後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「新潟県、津南町の豪雪の写真」

2024年12月30日 | 写真
何年か前に観光バスのパック旅行に参加したことがあります。長野県の観光名所を幾つか見た後でバスが新潟県の県境を越えて津南町の山間の集落に駐車しました。バスガイドさんが興奮して、「ここは日本一の豪雪の土地です」と声を大にして悲痛そうに説明します。しかしまだ雪の降らない秋です。バスの窓の外には何の変哲も無い集落が見えるばかりです。
バスガイドさんの大げさな説明の後、「ここに1時間駐車していますから、ゆっくり見学して下さい」と言うのです。
乗客は言われる通り何の変哲も無い集落をブラブラして帰って来ました。
不思議な体験でしたので津南町が忘れられません。そこで曾遊の地の津南町の豪雪の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.yukiguninoie.com/249454340-html/ です。

「豪雪の南魚沼市と『北越雪譜』」

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
鈴木牧之が江戸時代に出版した「北越雪譜」という本の愛読者は多いと思います。豪雪の地の人々の冬の生活を活き活きと描いた名著です。
この鈴木牧之の記念館は新潟県、南魚沼市の塩沢にあります。「北越雪譜」に感動した私は以前に関越自動車道を走って湯沢を通って、南魚沼市の塩沢の鈴木牧之記念館を訪れました。暑い夏のことでした。牧之が使用していた文房具等々が展示され、筆の跡も鮮やかな原稿を見ることが出来て親近感を覚えました。

塩沢町は2005年に南魚沼市に編入合併しました。周囲を2,000m級の山々に囲まれ冬は豪雪になります。塩沢産・魚沼コシヒカリとスキー場も有名です。
今日は曾遊の豪雪の南魚沼市の写真と『北越節譜』の内容をご紹介したいと思います。4枚の写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/102823/ です。
1番目の写真はの南魚沼市スキー場のホテル街の夜景です。夕焼けが残っています。
2番目の写真は南魚沼市の上越国際スキー場わきの霧氷です。市内に10のスキー場があります。降雪量が多いので低温となりパウダースノーも楽しめます。
3番目の写真は奈良時代からある禅寺・雲洞庵の山門です。冬になると雪が積もり神秘的になります。樹齢300年以上の杉の木が並ぶ境内は厳かな雰囲気があります。
4番目の写真は複合施設の「里山十帖」の山々を見渡せる絶景露天風呂です。

さて「北越雪譜」という本の内容です。雪国の人々の冬の暮らしぶりが描かれた本です。
以下は冒頭の文章です。
・・・・今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生たる不幸といふべし。・・・・

この一行の文章は、現在でも雪の深い地方に住んでいる日本人の思いなのです。雪に閉じ込められて買い物にも行けない日々が続くのです。
鈴木牧之の「北越雪譜」という本のおかげで雪国の生活を体験したような気分になります。雪景色の写真を見ると美しいと感動するだけでなく悲しい気分にもなるのです。
それにしても純白の雪の世界は美しいものです。

下に鈴木牧之と「北越雪譜」の簡単な紹介いたします。
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.html より転載しました。

著者の鈴木牧之の生れた南魚沼郡は、東南に波濤のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八~三メートル)に達する。

「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨(うらやま)ざらんや」

彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調している。江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁(うつばり)や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲(く)み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶(おけ)に入れたりする。「其外(そのほか)雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」

現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものでした。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とします。「漸(やうやく)雪の止(やみ)たる時、雪を掘りて僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生れたるこ>ちなり」

鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。

もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。

けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。

以下省略しますが北越雪譜 - 青空文庫は、https://www.aozora.gr.jp/cards/001930/files/58401_70229.html に出ています。この中には雪国の珍しい話や不思議なことが沢山書いてあります。
江戸時代の雪国の生活が客観的に、そして具体的に活写されているので記録映画を見ているような気分になります。文化人類学の本のようでもあります。
私はこんな本が江戸時代に出版されたことに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北国の小樽の雪景色と『蟹工船』」 

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
曾遊の地とはかつて遊んだ土地という意味です。意味は単純ですがこの言い方は何故か文学の香りがします。
例えば岩手県の大船渡市には「石川啄木曾遊之地碑」というものがあり有名な観光名所になっています。
石川啄木は明治45年(1912年)に26歳の若さで死にました。啄木の妻節子、父一禎、友人の若山牧水に看取られました。肺結核でした。
石川啄木の死後、数々の作品が刊行され彼の文学作品の評価が非常に高まったのです。
次の詩は有名です。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣ぬれて
 蟹とたはむる

この詩はとても長いのです。そしてこんなところもあります。

ダイナモの
重き唸りのここちよさよ
 あはれこのごとく物を言はまし

ダイナモは「直流発電機」のことです。この詩の全文は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/816_15786.html にあります。

さて話はそれましたが今日から「曾遊の地の雪景色」と題する連載を始めたいと思います。
私があちこち旅をした土地の雪景色の写真をお送りしようという企画です。
方々へ旅行をしましたが寒がりやの私は雪の無い季節だけを選んで旅をしたのです。
そこでその曾遊の地の雪景色の写真を調べ、見つけて編集したのです。
第一回目は何度か訪れた小樽にしました。小樽は運河の町です。小林多喜二が「蟹工船」を書いた町です。暗く美しい町でした。
その雪景色の写真をお送りします。全ての写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。
小樽では小林多喜二が行っていた寿司屋に行きました。多喜二の本が沢山積まれていました。そこで「蟹工船」を思い出していました。
「蟹工船」の冒頭です。
「おい地獄さ行えぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。
巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。

 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫むしのように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。
風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。

 この蟹工船、博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥はげた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

続きは、https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html にあります。

小林多喜二は30歳の若さで死にました。秋田県の農家に1903年に生まれ、北海道小樽で育ちました。「蟹工船」などの作品により、日本のプロレタリア文学運動を代表する作家となったのです。1933年、地下活動中に逮捕され、東京・築地署で拷問により殺されました。

今日は北国の小樽の雪景色の写真を掲載し、小林多喜二の『蟹工船』をご紹介いたしました。。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)