後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(8)オハイオ州の鍾乳洞と麦畑の写真」

2024年11月26日 | 写真
アメリカ人の親切さは留学したオハイイオ州立大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。
1番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
そこへ生後6か月の長女を家内が抱いて行った帰り道で車が故障しました。周囲はぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。ここでオハイオ州の田舎に似た風景写真を2枚示します。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。
2番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行く道によく似た麦畑の風景です。
3番目の写真もオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行くに途中の農村によく似た風景です。
4番目の写真はトウモロコシ畑の収穫後の風景です。
写真のような茫漠たる大地で途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。運転していた若い男が下りてきます。私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。
このようなことは数回経験しました。こんな体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。私の良い偏見です。

アメリカ留学は青春の冒険でした。あの頃は若かった。怖いもの知らずだった。しかし貧しくて生活は苦しかったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(7)留学先のオハイオ州立大学のこと」

2024年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると懐かしいのは最初のアメリカ留学です。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。
その時アメリカの豊かさに驚愕する体験をしたのです。戦争で負けてひどく貧しい生活をしていた日本から豊かなアメリカに行って驚きました。それは人生で一番大きいな驚きでした。感動でした。これでは戦争に負けるとしみじみ思いました。真珠湾攻撃をした日本の愚かさに失望しました。
今日はアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書いてみたいと思います。
まずオハイオ州立大学の規模があまりにも壮大なので驚き感動しました。大学専用の飛行場を持っているのです。そして学生が格安で使える18ホールのコースを2つ揃えたゴルフ場を持っていることです。その広さは日本の大学と比べようもありません。
アメリカ全土には、同じように壮大な規模の大学が数十あると聞いて、私は度肝を抜かれました。そうしてこんなにも豊かな国と戦争をした日本民族の愚かさをしみじみ想ったのです。国力の差で戦争に負けたとさんざん聞いていましたが、その差があまりに大きいことに愕然としたのです。はるばる遠いオハイオ州まで旅をして日米の国力の決定的な相違を始めて知ったのです。
オハイオ州立大学の風景を写真に従ってご紹介します。
アメリカの大学は広大な敷地の中に建物を建てています。その様子は街の中の古い建物をそのまま校舎として使っているヨーロッパの大学とは大いに違います。
1番目の写真は校地の中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。
2番目の写真は数万人を収容する巨大なスタジアムです。写真の下方に写っている自動車と比較してみるとスタジアムの巨大さが分かります。この大学はアメリカン・フットボールが強いので有名なので、スタジアムも立派なのです。試合のある時は入場券が売れすぎて入手が困難なのです。私はフルブライト留学生だったので地元の新聞社、コロンバス・デスパッチ社がすぐに招待してくれたお陰で観戦することが出来ました。
3番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。この写真では右のほうに玄関がありますが、その右の1階には、私が作った実験措置が置いてあった部屋があり、2階には講義室がありました。
4番目の写真はこの大学の金属工学科の入っている主な建物です。玄関を入ってすぐ右に学科主任のフォンタナ教授の部屋がありました。イタリア系の人でいシシリー島のギャングの親玉の風貌でしたがとても優しい性格の教授でした。そして学科主任の秘書はヘレンという面倒見の良い上品な女性でした。学科主任にアポ無しで何時行ってもニコニコしてすぐに学科主任に会わせてくれたのです。ヘレンが引退したとき、日本に観光旅行に来ました。帝国ホテルに泊まったので昔世話になった日本人留学生が集まり歓迎会をしました。ちょっと脱線しましたが今日は1960年代のアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書きました。

茫々、あれから60年です。親切に接してくれた全ての人に感謝の気持ちがいっぱいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(6)アメリカでの質素な結婚式とレセプション」

2024年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
結婚は人生の重大なことです。私は65年間幸福な結婚生活を続けています。今日は私どもの結婚に関することです。
67年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。もう67年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。
1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。
 
2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。

3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。

4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です。レセプションはダウンタウンのディッシュラ―ヒルトンホテルで行いました。左の人が私の指導教官のセント・ピエール教授です。セント・ピエール教授の右に私の父は立っていましたがこの写真では人陰になって写っていません。

5番目の写真はデョッシュラ―ヒルトンホテルで行ったレセプションに出てくれた同級生です。

6番目の写真はレセプションに出てくれた同級生の奥さん達です。
結婚式とレセプションには内木先生夫妻や秦先生夫妻も出てくれました。内木先生と秦先生の奥さんは色鮮やか和服姿でした。
同級生の2人はレセプションの後で残った大きなウエディングケーキを私どもの家に届けてくれたのです。おかげで私どもは数日間ケーキを美味しく食べました。
7番目の写真は無事に結婚した直後の私どもと私の父の写真です。私どものアパートの駐車場でした。

今日は私どものオハイオ州のコロンバス市での結婚に関する写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)