後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(5)旧制の中学校のようだった仙台一高」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和26に宮城県立仙台第一高等学校へ入学しました。先生たちはみな旧制の仙台一中の先生でした。新制高校が出来て2年目なので旧制の中学の先生がそのまま残ったのです。自由で民主的な愛宕中学校から古い雰囲気の仙台一高に入ったのです。
印象的だったのは漢文とドイツ語の授業でした。旧制の中学の漢文の先生がいろいろな漢詩を朗々と謳います。ドイツ語の先生はリルケの詩をドイツ語で暗唱します。英語の先生はサマセット・モームの小説の原文を読ませます。
仙台第一高等学校の授業ははそういうものでした。
生徒たちは宮城県全域から集まった秀才です。旧制の教育はそういうものでした。
思い出の深いものは数々のクラブ活動でした。野蛮な応援歌の練習でした。
旧制の仙台第一中学校と仙台第二中学校の野球の試合は古くからの伝統だったのです。野蛮な応援歌の練習はそのためだったのです。
クラブ活動で海水浴場に近いある別荘に泊まり込んで毎日泳ぎました。上級生が厳しかったので辛い思いをしました。
クラブ活動として木工部に入りました。ところがそのクラブでは木工はせずに、松島湾でカッターを漕いだのです。カッターだけでなく細い艇身のスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。スライデイングやフィックスは東北大学の漕艇部から借りて来ました。東北大学の漕艇部はオリンピック出場めざしてスライデイングやフィックスを漕いだのです。
クラブ活動としての木工部では蔵王山にも登りました。中腹にテントを張り寒い夜を過ごしました。
仙台第一高等学校の校風は質実剛健でした。その質実剛健が懐かしいです。

今日は旧制の中学校のような仙台一高のいろいろな思い出を書きました。

添付の写真は松島の風景と細い艇身のスライデイングやフィックスです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「年老いて振り返る我が人生(4)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です。
仙台市には新制中学校が幾つも出来ました。私共が入学した第十中学校は昭和22年に発足しました。学校の名前はすぐ後に愛宕中学校と改称されました。我々はその二期生として昭和23年に入学したのです。
その頃の新しい中学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。今でも忘れられません。
特に忘れられないのが高橋貞明先生です。愛宕中学で我々のクラスの担任をしていた先生です。高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。
忘れられないのは踏査部の部活で一緒に仙台のすぐ西に聳える泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。
この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。
私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生のお世話になりました。
とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私たちの悪童連を何度も自宅に招んでくれました。
そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。
私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。
愛宕中学校卒業後に60年ほどたってから仙台で愛宕中学校の同期会がありました。
その時、話題になったのは高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。
当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。
終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。
ここで仙台の様子を示す写真をお送り致します。
1番目から3番目の写真は2012年10月18日に私が仙台に行き撮った片平町、お霊屋下、鹿落坂、の写真です。
1番目の写真はタクシーの窓から片平町の東北大学を撮った写真です。正面の赤レンガの建物が私が卒業した東北大学の金属工業科です。

2番目の写真は片平町と向山を結ぶお霊屋橋です。この橋を渡って毎日、片平町の東北大学に通ったのです。

3番目の写真はお霊屋下から向山に登って行く鹿落坂です。毎日、東北大学に通った坂です。
伊達政宗の廟所は経ヶ峰という山にあります。その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。
私は24歳で仙台を出るまで、鹿落坂の上の向山に住んでいました。家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺山があります。家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区なので何十年経っても昔のままの森林に覆われています。
話が仙台の愛宕中学の高橋貞明先生からそれてしまいました。高橋貞明先生の話に戻します。
先生は情熱的でした。自分の家に私達を招んでくれました。しかし24歳で仙台を離れた私は高橋貞明先生のことを忘れていました。
ところが約30年後の1993年の息子の東京での結婚式・披露宴に出席してくれたのです。息子の結婚相手の親類だったのです。私は懐かしのあまり涙が出そうでした。貞明先生は昔のまま若々しくはつらつとしていました。これぞ奇跡です。忘れられないことでした。

人生にはいろいろな事があるものです。
今日は仙台の愛宕中学で大変お世話になった高橋貞明先生の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(3)悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦直後の昭和23年に新制中学校に入学しました。仙台市立愛宕中学校です。
新制中学校とはマッカーサー総司令官の命令で出来た新しい学校制度の中学校です。
それまでの旧中学校は新制の高等学校になりました。昔の学校制度では小学校までが義務教育でしたが新制の学校制度では新制中学3年までが義務教育になりました。
したがって全国に小学校の数と同じ中学校の校舎を急遽作らねばなりません。
悲惨なことは校舎のない愛宕中学校に入学したことです。
今日は校舎のない愛宕中学校での体験を書きたいと思います。
教室も体育館もありません。そこで既存の荒町小学校の教室を借りたのです。荒町小学校は一クラスの人数を増加して教室をあけてくれたのです。しかし机と椅子はありません。間借りした我々は木の床に座ってミカン箱を机にして勉強したのです。木の床は酷いものでした。荒れ果ててザラザラして冷たいのです。その木の床に座っての勉強が1年過ぎた頃机と椅子が来ました。
そしてその頃、愛宕中学校の新しい校舎が向山地区の遠藤山の上に出来ました。我々は机や椅子を担いで荒町小学校から2㎞離れた山の上に出来た新しい中学校の校舎へ引っ越しました。途中の道を歩く私の心は嬉しさでいっぱいでした。新しい校舎は木の香りがして先生もみな嬉しそうにしていました。
新しい校舎は遠藤山の上にあったので北には愛宕山があり、その向こうに仙台の中心街が広がっていました。
南側には大年寺山が連なり八木山へとつずいています。中学校の校舎は風光明媚な場所にあったのです。新しく校歌も出来ました。その後新しくいろいろ部が出来て楽しい思い出が出来ました。

今日は「年老いて振り返る我が人生」の(3)として「悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」を書きました。

現在の愛宕中学の写真と鹿落坂と向山地区と愛宕神社の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は現在の愛宕中学の写真です。私が通っていた頃は粗末な木造校舎が2棟だけでした。
2番目の写真は霊屋下から向山地区へ登る鹿落坂xです。
3番目の写真は愛宕中学校のある向山地区です。愛宕中学校はこの写真の左端にありました。後ろの山並みは八木山です。
4番目の写真は愛宕神社の写真です。愛宕山は中学校の北にあり、その向こうに仙台の中心街が広がっています。

「年老いて振り返る我が人生(2)戦前、戦後の小学生の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年に生まれ昭和17年、かぞえで7歳の時小学校に入学し昭和23年に卒業しました。真珠湾攻撃が昭和16年12月8日でした。私の小学校の頃は戦前、戦後をまたいでいました。戦前の仙台の様子も終戦直後の仙台を覚えています。
今日は戦前、戦後の小学生の頃のいろいろを書いてみたいと思います。当時新聞やラジオで知ったことと後に知ったことです。
一番驚いたことは新聞やラジオで大々的に報道された日本航空隊の真珠湾攻撃のニュースでした。大勝利で日本中が大騒ぎしていました。
今日は写真にしたがって真珠湾攻撃とそれに続く戦前、戦後のいろいろを書いてみたいと思います。
1番目の写真は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の写真です。
アメリカの大平洋艦隊が大打撃を受け日本中が大騒ぎになりました。真珠湾攻撃の写真はその後何度も新聞や雑誌に掲載されましたので真珠湾攻撃の写真は私の心に焼き付いています。

2番目の写真は真珠湾攻撃に向かう日本の攻撃機です。
数隻の航空母艦から飛び立ちました。真珠湾攻撃の司令官は山本五十六大将でした。その後、アメリカは山本五十六大将の乗機を打ち落とし真珠湾攻撃の仇を取ったのです。
3番目の写真は南太平洋のインドネシアのスマトラ島南部 のパレンバンに降り立った日本の落下傘部隊です。空の神兵です。
これも何度も新聞や雑誌に掲載されましたので私の心に焼き付いています。
4番目の写真はB29の焼夷弾で焼野原になった仙台の光景です。
小学校の3年生だった私は焼野原になった仙台の街を歩き回り見ました。
5番目の写真は8月15日の日本の敗戦後の9月に厚木基地に降りるマッカーサー総司令官です。コーンパイプを咥えて日本占領に来たのです。
6番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官を表敬訪問した時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは正装していません。日本の屈辱です。戦争に負けるとこういうことになるのです。
7番目の写真は戦後日本を占領したアメリカ兵と日本の女性達です。
さて戦前、戦後に小学生だった私はどんな経験をしたでしょうか。
何と言って一番悲しかった記憶は食糧難の記憶です。毎日飢えていました。終いには庭に生えていた「はこべ」を茹でて食べました。アクが強くて苦いのです。そしてイワシの配給に大喜びしました。イワシの美味しさを忘れられません。

今日は「年老いて振り返る我が人生 」の(2)として「戦前、戦後の小学生の頃」を書きました。一番悲しかった記憶は食糧難の記憶でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(1)出生と幼児の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
私の邯鄲の夢も終わりに近づきました。そこで我が人生を振り返っていろいろなことを総括した連載記事を書くことにしました。
私は昭和11年1月18日に父の秀弘と母のタエの子として仙台で生まれました。男だけの3人兄弟の長男でした。
当時の父は東北帝国大学の教授で母は宮城県立女子専門学校の教師でした。父の実家は兵庫県の山里の曹洞宗のお寺で母の父は宮城県の宮戸島の小学校の校長をしていました。両親は仕事が忙しかったのか幼い頃遊んでもらった記憶があまりありません。
家には2人の女中がいて私と2人の弟は女中に育てられました。女中に動物園に連れていかれたことが幼児の頃の楽しい思い出です。
幼児の頃に住んでいたところは郊外の向山でした。広瀬川の南側の高台でした。
ここで戦前の仙台の駅前広場や育った向山地区にある経ケ峰や愛宕山の写真をお送り致します。写真とともに幼児の頃のいろいろを書きました。

1番目の写真は戦前の仙台駅の風景です。右の方に客待ちの人力車が並んでいます。女中に抱かれて人力車に乗った記憶があります。タクシーには滅多に乗りませんでした。
2番目の写真は戦前の仙台の繁華街の東一番丁の風景です。子供の頃は用もないのにブラブラ歩いたものです。
3番目の写真は高台の青葉城跡から見た経ケ峰です。伊達政宗の霊廟の瑞鳳殿と瑞鳳寺があります。経ケ峰の手前の広場に昔は仙台動物園がありました。
4番目の写真は瑞鳳寺から霊廟の瑞鳳殿に登って行く石の階段です。
5番目の写真は瑞鳳寺です。昔は幼稚園も経営していました。私が通った幼稚園です。しかし3日目に辞めた幼稚園でした。2人の女中に甘やかされて育った私には厳し過ぎたのです。人生最初の挫折でした。
6番目の写真は愛宕山です。手前は広瀬川で愛宕山の向こう側に住んでいました。山頂の愛宕神社の祭礼は楽しい思い出です。
7番目の写真は仙台の広瀬川と 評定河原から見た経ケ峰(左)と青葉城跡(右)です。

さて今日は「年老いて振り返る我が人生」の(1)として出生と幼児の頃のいろいろを書きました。戦前の仙台の写真や育った向山地区にある経ケ峰や愛宕山の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)