後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ロシアと日本の大規模な戦争、ノモンハン事件」

2024年10月15日 | ブログ
日露戦争以来、日本とロシアは軍事衝突を繰り返してきた。中でも、戦車や戦闘機などの近代兵器が衝突したのは、1939(昭和14)年の「ノモンハン事件」が最初であった。
今日はこの「ノモンハン事件」について書きたいと思います。
第1次と第2次に分かれるノモンハン事件は、1932年、昭和7年に建国された満州国で、日本とソ連の大規模な武力衝突に発展した戦争であった。日露戦争以来、四半世紀ぶりの日露軍事衝突でした。
最終的に、ソ連が主張する国境線を確保したことで、ノモンハン事件は「ソ連軍の勝利・日本軍の敗北」という評価が一般的です。
この戦いで日本軍は、戦死傷者1万7364人(戦死7696人・戦傷8647人・行方不明1021人)を出したほか、戦車29両と装甲車7両を損失した。
一方、ソ連軍の戦死傷者は2万5655人(戦死9703人・戦傷1万5952人)を出した。加えて、397両もの戦車・装甲車を損失しました。
ノモハン事件の当時の写真を示します。写真はインターンットからお借りしました。

1番目の写真はノモハン事件に出動した日本軍です。

2番目の写真はノモハン事件に出動した日本軍の戦車と兵士です。

3番目の写真ははノモハン事件に出動したソ連軍の戦車と兵士です。

4番目の写真は昼食をとる日本軍の兵士です。

ノモハン事件の歴史的評価については、https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622/622PDF/narmanda.pdf に詳細な論評がります。
その冒頭部分だけ転載します。
・・・満洲事変から日ソ中立条約が締結されるまでの日ソ関係の推移を見れば、日ソ両国は、それぞれが後ろ盾となっていた当時のモンゴル人民共和国と満洲国の国境問題をめぐって激しく対立し、ついには戦争に突入したことがわかる。すなわち、極東アジアにおける日ソ間の緊張と対立の激化の根本原因の一つが、モンゴルの国境問題、あるいはモンゴルの国際上の地位をめぐる問題であったことが理解される。それゆえモンゴルと満洲の勢力圏を画定する問題の解決が、日ソ国交調整の実現の重要な懸案であった。このあと、1939 年 9 月のノモンハン事件停戦協定のあと、1940 年 6 月の日ソ両国間の協議によるモンゴルと満洲国の国境画定を経て、モンゴルの国境問題が日ソ間でようやく解消された。そしてこれにより、日ソ両国の軍事的また政治的緊張関係が改善されることになり、その帰結として 1941 年 4 月の日ソ中立条約の締結に到るのである。
満洲国建国以来の極東における日ソ両国の確執は、日ソ中立条約によって突如解決されたもので
はなかった。それは満洲里会議にはじまり、ソ連・モンゴル相互援助条約、モンゴルの大粛清、ノモンハン戦、停戦協定、国境画定会議など、当事国であった日本・ソ連・モンゴル・満洲を巻きこんで展開された一連の政治的出来事の帰結であった。・・・

さて今日は日本のその後の運命に大きな影響を与えたノモハン事件について書きました。日本とロシアの大規模な軍事衝突でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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