後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山梨県の韮崎大村美術観の森田元子絵画展を見てきました

2015年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
韮崎市の美術館で1月12日まで開催中の森田元子絵画展を見に行きました。
優しいタッチの水彩画のような油彩45点が並んでいます。性格の良さを感じさせる素直な絵画です。殆どが婦人像で、赤や緑などの明るい色彩に見ていて楽しくなります。会場内は撮影禁止なのでポスターと入口の絵だけを撮らせて頂きました。家内が好きな画家なので運転手をつとめながら、45枚の絵画を楽しんで来ました。
一番目の写真がポスターで二番目の写真入が入り口に飾られてある絵の写真です。
三番目の写真は会場内の写真です。
出典は、http://tcstudio10.exblog.jp/iv/detail/index.asp… です。
四番目の写真は森田元子さんの絵画です。
出典は、http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/…/backnum…/011021-j.htmlです。
五番目の写真はこの美術館の2階から八ヶ岳の写真を撮ったものです。2階にはこの美術館を作り韮崎市に寄贈した大村 智氏の好きな鈴木信太郎の絵画が24点と蒐集した陶器類が展示してあります。小さいわりには感動的な美術館でした。
===参考資料===================
森田元子 もりた-もとこ
1903-1969 昭和時代の洋画家。
明治36年2月11日生まれ。岡田三郎助に師事し,フランスに留学。昭和12年「聴音」,13年「麗日」で新文展に連続特選,35年「女」で日展文部大臣賞。新聞小説の挿絵もおおい。女子美大教授,日展審査員,光風会理事。昭和44年8月12日死去。66歳。東京出身。女子美専(現女子美大)卒。
https://kotobank.jp/…/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%85%83%E5%AD%90より。









日本各地の豊かなローカル文化を考える(5) 奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿の保存文化

2015年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
日本のローカル文化には各地の古来の美しい神社仏閣の建物のたたずまいも含みます。豊かに広がる農村風景も美しい文化です。
そして昔の宿場町の景観を保存したのもローカル文化です。今回は美しい宿場町として奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿の4つの町をご紹介いたします。
江戸時代そのままの宿場を復原して、見事に保存しています。そこでは時間が停まったようです。江戸時代の時間を写真に撮れるのです。
この4ケ所は何度も訪問しました。特に木曽街道の長野県の奈良井宿は比較的近いので7回くらい訪れました。
大内宿、妻籠宿、そして馬籠宿も訪問してみると、それぞれ違った感動を与えてくれます。とにかく遠路訪ねるだけのことはあります。下にその写真を示します。
さて長野県、塩尻から木曾谷へ国道19号線を木曽福島の方向へ20km位走ると奈良井宿があります。昔の中仙道の奈良井宿が右手に見えて来ます。奈良井へ入る道の案内看板があり、駐車場があります。車を預け、徒歩で江戸時代の宿場町の通りを散策するのです。長さ1kmくらいの通りを静かに歩くのです。
奈良井宿は鎌倉時代から宿駅として栄えたそうです。木曽路の分水嶺、鳥居峠の北側のこの付近に土豪奈良井氏が居館を構えたのが始まりと言います。
戦国時代は木曽一族と甲斐の武田一族の戦いの場所でした。付近には多数の戦死者を葬った沢が「葬沢」という名でが残っています。
江戸時代になり徳川家康により慶長7年(1602年)中仙道の宿駅として決められました。それ以来、260年間、奈良井宿は江戸と京都を結ぶ中仙道の重要な宿場だったのです。
奈良井宿は木曽11宿で一番大きな宿であり、中山道、全67宿の中でも有数の規模を誇っていたそうです。
参勤交代の大名行列が通るだけではありません、数多くの行商人や巡礼の庶民が通り抜けた宿場です。庶民の泊るところは大きな広間です。皆一緒に寝たのです。その広間の傍には馬が繋いであったのです。芭蕉の、「のみしらみ馬のしとする枕元」という奥の細道での俳句は現実だったのです。
宿場町には本陣や脇本陣が公開されています。しかし多くの庶民が泊った旅籠を見落とさないことが重要と思います。当時の名も無い庶民の旅の苦しさが分かります。
奈良井宿は防火・消火に力を注いでいたので、大きな火災にもあわず江戸時代の家屋が残っていたのです。戦後、昭和30年台から、修理、復元の努力を続け、昭和53年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
同じ木曽路の馬籠宿と妻籠宿ほど有名でないので観光客も少なく落ち着いた雰囲気です。人影まばらな宿場町を季節の風が通り過ぎて行きます。
ある年の初夏に訪れたときに、裏山の森から澄んだ春ゼミの声が絶え間なく聞こえていました。偶然立ち寄った古いお寺の裏手に、処刑された隠れキリシタンの墓が一基淋しく立っているのを見つけました。木曽へ逃げ、身を隠していた「隠れキリシタン」が捕まって、奈良井宿で処刑されたと書いてあります。裏山から聞こえる澄んだ春ゼミの声が鎮魂の歌のようでした。
随分と時が流れてから、木曽蕎麦の「盛り」と「五平餅」で遅れた昼食をとって帰って来たことが忘れられません。
下の3枚の写真が奈良井宿の写真です。撮影は2010年6月1日です。





一方下の写真は大内宿の通りを山の上から見た風景です。会津藩が作った宿場で会津盆地と日光街道の今市宿の中間の山の中にあります。交通が不便な所なので昔の家々がそのまま残りました。

大内宿の通りの両側のカヤブキの家々が旅籠だったのです。家と家との間が離れているのが珍しいと思いました。現在は丁寧に復元されています。
下のもう2枚の写真のように土産物屋や蕎麦屋になっています。本陣も公開されています。



この大内宿は交通が不便な場所にありますが是非お勧めしたい所です。

さて妻籠宿は下の写真のように昔のままに丁寧に復元されています。

そして下は夜の妻籠宿です。

下の写真2枚は馬籠宿です。急な坂道の両側に旅籠があるという変わった宿場です。木曽は山が険しく平地が無いのです。



この坂を登った通りに面して島崎藤村の生家が復元され、公開されています。
長野県の小諸城跡にある懐古園の中の「島崎藤村記念館」を見たあとで、藤村の生家を見学すると、何故、彼が故郷を捨てたかが分かるような気がします。山々ばかりで、因習にとらわれた人々の閉鎖的な雰囲気がやりきれなかったのでしょう。
以上のように江戸時代の宿場町を整備して保存していることは感動的なことです。交通の不便な場所に江戸の文化を保存しているのです。これこそ日本が世界に誇れるローカル文化ではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

冬の雑木林を歩みつつ今日も平穏に過ぎて行きます

2015年01月08日 | 写真
都立薬草園の裏の雑木林を散歩して来ました。老境の散歩は仕事のストレスも無くなんの心配事も憂いもありません。完璧に平穏な気持ちです。誰もいない雑木林の中には清浄な風が吹いていました。
雑木林は四季折々、いつでも良いものです。心まで洗われるような気になります。
そんな雰囲気を撮ったつもりの写真をお送りいたします。







イスラム教を風刺した週刊誌社を襲撃した事件で感じたこと

2015年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
この事件は昨日、パリで起きたイスラム過激派による襲撃事件です。
襲撃されたパリの政治的な週刊誌社「シャルリー・エブド」は週刊誌を毎週45000部を発行しているそうです。
これまでも、ムハンマドを女性に見立てた半裸のイラストを掲載するなどし、イスラム団体などに激しく批判されてきたとも報じられています。
2011年には、火炎瓶が投げ込まれて本社が全焼したそうです。
今回の事件では編集会議の現場に男2人が侵入し編集委員など12人を射殺したのです。
このニュースを見て皆様はどのようにお感じになったでしょうか?
各国の大統領や安倍総理はフランスの大統領に電話をして「言論の自由は暴力に屈してはいけない」とフランス大統領を激励したそうです。
しかし「言論の自由」は無制限であってはいけないというのが私の信条です。
例えばお釈迦様を馬鹿にするような漫画は仏教徒を深く傷つけます。同じように天皇陛下を風刺した漫画は日本人の心を傷つけます。
フランス人はムハンマドを半裸の女性に描いても良いと本当に思っているのでしょうか?
私は週刊誌社「シャルリー・エブド」はヨーロッパ文化の闇のような会社だと思いました。勿論、暴力や殺人は絶対悪です。気軽にそう言ってこの事件を忘れる人もいると思います。
ヨーロッパ人のイスラム教を敵視する気持ちが悲しいのです。それを売り物にしている週刊誌社があることが悲しいのです。この状態では中東地域に起きている戦争は終わる筈がありません。
それに関連して私はトルコがヨーロッパ連合に絶対に加盟出来ない現実をすぐに思い出しました。トルコはイスラム教国ですが、経済力があり民主化されいるのにヨーロッパ諸国はトルコをヨーロッパ連合へ加盟させないのです。この狭量さが悲しいのです。
人々は世界に平和が来ますようにと祈ります。しかし時々私は絶望的になります。今回のパリでの週刊誌社襲撃事件で暗い気持ちになり絶望的になりました。
一番目の写真は今回の事件を起こした2人の男と乗って来た車が写っている写真です。
二番目の写真はトルコのイスタンブールにある世界遺産のスレイマニエモスクです。
三番目の写真は新約聖書に出て来るトルコの古い町の遺跡です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





今日は上野の西洋美術館の松方コレクションを見てきました

2015年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
65歳以上無料のうえ、写真撮影が許されているので楽しみながら写真を撮ってきました。今日は宗教画5点をご紹介いたします。
続きの「印象派絵画」と「近代抽象画」は追ってご紹介いたします。
なお松方コレクションの全ての絵画とその題目や制作年は、https://www.google.com/…/the-national-museum-of-western-art… にあります。
一番目の写真は最後の晩餐 (Undated)、制作: Marten de Vos
二番目の写真はゲッセマネの園 (c. 1570 (?))、制作: Giorgio Vasari
三番目の写真はキリストの磔刑 (First half of the 16th century)、制作: Joos van Cleve
四番目の写真は悲しみの聖母 (ca. 1655)、制作: Carlo Dolci
五番目の写真は貧しい漁夫 (Undated)、制作: Pierre Puvis de Chavannes

それにしても松方氏は西洋美術をの日本への紹介した偉大な人物だったので以下に紹介しておきます。そして六番目の写真は松方氏です。
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国立西洋美術館は1959(昭和34)年、フランス政府から日本へ寄贈返還された「松方コレクション」を保存・公開するために東京の上野公園尾に設立されました。
「松方コレクション」を築いた松方幸次郎(1865‐1950)は、明治の元勲で総理大臣も務めた松方正義の三男です。旧制一高の前身である大学予備門からアメリカに留学して、エール大学で法律の博士号を取得し、ヨーロッパ遊学を経て帰国後、父親の秘書官などを務めましたが、神戸の川崎造船所の創業者である川崎正蔵に見込まれ、1896年(明治29)年、同社の初代社長に就任しました。一時は神戸新聞、神戸瓦斯などの社長も兼ね、神戸商業会議所の会頭や衆議院議員にもなった人物です。
松方幸次郎が美術品の収集を始めたのは、第一次大戦中のロンドン滞在時のことです。大戦により造船で多大な利益を上げた松方は、1916(大正5)年から約10年の間にたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めました。現在は東京国立博物館が所蔵する、パリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた浮世絵コレクション約8千点を含め、彼が手に入れた作品の総数は1万点におよぶと言われます。しかし、松方が美術にこれほどの情熱を傾けたのは、自らの趣味のためではありませんでした。彼は自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという明治人らしい気概をもって、作品の収集にあたっていたのです。
松方は購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしていました。その美術館は「共楽美術館」と名づけられ、松方が敬愛する友人で美術品収集の助言者でもあったイギリスの画家、フランク・ブラングィン(1867-1956)が設計案を作り、東京の麻布に用地も確保されます。しかし、松方の夢だった「共楽美術館」が日の目を見ることはありませんでした。1927(昭和2)年の経済恐慌が状況を一変させたのです。メインバンクの十五銀行の休業によって川崎造船も経営危機に陥り、松方は社長の座を降りて自らの財産を会社の財務整理にあてます。日本に運ばれていた美術品は数度にわたる展覧会で売り立てられ、散逸してしまいました。
松方が収集した美術品のうち、かなりの数がヨーロッパに残されていましたが、ロンドンの倉庫にあった作品群は1939(昭和14)年の火災で失われ、現在ではその内容や数さえも確かではありません。一方、パリに残された約400点の作品は、リュクサンブール美術館(当時のフランス現代美術館)の館長レオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていました。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。しかしその後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定しました。このコレクションを受け入れて展示するための美術館として、1959(昭和34)年、国立西洋美術館が誕生したのです。以下、http://www.nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html に続きます。













日本各地の豊かなローカル文化を考える(4)風の盆などの盆踊りは豊かなローカル文化

2015年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
一般的に文化というと芸術や宗教や学問を考える人が多いものです。そして文化は選ばれた専門家が創るものだけでなく大衆が支え伝承するものも重要だと思います。そのようなものに日本各地に伝承されている盆踊があります。そして盆踊りは地方ごとに違います。
盆踊りは元来、帰ってきた先祖の霊魂を慰めるために始まったといいます。
いろいろな盆踊の中で一番文化的に香りの高いものに富山県の八尾の「おわら風の盆」があります。実際に見てみると「風の盆」は静かで優雅です。しんみりとします。胡弓の音色が哀愁をおびて静かな夜の町へ流れます。帰ってきた先祖の霊魂を慰め、秋の強風を静めようとする踊り手の気持ちが心に伝わります。
所作が上品で、ゆっくりした音曲に合わせて優美に踊ります。女は笠を深くかぶり決して顔を見せません。なんというつつましさでしょう。姿が楚々として美しいのです。
そして男踊りはあくまでもいさぎよいのです。
町の家々は軒の低い昔風の造りで、人々は明かりを消して奥へ引きこんでいます。観光客だけが踊りの列を囲んでいます。誰も声を上げません。静かです。富山県の八尾の上品な地方文化です。このような地方文化を持っているところは多くないと思います。八尾の人々の高い品格を偲ばせます。
一番目、二番目、三番目の写真で風の盆の光景を示します。





写真の出典は「おわら風の盆画像集」です。検索すると沢山の写真が紹介してあります。
「風の盆」の名前には、越中・八尾の地理風土が深く込められています。
越中八尾は、地形的に強い風の吹く町です。 立山連峰を越えて日本海から吹く風は「ダシ」とよばれ、地域の植生や稲作業にさまざまな弊害をもたらしました。このため、富山の山間の地方では、風神を祀り風よけを祈願する「風の宮」などのお宮や祠が建てられました。
「風の盆」が踊られる新暦9月1日という時期は、この「風」と深くかかわります。
この盆踊の由来や歴史については、http://www.bonodori.net/zenkoku/owara_kazenobon/owara_rekishi.htmlをご覧下さい。
この「おわら風の盆」は元禄時代からありましたがその素晴らしい踊りの振り付けと伝承は昭和4年につくられた「おわら風の盆」保存会のきめこまかな努力によります。この保存会の組織化に関しては、八尾の医者で名門の川崎順二氏の働きがあったのです。四番目の写真が川崎順二さんです。

保存会の詳細は、http://www.owarahozonkai.jp/engisidou.html# にあります。
さて優雅な風の盆と対象的で、賑やかで楽しい盆踊りは、木曽の谷間にある郡上八幡の盆踊りです。踊りの振り付けが洒脱で軽妙です。曲も楽しいのです。例えば「春駒」という踊りはいかにも可憐で躍動感に満ちています。ほかにも「ヤッチク」「げんげんばらばら」など歌詞も曲も踊りも違うものが何曲もあります。郡上八幡に住んでいる人々の創意工夫が溢れています。連歌師の宗祇が滞在していた影響もあるのでしょうか?今でも宗祇を記念して「宗祇水」という名前の水場が町中にあります。少し騒がしい盆踊りですが、決して下品ではありません。踊りに参加している人々の楽しそうな顔を見て居るとこちらも楽しくなります。五番目の写真が郡上八幡の盆踊です。

さて私の住んでいる東京の多摩地方の小金井市の盆踊りはどんなものでしょうか?以前は空き地に高い櫓を組んで、その上で太鼓や三味線を弾き、横笛を吹きならし声の良い人が唄います。踊る人々がその歌に合わせて櫓の周りを回りながら簡単な手ぶりで踊ります。踊りの歌として、「東京音頭」というものを良く唄っていました。歌も踊りも単純で誰にでも参加できるようになっていました。実に簡単な盆踊りでした。
それが2、30年前から「阿波踊り」が輸入され、昔風の盆踊りが消えてしまいました。阿波踊りはテンポが速くて振り付けも難しく素人にな無理です。小金井では数十のグループが数ケ月かけてチームで訓練をします。体育館などで秘かに練習を重ねます。そして7月の末に多くの連(れん)が練習を重ねた踊りを披露するのです。早いテンポで一糸乱れぬ群舞をします。そして少しずつ通りを進んで行きます。小学生だけのチームがあります。若い男女のチームもあります。幼児、小学生、中高生、青年男女、老人男女と全ての年齢層を揃えたチームもあります。職場のチームも学校のチームも、そして町内会のチームといろいろあります。随分と練習を重ねるようで、見事な群舞です。あまり品が良いとは言えない振付けですが、道端のすぐ傍で見ていると感動します。そして考え込みます。「これは小金井の地方文化と言えるでしょうか?」とか「阿波踊りを無節操に輸入するこは恥ずかしい」とか考え込みます。しかし最近は気楽に、「小金井阿波踊りも小金井の誇らしいローカル文化です」という結論に至りました。ローカル文化も時代とともに変わって行きます。変わらないものも貴重な文化ですが、変わるものも重要なローカル文化です。
さて貴方の住んでいらっしゃる土地の盆踊りはどのようなものでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

日本各地の豊かなローカル文化を考える(3)青森ねぶたを見た時の驚きと興奮

2015年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
青森の「ねぶた」を10年ほど前に初めて見た時の驚きと興奮は今でも強烈に覚えています。
青森地方に生き続けている縄文人の情念がほとばしるような武者絵です。その武者絵や馬や鬼の張子の中に明るい電球が入っていて夏の夜空を舞うのです。兎に角強烈な色彩と太い輪郭線の巨大な灯篭の舞う動きが神秘的で玄妙な動きをするのです。見ている人の魂を奪ってしまいます。この世の祭りでなくなるのです。
これぞ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化と断言できます。下にその青森の「ねぶた」の写真を3枚お送りします。特に3枚目の写真に写っている人間の大きさと「ねぶた」の大きさを比較して下さい。ねぶたの巨大さがお分かりになると存じます。
写真は「青森ねぶたの画像」をネット検索して見つけました。なお「ねぶた」か「ねぷた」かは東北地方の方言の違いで、どちでも良いのです。





さて何故私が興奮しながらこの文章を書いているのでしょうか?それをご理解頂くためには次のURLにある「青森ねぶたの動画」を是非ご覧下さい。特にその後半まで根気よく見ると、ねぶたの動きの不思議さや玄妙さが分かりのです。あなたの魂が奪われると信じています。
https://www.youtube.com/watch?v=Q--3CDfWADI (青森ねぶた祭りの最終日)。
この動画さえ終わりまでご覧頂ければ私は深い満足にとらわれます。
青森ねぶたこそ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化という表現に同感して頂けると思います。
この先はお読み頂かなくても結構ですが、以下に青森に生まれ育った棟方 志功(むなかた しこう)の作品がねぶたの影響を深く受けている様子をご紹介したいと思います。そして末尾の参考資料には古くからあったねぶたの変遷の歴史を詳細に書いた資料をご紹介いたします。
さて、棟方 志功は1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれました。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となったと言われています。数々の名作を残し1975年に没しました。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指したという話は有名です。少年のころから青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだという話も残っています。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けているそうです。
第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道之柵』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名です。
大のねぶた好きであり、作品の題材としても描いています。そして中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもあるそうです。
棟方 志功の作品の多くは版画です。暗い北国の風景を表現した版画や天真爛漫とした明るい女性の版画が多数あります。そしてエネルギーのほとばしるような絵画もあります。
しかし全ての作品の低音基調は暗く寒い冬の北国に棲みついているような情念と思います。その情念とは何だと問われても言葉では説明出来ないのです。東北地方に生まれ育った私には判る心の在り方です。それは都会にたいする反発心や洗練されたものに対する嫌悪感などいろいろな心理が混じり合ったものです。それはさておき、下に棟方 志功の作品の写真を3枚お送りいたします。





棟方 志功の作品の写真はネットの上で多数見ることができますので他の作品も是非ご覧下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
青森ねぶたの歴史:
C:\Users\Goto\Desktop\ねぶたの由来・変遷.htm
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
 奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。
 初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。
 「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。
以下省略。

伊豆半島の爪木崎から買って来た庭の水仙が今年も咲きました

2015年01月05日 | 写真
温かい黒潮が洗う太平洋の島々は冬でも寒くありません。そして伊豆半島の先端の爪木崎(ツメキサキ)の海岸には昔から冬でも自然のスイセンが花を咲かせています。日本原種の花弁は一重で中の盃が黄色です。都会の花屋さんでは球根は売っていない原種です。それが海岸の丘にえんえんと咲いているのです。
2009年の12月15日に訪れた時は、浜辺に立つとなま温かい風が吹いていました。師走の15日なのに満開に近い咲き方です。
家内が興奮して丘や浜辺を歩きまわります。帰りにその原種の球根をケ10個おみやげに買ってやりました。見回すと隣の畑に菜の花も満開でした。
帰宅して球根10個を庭に植えました。それ以来5年間、毎年12月になると花を咲かせています。
下の2枚の写真は今年、我が家の庭に咲いた爪木崎から移住して来た水仙です。



下の4枚の写真は2009年12月15日に爪木崎で撮影した写真です。

海岸の丘に一面に咲いています。

その隣には菜の花も咲いていました。

下の写真は水仙の咲いている海岸から沖の方の景色を撮ったものです。


日本各地の豊かなローカル文化を考える(2)甲府盆地の30基の巨大古墳

2015年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
甲府盆地の古墳時代のローカル文化を見てみましょう。
石器時代と縄文時代は現在の北杜市の北半分の八ヶ岳南麓には人々が沢山住んでいて見事な装飾のついた縄文土器を生産していました。縄文時代の住居跡もあちこちにあります。
しかし甲斐駒岳の東北の山麓は北向きの傾斜地が多く、冬は寒冷で住みにくかったらしく定住跡はありません。沢山棲んでいた鹿や猪の狩猟や、山菜や木の実の収集のために多くの人が出入りしていたようです。
しかし西暦前300年以後の弥生時代に入ると、田畑農業が普及し、八ヶ岳山麓の縄文人達は現在の韮崎市より東に広がる甲府盆地へと移動してしまいます。
弥生時代の遺跡は韮崎市の東側にしか出て来ません。八ヶ岳山麓や甲斐駒山麓には弥生時代の遺跡が皆無なのです。
それが西暦後300年以後の古墳時代になると甲府盆地の釜無川と笛吹川の両側の稲作地帯にのみ人々が定住していたようです。
その様子は山梨県にある30基の古墳の分布が甲府盆地の稲作可能な地帯にだけ集中している様子からも明快です。
北杜市には西暦前300年頃から西暦600年頃までの約900年間、人間が殆どいなくなってしまったのです。勿論、狩猟・採集生活が好きな少数の家族は北杜市に住みついていたでしょうが。
そこへ人間が戻るのは律令国家が出来て、献上する馬の放牧地として利用するようになった時代と推定できます。現在、北杜市武川町の甲州街道に牧原交差点(まきがはらこうさてん)があるのです。このあたりは中央朝廷へ献上する馬の生産地であって、牧が原の名がついたのでしょう。
それはいずれ続編で考察することにして今回は山梨県にある30基の古墳についてもう少し詳しくご紹介いたします。
下には笛吹川の傍にある全長170mの巨大な前方後円墳の甲斐銚子塚古墳の写真を示します。この古墳は西暦350から400年に造営されたと言われています。

そして下にある5枚の写真はこの甲斐銚子塚古墳の現在の光景です。2013年1月17日に家内と一緒に行って撮って来た写真です。









以上のような山梨県の古墳の詳細や、出土品を詳しく見ていくと、このように山国の内陸地にこれだけ多くの古墳が築造されていたことに驚きます。古墳は3世紀から5世紀にかけて全国に造られました。大和地方や機内の前方後円墳だけが教科書に載っているので、全国にあったという事実を知らない人も多いようです。しかし甲府盆地にも30基も作られていたのです。
この数多くの古墳の存在は地方豪族の存在を示しています。そして古墳造営の費用を支える農産物の増大を示しています。
日本の総人口は縄文時代中期の26万人まで増加し、末期の寒冷化で数万人まで減少します。しかし弥生時代に入り、農業の発達し始めると増加一方に変化したのです。
山梨県の甲府盆地には豪族たちが生まれ、領地の農民を支配し、お互いに戦争をしたり、和議を結んでいたのです。
この状況が、律令国家の甲斐国の成立と甲斐国分寺が出来る時代へとつながって行くのです。(続く)
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:山梨県にある30基の古墳の説明======
下は山梨県にある30基の古墳の一覧表を示します。http://kofun.info/kofunlist/15より。
名前、     形、       紹介文
姥塚古墳 円墳 径約40m、高さ約10mの円墳。 一番の見所は南西に開口す ...
滝坂の往生塚 円墳 径15m、高さ3mの円墳。 埋葬施設は無袖型の横穴式石室で ...
王塚古墳 帆立貝式古墳 全長約65mの帆立貝式古墳。 墳丘各所で円筒埴輪が見つかっ ...
大塚古墳 円墳 径約15mの円墳。 片袖型の横穴式石室が南に開口、全長約8 ...
岡・銚子塚古墳 前方後円墳 全長92mの前方後円墳。 墳丘には段が有り、葺石、埴輪が存 ...
おつき穴古墳 円墳 墳形・規模は不明。公園内に保存されている。 横穴式石室が南 ...
甲斐銚子塚古墳 前方後円墳 全長約170mの前方後円墳。 墳丘は後円部3段、前方部2段 ...
加牟那塚古墳 円墳 径約45mの円墳。 埋葬施設は南に開口する横穴式石室で、全 ...
かんかん塚(茶塚)古墳 円墳 径約26mの円墳。 埋葬施設は全長約7mの竪穴式石室で、武 ...
狐塚古墳 円墳 径約15m、高さ約3mの円墳。 埋葬施設は南東に開口する無 ...
経塚古墳 八角墳 全国でも発見例の少ない八角形墳の1基である。 径約12.5 ...
こうもり塚古墳 円墳 大平1号墳、地元では「こうもり塚」と呼ばれている。 径10 ...
盃塚古墳 円墳 径23m、高さ4.5mの円墳。 墳丘の周囲を幅1.8mの濠 ...
地蔵古墳 円墳 大平2号墳、地元では「地蔵古墳」と呼ばれている。 径10~ ...
地蔵塚古墳 円墳 径約35mの円墳。 片袖型の横穴式石室が南に開口、全長約1 ...
団栗塚古墳 前方後円墳 現在は円形をしているが、前方後円墳だったようだ。 円丘部の ...
千米寺古墳群 群集墳 古墳時代後期の円墳群。 かつては60基以上が存在したようだ ...
塚原上村古墳 円墳 古墳時代後期に築造された円墳。愛称は「大西のおかま」。 墳 ...
天神塚古墳 円墳 径約35m、高さ約4mの円墳。 埋葬施設は南に開口する横穴 ...
中秣塚古墳 円墳 赤坂台古墳群の1基で、径14m、高さ約3mの円墳。 埋葬施 ...
西ノ原古墳 不明 墳形・規模不明。石室が保存されている。 石室は南東に入口を ...
子の神古墳 円墳 古墳時代後期に築造された径約5mの円墳。 横穴式石室が南に ...
八幡塚古墳 帆立貝式古墳 現状は方墳だが、築造当時は帆立貝式古墳だったようだ。 葺石 ...
平林2号墳 円墳 春日居古墳群の1基で、径15mの円墳。 埋葬施設は無袖型の ...
ポンポコ塚 円墳 径15mほどの円墳。 出土品は不明だが、横穴式石室の形態か ...
丸山塚古墳 円墳 径72m、高さ11mの円墳。 墳丘は2段に築かれ、埴輪が存 ...
万寿森古墳 円墳 径約25m、高さ約5mの円墳。 2006(平成18)年の発 ...
六科丘古墳 円墳 径28mの造出し付円墳。 内部構造については不明だが、鉄剣 ...
物見塚古墳 前方後円墳 現存長約45mの前方後円墳。 墳丘全体を葺石が覆っていたと ...
竜塚古墳 方墳 1辺約56m、高さ約7mの方墳。 墳丘は2段に築かれ、上段 ...


日本各地の豊かなローカル文化を考える(1)甲府盆地の仏教にまつわるローカル文化

2015年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム
時々、日本文化とは何でしょうかと考え込む癖があります。その答えは年齢を重ねると少しずつ変わってきます。自分自身が背負っている文化が変わってくるからです。
昨日は山梨県の甲府盆地のローカル文化を考えて見ました。甲府盆地を東から西に通り抜けて甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋に行きました。そこで遊びながら考えました。
一般的にローカル文化はその地の地形や天候の影響を受けます。どのような農作物が収穫されるかも深い関係があります。漁村では季節ごとに、どのような魚が獲れるかによって影響を受けます。
そして一言でローカル文化と云っても縄文、弥生、古墳時代、平安、鎌倉、室町、戦国の各時代のそれぞれの文化が重層的に重なり合っているのが自然です。
ですからどの時代のどの分野のローカル文化を取上げるかによってその特徴が変わるのが当然です。
甲府盆地には巨大な前方後円墳が現存しています。甲斐の国という律令国家があり甲斐の国の国分寺も國分尼寺もありました。そして大和朝廷に牧場で育てた馬を送っていたのです。このような歴史は東国には共通のローカル文化です。
しかしいくつか甲府盆地特有の文化があります。その一つは盆地の南に聳える鳳凰三山へ地蔵岳、観音岳、薬師岳と仏像の名前をつけて仏教信仰の対称にしていることです。
山岳信仰は神道の場合が多いのですが甲府盆地では仏教の信仰対象になっているのです。
甲府盆地の人々は子供が授かると、安産を願って地蔵岳の頂きから石の地蔵さんを背負って持ち帰ります。無事子供が生まれたらお地蔵さんを3体背負って山の頂上へ返します。
実際地蔵岳に登ってみると頂上に近い白っぽい砂の斜面に30cmから60cm位の石の地蔵さんがえんえんと並んでいるのです。
そして観音岳を見上げる韮崎市の崖の上には巨大な観音菩薩像が立っているのです。
これが甲府盆地の特徴的な一つのローカル文化ではないでしょうか。
仏教に関して云えば、武田信玄公が行ったことも少し変わったことでした。
信玄さんが長野市を占領したときに善光寺のご本尊を甲府市に持ち帰って甲府善光寺を作りました。その壮大な伽藍は現在でもあります。
しかし信玄さんが敗れ、徳川の時代になるとご本尊様は長野善光寺に帰りました。
この歴史は武田信玄公の蛮行と考えることも出来ます。反対に信玄公の篤い信心の現れとも考えられます。しかし武力でご本尊を奪うことはあまり尊敬できないかも知れません。
現存する壮大な甲府善光寺は長野市の善光寺と同じ位見事な建物です。しかし何故か観光客が集まりません。これも甲府盆地のローカル文化の一風景です。
この様な歴史から甲府盆地も独特の仏教的な文化を持っていたのです。
しかし山を越えた長野県上田市の別所温泉のように熱心な信仰に支えられた仏教のお寺は現存していません。そこは北の鎌倉と言われるほど国宝級のお堂が現存しているのです。
以上は甲府盆地のローカル文化の一例です。一例は所詮一例であり全てではありません。ローカル文化を説明するむずかしさを感じています。
下に昨日撮って来た山の写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

上は甲府盆地の西北に見える八ヶ岳です。

上は甲府盆地の西端に見える甲斐駒岳です。

上は甲府盆地の東にある富士山です。

上は小生の小屋の前の冬の雑木林です。

上はその小屋のある周囲の道路の様子です。
=====参考資料===================
山名の由来:荻生徂徠『峡中紀行』、『甲斐国志』、野田成方『裏見寒話』、萩原元克『甲斐名勝志』など近世の地誌類によれば「鳳凰山」の指す山域は時代により認識が異なっており、地蔵岳のみを指す一山説、観音岳、薬師岳の二峰を指す二山説、三山すべてを指す三山説があり、山名論争が展開されてきた。山麓地域では昔は一山説が一般的であったが後に山岳信仰の広まりに伴い三山説が浸透し、二峰を区別しがたい甲府近在で編纂された『裏見寒話』や甲斐国絵図類などにおいては二山説・三山説をとっている。しかしながら、いずれにしても現在となっては鳳凰山とは鳳凰三山と同義である。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wi…/%E9%B3%B3%E5%87%B0%E5%B1%B1にあります。

外国に旅したらその地の宗教を尊敬し心豊かになる

2015年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム
どこの国へ行っても、そこに住んでいる人と仲良くなり、楽しい人間関係を作れる人を「心豊かな人間」と定義します。生まれつきの性格や外国語を知っていることも重要ですが、その国の歴史や文化を尊敬し、現地の人に教えてもらおうという態度が非常に重要です。
信頼すれば、信頼される。尊敬すれば、尊敬される。感銘すれば、感銘を与えることが出来る。これを実行できる人が「心豊かな人間」なのです。
我々日本人が外国に行っても、その国の人を深く理解が出来ないとしたら、その一つの理由は宗教とか信仰というものを無視しがちなためです。
いくら英語やスペイン語やロシア語や中国語や韓国語が達者でもその国の宗教を理解し、それを尊敬していなければ親密になれないのです。
しかし多くの日本人にとっては、それは無理からぬことではあります。日本人は、ある統計によると宗教を信じない人が70%前後もいるのです。
このような国は世界中で日本だけの特異なことなのです。例えばアメリカ合衆国では80%前後の人が神の存在を信じています。
それでは世界中の人々はどうのような宗教を信じているのでしょうか?
そして、それぞれの宗教の信者の分布はどうなっているのでしょうか?
それはちょっと調べればすぐに判ります。
下の写真は世界の主な宗教の分布を示しています。

(出典は、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sanka/kyouiku/kaihatsu/chikyu/statistics/public_facilities/graph_01.html です。)
そして下の写真には、世界の宗教と信者数を示します。

(出典は、http://www.hm.aitai.ne.jp/~genkou/isikimu/reikonn/syuukyoujinnkou.html です。)
そして下の写真は、堂々たる台湾の道教寺院の写真です。

(出典は、http://m-mikio.world.coocan.jp/taiwanshuukyou.htmlです。)
「心豊か人間」になるための第一歩は世界中の宗教と信者の分布を知っておくことです。
しかしそれは知識に過ぎません。知識は、しょせん知識です。無力です。
行動と体験が重要なのです。
行動とは、外国に行ったらそこにある寺院や教会やモスクを訪問することです。異教徒でも入って良い場合は、中に入って信者の祈っている姿を尊敬しながら眺めます。
無宗教でも異教徒でも拝んでよい場合は現地の人々と一緒に祈ります。
例えば道教寺院では長くて太い線香を買って、周りの人々を真似して家内安全・無病息災を祈ります。そうすると道教寺院に来る人々の悩みや苦しみを共有しているような気分になります。
そしてカトリックの教会では常に扉が開いていて、誰でも出入り自由です。中に入って静かに座っていると信者が独りでお祈りに来ます。座ったり、膝まづいて祈っています。祈っている人の悩みや苦しみを共有しているような気分になります。
深い親近感が湧いてきます。尊敬の念も湧いてきます。
話は飛びますが、昔、南米のカラカスという大都会に行ったことがあります。日曜日にカトリックのミサに行きたくなりました。ホテルのカウンターで聞くと裏にある大闘牛場で日曜日朝10時からあるから行きなさいと教えてくれます。
そのミサの光景は一生忘れられません。闘牛士と牛が死闘をしていた広場の中央に大きな赤い絨毯が敷いてあります。その上に数十人の神父さんたちが立っています。周りには折りたたに椅子に座った信者たちがビッシリといます。そして私が立っている高い観客席にも信者がいます。
後で聞いたことですが、その信者は皆、山の斜面にある貧民街の住人たちだったのです。原住民の血が混じった浅黒い人々です。
一緒に讃美歌を歌い、一緒に祈りました。それがキッカケで、後に山の斜面の村落に行ったのです。
この体験のおかげで人間の苦しみや悩みは貧富や国籍に関係なく、皆同じだという確信を持つようになりました。
そこで、その後、いろいろな外国へ行った時、その土地の寺院や教会を訪問するようになりました。一緒に祈りました。
その土地の人々と話をするとき、その国の信仰に感銘をうけたと少しだけ話をします。そうすると相手も親近感が湧くらしくていろいろな話をしてくれます。
私は知ることだけでなく、一緒に体験をすることが大切だと信じています。
悩みや苦しみを共有する努力が重要だと信じています。
すると「あらゆる民族の宗教には優劣が無い」ことを確信できるのです。
私は依然として愚かな人間です。しかしほんの少しだけ「心豊かな人間」になれたような気分になるから不思議です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


村の静かな社の初詣風景・・・お正月の風物詩

2015年01月02日 | 写真
私の住んでいる所はは昔、小金井村という農村でした。その村の小さな鎮守の社(やしろ)が、現在でも、あちこちに散在しています。いずれも大きな森に囲まれた静かな場所です。樹木を見るのが好きなので、私はよく行きます。産土(うぶすな)の森といった感じの所です。
今日は、そんな杜の中の神社の初詣風景の写真を撮りに行ってきました。
貫井神社と人見稲荷と稲穂神社との三ケ所です。
近くの府中に、大国魂神社があります。有名な神社なので初詣の人々が溢れる場所です。お祭りのように賑やかなことなります。今日も様子を見ようと府中に行きましたが遠方から車が渋滞していて近づけませんでした。静かな小さい神社の方が落ちつけて良いものだよつくづく思いました。
初詣で混んでいる神社も、混まないで静かな神社もお正月の風物詩なのでしょう。
皆様の近所には美しい杜に囲まれた静かな神社はありますでしょぅか。
貫井神社と人見稲荷と稲穂神社の写真を2枚ずつ順にお送りいたします。











今年は紀元2675年、乙未(きのとひつじ)の年、そして平成27年です。

2015年01月02日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以後、日本ではキリストが生まれた年をを基準にし、その後の年数を表す西暦と呼ばれる年号を使っています。それは太陽暦ですが明治維新以前は旧暦といって月の運行を基準にした暦を使っていました。私の祖母は旧暦の方が便利だと言って、それを使っていました。今月は如月だからかならず梅が咲くとか云っていました。昔は旧暦のカレンダーも売っていたのです。
それはさて置き、幼少の頃、紀元2600年を祝う歌が流行っていたのを記憶しています。この年号の基準は神武天皇の即位した年を基準とする年数の数え方です。紀元2600年は1940年でしたから今年は紀元2675年になります。この紀元のことは皇紀とも言ったものです。
何故、紀元の年号を覚えているかと言いますと、近所の小金井公園に宮城前の広場で紀元2600年の祝賀式典に使われた光華殿が移設されているからです。下にその写真を示します。

この紀元2600年は昭和15年で真珠湾攻撃の一年前です。
その祝典の儀式は1940年11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」として盛大に開催されたのです。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達しました。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。この奉祝曲が繰り返し、繰り返しラジオで放送されたのです。こうして当時幼かった私の記憶に残ったのです。
紀元は忌まわしい戦争と敗戦の記憶に結びついているので戦後は使う人はいません。当たり前です。しかしこの年号の存在は私に「世界中にはいろいろな年号があるのだ」という鮮明な教訓を与えてくれたのです。日本国内だけを見る狭い視野を一挙に世界的視野に変えてくれたのです。
イスラム教国には当然イスラム歴があります。ヒンズー教のインドにはヒンズー歴があります。その他実に数多くの年号の数え方があるのです。それは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6に出ています。
それで気になったことが、明治、大正、昭和、平成という呼び方です。これは天皇が変わると日本の年号を変えているのです。ですから天皇や王朝の無い現在の中国や韓国にはないのでしょうか。そんな疑問を持ち、天皇と年号の呼び方の関係を歴史的に調べてみました。そうしたら江戸時代以前は年号と天皇の交代とは関係がないのです。
すると明治維新以後、富国強兵のために天皇制を強化したようすが理解出来るのです。
ですから世界にあるいろいろな年号の呼び方は政治的意図も含まれているに違いありません。この様に暦や年号を考えると世界各地の文化を相対的に理解することが出来るのです。
そして日本には更に乙未(きのとひつじ)の年というような十干十二支と呼ぶ中国の数え方もあるのです。その上、時間や方角の表示もこの十干十二支を使うのです。それが陰陽道と結びついて宗教性があるのです。しかしあまり長くなるので参考資料に譲ることにします。
下に十二支を彫った石の彫刻と方角の表示を示す図を示します。

十二支とはご承知のように、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっています。

上の方位図では上が北、下が南です。従って右が東で、左が西です。鬼門は丑寅(うしとら)と言ったり、深川の辰巳(たつみ)芸者と言ったりするのはその方向を意味しているのです。
古代中国で考えられ、日本に伝えられた十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されていました。戦国以降、日だけでなく、年・月・時刻や上の写真のように方位の記述にも利用されるようになったそうです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料============
(1)十二支の説明:
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%94%AF
(2)世界各地の暦のきめ方:
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6
(3)江戸時代の年号と天皇の関係:
   http://pddlib.v.wol.ne.jp/table/table5.htm
(4)紀元2600年のいろいろな祝賀事業:
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E4%BA%8C%E5%8D%83%E5%85%AD%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A1%8C%E4%BA%8B

カトリック教会の元旦ミサ・・・神社への元朝詣りと同じようですが少し違います

2015年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝はカトリック小金井教会での元旦のミサへ行きました。
日本の元朝詣りの風習を尊重してその代わりになるように毎年元旦の朝にミサがあります。
家内安全、五穀豊穣を祈り、神の祝福を願うことは神社の元朝詣りと同じです。
しかしカトリックの特徴は全世界の教会がローマ法王のもとでお互いにつながっているので、どうしてもグローバルな視点で祈る内容もあります。今日、私は中東で、イスラム国との熾烈な戦いが早く終焉し、平和になるように祈りました。
そして教皇のフランシスコさんの言葉を考えます。「・・・家族や共同体を大切にしながら、それらを超えて、互いに関心を持ち、謙虚な心をもって大切にし合うことが、私達に求められています・・・」。そして平和の実現の重要さを話すのです。
フランシスコさんは庶民的な法王です。人間的で親しみを感じます。私は彼の言うことを真剣に考えます。カトリックとは普遍的という意味です。全ての人間にとって共通する重要な教えとしての福音を大切にします。そして全ての人間にとって重要な平和というものの実現を強く祈るのです。このことが神社の元朝詣りと少し違うことかも知れません。
元旦ミサはその他はいつもの日曜日のミサと同じです。聖書の朗読があり、神父さんの説教があり、聖歌を歌い、祈りがあります。そして最後にイエス様の肉体の代わりの聖なるパン片を頂いて終わります、1時間以上かかります。神社の元朝詣りは行列して30分位待つことがあります。お祈りは数分で終わります。こんなことも元旦のミサとは違うことかも知れません。
しかし元旦のミサは元朝詣りと同じような気分です。
私見を書いて失礼しました。下に今日の元旦ミサの写真を示します。

皆々様の幸多い年になりますようにお祈り申し上げます。後藤和弘

上の写真は主任司祭のディン神父さんが福音書を読んでいるところです。

上の写真は祭壇の上の葡萄酒を聖なる変化でイエス様の血になるように祈っているところです。

上の写真はディン神父さんが一人一人の信者へイエスの体と言ってパン片を手渡している光景です。私も頂いて食べました。