後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明治維新以後78年の戦争の時代と戦後70年の平和の時代の比較(1)

2015年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、日本にある77,000のお寺の3割から4割が消えて行く可能性があるというショッキングな内容の記事を書きました。その記事の題目は「日本から25,000のお寺が消えていく」というものでした。その記事を趣味人倶楽部というSNSにも出したら619人の方が読み、71人の方に拍手を頂きました。そしてコメントも22人の方から頂きました。コメントの全ては現在のお寺のあり方に批判的で消滅するのは当然であるという内容でした。お寺を弁護してもっと支援すべしというコメントが皆無だったのに驚いています。
数日前には安保関連法案の改正は善か悪かという問題を取上げました。これに対して趣味人倶楽部では数多くのコメントを頂きました。コメントの内容をみると賛否両論があり、どちらが優勢だという判断が出来ないのです。しかしこの問題は日本の平和維持に関する重要な問題であることは明らかです。
このような二つの問題を考えて行くと、どうしても時代の流れと人々の考え方の移り変わりを感じてしまいます。
そこで一つの時代区分として(1)1867年の明治維新から1945年の敗戦までの78年間の時代と、(2)敗戦後から2015年までの70年間という区分の方法を思いつきます。
前者は大日本帝国の時代で戦争に明け暮れした時代です。後者はアメリカによる占領と駐留が現在まで続く民主主義と平和の時代でした。
この二つの時代を比較すると人々の考え方が大きく変わった分野と、ゆっくりと次第、次第に変わって行った分野があることに気がつきます。
非常に大きく変わった分野は政治制度と教育制度です。いかし丁寧に観察すると制度は占領軍によって一挙に変わりましたが、新しい制度の運用の仕方は急には民主的には行われません。
明治時代以来の官僚主義がどうしても残るものでした。
それでよくアメリカの民主主義とは違うものが日本に根付いたと指摘されることがあります。
これは一つの例に過ぎません。どんな分野でも制度は一瞬で変わりますが、その運用の仕方や考え方は緩慢に変わるものです。
このようにゆっくり変わるのでその変化が見えにくのが普通です。
そこで明治維新以後78年の戦争の時代と戦後70年の平和の時代の比較をしてみると大きな変化が明瞭に描き出せると思います。
そうすると日本から25,000のお寺が消えて行くきざしは明治維新による檀家制度の廃止にあるとも考えられます。
しかしお寺と檀家の間の強い絆は急には消えません。江戸時代の檀家制度は無くなりましたが人々の考え方は明治、大正、そして昭和20年までは檀家制度の精神はみゃくみゃくと生き続けて来たのです。
この精神文化が本当に崩壊するには幾つかの原因がありました。
まず敗戦による精神文化への拒否反応と、生活苦からお寺を支援出来なくなりました。そして経済の高度成長による都市への移住が大規模に起き、村落の過疎化が次第に進行します。
財政的に弱体化したお寺は優秀な後継者も失います。資質の低い世襲の住職がうまれます。
実社会で訓練を受けていない住職が非常識な方法で金集めをします。
昔檀家だった家の若い家族がそれを見て、もうお寺さんとはお付き合いしたくないと思います。このように次第、次第に変化していく分野もあるのです。
そして安保関連法案の改正の問題も同様に人々の考え方が次第、次第に変わった結果に起きたのです。
平和を守りたいのは万民の願いです。その平和を守る方法に「軍備放棄、戦争放棄で守る方法」と「軍備強化による戦争を抑止して守る方法」の二つに大別できます。
明治維新以後78年の戦争の時代には後者の方法が最善と考える人が圧倒的に多かったのです。
それが敗戦で一変しました。占領軍の軍国主義否定の教育が徹底したのも原因になって、「軍備放棄、戦争放棄で守る方法」が最善だと考える人が圧倒的に多かったのです。
それなのにアメリカ軍基地の諸問題、アメリカの衰退の予測、中国の台頭と軍事力の巨大化などなどが複雑に関係しあって、次第に「軍備強化による戦争を抑止して守る方法」が良いと考える人々が増加してきたのです。
大変雑な見方をすれば、この変化を明治維新以後78年の戦争の時代への回帰とも言えます。
しかし以前は日本軍の海外進出による領土の拡大が目的でした。
今回の変化の方向には領土の拡大はありません。あくまでも戦争の抑止が目的なのです。平和の維持だけが目的なのです。
それが本質的に異なります。
それなのに日本共産党は安保関連法改正を「戦争法案」と宣伝します。周辺国は軍国主義の再来と誤解しかねません。日本共産党には困ったものです。
それはさておき、明治維新以後78年の戦争の時代と戦後70年の平和の時代の比較して変わらぬものとは何でしょうか?
いろいろありますが、それは日本の美しい風景です。写真にそれを示します。場所は山梨県北杜市の甲斐駒岳や八ヶ岳の山麓の風景です。7月に山林の中の小屋に行ったとき撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









日本から25,000のお寺が消えていく

2015年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事の題目を自分で書いてとても悲しい気分になっています。何となく慣れ親しんできたものがまた一つ無くなるということは淋しいものです。
しかしお釈迦様は諸行無常と教えました。お寺も例外ではありません。消えて行っても仕方がないのです。日本には77,000のお寺があり、その3割から4割が消えて行く可能性があるというショッキングな内容の本なのです。鵜飼秀徳著の「寺院消滅」という本です。
最近、日経BP社から出版された本です。
著者は新聞記者であると同時に正覚寺の副住職も務めています。
新聞記者だけあって全国の過疎地や離島を丁寧にまわり、地方のお寺の財政状態を調べあげたのです。そして各地のお寺の檀家の実情や本音を聞いて回ったのです。
その上、真言宗、天台宗、からはじまって鎌倉仏教の諸宗派を調べ、それぞれの宗派の消滅しそうなお寺の数を調べたのです。
例えば曹洞宗では5922のお寺が無くなる可能性があると言います。この数は曹洞宗の全部のお寺の42%にあたるのです。
このような消える可能性のあるお寺の数は多すぎてにわかには信じられません。
檀家が居なくなった、住職が居ないという理由だけでお寺が消滅する理由にならないからです。誰もいなくなったお寺は同じ宗派の隣のお寺の住職が兼任で維持、管理する場合が多いのです。
しかしそれにしても膨大な数字のお寺が消えて行く可能性があるのです。
それでは何故こんなに多くのお寺が消える可能性があるのでしょうか?
理由はいろいろありますが以下の3つが主な原因です。
(1)地方の人々が都会に移住し、地方のお寺の檀家数が激減し、お寺の財政が苦しくなった。
(2)先祖代々のお墓を守っている地方のお寺へ都会にいる昔の檀家がお寺へ財政支援をしなくなった。
(3)お寺の住職に頼んで読経をして貰う形式のお葬式や法事が少なくなり、家族葬や直葬が多くなり住職の収入が減少した。
一つのお寺と住職一家を支えるには200軒の檀家が必要と言われています。一軒が年間に5万円をお寺へお墓の管理料として支払えば、200軒の合計は1000万円になり一つのお寺の維持、管理は可能になるのです。しかしこの数字は都市と地方によって異なりますし、お寺によっては水田を所有し少なくても米は自給しているところもあります。
問題は複雑ですが、大変雑な言い方をすれば日本人の寺院仏教や葬式仏教への信仰が弱くなったためと言えます。
一例を上げれば創価学会のお葬式では「友人葬」です。住職を呼ばないで会員が読経し、参列者が焼香をして故人の冥福を祈るのです。創価学会は日蓮宗のお寺と縁を切ったので住職を呼ぶことが出来ないのです。
私は創価学会のお葬式に出て、この方がお釈迦様の教えに近いような感じがしました。
お釈迦様は自分の墓や仏像は作るな。遺骨は野に捨てなさいと言って死んだのです。あの玄奘三蔵法師も遺骨は野に捨てなさいと言って死んだのです。
さてそれはそれとして、この「寺院消滅」という本の内容は多岐にわたり、とてもその全てをここでご紹介は出来ません。
しかし最後に大変ショッキングな話をご紹介いたします。
故人のお墓を作る気分でない。お寺とも縁がない。そういう人々が世の中に多くいるそうです。そこで熊谷市にある曹洞宗の見性院では遺骨の処遇に困っている人から宅急便で遺骨を送って貰います。
遺骨を受け取った住職の橋本英樹和尚は本堂で供養します。そして境内の中にある「永代供養塔」に合同納骨をするそうです。永代供養料は3万円だそうです。
宅配便を使う時は専用の段ボール箱を見性院のHPから予約し、取り寄せてその中に遺骨を入れて送るのです。
遺骨は他の宅急便は引き受けませんが、「ゆうパック」だけは引き受けてくれます。
この「送骨サービス」は2013年10月から始めました。毎月、数柱の遺骨が送られてくるそうです。
このサービスを非難することは簡単です。しかし私は橋本英樹和尚を尊敬します。非難は覚悟の上で困っている人、悩んでいる人、病気になってお寺まで来れない人の窮状に心を寄せ、助けようとしているからです。
さて、この「寺院消滅」という本をご紹介した理由は、この本が日本社会の構造変化と宗教へ対する意識の変化を分かりやすく描いているからです。
この変化は仏教界だけの現象ではありません。キリスト教の教会でも同様な現象が起きているのです。
主任司祭のいない地方のカトリック教会や、牧師のいないプロテスタントの教会が増えているのです。
今年の4月に隠れキリシタンの住んでいた五島列島の教会を巡る旅に出ました。
明治5年に禁教令が解けた以後、昔の隠れキリシタン達が熱狂して、浦々に美しいレンガ造りの教会を建てました。重厚な石造りの教会堂を建てました。それは感動的な風景です。
しかしのその美しい教会の多くには神父様が住んでいません。日曜になると一人の神父様が数カ所の教会を巡回してミサを上げているそうです。
この「寺院消滅」という本を読みながらそんな事を思い出しました。
今日の挿絵の写真は先日、甲斐駒岳の麓で撮った花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









奥多摩まで登って行っても猛暑でした

2015年08月03日 | 写真
涼を求めて奥多摩までドライブして来ました。
吉野梅林、御岳駅前、国際フィッシングセンター、古里、奥多摩駅まで行きました。
車窓から見える風景は涼しそうですが、車を降りると東京と変わらぬ猛暑でした。写真は国際フィッシングセンター、水香園前、奥多摩駅の風景です。










荒涼たる北海道、野付半島と遥か沖に浮かぶ 国後島

2015年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
夏の北海道は素晴らしい所です。富良野では広大な花畑の丘が美しいい風景を見せています。そして他の地方に行くと緑豊かな牧草地が広がりヨーロッパの風景のようです。夏でも涼しい風が吹き抜け、太陽も輝き本当に快適な場所です。
しかしその一方で、荒涼とした地のはてのような所もあります。立枯れた木々が骸骨のように立ち並んでいるのです。暗鬱な風景です。普通はあまり観光客が行かない所です。そんな所もあるのです。
そこは野付半島と言います。その沖の16Km余の所に国後島が遥かに横たわっています。
2012年の9月にレンタカーを駆って行きました。
まず場所をもう少し詳しく説明いたします。
北海道の東端の根室市の北の方の東海岸に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。そのすぐ南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び、野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという立枯れたトドマツの原と立枯れたナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。それは実に不気味な風景です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼と感じさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏にはその味を楽しむことが出来ます。
私共の旅の目的は荒涼たる野付湾と、トドワラやナラワラを見てその写真を撮り、茹でた縞エビを食べることでした。
野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。
ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。
立ち枯れた木が倒れた場面です。立ったままの枯れた木々もあります。道は狭いので、強い海風や雨が吹き付けると、ぬかるみに落ちそうになります。その先の方は高い木道の上を歩きます。海からの風雨に耐えて踏み外さないように歩きます。
その後、ビジターセンターの食堂で食べた茹縞エビは濃厚な味で、確かに有名なエビだけに申し分の無い美味でした。
昼食後、2階の国後島展示室に上がりました。その窓から国後島が間近に見える筈です
しかし小雨が降ったり止んだりの悪天候で一切見えません。
そこで国後島に日本人が沢山住んでいた頃の資料や写真を丁寧に見ました。
この野付半島の野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
そして昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。択捉、国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。国後島は沖縄よりも大きな島です。
日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。
この国後島は驚いたことにアメリカ占領軍とソ連の話し合いでロシア領になったのです。
以下の文章がその経緯を説明しています。
===アメリカ占領軍とソ連の話し合いでロシア領になった!===
1945年日本のポツダム宣言受諾通知後、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄し千島列島に侵攻を開始、太平洋戦争の降伏文書調印(1945年9月2日)の前日9月1日にソ連軍が同島に上陸、占領しました。
ポツダム宣言第7条に従って日本の諸地点は連合国に占領されましたが、国後島を含む千島列島は、一般命令第1号によって、ソ連占領地となったのです。
1946年1月29日、GHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を停止されると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に行政編入しました。SCAPIN-677は領有権の移転を命じたものではないそうです。
同年3月には、島内の通貨が日本円からソ連のルーブルに変更されます。
1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1948年までにほぼ全員の日本人が帰国したのです。
戦後のソ連は、ユジノクリリスクという新たな町を、日本時代の古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設します。(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BE%8C%E5%B3%B6 からの抜粋です。)
以上のように1946年にアメリカ占領軍とソ連側との交渉によって日本人全員が国後島を離れたのです。この千島列島の領有権の移動はポツダム宣言に含まれていた秘密合意だったのです。問題は国後島が千島列島に属するか否かにも関係し、戦後の日ソ間の複雑な外交問題として残ったのです。
写真は野付半島とその風景写真です。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpgです。
そして最後の国後島の写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/sealion1974/m/201202です。
それ以外の写真は2012年9月17日に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









洗礼を受けたおかげで仏教のことが少し分かりました

2015年08月02日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は仏教国といいます。ですから日本の文化の基盤は仏教の影響を深く受けています。
仏教を理解すれは日本人を深く理解出来ることになるという考え方もあります。
ところが仏教は宗派も数多く、お経も意味が分かりません。
幼少の私は祖父が住職をしていたお寺で一緒にお経を読んでいましたが、意味は一切分かりませんでした。
ところが34歳の時、カトリックの洗礼を受けた後は仏教のことが少しずつ分かるようになったのです。
別な言い方をすれば宗教の意味と、何故それが人間にとって重要なものかが分かるようになったのです。勿論、視点を変えれば宗教は人間の妄想が作ったものだとも言えます。しかし宗教の重要さは絶対に変わりません。
そこで今日は仏教の千手観音菩薩さまの役割を簡単に書いてみたいと思います。
この仏像には1000本の手があると信じられています。
実祭は一本の手が25本の手の代表と考え、40本あるそうです。そしてその手には蓮華や水瓶など色々な物を持っています。
千手観音菩薩さまはこの数多くの手と持っている道具で、あらゆる人々を全ての苦しみから救い出そうとしているのです。貧しい人も、罪人も、病気の人も、年老いて死にそうになっている人も、全ての人々にお釈迦様の慈悲を万遍無く分け与えているのです。
これはイエス・キリストが貧しい人や罪人に心を寄せ救おうとしているのと全く同じなのです。これをイエスの全ての人間に対する愛と言います。
イエスさまの愛を信じればお釈迦様の慈悲が少しだけ分かります。
ですから千手観音菩薩さまの役割は一切衆生を全ての苦しみから救うことなのです。
私は34歳でカトリックの洗礼を受ける前は千手観音菩薩は嫌いでした。手の数が不自然に多いので気味が悪かったのです。不自然過ぎて見たくなかったのです。
しかし洗礼を受けたお蔭で千手観音菩薩の役割を理解しました。それ以来、好きになったのです。ですから下のような文章が理解出来るようになったのです。
・・・・参考資料:千手観音菩薩に関するいろいろ・・・・・・
まむさんのコラム:http://smcb.jp/column/detail/6579919/ より抜粋です。
(まむさん:まむさん
奈良で出会った仏様たちに魅せられ、京都、福井、滋賀、鎌倉などのお寺を歩き回った後、2009年の3月から約1年半、特に惹かれる天平時代、白鳳時代の仏様たちが集中している奈良に一時的に居住。 2014年9月より再び奈良の地で生活をスタートする。将来奈良に永住する夢を見ながら、仏像を始めとした奈良の魅了をお伝えします。)
千手観音は、人々を救うときに手に持っている様々な道具で人々を救います。
手の数が多ければ多いほど助ける力が大きいというというわけで、人々の様々な要求に合わせてくださるという信仰を表しているのです。
千手観音は、奈良にはあまりみかけませんが、京都のお寺では比較的多く拝むことが出来ます。有名なものとしては蓮華王院本堂(三十三間堂)の千一体の千手観音像があります。
しかしこの千手観音は実際には千本の手を持っているわけではなく、合掌する二つの手以外に
四十の手を持っているのです。これは一本の手が25の衆生を救う力があるので25×40で千本に相当するというわけです。他のお寺の千手観音も多くがこの形です。
実際に千本の手のある観音像を造るのはかなり大変だからでしょうか。
しかし奈良には実際に千本の手を持っていた観音さまがおられるのです。それは唐招提寺です。
唐招提寺は、鑑真が建立した南都六宗の一つである律宗の総本山で、この金堂は、奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のもので、2000年から2009年まで解体修理が行われていました。
吹き放しとなっている金堂正面には8本の太い円柱が並んでいる姿は本当に美しいです。堂内には本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像そして左に千手観音立像がおられます。
ここの観音様は制作当初は実際に1,000本の手あったということで(現在は大手42本、小手911本、計953本)それだけご利益がありそうです。
あと大阪の藤井寺にある葛井寺にも実際に千本以上の手を持つ千手観音様がおられます。
持物の数の多さとバラエティでユニークなものは、なんといっても、千の手を持つ「千手観音像」で、それぞれの手に多彩なものを持っています。
蓮華や水瓶はもちろんのこと、弓や剣などの武器、ドクロ、柳の枝、ブドウ、巻貝、宮殿など色々な物を持っています。

下にタイの千手観音と京都の三十三間堂の千手観音の写真を示します。
タイのサムイ島の『ワット・プラーイ・レーム』というお寺の千寿観音の写真の出典:http://www.naomisamuinow.com/archives/667
日本の蓮華王院本堂の三十三間堂の千手観音菩薩の写真の出典:http://www.kyotokanko.co.jp/butuzo/33gendo_senju.html
三十三間堂の仏像の写真の出典:http://yaplog.jp/candymiyuki/monthly/201110/2

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)