルタヒコが降臨するニニギの道の露払いをしたことかせ、禍を払う力があると考えられたためとも、別名・大田神と呼ばれるサルタヒコが田の神・豊饒の神とみなされ、豊作豊饒の願いを叶えてくれる神と考えられたためともいう。ここには、山の神が春になると里に下りてきて田の神となって豊饒を見守り、豊かな収穫を見届けて山に帰っていくという、わが国古来からの山の神・田の神交代信仰がうかがわれ、庚申尊が豊饒を司ると見られていたことを示唆している。
※庚申塔
 今、庚申信仰が残っているかどうかはわからないが、かつて庚申待がおこなわれていたことを証するものに『庚申塔』と呼ばれる一群の石碑・板碑がある。“庚申”・“庚申待”・“庚申供養”などと刻んだ文字碑、あるいは青面金剛を彫りこんだ石碑で、信州から北の東日本に多いというが、関西でも、注意すれば古い集落の片隅などで時折見かけることがある。
 庚申塔とは、庚申縁起に『一座と申すは三年に十八度なり。両三年目には供養致すべし。供養とは道の辺に塚をつき四方正面の卒塔婆を立てて供物をととのえ、云々』とあるように、3年18度の庚申待を続けた記念として立てたもの、庚申年を記念したもの、特に庚申のご縁年として祝われた七庚申年を記念したもの、庚申講内に目出度いことが起こったのを記念して立てたものなど種々あるという。
 しかし、いずれにしろ庚申講あるいは庚申年を記念して石碑を立てることと、守庚申本来の三尸説とは何の関わりもない。庚申塔とは、縁起に“供養のために卒塔婆を立てよ”というように一種の供養塔ということもできる。その例証として、仏教で三十三回忌を迎えてホトケがカミになったことを祝って立てる“梢付塔婆”(ウレツキトウバ)と同じように、七庚申年を記念して枝先の梢が残る生木を立てる風習もあったという。庚申待が、三尸の虫を云々するというより、先祖の霊を祀る古来からの祭祀習慣の延長上に位置づけられていたことを示唆しているといえる。
 今、残っている最古の庚申塔は、文明3年(1471、埼玉県川口市)の庚申待板碑で、ついで文明15年(1483、東京都足立区)、長享2年(1488、東京都練馬区)が続くという。いずれも室町時代のもので、室町期には庚申信仰が一般に広まっていたことを示す遺構である。
  
2番目の写真の熊野・那智の庚申塔(左は青面金剛)です。 そして3番目の写真は伊豆・修善寺の庚申塔です。  
 
Ⅱ、庚申信仰の現状
 庚申信仰は、いろんな変遷を経ながらも庶民の宗教生活になかに根を下ろしていたようだが、大正以降急速に衰えたという。資料によっては昭和30年代頃の農村部には残っていたともいうが、平成の代になった今、昔ながらの庚申信仰はなくなったといっていいだろう。例えば、江戸時代に日本三大庚申とその殷賑さをうたわれた大阪・四天王寺の庚申堂、京都・八坂の庚申堂、東京・入谷の庚申堂についても、大阪・京都の2社は庚申日ともなればそれなりの参詣人を集めてはいるが、東京・入谷のそれは廃絶している。
 庚申信仰を支えたのは同信心の者が集まってつくる“庚申講”だったといえるが、人々の社会的関係と宗教意識が大きく変わってしまった今、都会はもとより地方にあっても宗教を絆とした集まりがもたれることはなくなっている。今、四天王寺や八坂にお詣りする人々も老齢の方が多く、時が経つほど寂れていく可能性がある。
 四天王寺庚申堂・八坂庚申堂など、大阪近傍の庚申堂については稿を改めて記す。
(以下省略)

以上は研究報告なので詳し過ぎたかも知れません。しかし報告文の厳密性を守るために敢えて戸原氏の文章をそのまま転載させて頂きました。このような研究報告を書かれた戸原氏に深甚の敬意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本人の信仰の変化(2)道教の庚申信仰」

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。
庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれています。
その信仰の内容は奇妙なものです。不思議な迷信と考えることも出来ます。
人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜に寝ている間に抜け出すのです。そして抜け出したその虫が天帝にその人間の悪事を報告しに行くのです。
それを避けるため、庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習があったのです。
庚申塔には、庚申の本尊の青面金剛が彫られています。そしてその足元に3匹の猿を彫ります。
申は干支で猿なので、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多いのです。
この中国の道教の庚申塔に対する信仰は古くから日本に広まりました。
既に10世紀ごろには盛んだったようで、庚申の夜眠らないでいる人々の様子が「枕草子」、「大鏡」などに書いてあります。
この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。
身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食や歓談をして過ごす楽しい集まりになっていきます。
また、この庚申講はさまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。
この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。
このように庚申塔信仰は人々の幸福を守る一種の宗教と理解することも出来ます。

1番目の写真は私の住んでいる小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に立っている1794年に建てられた庚申塔です。

2番目の写真は1794年に建てられた庚申塔の説明板です。

3番目の写真は西東京市の田無にたっている庚申塔の現状です。左の石碑は馬頭観音です。

4番目の写真は多摩川沿いの府中地域に江戸時代に建てられた庚申塔です。

5番目の写真は同じく府中地域に江戸時代に建てられた馬頭観音です。

宗教は、簡単に言ってしまえば、信ずる人を幸福にするものです。
従ってどの位幸福になれるかという問題は宗派の優劣よりも、信ずる人の主観的な考え方で決まるのです。
ですから現在でも道端の庚申塔に花を供え、周囲の人々の健康を祈り幸福を祈る人が絶えないのです。
庚申塔信仰は現在でも日本文化の底辺を支えているのです。

以上でご紹介した庚申塔に似たものにヒンズー教に起源がある馬頭観音があります。
馬頭観音は、仏教における信仰対象である菩薩の一つです。
「馬の首」はヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立にその影響があったのです。一般に馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒相です。
馬頭観音はもともと衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩であったのです。

しかし次第に意味が変わってきます。特に日本では近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなります。これに伴い馬が急死した路傍や馬捨場などに馬頭観音が多く祀られ、供養塔としていたのです。
なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものです。また、千葉県地方では馬に跨った馬頭観音像が多く見られるとも言います。

そして馬頭観音も庚申塔と同じように花を供え家内安全を祈る人々も多いのが現状です。
この馬頭観音や庚申塔と似たものに「道祖神」があります。道祖神については稿をあらてめて説明したいと思います。

日本民族の宗教は神道と仏教と言います。しかしその周辺には馬頭観音や庚申塔や道祖神があり人々を守ってくれているのです。
何故か幸せな気分になります。心が豊かになります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本人の信仰の変化(1)北極星を崇める妙見信仰」

2024年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族が長い間信仰して来たある宗教が忘れられようとしています。消えてなくなるのです。
それは宗教の興亡の実例として非常に興味深い文化現象です。
今日は中國の道教から日本へ導入された妙見信仰の様子をご紹介致したいと思います。
妙見信仰は北極星を宇宙を司る神として崇める宗教です。仏教とはまったく異質の道教起源の信仰です。

妙見信仰の明快な説明は「戸原氏のホームページ」( http://y-tohara.com/index.html )にあります。
それによると妙見信仰とは道教の北極星(北辰)と北斗七星に対する信仰です。
妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものです。
日本では仏教と混淆した北辰妙見菩薩に対する信仰として隆盛しました。
一方、神道と混淆したのが「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)です。
この北極星信仰は、その動かない星が北の空にあって宇宙の全てを支配する最高神、すなわち天帝として崇める宗教なのです。
そして北斗七星は天帝の依頼を受けて人間の行状を監視し、その生死や禍福を支配しているのです。
この北極星と北斗七星の信仰は推古天皇のころ日本へ入ってきたと言われています。

奈良の明日香にある高松塚古墳の天井に北斗七星が描かれ、北壁には北極星の象徴である玄武像(カメと蛇が絡み合った像)が描かれていたのは日本へ北極星と北斗七星の信仰が入ってきた証拠と言われています。
正倉院の御物にも北斗七星が描かれているので奈良時代に間違いなく北辰妙見信仰が入っていたと考えられています。
この北辰妙見信仰が時代とともに仏教と混淆して、妙見菩薩信仰へと変化していったのです。

私的なことで恐縮ですが、私の祖父が住職をしていた兵庫県の正林寺に行くために何度も乗った能勢電鉄の終点が能勢妙見さんでした。
本尊は北辰妙見菩薩なのです。
このお寺は能勢氏が1600年頃に建立したものです。そして能勢氏は日蓮宗の信者だったので法華経の守護神の北辰妙見菩薩をご本尊にしたのです。
この能勢の妙見さんは三大妙見の一つとして江戸時代中期頃から参拝者が増え、大いに賑わっていたのです。関西地方の名所の一つだったのです。
ですからこそ能勢電という鉄道も出来たのです。
下に能勢妙見の写真を示します。写真は、http://www.myoken.org/menu.html からお借りしました。

尚、三大妙見はこの能勢妙見(大阪府)と相馬妙見(福島県)と八代妙見(熊本県)のことです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%A6%8B%E8%8F%A9%E8%96%A9 をご覧下さい。 

この妙見信仰は江戸時代に大変盛んになりました。特に能勢の妙見さんは隆盛を極めました。
しかし明治維新以後、文明化開化の波に押されて次第に衰微してしまいます。
わずかに相馬中村神社(相馬妙見)と八代神社(八代妙見)と大阪の能勢妙見菩薩の三大妙見だけになってしまったのです。しかし参詣する人々は元来の北極星への信仰を忘れているようです。

このようにある宗教の流行と衰微が起きるのは自然な文化現象なのです。
今日はその一例として道教起源の妙見信仰をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)