後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(11)熱烈日中友好の時代」その三

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、1978年に中国の最高指導者、鄧小平が初めて日本を訪問した後、中国では熱烈な日本ブームが巻き起こったのです。
日本の物なら何でも大好き、日本人なら誰でも大歓迎という熱気あふれる時期が1978年から天安門事件の1989年まで続いたのです。現在の日中関係からは想像もつかない蜜月時代だったのです。
それは現在の中国側にとっても貴重な歴史的な大転換だったようです。
中国側の資料に基づいて鄧小平の日本訪問の様子と、私が1981年以後数回、中国で歓迎された体験をご紹介したいと思います。
それは鄧小平による日本の先進技術と資金の導入の時代でした。
1978年は、中国の国家戦略に大きな転換が起こった年でした。中日両国は同年8月、「中日平和友好条約」を締結し、続く10月22~29日、鄧小平氏が、中国の指導者としては戦後初めて正式に日本を訪問したのです。
この訪問は、「中日平和友好条約」の批准書交換式に出席するためのものでしたが、鄧小平氏にとっては中国近代化の大戦略を準備するための学習の旅でもあったのです。
8日間の訪日期間中、鄧小平氏は新日鉄・日産・松下の3社を見学します。
新幹線で東京から関西方面に向かう途中、感想を聞かれた鄧氏は、「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」「我々は駆け出す必要に迫られている」「今回の訪日で近代化とは何かがわかった」と語ったそうです。

新日鉄の君津製鉄所を見学した鄧小平氏は、工場の設備や技術について詳しくたずね、日本の進んだ生産と管理の経験を、中国人技術者に紹介してほしいと依頼します。同じような工場を中国にも建てたいという鄧氏の決意を示すものでした。この決意こそ、その後の日本の技術指導による上海宝山製鉄所の建設になったのです。
松下電器への訪問時、電子レンジなどの新製品の展示室を鄧小平氏が見学した際にも印象的な一幕がありました。松下の案内員が電子レンジの機能を説明するため、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せます。鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込み、「なかなかおいしい」と感想を述べたのです。松下の従業員らもこれには驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛したといいます。

鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。
多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれます。中日政府のメンバーによる会議も相次いで行われました。
官民の各分野での交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展したのです。(文作者:王泰平)
以上の文は、「1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの」http://j.people.com.cn/95911/95954/6545780.html からの抜粋です。

さらにもと中国の駐日本大使、符浩元さんによると鄧小平は2度も日本を訪問しているのです。(http://www.bjreview.cn/JP/04-32/32-zhongyao-3.htm )
鄧小平は再び、1979年1月に米国を訪問した後、わざわざ日本に立ち寄り、短期間滞在したのです。奈良を訪れた時、宿泊したホテルでちょうど結婚式があるのを知った鄧小平氏は、自ら結婚披露宴の会場に行き、新郎新婦に祝賀の言葉を贈ったのです。

このように鄧小平は先進技術を開発し経済の高度成長を続けている日本人を尊敬し、日本が大好きだったのです。その結果、中国は日本から先進技術と資金の導入を大々的に行ったのです。日本の約2万の会社が中国に工場を作ったり支社や支店を出したのです。

さて1978年の鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。このお陰で私も北京鋼鉄学院と瀋陽の東北工学院に招待されました。往復の航空運賃以外のホテル代、交通費、さらに各地の観光の費用の全ては中国側が負担しました。
歓迎宴が何度もありましたが、観光地で会った一般の中国人が皆、大変親切で礼儀正しいのには驚いたものです。当時は一般の人々も日本人を外国からの賓客として礼儀正しく接したのです。彼等はすべて人民服で日本人は背広姿だったので区別が容易についたのです。汽車に乗ってもレストランに入っても皆ニコニコして道を開けてくれました。

そして金属工業省の人が日中鉄鋼会議を開催してくれないかと私に頼んだのです。帰国後、日本鉄鋼協会の当時の専務理事の故田畑新太郎氏と東京大学の故松下幸雄先生に相談し、日中鉄鋼会議を北京と東京で開催することが出来ました。
このように当時の中国側の日本人へ対する尊敬は絶大でした。

しかしこの日中友好関係は1990年以後の江沢民の時代に急に暗転します。
そして習近平時代の覇権主義の時代になったのです。
このような劇的な日中間の歴史の転換を見て来た私にとって最近の日中の関係に深い関心があります。
習近平時の覇権主義が消え、円満な話し合いによる国際平和の時代が来ることを切に祈っています。

今日の挿し絵がわりの写真は鄧小平が1978年の10月に日本を訪問した時の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
訪日の写真の出典は、http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2014- 08/22/content_33310086.htm です。


「年老いて振り返る我が人生(10)熱烈日中友好の時代」そのニ

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、日中間に非常に熱烈な友好関係があった時代があったのです。それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代のことを振り返り、その歴史的な理解を深めるために以下のような記事を書きました。
「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一
続いて「年老いて振り返る我が人生」の(10)を書きたいと思います。
それでは今日の部分をご紹介いたします。
周 恩来(1898年 - 1976年)は中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた卓越した政治家でした。賢い政策と人情溢れる性格で中国人の絶大な信頼と尊敬を得ていました。
彼は毛沢東に下で慎重な助言をして全ての政策を毛沢東の手柄となるようにしました。
しかし大失敗をした1950年代の大躍進政策は周恩来のせいではないと言われています。
周恩来の功績は文化大革命の被害を少なくし、終了するように導いたことです。その故に毛沢東の妻であった江青に憎まれ何度も暗殺されそうになります。
さて周恩来の下した英断はいろいろありますが、日本に関することは2つあると思います。
1、ベトナム戦争への支援を止め、アメリカと国交を開く。
2、日中共同宣言を発し、日中間の友好を促進する。

中国はベトナム戦争の一方である北ベトナムを支援していました。揚子江以南の農民から米を供給させ北ベトナム軍へ送り続けたのです。そのため江南の農民は飢饉になったと言われています。
10年近く続いたベトナム戦争からはアメリカも手を引きたかったのです。
1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容は今後、中国はアメリカと国交を開きたいという趣旨でした。
これを受けて、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問したのです。
そして毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換したのです。第二次世界大戦後の冷戦時代に新しい様相が加わったのです。

日米安保条約のある日本もすぐに追随します。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行いました。
9月29日には、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式があり、田中角栄、周恩来両首相が署名します。
この共同声明の内容には以下のことも含まれていました。
両政府は、どんな場合でも力又は武力による威嚇に訴えないことを確認します。
日中両国間の国交正常化後は、両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対すると明記したのです。

1981年に私は北京と瀋陽の大学から招待されます。その時、見聞した中国の実態は丁度日本の敗戦直後の荒廃した風景と全く同じだったのです。驚きました。それはさて置き、周恩来に関する2つのエピソードをご紹介します。
周恩来は1976年の1月に亡くなります。しかし政府の禁止令にもかかわらず一般の人々は秘密の部屋に周恩来の写真や書を飾り、その周囲に周恩来を讃える詩や文章を供えていたのです。私が案内された秘密の部屋は大学の深い地下室でした。4方の壁一面に周恩来の写真、周恩来を讃える詩や文章が所狭しと並んでいました。これは中國全土で行われた周恩来の追悼なのだそうです。

さて周恩来は毛沢東の妻の江青に憎まれていました。特に文化大革命の間は何度も殺されそうになったそうです。ある時はチベット出張から帰るとき乗った旅客機が江青の命令で飛び立った戦闘機に撃墜されそうになったそうです。戦闘機が2機、周恩来の乗った旅客機を挟んで接近してきます。あわや撃墜という場面です。しかし2機の戦闘機は打ちません。翼を上下に振りながら追い抜いて行っただけでした。戦闘機に乗っていた兵士が周恩来を好きだったのです。
北京に戻った周恩来は病床の毛沢東を訪問し。チベット出張の報告をします。そして最後に「あなたの妻に撃墜されそうになりました」と静かに言ったそうです。
そのせいかは分かりませんが、周恩来のガンの治療を江青一派に妨害されガンで亡くなったそうです。1981年に北京で中国人から直接聞いた話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は1972年2月の北京空港での写真です。
2番目の写真は1972年9月の北京空港での写真です。
3番目の写真は左から順に周恩来、毛沢東、田中角栄の写真です。

「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
これは古い話です。1970年代のことです。しかし忘れられない時代でした。日中関係が非常に良かった時代のことです。
正確に書くと、それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代をもう一度思い出します。
まず1949年に中国が共産国家として成立した以後の歴史をもう一度振り返ってみましょう。
周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代を考える場合に以下のような3段階に分けて考えてみたいと思います。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結
(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入

それでは上の3段階を順々に考えて行きます。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
日中戦争は昭和5年(1930年)始まりました。当時の中国は国民党の蒋介石が勢力があり日本は蒋介石を倒すために激しく攻め込みました。一方、中国共産党も支配地区を広げつつありました。その国民党と共産党が合作し団結して日本軍に立ち向かいました。
しかし第二次大戦が終わる頃には日本軍は大部分の中国を占領してしまうのです。この日中戦争で日本軍は約55万人が戦死し、中国人は民間人も含めて、約200万人から1000万人の死者が出たといいます。
一方、日本の敗戦の1945年前後から共産党軍が国民党軍を各地で打ち破り、蒋介石は台湾に退いたのです。
そうして1949年の10月、晴れ上がった天安門広場で毛沢東主席が新しい中国の成立を高らかに宣言したのです。そこまでが毛沢東の輝かしい功績でした。

その後、ソ連のスターリンが死ぬと中国はソ連と仲間割れをします。中国への唯一の大きな支援国のソ連と断交したのですから、中国は困難な状態になります。
そして毛沢東の指導による「大躍進政策」も失敗に終わり、何百万人という農民や都会の市民が餓死したのです。
「大躍進政策」の非合理性は考えただけでも一目瞭然です。これは毛沢東の犯した大きな失敗でした。
大躍進政策では稲を密植すれば大きな収穫が得られると全国で水田に苗の間隔を開けずに密植したのです。結果は大減産で農村が飢饉に襲われたのです。鉄の増産をするとして近代科学に反する土坑製鉄を全国に展開し、逆に鉄の生産が低下したのです。それは滅茶苦茶な政策でした。
この大躍進政策の失敗で毛沢東の権力は低下します。合理的な経済政策を進めようとした政治家が権力を持ち始めたのです。
そこで毛沢東はもう一度権力を自分に集中しようとして「文化大革命」という権力闘争を全国的な規模で行ったのです。文化大革命は1966年から1976年まで続きます。

この間、若い学生を紅衛兵として動員し、権力を持っている政治家を次々に襲い失脚させたのです。
紅衛兵は軍隊のように北京や上海のような大都会の政治家、知識人、などを襲ったのです。その一方で紅衛兵には食料を補給する部隊がついていません。北京や上海では一般の民家に押し入り食料を強奪し、寝泊まりを強要したのです。
一部の紅衛兵は武器を手に入れる為に共産党の支配している正規軍を襲うようになります。
こうして文化大革命の後半になると、銃を入手した紅衛兵と正規軍との間で市街戦が行われるようになったのです。まさしく内戦のような状態になってしまったのです。

文化大革命は輝かしい中国共産党の歴史のなかで最大の大失敗です。従って、その後の中国共産党はこの大失敗を隠すために文化大革命は暴力や武力を一切使用しない討論だけによる権力闘争だったと宣伝しています。

私は1981年に中国に行き、文化大革命で紅衛兵の暴力を受け、農村に放逐された人から文化革命の凄惨さをさんざん聞きました。その人は大学教授でした。農村では毎日豚の糞尿の掃除をし、わずかな食糧で飢えの毎日だったそうです。彼は怒っていました。共産党軍に参加して、天津市を解放し、新しい中国の成立に協力した自分の受けた仕打ちを怒っていました。
そんな文化革命を多くの日本人は討論だけによる権力闘争だったと信じているのです。
私は何故、文化大革命のことを詳しく書くのでしょうか?
それはその後の周恩来と田中角栄による日中国交回復の原動力になったと考えるからです。
鄧小平による市場経済路線への大転換と日本との熱烈友好関係の原動力になったと私は考えるからです。
もっともその背景には1966年から1975年まで続いたベトナム戦争が深い影響を与えていました。
キッシンジャー国務長官と周恩来の信頼関係が米中友好関係を推進し、それが日中関係へ深い影響を与えていたと考えるのが公平な歴史認識だと信じています。
少し長くなりましたので続きは次回にいたします。
今日の写真は周恩来と鄧小平と毛沢東の3人の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
周 恩来(1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
鄧 小平(1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、その後継者である華国鋒から実権を奪い、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
毛 沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。