後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「なんとなく心が癒されるお寺のたたずまい」

2015年08月17日 | 写真
お寺は山門が開いてるかぎり、神社と同じで出入り自由です。誰にも断る必要がありません。誰かに会ったらお参りに来ましたと、ゆっくりと会釈します。
私の散歩ではしばしばお寺にぶらりと寄り、静かな境内を散歩します。先週も奥多摩街道が昭島市に入ってすぐのところにある大上山薬王院 觀音寺に入って、しばし静かな時を楽しみました。そこでは時がゆっくり流れます。
天台宗の東京教区の管理している裕福そうなお寺でした。このお寺は鎌倉時代末期から続く古刹だったのです。詳しくは、http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/8kannonji/にあります。写真で皆様も癒されることを願っております。












洗礼を受けたおかげで全ての外国人を大切に思うようになったー勿論、中国人も韓国人も

2015年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日はマリア様が天国へ昇った祝日でした。
私は1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父さまから家内と一緒に洗礼を受けました。
洗礼を受けても自分の悪い性格は一向に変わりませんでしたが、考え方が少しだけ変わったような気がします。
その一つはどんな国の人でも大切に思えるようになったことです。勿論、たまには憎むこともありますが冷静になるとそれは間違いだったと判るようになったのです。
例えば最近、中国人や韓国人の悪口を言う日本人が増えていますが、私は彼等を尊敬し大切に思っています。特に1980年代に中国や韓国を訪問し、彼の地のカトリック教会で一緒に祈った体験が私の信仰を強めてくれたのです。中国の教会は文化大革命で破壊され荒れ果てていました。椅子も薪にされ教会の中は荒れていました。その教会で中国人の信者達が膝まづいて熱心に祈っていました。それは感動的な光景でした。
私は外国に行くとその土地の教会や寺院を訪れるようにしています。そうするとその国の人々に暖かい親近感が湧いて来るのです。
これが洗礼受けたお蔭で変わったことの一つです。
ついでにもう一つ変わったことを書きます。
それは仏教のいろいろな宗派に興味を感じるようになったことです。
個人的な話になりますが、私の祖父はある山郷のお寺の住職でした。子供用の墨衣を着て村落の家々を祖父や叔父と一緒に訪ねてお経を詠んだ経験もしました。静かな本堂で祖父や叔父と共にお経を詠みました。
この宗教的な訓練がカトリックの洗礼を受けたあとも大変役に立っているのです。
そのような経緯なので私は仏教が好きです。その信仰のあり方に興味もあります。
日蓮宗などの鎌倉仏教の諸宗派にも興味があります。
真面目な新興宗教にも興味があります。
創価学会は日蓮宗系の宗派と縁を切り、寺院仏教から在家仏教へと変化したことにも興味があります。それは無教会主義のキリスト教の宗派と少し似ているようです。
そして生長の家という教団にも興味があります。
全ての宗教は同じです。宗教は違うからと言って争うのは止めなさい。そういう考え方は大変重要です。ネットの上でお付き合いをして頂いている生長の家の信者の方々はみんな善良で穏健な方々です。
洗礼を受けたおかげでいろいろな宗教を信じている人々が大切に思えるようになったのです。これも洗礼を受けたお蔭で変わったことの一つです。
今日の挿絵の写真はこの春に訪ねた遥か五島列島の風景です。カトリックではマリア様を大切にしています。少し観音様に似ている役目があるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





夏まっさかりの秋川渓谷の写真を撮って来ました

2015年08月15日 | 写真
立秋も過ぎたのに今日も暑さが厳しいですね。そこで多摩川上流のにある秋川渓谷に涼しそうに見える風景写真を撮って来ました。涼しそうに見えるだけでなく気温は都心より3度か4度は低い感じでした。清流の写真をお楽しみ下さい。

一番目と二番目の写真は秋川の支流の養沢に入ってすぐの所にある秋川渓谷最大の川遊び場です。駐車場が広大なのでこのように子供連れの家族で賑わっていました。



三番目と四番目の写真は秋川渓谷最大の川遊び場から遡った所にある国際マス釣り場です。マスをバケツでどんどん入れるので子供でも沢山も釣ることが出来ます。



五番目の写真はさらに養沢の上流にある古い屋敷の蔵です。この辺まで来ると急に静かな山郷になります。

六番目の写真は毛バリ釣り専用の川です。一日の入漁料は4500円です。哲学者のように考え込んでいる釣り人が川面を見て佇んでいます。(釣れなくて途方にくれているのかも知れません)。しかしその静かな姿は自然と一体になっているようで美しいと思いました。

七番目の写真はそこの管理事務所にあった水槽の中の岩魚です。釣り人の腕が良ければこういう岩魚が釣れるはずです。

八番目の写真はさらに上流で家族連れがバーベキューをしている風景です。

九番目の写真は養沢の奥にある蕎麦屋です。そこも家族連れで賑わっていました。
今日は沢山の家族連れが川遊びをして楽しそうな風景を見て私も幸せでした。40年前には私達もこのように遊んでいたものでした。
今日はきっと子供達にとっても忘れ得ぬ夏の日の思い出になったと思います。

「昨夜の安倍総理の談話と村山談話を比較してみる」

2015年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
村山談話はもう20年も前に発表されたので忘れてしまいました。そこで私はその全文をもう一度読んでみました。
全文は以下の通りです。
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)平成7年8月15日
 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。  敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。(終わり)
昨日、安倍総理は戦後70年にあたり談話を発表しました。
それに対してまだ健在な村山さんが昨夜4、大分で記者会見し以下のように乾燥を述べました。
戦後70年談話 村山元首相「村山談話継承の印象ない」
8月14日 21時03分
村山元総理大臣は、大分市で記者会見し、「ことばに配慮してずいぶん苦労して作った文章だと思うが、焦点がぼやけてさっぱり分からないという印象を強く持った。100年以上前に西欧諸国の植民地が広がっていたという内容を盛り込むなど、『植民地支配』や『侵略』の意味を普遍化、わい小化している」と述べました。
そのうえで、村山氏は「安倍総理大臣が本当に言いたいことはオブラートに包んで薄めたにすぎない。『村山談話』とはだいぶ中身が違うという印象で、談話が引き継がれたという印象はない」と述べました。(終わり)
私の感想は村山さんの感想と同じです。
誤解しないで下さい。村山談話を形式的には継承しながら、そろそろ別な道を模索するのも悪くはないと思っています。時代の変化を感じています。
それにしても今回の安倍談話は元ドイツのワイツゼッカー大統領の「荒れ野の40年」という有名な演説を連想しました。今回の安倍総理の談話は欧米人に理解され受け入れやすい表現になっています。
中国や韓国の保守的な人々には不満な内容ではないかと感じられます。
「荒れ野の40年」ワイツゼッカー連邦大統領演説全文(1985年5月8日)は以下にあります。
http://ameblo.jp/study2007/entry-10236801513.html。
長い演説なので一部だけを抜粋して示します。
・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべておりす。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
・・・・かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか—— このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)——われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。・・・以下省略。
今回の安倍総理の談話は先の戦争で日本がアジア諸国に与えた苦痛と惨劇を認めました。
しかしワイツゼッカー大統領のように具体的には説明しませんでした。
日本の政策の誤りを認め反省しています。欧米流に犠牲者へ心を寄せています。欧米ではそれで良いのです。全ての罪は個人が犯すものですから安倍総理が謝る理由が無いのが当然です。
しかし中国や韓国の古い文化では罪は個人のものでないのです。罪は民族が償いをすると考える人もいるのです。
ですから今回の談話はアメリカをはじめ欧米の諸国では良いと評価されます。
しかし中国や韓国は難癖をつけるでしょう。
それにしても安倍談話を気楽に批判した村山さんには驚きました。北朝鮮や中国では村山さんは即刻、粛清されるでしょう。
この自由な民主国に感謝しながら日本の風景写真をお送りします。山梨県の甲斐駒岳の山麓です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





鳥獣被害額は年間1000億円くらい!

2015年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
農林水産省ホームページによると日本の農林水産省ホームページ額は年間200億円弱といいます。
その内訳を見ると鹿と猪の被害が一番多いのです。
そして届け出ていない害獣被害を含めると被害額は年間1000億円と推定されています。
大切に育ててきた農作物が一夜にして食い荒らされてしまうのです。
この年間1000億円は大企業の年間利潤と比較するとそんなに大きな金額ではありません。
しかしこの被害は山間部の零細な農家にのみ偏って起きている被害なのです。
それがこの問題を一層深刻にしています。
それを救うのが鹿やイノシシの肉のジビエ料理の流行と言われています。
『ジビエ』はヨーロッパでは伝統料理として古くからある食文化です。
従来、害獣駆除は猟友会のボランティアに近い作業でした。しかしながら、それがビジネスとなるならば、報酬も変わります。山間地に人が戻ります。
そうすればイノシシや鹿が肉の流通ルートに乗るわけです。
しかしはっきり言えば鹿肉やイノシシの肉はよほど腕の良いシェフでなければ美味しい料理になりません。和牛のビフテキや、すき焼きは素人でも間単に美味しく出来ます。
私自身も山梨県の北杜市の精肉店から何度もイノシシや鹿の肉を買って来て食べましたが不味かったのです。ただ野生の動物の肉特有の風味があり、それが珍しくて何度か食べましたが最近は止めました、
写真はイノシシ鍋の写真です。
写真の出典は、http://action-now.jp/archives/1539です。
しかし害獣の駆除は狩猟者の高齢化により、追いついていない状況と言われています。
そこでハンティングそのものを楽しんでもらうための講座を開催したりして狩猟の普及に努力してる猟友会もあります。
以下は、http://econavi.eic.or.jp/ecorepo/eat/127#からの転載です。
よく猟師が減っていると言われますが、実際はどうなのでしょうか。まず、狩猟免許所持者数で言うと、30年前の約45万人に対して最近は20万人前後で推移しています。「確かに減っているけれども、このペースならあと30年くらい経っても10万人は残るのでは」と思われるかもしれませんが、それは間違いです。30年前と現在とでは猟師の年齢層がまったく異なり、猟師の高齢化が進んでいるからです。
 2007年度のデータによると、狩猟免許所持者約23万人中、60歳以上が約13万人、50歳以上まで含めると約20万人となり、50歳未満の狩猟者数はわずか3万人程度です。このままの状況であれば、20年後、30年後には狩猟者数が数万人になってしまうでしょう。
狩猟及び有害駆除で捕獲されたイノシシとシカの数を見てみても、30年前は合わせて10万頭程度だったのが、2007年度には44万頭にまで増えています。そして、これだけ捕獲しても被害増加のペースは一向に衰えません。・・・・以下省略。
問題の深刻さは、2007年度には44万頭も駆除しても被害増加のペースは一向に衰えないことにあります。
そして現在、有害駆除で捕獲された動物の多くは焼却・埋設処分されています。その方が残酷でないという考えです。動物愛護運動の人を納得させるためです。
これは非常に問題で、若い人が狩猟の免許を取るのを止める原因になっているとも言われています。駆除したらその動物に感謝して食べることが動物愛護ではないでしょうか?
世の中には不思議なことがあるものですね。

狩猟の趣味の実態を知り、皆で考えよう

2015年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の西、甲斐駒岳や八ヶ岳の麓に広がる北杜市では近年、イノシシや鹿や猿が急増し、農作物の被害が深刻な問題になっています。私はそこに小さな山小屋を持っているのでもっと猟師に獲ってもらいたいと思っています。ところが狩猟を趣味にする人が減る一方で農作物の被害はますます増えています。そこで今日は狩猟のことを考えてみます。
歴史的にみると欧米の狩猟の趣味にはいろいろなルールがあり、ハンテイングというスポーツとして上流階級の人々が楽しんでいました。誰が見ていなくてもルールを守り、猟犬をつれ猟銃を持って鹿やイノシシを撃つのです。
その一方、生活のための食糧を取る狩りには、その手法にはルールがありません。取れるだけ取るのです。これが趣味の狩猟と生活の糧を得るための狩りの違いでした。
ところが現在の日本で獣害が増えすぎたので狩猟にはもう一つの目的が加わりました。林業や農業の鳥獣被害を防ぐための害獣の駆除という重要な目的が加わったのです。
しかしこの害獣駆除は動物愛護運動をしている人々の反対する行為です。そこで行政は駆除する数を制限して動物愛護と害獣駆除のバランスをとろうとしています。
しかし狩猟をする人が高齢化で減少してしまっているので害獣被害はおさまりません。
仕方なく罠や電気柵で害獣の被害を小さくしようとしていますが、今度は人間が犠牲になります。
そこで狩猟の現状を知り、害獣被害と動物愛護の問題について理解を深め、冷静に考えてみたいと思います。
まず狩猟を趣味にしてきた人の手記をご紹介します。その人は青森県に住んでいるKGさんという方です。狩猟を趣味にして30年以上にわたりイノシシや鹿の銃猟をしていた方です。
=====GKさんからメールで頂いた手記========
日本での狩猟はほとんどは生活の糧を得るための狩でした。個人もありましたが、村単位、地域単位が多かったようです。銃猟が主でした。
私が何故狩猟を趣味にしたか?その経緯を少しお話しします。
子供の時より狩猟に憧れていたため、30歳後半で家族の同意を得て始めました。
警察へ申請に行くと「貴方のような方は鉄砲などせず、ゴルフをやりなさい」と言われました。職場では接待ゴルフのように役に立たない事は知っていました。接待狩猟は聞いた事がありませんね。
それでも始めました。
元いた職場に先輩がいたので、その方の生徒になりました。
その方は鳥猟で、セッター種の猟犬を飼っていました。叔父の知人だったので親切に教えてくれました。
銃の安全装置は全く使用せず、脱苞と装填時期だけ厳しく言われました。要は弾を入れるな、必要なければ直ぐに抜け、です。
犬が獲物の位置をポイントしてから弾を入れました。鉄砲の腕前は射撃場でスキートをやれと言われました。マナーも身に付くから射撃場へ行けと言われました。
これがハンターの基本です。法を守る、マナーを守るはハンター以前の事です。
禁鳥は撃たない、雉は飛び出してから撃つ、畑で見えた雉は絶対に撃たない。鴨が池に浮いているのは撃たない。たまたま兎が出ても撃たない。メス雉は撃たない。
農家の人がいたら必ず挨拶する。許可なく耕作地に入り狩猟しない。その他を5年間みっちりと教えられました。
スポーツであるからには規則があり、窮屈なものです。しかしどの項目も守らなければならない狩猟の基本です。
ところが一方、日本の狩りは農家や林業の人が農閑期に仲間と始めたことです。地主さんがパトロンになり犬を飼育し、田畑を荒らす獣を捕獲しました。
それが一般化し本業のような猟師も出てきました。猪を一頭獲れば料理屋や旅館に売ります。獲物の分配はそのグループ毎に決まっています。獲物を見つけた人は肉が増量されます。
そして、よく訓練された自分の猟犬も連れて行かねばなりません。
昔は無線機がなかったので、旗で合図しました。向かいの山へ勢子長がのぼり旗で命令したそうです。のんびりした猟ですね。
勢子長が鉄砲を撃つ場所の「矢場」を決めます。新人は逃がしても次の者が撃てる場所とか、ほとんど来ない所とかいろいろ配置を考えます。
昔は金が目的で、このイノシシ猟をやりました。逃がしたら何万円も逃がしたのと同じですから、みんな必死でした。私も逃がした時は白菜と米を勢子長の奥さんに渡しました。
この頃貰った猪肉は石鹸1個ほどの大きさでした。ベテランは数倍の肉をもらいます。私が初めて命中させた時はロース肉を石鹸箱2個ほど貰いました。
都会のハンターは地元の猟師を卑しむようですが、ハンターは町の道楽者です。
さて話は北海道の猟に変わります。
増えすぎたエゾシカ猟の狩人はアイヌの末裔が多いのです
彼らの猟と内地から行ったハンターは本質的に違います。土地の猟師による鹿狩りは食べるための狩でした。肉や熊の胆を売るためでした。
内地のハンターは高価な銃とスコープそして服装です。土地の者をガイドに雇います。1匹獲れればボーナスを与え、皮剥ぎや精肉を彼らに請け負いさせます。そして温泉に浸かり、また都会へ帰って行きます。
少しベテランの連中はガイドになります。資格なんてありませんから「僕、ガイド」と言えばなれます。弾道力学を少し勉強し、お客を案内し、エゾシカを見つけて客に撃たせます。
ガイドは肉を売ります。土産のないハンターは肉や角を買います。これに味を占め、ガイドが肉屋を始めます。原価は500円位で、何十万円の鹿肉は自然が供給してくれます。以下省略。
=====手記の終わり==================
これが日本の狩猟の趣味の実態なのです。
狩猟は高尚な趣味ということからほど遠いのが日本の狩猟界の現実です。
上のGKさんの手記を読むと銃猟の猟師になるには何年間も修行しなければなりません。その上、自分の猟犬は手塩にかけて大切に育てなけらばなりません。狩猟の趣味は一朝一夕に始められる手軽な趣味ではないのです。
ですから若い人はこの趣味をしません。後継者がいなくなるのですから害獣駆除は進まないのが現状です。
その一方で、地方に行くとイノシシの肉や鹿肉を売っている店があります。エゾシカの肉はインターネットで買えます。イノシシの肉もインターネットで購入できます。かなり高価です。
現在の日本の狩猟はイノシシと鹿の肉の売買という商業活動と害獣駆除とが重なり合って複雑な問題なのです。
駆除だけを目的にして鹿やイノシシを買い上げて、廃棄処分にしている自治体もあるようです。しかし食べられる肉まで廃棄処分をするのはどのように考えたら良いのでしょうか?
これらの問題について動物愛護運動をしている人々はどのような意見を持っているのでしょうか?難しい問題です。
最後に山梨県の西、甲斐駒岳や八ヶ岳の麓に広がる北杜市の写真を示します。
下の写真は釜無川の七里ケ岩の崖の上から見た北杜市の武川町の近辺の風景です。

上の写真の右の方に写っている峰が甲斐駒岳です。
この地区に下の写真のようなイノシシの大群が棲んでいるのです。

鹿も猿も多数棲んでいます。

上の写真は有名な武川米の水田が広がっています。しかしイノシシは水田をあまり荒らさないようです。
イノシシや鹿は畑のジャガイモ、スイカ、トマト、トウモロコシなどを徹底的に食べます。一夜にして農作物が根こそぎ食べられてしまうのです。

上の写真は以前は畑だった場所です。畑作を止めたので自然の野原になりました。それを都会から移住した人が借りて花を植えたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

明治維新以後78年の戦争の時代と戦後70年の平和の時代の比較(3)

2015年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
明治時代とはどんな時代だったのでしょうか?このような大問題を取上げても私には書きようがありません。
しかし見聞きしている明治時代の断片を少し考えてみます。気楽な感想文ですから本気になさらないで下さい。
よく教科書などには明治天皇は偉大であったので日本の近代化を指導し大日本帝国を作り上げたと書いてあります。そして地方のあちこちに行くと明治天皇行幸の宿泊所や休憩所には大きな記念碑が立っています。
明治時代は確かに日本の近代化に貢献し、日本が欧米の植民地になるのを防いだという事実は大変大きく評価されるべきです。
しかし薩長土肥の独裁的な明治政府の圧政で苦しんだ人々も多かったのも事実です。
その一端は町田市自由民権資料館を訪ね、その展示物を丁寧に見ていけば分かります。(http://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/cul/cul03/jiyuminken.html)
この立派な建物の展示館は明治時代の初期の町田市と東京の多摩地方の農民の政府の圧政に対する反対運動に関する資料を蒐集し展示してある資料館です。
明治政府は近代的な軍備を欧米から急いで購入するために東京の近くの農村に重税を課し、山林を開墾し農産物の増産を強制したのです。
それに反発したのが多くの小作人を抱えた武蔵野と相模平野の地主たちでした。その関連で秩父困民党の蜂起などが起きたのです。
この明治初期の農民による騒動は江戸時代の農民一揆と同じ性質のもので、板垣退助の自由民権運動とは程遠い性質のものでした。勿論、武蔵野と相模の農民騒動は板垣退助の自由民権運動に刺激を受けたのは事実でしょう。それなのに町田市は資料館を自由民権資料館と呼ぶのは間違いではないかと私は感じます。
本当の意味で日本に自由と人権の貴さが根付くのは戦後70年の平和の時代になってからのことと私は考えています。
明治維新以後78年の戦争の時代とは薩長土肥の政治家と官僚が庶民の上に君臨していた時代です。農村では地主が小作人を搾取し、町の商店では主人が小僧を過酷に使い、ちょっとした家々には農村出身の娘たちが女中として働いていたのです。そのような社会が当然と考えられていた時代だったのです。そこには人間の自由とか平等などということは風に吹き飛ばされる羽毛のようなものだったのです。
そんなことを書きだせばキリがありません。その最終到着点が神風特攻隊なのです。
誤解なさらないで下さい。私は明治維新以後78年の戦争の時代を非難しようとは致しません。非難する資格もありません。それは歴史の必然として静かに受け入れています。
さて写真で明治時代の帝国海軍の写真を1枚示します。そして続く数枚の写真に明治時代の日本の軍備を支えた人々の生活のありさまを示します。
写真の出典は、C:\Users\Goto\Desktop\明治時代の日本の仕事風景(写真60枚)- ネタサイトZ.htmです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)












明治維新以後78年の戦争の時代と戦後70年の平和の時代の比較(2)

2015年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以後78年の戦争の時代の終点は日本の敗北で終わりました。樺太、満州、朝鮮、台湾を失い大日本帝国は瓦解したのです。
そして戦後70年の出発はアメリカ軍の徹底的な空襲による焼野原からです。全国の都市が完全に焼野原になりました。そこから戦後の70年が始まったのです。下に一例として仙台市の焼野原の写真を示します。

仙台空襲について仙台の新聞の河北新報は 7月10日(月)に次のように報じています。
・・・・1945年7月10日午前0時3分から2時5分まで、米爆撃機「B 29」123機が攻撃。912トン、1万2961発の焼夷弾を投下した。死者1399人、負傷者1683人。 主に仙台駅西側の約500ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1900戸に上った。・・・・・
私は小学3年生でした。仙台市が燃え上がっている光景を向山の高台から朝まで眺めていました。
戦後70年経過して、この焼野原だった仙台は美しいビルが建ち並ぶ街になったのです。下に2010年10月に青葉城の城跡ら撮った写真を示します。

このような例は全国に見られました。日本は文字通り廃墟から立ち上がってのです。
70年間の復興と経済の成長はいばらの道でした。皆が食糧難の中で歯を食いしばり必死に努力したのです。1964年に東京オリンピックがあり、やっと一息つけたのは1970以後のことでした。私は1958年に大学を卒業し、アメリカの大学へ留学し、必死で勉強しました。
勉強と言えば当時の会社の技術者たちも外国の専門書を夜遅くまで読み、先進技術の導入に努力していたのです。それは凄まじいまでの勉強でした。
この技術者たちの努力のお蔭で日本の工業が隆盛したのです。
1990年代と2000年代は日本は本当に豊かになり、平和が続きました。
しかし運命はまた暗転します。2011年3月に起きた東日本大震災で東北地方と関東の海岸に近い市町村が津波で流れてしまったのです。それは壊滅的な大津波でした。
その上、福島第一原発の原子炉が4つも爆発してしまったのです。
これは戦後70年における一番大きな悲劇でした。
アメリカ軍をはじめ世界各国から救援隊がやってきました。これには私も非常に勇気づけられました。明るい希望の灯が燃え上がった思いをしました。
そして、今日は2年間近くも完全に停止していた原発が、九州の川内で再び動きだしたのです。
それは技術者の立場から見ると輝かしい復興です。
しかしNHKの世論調査では48%が再稼働反対で、賛成者は17%だったと言います。
日本は多数決が原則の民主主義の国の筈です。不思議な気分です。
私自身は危険な老朽原発を順々に廃炉にして行き、最終的に原発はゼロにすべきという意見です。詳しい理由は今日は省略します。
しかし今日の新聞を見ると政府は再稼働の原発を増やし、電力の20%前後を原発で賄うようなことが書いてあります。
これで日本の安全と平和が本当に保たれるのでしょうか?
その答えは誰も分かりません。将来の歴史を待たなければ正解が出ません。
これが戦後70年の平和の時代の一齣なのです。
下に仙台の焼野原の写真と2010年10月の仙台の青葉城址から撮った写真をもう少し示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







北海道の広大な別海町の終戦直後と現在の風景の比較ー日本は豊かになった!

2015年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後70年。日本は本当に豊かになりました。物も人々の心も豊かになったのです。
そのことを忘れず感謝の気持ちを持ちたいと思い、昨日、「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」という記事を掲載しました。
そうしたら戦前、戦後の頃の仙台の貧しげなようすに吃驚しました。仙台という都会ですらこうなのですから地方の様子はどうだったのでしょうか?
そう考えていたら、趣味人倶楽部の「でいしゅうさん」が別海町の終戦直後の風景写真をお送り下さいました。そこは2012年に観光旅行に行って、その美しい牧場の風景に感動した所です。
今日はその別海町の終戦直後と現在の風景を比較して見ようと思います。
北海道の東部に広がる別海町は海岸には野付半島があり、内陸は牧草地が広がり、ヨーロッパの農村風景を連想させている美しい場所です。
この別海町では酪農が盛んで、全国1位の生乳生産量です。年間生産量は43万tです。
そして海岸部の本別海、尾岱沼等ではサケ、アサリ、ホタテ、ホッカイエビなどの漁業が盛んです。
先日の8月3日には海岸部の野付半島をご紹介しました。それは「荒涼たる北海道、野付半島と遥か沖に浮かぶ 国後島」と題する記事でした。
今日は内陸部の牧草地帯の現在と、でいしゅうさんに送って頂いた終戦直後の開拓時代の風景写真をお送りしたと思います。
まず2012年の9月の旅の折りに撮った現在の写真を4枚示します。

広大な別海町を車で走っていると次々とこのような牧場の看板が出て来ます。牧場の建物は入り口から遥か奥の方に小さく見えます。

偶然、通りかかった道産馬の牧場です。開拓のために活躍した重量馬の子孫です。

牧草地が広がり端は緑豊かな森によって区切られています。このような森を開拓して牧草地に変えていったのです。

写真の白い包みは、トラクターで牧草を刈り取って、圧縮してビニール布で丸めた巨大な塊です。こうして牧草を貯蔵し、発酵させてから乳牛に食べさせると消化が良いそうです。
さてこのように美しい景観の別海町の終戦直後の風景はどのようだったのでしょうか。
下の4枚の写真でその様子を示します。

この小屋は終戦後に入植したある農民が住んで居た家です。冬の寒さの厳しさが偲ばれるような密閉した作りになっています。

上の写真は道産馬で牧草地を耕している光景です。人間は馬の引く犂の上に座っています。

上は生産された多量の牛乳を缶に入れて道産馬に引かせて牛乳の殺菌工場へ運んでいる様子です。別海町には昔から雪印や森永の牛乳処理工場があったのです。

別海町には現在は廃線になりましたが鉄道がありました。上の写真は終戦後も長期間、活躍したガソリンカーの写真です。戦争中の昭和16年に導入されたようです。
戦後70年、日本の都会の風景も変わましたが、地方の農村風景も様変わりしたのです。
上に示した終戦後の4枚の写真についていた、でいしゅうさんの説明文を、許可を得て下に掲載いたします。
「別海町の住民期間は2年間です。此処の歴史を訪ねたりしました。
野付半島の砂嘴には幻の町「きらく」があったそうです。今でも茶碗の欠片がたくさんあります。しかし安物の陶器です。アイヌの城塞もあり矢じりなども出土しています。
興味があったのは、植民鉄道です。最初は馬力で、その後はディゼルカーで運行していました。当時のレールは家畜競り市の屋根とかバックネットになって残っています。鉄路の跡もわかります。間もなくその跡も、記憶もなくなるでしょう。現在は国道の橋に跨線橋の名前が残っています。そして廃線になった国鉄線も残っています。
戦争中の掩体壕跡、B29のプロペラも面白いですね。
すべて「別海町百年史」よりの受け売りです。
文化的なものは何もありません。私の好きな刀剣もありません。
歴史的なものも壊しています。昔の町には馬を繋ぐ輪があったそうです。何も残っていません。
浜に行けば内地の漁師の仮小屋の残骸があるだけです。アイヌの痕は何もありません。内陸部は牧場に代わり「新酪農計画」で牧草のみが茂っています。」
さて北海道全体を見ますと牧畜だけでなく、富良野には香水の原料にするラベンダーの花畑が広がっています。その上、北海道の米の生産量は全国1位なのです。( http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/05.htmlより)
このように農業が盛んな北海道でも終戦前後と現在の風景は大きく変わったのです。

それにしても日本は本当に豊かになったのですね。貧しかった頃を体験している人々にとっては感慨無量と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


少数意見ながら真面目な技術者による原発擁護論をご紹介いたします

2015年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味人倶楽部というSNSのコラムで原発問題を何日間か議論しました。大変いろいろな立場の方々から多数の真摯なご意見を頂きました。
原発技術の素人も専門家も一緒に議論しいてみると、それぞれの知らなかった事柄が明瞭になり、お互いに理解しあえます。
そして過激な感情論が少なくなり、より建設的な意見に変わっていきます。それこそが節度ある討論で得られる貴重な成果です。
全体的に見ると原発を擁護する方はごく少数でした。私を含めて大部分の方々が原発は廃止すべきというご意見でした。
しかし、こうじさんという方から頂いたご投稿は真面目な技術者としての真摯な擁護論でした。自分の利害を離れて日本の将来を誠実に考えたご意見です。
彼の投稿を高く評価しているのは原発技術の現状を正確に描いているからです。
彼は原子力工学を専攻したに違いありません。原発で働いた経験がありませんがその現場の友人から詳細な資料を貰って来たようです。考えるべき問題を多く含んだご意見なので本人の許可を得て、このブログにてご紹介することにしました。
お読み頂けたら嬉しく存じます。
文中にある日本製鋼室蘭製作所は私も訪問しました。彼の書いたことは正確な事実です。
以下の文中にある(  )内の言葉はより分かりやすくするために私が書き足した部分です。
===こうじさんいよる穏健な総括です========
こうじさんから 2015/08/08 08:01に頂きました。

原発に反対されてる方の意見、良く理解できます。本当に事故が起これば危ないです。日本のような狭い国土に54基もの原発がありますから、もう逃げ場所はないと言っても過言ではありません。因みにあの広い国土を持つロシアの原発は27基ですから、如何に日本が原発に依存しているかお分かりでしょう。
雰囲気的には、原発反対派が7割、賛成+容認派が3割。で、私も賛成とは申し上げましたが、正確には容認派です。現在の原発は危ないです。40年~50年前の設計の原発がゴロゴロしてます。こんな古年式の原発は、即刻廃炉にすべきです。特に関西電力は経営方針が東京電力に近いと私は思います。琵琶湖が汚染されたら京都、滋賀、大阪の方は大変困ります。
現在、日本の原発は2種類あります。合わせて沸騰水型軽水炉と加圧水型軽水炉。福島第一は前者で、スリーマイルは後者。一長一短がありますので、安全性は一概に言い切れません。

私は原発関係者ではありませんが、友人が原発の担当者です。現在、私の手元には公開された原発関係の資料が沢山あります。フクイチの事故直後の資料が多いので少々古いのですが、事故原発事故はもちろんのこと、原発の構造、放射能、放射性物質による被曝、各種データ、どこから話して良いのかも分かりません。仰るようにヒューマンエラーは今後も起こりえます。ただ現在の原発は、人間によるミスをカバーできる自動制御システムにはなっております。
ヒューマンエラーの代表的な原発事故はスリーマイルとチェルノブイリです。ミスが連続したチェルノブイリの事故は悲惨でした。そして内陸部のヨウ素不足の子供達が、ロシア政府が原発事故を隠したため、放射性ヨウ素131で汚染された牛乳を飲み続け、そのまま野菜も食べたため内部被曝しました。それでも、複数の国際機関の報告書では白血病を含め健康への影響は認められていないという結果が出ております。
福島で海に洩れた放射能は過去最悪に匹敵しますが、イギリス中西部セラフィールドの核燃料再処理工場では長期にわたり流出が続き、福島以上の過去最悪の事例と言われてます。近くにあるシースケール村の子供で、白血病の高い発症率がみられましたが、それでも全く関係の無い地域の方が白血病に罹った子供が多く見られ因果関係が否定されました。

日本製鋼室蘭製作所(戦艦、武蔵や大和の主砲の砲身を作った会社)は世界一の圧力容器メーカーで、そのシェアは、実に世界の8割以上です。この会社が潰れると世界中の原発が止まります。一時期、ロシアの買収騒動がありましたが、日本は官民一体となって防衛いたしました。
(ウラン燃料の塊を作る)造粒機の市場規模は決して大きくないですが、大型造粒機は、ダウケミカルや三井化学など、認証を受けた企業しか作れない。世界の年産台数はせいぜい数十機程度だが、1機の価格は軽く10億円を超えます。世界中で日本製鋼所、神戸製鋼所、独コペリオンの三社しか作る事ができず、アメリカ、ロシア、フランスですらお手上げです。
「原発銘柄」と株式市場からもてはやされた日本製鋼所ですが、シェールガスへのシフトチェンジが今一ですから、アメリカでは再び脚光を浴びそうです。
最後に私の言いたいことや要点を纏めますと、古い原発は即廃炉、せめて頭に「改良型」と付くものにして欲しい。
そして最も重要なことは、冒頭の54基もある原発の廃炉技術です。いま原発の新規開発を放り投げれば、スムーズな原発廃炉計画は頓挫してしまいます。
新しい原発を造るより廃炉・解体技術の方がはるかに高度です。いま日本はそれをやろうとしてます。世界中の原発心臓部(の圧力容器など)には日本の製品が使われておりますから責任重大です。やってしまった事から、今更逃げる訳には参りません。
放射性物質の除去方法ってご存じですか?酸やアルカリなどの薬品を使って、容器や配管を洗浄したりします。機器やコンクリート壁は表面を機械的に削って放射性物質を取り除きます。ネックは放射線量の低下を待つ安全貯蔵期間です。要するに数年間の自然放置。危なくて近づけませんからね。現在の技術では驚くほど原始的な方法しか無いのです。
圧力容器には未知の物質も含まれているようです。尻込みせずトータル的な原発に関する高度な技術を取得しなければ、日本は汚染国家の烙印を押されてしまいます。
なかなか書けませんでした。

長崎の原爆犠牲者の鎮魂をお祈りいたします

2015年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
70年前の今日、長崎にアメリカ空軍によって一個の原子爆弾が落とされました。
そして74000人が一瞬にして犠牲になったのです。
原爆は浦上天主堂の上で爆発し、この浦上地区を壊滅させたのです。
爆心地である浦上地区は長崎市中心部から3kmと離れています。
その中心部は金比羅山など多くの山による遮蔽があったため被害は軽微だったそうです。
広島市の場合と異なり県や市の行政機能は全滅をしませんでした。
明治維新で隠れキリシタンが現われて信仰告白をした大浦天主堂も残ったのです。
しかし浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じように悲惨な状況だったそうです。
浦上天主堂では原爆投下時に告解(ゆるしの秘跡)を行っていました。司祭の西田三郎神父と玉屋房吉神父を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死しました。そして原爆の悲惨さを書いた本を出した永井隆博士の働いていた長崎医科大学でも多くの入院患者や職員が犠牲となったのです。

この長崎の原爆投下の日にあたり原爆の全ての犠牲者のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
そしてこの世界に真の平和が来ますようにお祈り申し上げます。


この長崎の原爆投下はキリスト教の国、アメリカの空軍によって行われたのです。その結果、浦上天主堂で祈っていた神父さまや信者さんが残酷な死に方をしたのです。
戦争が起きてしまえば宗教なんか一片のちりのように吹き飛んでしまうのです。この悲しい現実を毎年8月9日になると考えます。私はカトリックなので暗い気持ちでこの一日を過ごしています。
それはそれとして、長崎の全ての犠牲者の鎮魂のために美しい百合の花の写真をお送りします。宮城県の栗駒高原にある一迫ユリ園の写真です。
===参考資料============
(1)長崎の原爆投下の詳細:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B
(2)一迫ユリ園の写真は最後の3枚だけです。その最後の3枚の写真の出典:
「C:\Users\Goto\Desktop\南くりこま高原一迫ゆり園 東北を見る・知る・楽しむ魅力発信サイト Do東北 DoTohoku.htm」
他のいろいろな写真は:「C:\Users\Goto\Desktop\南くりこま高原一迫ゆり園 ゴージャスに咲き誇るユリの花.htm」 にも御座います。











北海道、富良野の富田ファームのラベンダー畑の美しさ

2015年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の魅力の一つは富良野の富田ファームのラベンダー畑の美しさではないでしょうか。 1932年(昭和7年)に生まれた 富田忠雄さんが一生をかけて作りあげた花畑です。
この広大な花畑のお蔭で富良野市は全国的にも有名な観光地になったのです。
私どもも何度か行きましたが、なだらかな丘に広がる色とりどりの花畑に心を奪われてしまいます。それは本州では見られない風景です。
自分でも写真を沢山撮りましたが、出来の悪い写真です。そこで写真の上手な方々の作品をお借りさせて頂き、以下にお送りいたします。写真の出典のURLはそれぞれの写真の下に明記いたしました。

http://polaris-t.seesaa.net/archives/20110718-1.html

http://polaris-t.seesaa.net/archives/20110718-1.html

http://blogs.yahoo.co.jp/hotaru_tabi/56309062.html

http://ameblo.jp/1781-keizou-1781/entry-11292691311.html
さて富良野に行って感激することは美しいラベンダー畑に入場無料で自由に散策出来ることです。畑の中の小道を歩き回るとラベンダーの高貴な香りが風にのってきて体が香水に包まれるような気分なるのです。
この畑は、1897年(明治30年)に忠雄の祖父、富田徳馬さんがこの中富良野の原野に鍬を入れたのが始まりでした。
その孫の富田忠雄さんは1958年(昭和33年)に結婚し、念願だったラベンダー栽培を、妻の幸子さんと本格的に開始したのです。その時の畑はたった10アールだけのラベンダー畑だったのです。
そして1965年(昭和40年)には 7年も苦心して、ラベンダー畑を1.2haに拡大したのです。
下にその頃の富田家の写真をしめします。

そして、1970年(昭和45年)には香水の原料としての ラベンダー栽培がピークを迎えたのです。
富良野地方全体で230ha以上、約250戸の農家がラベンダー栽培を手がけていたのです。
その頃の北海道全体(大半が富良野地方)のラベンダーオイル生産量は5tを記録しんました。
この順調なラベンダーの栽培の運命が暗転したのはその2年後でした。
合成香料の急激な技術進歩と貿易の自由化による安価な輸入香料の台頭で、香料会社のラベンダーオイルの買い上げ価格が下がったのです。
採算がとれず、これから最盛期を迎えるというラベンダー畑を、涙をのんで株ごとすきこんでいった農家も少なくなかったそうです。
この時、日本のラベンダー畑は富良野地方だけにを残ったのです。
1973年(昭和48年)になると 香料会社はラベンダーオイルの買い上げを中止します。
当然、富良野の丘を彩っていたラベンダーのほとんどが姿を消えてしまったのです。
富田忠雄さんだけは諦めませんでした。 「ラベンダーをなんとか作り続ける道はないものか」と、稲作で生計を立てながら、再生の道を模索する日々が続いたそうです。
そんな折りの1976年(昭和51年)に富田さんの ラベンダー畑が国鉄のカレンダーにより全国に紹介されたのです。そして次第に観光客が訪れ始めるようになったのです。
それに勇気づけられた富田さんは1980年(昭和55年)に 独自に蒸留を始め、ラベンダーオイルの抽出に成功したのです。そして 初めての香水「フロム」を委託製造し、販売を始めたのです。下にラベンダーオイルの抽出装置の写真を示します。

さらに1984年(昭和59年)には 化粧品製造業の免許を取得し、オリジナル香水「フラノ」を製造するようになりました。
その上、1987年(昭和62年)には 石けん製造業の免許を取得し、オリジナル石けん「ソープラベンダー」を発売します。
1989年(平成元年)は事業が順調なので 稲作をやめ、ラベンダー・ハーブ・花卉の栽培、加工及び販売に専念するようになります。
このような富田忠雄さんの努力にはフランス人も感動します。
1990年(平成2年)に南フランスのラベンダー生産者組織から、ラベンダー栽培の功労者に贈られる称号「オートプロヴァンス・ラベンダー修道騎士」を授与されたのです。
そして2003年(平成15年)には 天皇皇后両陛下が御来園なさったのです。
このような富田忠雄さんの苦難にもめげない一生の詳細は、http://www.farm-tomita.co.jp/history/ に出ています。
以上のような富田忠雄さんに関する話は初めて富良野に行ったとき知りました。
それ以来いつかネットの上でご紹介しようと思っていました。
富田さんの努力を知った上で北海道のあちこちの広大な花畑を見ると感動が深くなります。それぞれの花畑の陰にはいろいろな人生があるのです。そして多くの人々は富良野の富田さんの成功に勇気づけられたことは想像に難くありません。
今年も富良野には美しい花畑が広がっていることでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

首相も「侵略」を明確に認めよー過去への反省と謝罪が欠かせぬ

2015年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この表題は今朝の読売新聞の社説の題目です。私が書いたものではありません。
そしてその読売新聞の一面のトップには、「侵略」に「痛切な反省」-有識者懇談報告に明記という見出しが太文字で大きく印刷してあります。
その上、一面左側には、対アジア「侵略だった」-中曽根元首相が寄稿という見出しも大きく出ています。
今迄、読売新聞は安倍政権の応援団のような記事が多かったのです。私は吃驚してしまいました。
そして中のページでは有識者懇談報告の内容を詳細に解説してくれています。
これらの膨大な解説から以下の3点を明記したいと思います。
(1)有識者懇談会のの座長は西村泰三日本郵政社長です。そしてメンバーは机上の空論をもて遊ぶ左翼系の学者がおらず、常識人ばかりのようです。
(2)「侵略」と言う言葉の定義を下記のように明確にした上で日本のしたことは侵略だったと結論をしています。
定義:「歴史学者の間では、軍隊を送り込んで他国の領土や主権を侵害することを侵略と定義する」と明記しています。この定義は何も歴史学者でなくとも一般の常識です。
そして1931年の満州事変以後の日本の戦争行為をすべて侵略と言っています。
その上、30面には中曽根さんの寄稿を掲載していますが、その見出しは「まぎれもない侵略行為」と太字で出ています。
(3)そして10面には、「おわび、国益損なわない」とか「侵略は認めるべきだ」とか「戦争の反省世界に示して」などという大きな見出しが踊っています。
私個人は有識者懇談報告の内容に賛成です。内容は当たり前の常識です。
しかし、これらの記事を見て私は二つの感想を持ちました。
一つは、今迄安倍総理を支持してきた読売新聞が手のひらを返したような態度で安倍さんの苦境を作り出していることです。もう少し節度のある書きようがあるのはないでしょうか?
何時もながらマスコミの節操の無さに呆れるばかりです。
もう一つの感想は情報公開のこの民主国家に生きている幸せをしみじみ感じています。
有識者懇談報告は安倍さんへ対する報告書です。これが独裁国家なら、内容は一切秘密にします。安倍さんがどのように取捨選択するか一切秘密です。もし秘密を洩らせば粛清されます。
安倍さんが戦後70年談話を発表する前に公表したのですからこの日本では情報公開の原則が行き届いているのです。有難いです。しかし一方では戦後70年談話を発表する前に公表したことは安倍さんに対して失礼ではないかとも感じています。安倍さんの発表後に公開するのが礼儀ではないかと感じています。内容そのものは常識的で大騒ぎするほどのものではないと思います。
大騒ぎをした新聞の影響を静めるために今日の写真は昨日撮った宮ケ瀬湖の静かな風景写真をお送り致します。宮ケ瀬湖は神奈川県の丹沢山系の中腹にあり横浜や川崎の水源になっています。湖岸には広大な美しい公園があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










今日は広島の原爆被害者の追悼日

2015年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は広島の原爆被害者の追悼日です。テレビでは安倍総理の追悼の言葉が流れています。そして核兵器の廃絶を祈る日です。
しかし広島や長崎の追悼式は核兵器廃絶へ殆ど影響を与えていません。末尾の参考資料に示すように、現在世界には総数16400発もの核兵器があります。
そのうち4180発が運用状態にある「配備核」です。そして米ロ合わせて約1800発が数分で発射可能な一触即発の状態に置かれているのです。
この状態は絶望的です。
しかし私は強く信じています。
広島と長崎での原爆による死者への追悼式は核兵器の廃絶に効果は無くても、核兵器使用の禁止へは必ずや効果があると信じています。
追悼式典にアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、そして中国の政府代表者を招待し核兵器の非人道性を理解してもらうことが核使用の禁止への効果があると信じます。
幸い最近はアメリカの大使が出席するようになりました。今日もケネディ駐日大使が出席し、さらにゴットムラー国務次官も出席します。今回は過去最多の100ケ国の主に民間の人々が出席するそうです。それにしてもアメリカ以外の、ロシア、イギリス、フランス、そして中国の政府代表者は出席しているのでしょうか?日本のマスコミはそのことを殆ど報道していません。
日本はもっと核保有国の政府代表を熱心に招待して、広島や長崎での追悼式の様子を外国で報道するように働きかけるべきと思います。
そして核兵器を実際に使用したら国際的に強い非難が出るような国際環境にすることが非常に重要なことと思います。
すでに核兵器を保有している国は絶対にそれを放棄しないのです。過去の核軍縮が効果を上げていないのを見ればそれは明瞭です。ですからこそ核兵器の廃絶よりも使用禁止の心理状態を作り出すことがより現実的な有効な方法ではないでしょうか?
その上非常に危険なのは北朝鮮と中国の核兵器です。国際関係の常識を重要視しない国なので国際世論など気にしないで使いかねないと警戒すべきです。
中国と言えば核戦争に対する防空壕が備えてあるのです。
1981年から私は数年間にわたって北京や瀋陽を何度か訪問しました。何時も大学の立派な地下室で美味しい中国料理をご馳走になったのです。それは地下3階以上の深い立派な地下室です。聞くとそこの厨房が立派なので多種多様な料理が出来るので当時もよく使っていると言います。そしてそれは朝鮮戦争のときマッカーサーが原爆を落とすということで造った防空壕だと言うのです。その地下室に降りる階段は狭く、何度も曲がってついているのです。
当時は日中友好の時代でしたので日本人の私を地下壕のレストランへ招待してくれたのでしょう。その後、中国へ行った日本人に聞くと地下壕のレストランは知らないと言います。外国人をそこへ案内しないことにしたようです。
この体験は私に核戦争の危険性をひしひしと感じさせました。中国が核兵器の引き金に手を掛けないように祈っています。
広島の原爆犠牲者の追悼式から話がそれました。
しかし今日は原爆犠牲者のご冥福を心からお祈りします。
そして亡くなれた方々の心安かれと祈りつつ、現在の平和な農村風景の写真をお供えいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参上資料:世界の核兵器保有数=========
2014年の世界の核状況:http://kakujoho.net/ndata/nukehds2014.html
米国、2014年4月29日、核兵器数発表
国務省発表ファクトシート全訳
2013年9月国防省管轄下の軍用保有核数4804
4年間で削減された核弾頭数はわずか309
世界の核兵器2014年
国名  戦略核   戦術核   予備/非配備   保有核    総数
ロシア  1600    0     2700       4300    8000
米国   1920    184     2661      4765    7315
フランス 290    ─      ?        300    300
中国    0     ?     180        250   250
英国   160    ─      65        225   225
イスラエル  0   ─    80         80       80
パキスタン  0   ─    100-120     100-120   100-120
インド    0   ─    90-110      90-110    90-110
北朝鮮    0   ─   <10       <10        <10
合計(概数) 4000   180   6000     10100    16400
上の表は、FASのサイト(Status of World Nuclear Forces)にクリステンセンが載せているものです(2014年4月30日更新)。世界の核兵器は、実際に配備されているもののほか予備などを含む「軍用保有核」が約1万100発、退役して解体待ちのものを入れると、<strong>総数約1万6400発という推定です(米国が発表した2013年9月現在の米国の軍用保有核数は4804ですが、クリステンセンらはその後少数が退役し、現在4765と推定しています)。解体待ちの状態の退役核は、米国が約2500発、ロシアが約3700発です。米国は他に、核弾頭の芯の部分(プルトニウム・ピット)約2万個保管しています。
世界の「保有核」1万100発のうち、約4180発が運用状態にある「配備核」です。このうち、米ロ合わせて約1800発が数分で発射可能な「高い警戒態勢」(ハイ・アラート)状態に置かれていると、二人は見ます。両国の核兵器は、今も一触即発の状態にあるのです。英仏も、レベルは下がりますが、短時間で使用可能な状態の核兵器を維持しています。この4ヶ国を合わせると2000発近くになるこの範疇の核弾頭をなくすことが重要です。






原発は日本にとって本当に必要でしょうか?

2015年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、お暑いですね。
ところで、この猛暑で日本中がクーラーを使っていると想像出来ますが、それでも電力不足が起きないようです。
2011年3月の東日本大震災の後の何年間は夏になると節電運動をしていましした。
そしてその頃は原発が無いと電力不足が起きるから原発を止めるべきでないという主張がなされていたものです。
その上、原発を止めると経済的に不況になるという主張もありました。
それから日本のエネルギーを安全に確保するために多種多様な発電方法を設備すべきで、原発も絶対に止めるべきではないという主張もありました。
ところが現在は54基もあった原発が全て定期検査などの理由で停止しています。
それなのに電力不足は起きません。
株価が上がり、経済も不況どころかますます快調です。
一体、これはどういう理由なのでしょうか?
火力発電を増加させたので電力不足は起きないとは分かっています。
皆様は何故、政府が原発を再稼働させようとしているのか、その理由がお分かりでしょうか?
ご存知ならぜひお教えください。
原発を取り巻く経済環境も2011年とは随分変わったと思います。それでも原発は必要なのでしょうか?
東芝傘下のウエスチング・ハウス社が原発を製造しているから政府は止めないのでしょうか?お教え頂けたら感謝します。
写真は2011年に爆発した福島第二原発の惨状を示す写真です。