後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は彼岸のお墓参りに行きました」

2015年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
家内の実家の墓は日野市、昔の日野村のお寺にあります。
新選組の出身者が何人もいる村だったのでは土方歳三のお墓があります。
家内の親類も同じお寺に幾つかのお墓があります。
今日は家内の祖父母と父母の墓に花を供え、南無阿弥陀仏と十回唱えました。
生前に私に優しくしてくれた家内の祖父母と父母の顔を思い出し、冥福を祈りました。
そして自分自身の祖父母と父母のことも思い出し、冥福を祈りました。
私の父母の墓は仙台にあります。遠方なのなかなか行けません。
幸いあるお寺の住職をしてる弟が仙台に住んでいてお墓参りをして読経をしてくれます。
頼まれ住職をしているお寺は山口県の萩市から入った山郷にあります。お盆などの行事のたびに飛行機で通っています。常日頃のお寺の仕事は隣のお寺の住職さんに代行して貰っています。父はそのお寺の住職を晩年にしていたのでお墓も分骨してそのお寺にもあります。
そんなことなどいろいろ思い出すのでお墓参りは私にとっても楽しい行事なのです。
お墓参りで重要なことは無理をしないことです。そして生前に優しくしてくれた人々と一緒に過ごした時間を思い出すもの重要です。楽しかったことだけ思い出します。
そしてお墓に無い場合はどうしますか。写真を棚の上に飾って、お菓子やビールを供えます。
あとは墓参りと同じように生前に優しくしてくれた人々と一緒に過ごした時間を思い出すのです。
お彼岸の週にはそんな時間の過ごし方があっても良いと思います。
写真は今日の墓参りで撮ってきた写真です。
つまらない話で失礼しました。(終り)







「20世紀の世界を震撼させた共産主義(2)キリスト教の完全否定」

2015年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は幸いにも共産主義の被害が小さく、大きな影響もありませんでした。しかしヨーロッパ世界は共産主義に怯え、特に1917年のロシア革命の成功の後は、自国の共産化を防ごうとする人々が沢山いました。そうしてどうにか資本主義を守り通せたのです。
特にロシアの政権は1923年に国際的に共産主義革命を援助する為に「コミンテルン」を組織し、ソ連の国家予算で各国の革命運動を支援し始めたのです。日本の共産主義者もコミンテルンに連携したのです。
もう一つは、共産主義はキリスト教を完全に否定したのです。これは世界中にいるキリスト教信者に恐怖を与えました。文字通り世界を震撼させたのです。
レーニンは、1918年から1920年までに、28人の主教を殺害し、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄されたのです。
ほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれています。
このニュースは1919年2月にロンドンで公刊されます。この公開文書は、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡で、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えていたのです。
ヨーロッパのキリスト教国は大きな精神的な打撃を受けたのです。いや全世界のキリスト教徒が衝撃を受けたのです。
この衝撃の大きさは仏教国の日本では比較的軽く見られがちです。
しかしキリスト教徒には大きな不安と挫折感を与えたのです。
ご存じのとうりキリスト教は2000年前にガリラヤ湖の近辺で生まれました。それ以来、紆余曲折はありましたが1517年のマルチン・ルターによる宗教改革まで教勢を一途に上げてきました。この宗教改革でヨーロッパのキリスト教はカトリックとプロテスタントに二大宗派に分裂します。
しかし1848年の共産党宣言でヨーロッパ人の一部が歴史上初めてキリスト教を完全否定したのです。
革命成功後のロシアではレーニンもスターリンもフルチュコフも大々的にキリスト教を弾圧したのです。特にスターリンは神学校を卒業し神父になる直前に共産主義に転向した人です。
全世界のキリスト教界に与えた精神的打撃ははかり知れないほど大きかったのです。
共産主義による宗教弾圧は現在でも中国やベトナムでも続いています。
中国ではカトリックのことを天主教と言いますがその教会はローマ法王の傘下に入ることを許されていません。中国共産党が大司教や司教や神父を任命しているのです。
個人的な話で恐縮ですが私どもがこれからミサに行く教会の主任神父のヨゼフ・ディン神父は共産党の弾圧を恐れてベトナムからボート・ピープルとして日本へ亡命した方です。
そのことを想うと共産主義の弾圧のすさまじさが身近に感じるのです。私は共産主義を恐ろしいと思います。
そしてソ連が崩壊してロシアにキリスト教が73年後に復活したことを嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===========
(1)ルターの宗教改革
1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。この批判はまたたくまに各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯の支持を得た。
「宗教は民衆のアヘンである」とのマルクスの言葉を踏襲し、宗教の存在を否定する。階級社会が発生して以来、支配階級は、民衆の目を厳しい生活からそらさせるため、常に宗教を利用してきたからである、とする。実際に、ロシア革命以降、諸宗教の数多くの教会が破壊され、聖職者及び信徒が殺害された。マルクス・レーニン主義者の、宗教に対する否定的な姿勢は、戦闘的と言ってもいい。
(2)マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』
http://page.freett.com/rionag/marx/mcp.html
 共産主義の基本的革命理論を構築したマルクスとその友であるエンゲルスは、その著書『共産党宣言』において、「共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。」として、暴力によってのみ共産主義革命が達成できると主張した(暴力革命必然論)。革命理論としては他に、国家は抑圧のための暴力装置であり、全社会は相対立するブルジョアジーとプロレタリアートの二大階級に分裂するという(階級国家観)。革命転換の時期においてはプロレタリアートの革命的独裁が行われなければならないという(プロレタリア独裁論)。「万国のプロレタリアよ団結せよ」で知られるプロレタリア国際主義などがある。
(3)革命直後レーニン時代のキリスト教の迫害
http://www2.odn.ne.jp/~caq10260/c14.htm
…政教分離の名の下に行なわれた一連の宗教抑圧政策は、しばしば聖職者の処刑や教会の強制的閉鎖といった直接的な宗教弾圧をも伴い、その結果、宗教界の抵抗を招いて各地で流血の衝突が頻発するにいたった。
ロシア正教会の場合、1918年から1920年までの間に少なくとも28人の主教が殺害され、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄された。
またほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれている。
1919年2月にロンドンで公刊された、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡は、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えている。 
過激派が1917年のロシアで政治権力を掌握すると、彼らは社会の教養階級だけでなく、宗教そのもの、教会の指導者たち、そしてあらゆる人々から尊ばれた宗教的記念碑を一掃しはじめました。
モスクワのクレムリン大聖堂、ヤロスラーヴリやシンフェローポリといった諸都市の聖堂は略奪され、多くの教会が汚されました。
由緒ある至聖所も、モスクワとペトログラードの有名な総主教書庫も略奪を受けました。
キエフ府主教ウラジーミル、20名の主教そして数百人の聖職者たちが暗殺されました。
しかも殺害する前に、ボリシェヴィキどもは犠牲者の手足を切り刻み、そのうちの幾人かは生きながら火で焼いたのです。
(4)レーニン主流派(ボリシェヴィキ)による各国の革命に支援
武装蜂起の支援:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
ボリシェヴィキはロシア革命をヨーロッパ革命の導火線と位置づけており、ヨーロッパ革命なしではロシアで国家権力を維持することも難しいと考えていた。そのため、ソヴィエト政府の財政資金も利用して[6]ヨーロッパの共産主義運動を積極的に援助した。
とりわけ重要視されたのがドイツだった。1918年11月に社会民主党政権が成立して以後、1919年のバイエルン・レーテ共和国、1920年のカップ一揆と政治的激動がつづき、勝利が近いと考えられた。
1921年3月のドイツにおける三月行動はコミンテルンが組織的にヨーロッパの革命を援助した最初の例となった。
(5)ボリシェヴィキよは?https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AD
ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派。ボルシェヴィキ、ボルシェビキとも呼称される。
1917年の十月革命以前から活動していた者は特にオールド・ボリシェヴィキと呼ばれる。ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴である。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
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写真の説明:
一番目と二番目の写真はマニラでの野外ミサの様子です。写真と説明文は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/9688495/… から転載しました。
(2015年1月18日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News
三番目の写真は、18日、フィリピン・マニラの大学を訪れ、子どもたちと交流するローマ法王フランシスコの様子です。(AP=共同)
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以下は、http://news.livedoor.com/article/detail/9688495/ からです。
【AFP=時事】フィリピンを訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王(78)は18日、首都マニラ(Manila)で大規模な野外ミサを主宰した。雨の降りしきる中、歴代法王が開いたミサとしては過去最多の600万人が集まり、貧しい人々の救済を掲げた法王のアジア歴訪のフィナーレを飾った。
 法王は、フィリピン名物の派手なミニバス「ジープニー」風に仕立てた専用車「パパモビル」に乗って、マニラ湾沿いにあるリザル公園(Rizal Park)のミサ会場に登場した。
 フィリピンはアジア最大のカトリック国で、国民の80%がカトリック信者。だが、さすがの法王も群衆の数に驚いたようで、付添のマニラ大司教によると、「純真な人々の信仰の深さは私にも測り知れない」と語ったという。
 マニラ市当局によると、沿道と公園には法王を一目見ようと警察推定で600万人が集まり、1995年に当時のローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)が同じ場所で行ったミサに集まった500万人という記録を超えた。
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そして、この動画も是非ご覧下さい。
ローマ法王を好きすぎる男の子が乱入した時の様子の動画です。
ローマ法王フランシスコが座るステージに上がってきた1人の男の子が法王のいすに座ってみたり足に抱きついたり、やりたい放題です。「ローマ法王を好きすぎる男の子が乱入」を検索して下さい。面白いから是非ご覧下さい。http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p8471f0f4fce756c8cb5535eff1186302 です。





20世紀の世界を震撼させた共産主義(1)その功罪を少し考える

2015年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
9月12日に「自衛隊のヘリコプターによる救助活動と、ある共産主義者の過酷な一生」と題する記事を掲載しました。とても反響が多く、特に趣味人倶楽部では1123件のアクセスがあり、共産主義へ対するコメントも40件ありました。
コメントは質の高いものが沢山ありました。私の共産主義に対する無知を思い知らされました。これ以上、何も知らない私が共産主義のことを書くべきでないと数日、逡巡していました。
しかし頂いたコメントの中に共産主義の功罪を大変客観的に明りやすく書いて下さったものがありました。ご本人の許可を得ましたので下に引用いたします。それをキッカケにして素人の雑談を書いてみたいと思います。
====どらえもんさんからのコメント: 2015/09/12 =======
なかなか的を射た内容に感心しました。
災害時の自衛隊の活躍には本当に感謝しました。私も石巻のボランティア活動に数回参加しましたが、自衛隊の皆さんの職業としての献身的な活動に敬服いたしました。日本にはこういう組織・集団は必要だと実感しました。
私も歴史好きで、近代から現代にかけての資本主義の発達と産業革命がもたらした光と影をつぶさに学んできたつもりですが、その産物としてのアンチテーゼが共産主義だったのではないかと思います。
また人間の歴史における様々な喜怒哀楽や悩み、神秘、不合理、幸せなど、科学では説明できない事柄・現象にたいして人間は神や哲学を考え出したのだろうと思います。
共産主義も宗教も一見相反する思想と言われていますが、これも人類が生活し生きてきた歴史の自然なアンチテーゼなのかも知れません。
具体的な例を申し上げますと、、、
イギリスの産業革命で飛躍的に生産効率が向上し人類の生活や経済が豊かになったのは確かですが、その陰で過酷な労働条件や非人間的な差別・階層(階級)や不正・不公平が生まれ、労働者らは虐げられたのです。資本主義がそのまま順調に発展していったならば人類は恐らく古代ローマ帝国の様な市民と奴隷のように2極化した格差・差別社会のままになってしまっただろうと思います。
そんな時代に生まれ、その光景を見たF・エンゲルスやカール・マルクスが当時の経済構造や産業の仕組み、特に資本(お金)、資本主義の本質を深く研究した、、、このことは人類にとってエポックメイキングな事だったはずです。
お金持ちは更に豊かになり、貧乏人は益々貧しく使い捨てにされていく。強いものが支配し弱いものは永遠に虐げられ差別される、、、そんな社会が当たり前と思われていた時代に、、、敢然と「否」を唱え、弱者を救う学術的、哲学的、経済的理論を堂々と構築し、それを証明した。素晴らしい事だと思います。ロバート・オーエンなどが成し遂げられなかった事をこの地上で実現しようとする理論だったのだろうと思います。
おかげで労働組合が生まれ、12時間労働から解放され、少年や婦女子の過酷な労働も禁止されるようになりました。
後に資本主義国家では、最低賃金法や独占禁止法、言論・集会・結社、出版、思想信条の自由などが歴史の進歩とともに次々と生まれてきた、、、、これらはすべては共産主義に対抗しようとした資本主義の改良の産物だと思います。
当時はまだキリスト教などの教会や法王、宗教の支配力が強く、不合理な事にも文句が言えず、思想信条の自由がない、魔女狩りなどが平気で行われた時代です。宗教が「アヘン」と言うのは、そうした不合理な物事に対して盲目的に従う信者が多かったからですね。もっと合理的で科学的な「目」を持つようにしよう、という意味で使った言葉だろうと思います。
ただ、時に耐えきれない痛みや大手術の時には医者が麻酔を打ちますね、あれもありかと思います、、、人生山あり谷あり、いろいろ悩む事や苦しむ事あると思います、、そんな時に心を癒してくれる存在、痛みを和らげたり解放してくれる存在、、それが宗教としての麻酔薬(アヘン)なのかも知れませんね。
ただそれを悪用する人がいることも事実ですね。カルト教団みたいなのが多く存在しますね。
要するに、人間は弱い存在だという事でしょう、お金や経済的利権などをむさぼろうとする心が弱い存在なのかもしれません。
だからアンチテーゼは必ず発生するんだと思います。
宗教も共産主義も似たようなところがあります。スターリンや毛沢東のような人間もいました。しかし、歴史的には未熟な人類しかいません、理論通りには行きません、必ず「欲」や「野心」「野望」というものが今の到達点の人類には存在します。
もっともっと人類は進化しないとね、と思うこの頃です。
長くなって失礼しました。 (終り)
そして、のりまきさんが、書いて下さっています。
====のりまきさんのコメント: 2015/09/12 =========
共産主義に対立するのは、資本主義だと思いますが、何故か自由主義を対立軸にする方が多くいます。
それは、僕みたいな門外漢が見ても、共産主義は一党独裁で他の政党を認めず、国の行く末も一党内で決められる。一党の党員でないと国の行く末を選択する自由がなく、計画経済のもと自らの職業選択の自由さえ保証されません。
そうなっていく一面を持った思想なんだと思います。
人の幸福の最たるものは、お金を持つものでも、権力を持つものでもなく、自由にどこへでも行け、なんでも食べられ、誰とでも交流できる自由だと思います。
結果はどうあれ、自分の裁量で自分の人生を歩めたら、それに勝るものはないのではないかな。(以下省略いたします。)
以上の2つのコメントを見ると共産主義の功はイギリスの産業革命の結果生じた過酷な労働条件が改善されたことです。他にもいろいろあるでしょうが労働組合が出来、労働者の人権が守られるようになったことも大きな功績です。
一方共産主義に従って革命を起こしたロシアや中国の社会をみると共産党独裁が故に言論・集会・結社、出版、思想信条の自由が無いのです。少しは自由ですが共産党以外の政党は認められず国民は共産党員の言う通り従わなければなりません。
従わなければ逮捕され収容所は送らます。スターリンの君臨していたソ連では何百万人もの人が犠牲になったのです。「収容所列島」という本が出版され著者はノーベル平和賞を受賞しました。中国も同様です。毛沢東の発動した文化大革命では数十万人の人民が命を落とし、何千万人の人民が農村へ追いやられ辛酸をなめたのです。
よく人はマルクスやエンゲルスの共産主義は理論としては正しいと言います。それを私利私欲の人間世界に応用して革命を起こせば独裁政権が出来上がります。言論・集会・結社、出版、思想信条の自由が無い社会が出来るのです。それはマルクスやエンゲルスの共産主義の理論に大きな欠陥があったと解釈させても仕方の無いことです。その理論が私欲の溢れるこの世ではうまく作動しなかったのです。理論に脆弱性があったのではないでしょうか。革命が成功した後の共産党独裁を認める理論に限界があったのでしょう。
またいろいろなコメントでご指導のほどをお願い申しあげます。今日の挿絵の写真は小平市ふるさと村近辺で撮った秋の草花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









昔懐かしい赤い丸ポストが30も現役である小平市

2015年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、小平市の「ふるさと村」に古い農家の写真を撮りに行きました。
そうしたら入り口に昔懐かしい赤い丸ポストがあり、どうぞ郵便を入れて下さい。使えますと書いてあります。
そしてその傍の説明板には小平市は昔の赤い丸ポストを大切にして、30本も市内のあちこちで使っているそうです。
一番目の写真がその丸ポストと説明板です。

全国の自治体で30もの丸ポストを現役として使っているのは小平市だけだそうです。
昔の物は不便だから新しい物に変えて行くという考えが横行して、まだ使えるものまで捨ててしまうという風潮が強いなかで小平市の30の丸ポストは何かホッとさせる素晴らしい考え方と感じました。
ちなみに東京都全体では現役の丸ポストが250もあるそうです。
皆様の住んでいらっしゃる土地には丸ポストがあるでしょうか?
小平市の「ふるさと村」には他にも古い納屋や水車なども大切に保存してあります。
ついでにこの「ふるさと村」の近くで撮った花の写真をお送りいたします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







現在の東京にある江戸時代以前の城跡の歴史散歩

2015年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸という名前は現在の東京に最初に根拠地を置いた武家、江戸重継に由来しています。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸城の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたと考えられています。
その後の15世紀の関東の戦乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめと書いてあるそうです。
ですから太田道灌が1457年に築いた江戸城が現在の東京の発展の出発と考えることも出来ます。
1600年に徳川家康が江戸に幕府を置いてから260年余の江戸時代が始まりました。
現在の東京の江戸時代の歴史はかなり詳しく知られていますが、それ以前の歴史はあまり明確には判っていないようです。
その理由は現在の東京都内にあった城や館の大部分は江戸時代に消えてしまって記念碑や説明板だけが残っているに過ぎません。
しかし、郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれる。
私は引退後にこれらの城跡をかなり丁寧に見てまわりました。車で行って、あまり人のいない城跡を散歩したのです。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡、石神井城、高幡城などの跡地へは何度も行きました。
これらの城跡には当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されています。発掘調査も行き届き、説明板も丁寧に明快に書いてあります。
これらは車で行くと便利が良いのですが、滝山城だけ駐車場が無いのです。近所の農家に特別にお願いをして停めました。滝山城跡には壮大な規模の城跡がそのまま残っているだけに残念です。
八王子と滝山城は北条氏昭が小田原城からやって来て関東地方の西部を統治していたときに住んでいました。武田信玄に何度か侵入されましたがその都度撃退しています。
不思議なのは片倉城です。鎌倉時代よりも前の山城と推定されていますが、誰が作ったか不明です。
そして深大寺城も誰が作ったか確定されていません。
築城した人は判っていない城跡が意外に多いのです。
例えば高幡不動の裏山に登ると頂上に土塁が残っていて、素人目にもある時代に城があったことが分かります。
裏山を下りて高幡不動の和尚さんの一人に尋ねました。しかし文献が無いから知らないの一点張りでした。ただ発掘調査で鎌倉時代よりも古いと推定されていると言っていました。
学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史はあまり教えません。
自分で少し地方の歴史を調べてみると判らないことが多いことに驚きます。
歴史の闇に消えてしまった事実が沢山あるのです。失われてしまったものに対する好奇心が湧きあがって来ます。
例えば東京には江戸城の他に、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどもあるのです。
これらの数多くの城や館にはそれぞれ主がいて、家族がいて、武士集団が住んでいたのです。それが江戸時代になると消えてしまったのです。歴史の闇に消えてしまったのです。何かはかないです。無常です。
それにしても城の数の多いのに驚かされます。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深いのです。
現在私が住んでいる東京の多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多ようです。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来ました。それらの情報は現地に行くと分かります。
今日は現在の東京に残っている江戸時代以前の城跡について少しご紹介いたしました。
さて皆様かの住んでいらっしゃる土地にも江戸時代以前の城跡や館跡がたくさんあると思います。その情報をご投稿頂けたら嬉しく存じます。
今日の挿絵の写真は一昨日、小金井公園で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)













日本人は昔、物質的にはこのように貧しい生活をしていた!・・・忘れないでください!

2015年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム











人間は過去を簡単に忘れます。偶然、羽村市立郷土博物館の裏に展示してある江戸時代末の農家を見て、終戦直前に疎開した農家の造りにあまりにも似ているので愕然としました。
そして現在の生活に比較すると物質的には大変貧しいものだったと驚きました。
しかし当時の誰もがそれが普通でしたので十分満足して幸せに暮らしていたのです。
現在よりも心は豊かだったような気もします。
それは別問題にして現在と比較した物資的貧しさの幾つかの例を書いてみます。
疎開先の農家に電灯はありましたが、水道も冷蔵庫も電気洗濯機も一切有りませんでした。
東京都下、羽村の農家では電気やラジオはありましたが、展示してある農家には1965年頃まで実際に人が生活していたと書いてありました。
つまり都会は別にして、農村地帯の家屋の構造は江戸時代のものをそのまま継承して使っていたのです。これは驚くべき事実でした。
あまり驚いたので、その後、日本の農村では、古い農家が何時頃まで実際に使用されていたか調べて見ました。川崎市立日本民家園と東京都立江戸東京たてもの園の展示農家を調べ回りました。
明確に何時まで家族が住んでいたかという証拠は有りませんでしたが、移築は昭和41年や42年が大部分でした。1966年と1967年に移築されています。丁度、高度成長の始まる頃です。
地方によってはもっと後まで、このような農家に住んでいたと推定できますので、約1970年頃を境に近代的家屋へ次第に変わっていったと言えます。
建物は大体、江戸中期や後期に建てられたものです。修理を重ねて大切に使われています。
上の写真に有るように、台所の流しは座り流しです。水は甕からヒシャクで汲みます。ご飯とお汁はヘッツイで炊きます。食器棚には貧しげな器や箸が大切にしまってあります。囲炉裏では鉄瓶がいつも沸いていて、お湯を茶の代わりに飲みます。
筆者の疎開した農家では夕食は囲炉裏に大鍋をかけ、野菜とドジョウの汁へ味噌味をつけ、スイトンを入れて食べて居ました。毎日同じでした。ドジョウは田圃の用水路で捕ってきます。
当時の仙台市には電灯だけでなく、水道もガスもあり、流しは立ち流しになっていました。都会と農村の生活レベルの大きな差に、子供心にも驚き、悲しい思いをしました。それが1945年の日本の現実でした。
戦後もその状態が1970年頃まで続きました。都会と田舎の想像を絶する格差こそ高度成長期前の社会経済の大きな特徴でした。
このような社会であったことを忘れないようにと、ここに数枚の写真を掲載します。
若い人々に読んで頂いて、ますます格差の無い日本を築いて貰いたいと願いつつ筆を擱きます。(終わり) 写真撮影:都立小金井公園内にて。江戸東京たてもの園のURLはhttp://www.tatemonoen.jpです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

秋の小金井公園へのお誘い

2015年09月14日 | 写真
都立小金井公園は面積約80haの広大な敷地です。都立公園の中でも最大規模で、日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍に相当します。
公園西側には南北に小金井街道が走っていて、JR小金井駅からのバスの便の良い所にあります。南側には東西に五日市街道が通っています。また、五日市街道に沿って玉川上水が流れて緑豊かな場所になっています。
もともとは紀元二千六百年記念事業として計画された「小金井大緑地」が原形で、1954年(昭和29年)1月に「小金井公園」として開園しました。
園内には雑木林と芝生が広がり、1,800本の桜が植えられており、花見の名所としても有名です。
そして同じ園内に、昔の東京の建物を復元し展示した街があり懐かしい風景が広がっています。江戸東京たてもの園以外は、入園無料です。駐車場な中央と東口に広大なものがあり、1時間300円です。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E5%85%AC%E5%9C%92 をご覧下さい。また「江戸東京たてもの園」の詳細は、http://tatemonoen.jp/ にあります。
今日は秋風が心地良かったので園内を久しぶりに1時間ほど散歩してきました。
その折に撮った写真をお送りいたします。

上のように広い芝生の草原が3ケ所あります。子供が走り回って遊んでいます。

上と下の花の写真は中央駐車場の入口付近にある花園で撮りました。夏のユリが一輪咲残っていました。



この沼は中央駐車場の入口から真っ直ぐ北に歩いた公園の北端付近にあります。

上の写真は中央広場を西方向に撮った写真です。
さて下の3枚は「江戸東京たてもの園」のHPからお借りした写真です。これは東ゾーンの風景ですが、西ゾーンも同じくらい広くて、いろいろな昔の建物が展示してあります。





秋の小金井公園は涼しい風が吹き抜けていて快適です。園内には軽食堂もあり午前から夕方まで遊べます。子供連れのご家族にはお薦めしたい公園です。JR中央線の小金井駅北口からバスで10分くらいです。
是非お出かけになってみて下さい。失礼いたしました。(終り)

ローマ法王と日本の外交、そして私の感じ方

2015年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
よく言われていることですがローマ法王は国際関係に隠然たる影響力があると言います。
積極的平和主義を主張している安倍総理も昨年の6月にフランシスコ法王を訪問して、「積極的平和主義」を法王に縷々説明し、安倍総理に協力してくれるようにお願いしました。
一番目の写真はその時の様子です。

二人の前にある丸い手鏡は安倍総理のお土産で、光の角度を変えるとイエス様の姿が浮かび上がる鏡です。写真をよく見ると安倍総理が饒舌にこの鏡のいわれを喋っていて、謙虚なフランシスコさんが真面目に聞き入っています。何か微笑ましい光景です。
さてローマ法王の国際関係にたいする隠然たる影響力とは何でしょう?
ローマ法王は安倍総理に会い、その話を聞きましたが、その後何もしないと思います。国際政治などに興味は無いのですから。あるいは興味があっても何もしません。
しかし安部総理が法王を訪問したという事実だけが重要なのです。そのニュースがカトリックの勢力の強い国々に伝わるとその国のカトリック信者たちが安倍総理を善い人だと思います。
迂遠ではありますが日本の標榜する「積極的平和主義」を理解しようとするのが人情です。
結果的に日本の外交に理解を示し、協力的な態度になります。
法王は何もしなくても、国際関係に間接的に影響を与えたことになります。
二番目の写真はフランシスコさんが昨年の8月に韓国を訪問した折の歓迎ぶりです。

韓国のカトリック信者数は476万人(2006年)で、カトリックが最大宗派で、組織的にも最も強固なものと言われています。
安倍総理のローマ法王の訪問は韓国のカトリック信者の心に友好の気持ちを少し植えつけたに違いありません。もしそうなら安部総理の法王訪問は高く評価されるべきでしょう。
さてそれはそれとして、フランシスコ法王とはどんな人物なのでしょう?
南米出身の法王は歴史上はじめての事です。大変珍しいのです。そのフランシスコさんは実に庶民的で気さくな人物です。近所に住んでいる親切な明るいおじさんのようです。
昨日、カトリック小金井教会で77歳以上の人は全員、聖画をはめ込んだブローチのようなもの(メダイ)を戴きました。三番目の写真にそれを示します。

このメダイの裏を見たらイタリー製と書いてあります。そんなことはないでしょうが、なぜかフランシスコ法王から貰ったような気分になりました。
ところで前のヨハネ・パウロ2世は非常に卓越したポーランド出身のローマ法王でした。この方も気さくな法王で、1981年には日本も訪問し、長崎への旅を「巡礼の旅」と言っていました。
さて最後に私自身のローマ法王に対する感じ方を書いてお終いにしたいと思います。
よく欧米の信者は法王のことをパパと呼びます。日本の信者の一部の人はパパ様と呼びます。私は古い日本人なので父はお父さんと呼んでいました。ですからパパさまという呼び方には抵抗感があります。しいて呼ぶとすれば伯父さんと呼びたいのです。
私はそれも嫌なのです。そこでフランシスコさんと呼んでいます。
この記事の上の方でローマ法王のことをフランシスコさんと書いているのはこの理由です。
ヨハネ・パウロ2世の場合は、それにさんをつけると長々しくなるので尊敬しながら「さん」をつけません。
四番目の写真では、フランシスコさんが信者と気軽に記念写真を撮っている様子を示します。

そして五番目の写真は子供を抱き上げて可愛がっている様子を示します。

こんな様子を見ると誰でも心が和むのではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

自衛隊の災害派遣、救助活動は今回だけでない!

2015年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の洪水にさいしての自衛隊のヘリコプターによる孤立者の吊り上げ救助は感動的でした。
そしてこのような救援活動は阪神大震災や2011年の東日本大震災の時も大規模に展開され、被災者はもとより多くの国民に絶賛されたのです。
そもそも自衛隊の災害派遣とはどのようなものなのでしょう。
それは、自衛隊が、天災地変その他災害に対して人命または財産の保護のため、都道府県知事等の要請に従って派遣されることです。ただし、特に緊急を要する場合は、要請を待たずに出動することもあるそうです。
この派遣の目的は捜索・救助、水防、医療、防疫、給水、人員や物資の輸送など、様々な活動を目的としています。
また、自然災害の他、航空機や船舶の事故等の救援、医療施設に恵まれない離島などでは救急患者の輸送などにも当たっています。
そこで災害派遣の過去の例を写真にしたがってご紹介いたします。
1番目の写真は鬼怒川洪水の時の常総市における孤立者の吊り上げ救助の一例です。
2番目の写真は東日本大震災に伴う災害派遣(2011年)です。この写真以下の写真の出典は、http://www.mod.go.jp/gsdf/about/dro/ です。
3番目の写真は岩手・宮城内陸地震(2008年)の際の支援作業です。
4番目の写真は広島県呉市及び江田島市における給水支援等に係る災害派遣(2006年)です。
5番目の写真は新潟県中越地震に伴う災害派遣(2004年)です。
6番目の写真は三宅島火山噴火に伴う災害派遣(2000年)です。
これらの写真は自衛隊の災害派遣のほんの一部です。実際はもっと多くの派遣があり災害の被害者を助け、勇気ずけて来たのです。
私は東日本大震災のとき宮古市で病院が津波に襲われたあるお医者さんの話を直接聞いたことがあります。一番早く駆けつけてくれたのが作業服を着た陸上自衛隊の隊員だったそうです。毎日、朝早くから数十人で来てくれて、病院を復旧して津波で怪我をした人の治療がすぐに再開出来るようにしてくれたそうです。そのお医者さんは自衛隊の働きに毎日、涙を流しながら被災者の治療に当たったそうです。汚い作業や辛い仕事に率先してあたってくれたのは陸上自衛隊だったそうです。少し落ち着いてから、お茶とお菓子を出したそうです。 隊員は嬉しそうにしていましたが自分たちは十分食糧を持っているからと言って手を付けなかったそうです。
荒っぽい仕事をしているのに態度が優しく礼儀正しかったと自衛隊の隊員を絶賛していました。
そんなことを今回のヘリコプターの活躍で思い出したのでついでにご報告しました。(終り)











黄色い稲田と鎮守の秋祭りの風景を探して

2015年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は青空に秋の雲が浮かんでいました。一昨日の水害で亡くなられた方々のご冥福を雲に祈っていました。家々が洪水被害のあった方々の悲しみを思い浮かべていました。そして刈り取る直前に濁流に流されてしまった稲田のことを考えると同情が禁じえません。
そこで被害の無かった稲田の風景を想いました。洪水など無ければそろそろ秋祭りの準備などをする季節だったのです。
昨日は車を走らせ黄色い稲田と鎮守の秋祭りの平和な風景を写真に撮ろうとあちこち探し回りました。
もうそんな風景など東京には無くなったとも思いました。
しかし多摩尾根幹線道路を町田市の方向に下った場所に偶然見つけました。黄色くなって、まもなく稲穂が垂れそうな田圃が広がり、その向こうの山裾にある鎮守の森で秋祭りをしています。
地方の農村に行けば珍しくない風景です。でもまだ東京にも残っていたのです。
嬉しくなりました。そして稲作の歴史など思い返していました。
静岡県の登呂遺跡にあるように弥生時代から稲作が始まったようです。しかし長い間、稲は冷害に弱く東北地方にはよく育ちませんでした。
ですから宮沢賢治は、「サムサノ ナツハ、オロオロアルキ」と書いたのです。
それが最近の稲の品種改良の進歩のお陰で冷害が無くなりました。
現在、コメが一番採れるのは北海道なのです。そしてそれに続いて青森、秋田、新潟、宮城、山形、福島、というような東北地方の生産量が多いのです。
昨日、広がる稲田と鎮守の秋祭りの風景を見ながら、宮沢賢治の詩のことなど考えていました。
この稲田は東京都立公園の小山田緑地のすぐ傍にあります。
3枚の写真に昨日撮った稲田と鎮守の秋祭りの風景を示します。そして最後のススキの写真は小山田緑地のHPからお借りしました。
下に宮沢賢治の「小岩井牧場」という詩の一節をお送り致します。
・・・・・・
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が

いかにも確かに継起(けいき)するといふことが

んなに新鮮な奇蹟だらう

ほんたうにこのみちをこの前行くときは

空気がひどく稠密で

つめたくそしてあかる過ぎた

今日は七つ森はいちめんの枯草(かれくさ)

松木がおかしな緑褐に

丘のうしろとふもとに生えて

大へん陰欝にふるびて見える ・・・・以下省略します。
出典は、http://www.ihatov.cc/poems.htmです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







自衛隊のヘリコプターによる救助活動と、ある共産主義者の過酷な一生

2015年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日からの鬼怒川の氾濫で陸上自衛隊、海上保安庁、消防庁、そして栃木、茨城、神奈川などの各県警のヘリコプターが合計38機出動して1145人もの人を吊り上げて救助したのです。
昼間だけでなく夜も徹して救助活動をしました。
なかでも自衛隊のヘリコプターは大型で航続力も長いと見えて一番活躍したようです。
熟練した自衛隊員が濁流に取り囲まれた人の所へと降下し、慎重に、そして着実に吊り上げる様子に多くの人々が胸を熱くしたのです。それは感動的な光景でした。
この自衛隊の献身的な救助活動を記事にしてネットに掲載しました。そうしたら多くの人から良い記事だという評価を頂き感謝しています。
その幾つかのコメントは自衛隊を否定する共産党を手厳しく批判しているのです。
これは日頃、共産党が自衛隊は憲法違反だと主張していることに対する感情的な批判です。
そこで今日から20世紀の世界に数多くの悲劇をもたらした共産主義というものをいろいろな視点から書いてみたいと思います。
カール・マルクスの主張した共産主義思想はキリスト教のヨーロッパ文化の鬼っ子でした。それは輝かしい西洋文化の陰です。悪魔のような思想だと言う人もいます。
しかし多くの国で風靡し共産革命が起きたのです。革命が成功したのはロシア、中国、ベトナム、カンボジア、ラオス、そしてキューバなどの中南米の国などでした。そして第二次世界大戦でソ連に占領された東欧諸国は共産党政権が1990年頃まで続いたのです。
私自身は共産主義思想は間違った考えで、20世紀の人類に大きな不幸をもたらしたと考えています。
今日は私が直接知っているある共産主義の人の話をご紹介いたします。
その方とは写真に示したような甲斐駒岳の麓の小屋の庭で知り合いました。近くの別荘に独りで住んでいた老人でした。日本共産党の本部で生涯働いていたそうです。
その方は散歩が好きで私の小屋の前をよく通っていました。写真にあるような庭の小川のそばのテーブルに座って何度も談笑したのです。明るい性格の気さくな人でした。
その方が共産党に興味を持ったのは終戦が近い北海道帝国大学の学生の時でした。教授が強制的に学生を集合させて軍隊が本土防衛のために使う飛行場を作ることになったと言い放ったのです。そして飛行場作りの過酷な労働が連日続いたそうです。それが嫌になって共産党に入ることにしたそうです。戦時下の日本で軍国主義に反対して自由にものが言えるのは共産党のなかだけだったのです。その人は共産主義よりも自由主義にあこがれて入党を決意したそうです。
終戦直後に東京の共産党本部へ行き、入党の意思を述べたそうです。当時は帝国大学の卒業生は貴重な人材でした。即入党が許され本部で働き始めました。
ところが警察の調べと嫌がらせが親類まで執拗に行われたそうです。
札幌の下宿の娘さんと恋愛結婚していましたが、公安警察の取り調べと嫌がらせはその奥さんの親類まで徹底的に行われたのです。
新婚の家庭にまで公安警察が何度も来て、荒っぽい言葉で共産主義の悪口を言ったそうです。
それが原因で結局は離婚してしまったのです。そして共産党本部は何度も警察の捜索が入り、その度に逮捕されそうになったそうです。しかし彼は一回も逮捕されなかったそうです。警察が襲って来る数日前から予想出来たので雲を霞と逃げてしまったそうです。
そして二度目の結婚もし、子供も出来ました。二度目の奥さんは気丈で有能な職業婦人でした。公安警察の嫌がらせに耐え、最後には彼が住む別荘まで建ててくれました。彼とはそこに独りで住んでいるとき知り合ったのです。
さて何故、日本の警察は終戦後も共産党を弾圧したのでしょうか。その理由は冷戦構造にあったのです。アメリカに敵対するソ連と中国は共産党独裁の国です。資本主義を敵視するのが当時の共産主義だったのです。そんな情勢の中で日本はアメリカと安保条約を結んだ同盟国です。日本に共産主義が蔓延すればアメリカにとっては不利になります。
それを防ぐために日本は共産主義を弾圧しなければなりません。公安警察がこの国策に従うのは当然です。私は公安警察を非難していません。
最後に元共産党員だった彼に公安警察に対する感想を聞きました。彼は残雪に輝く甲斐駒岳を見上げて、しばし沈黙していました。
そして言ったのです。「すべては時代が悪かったのです」と。
この彼ももう別荘にはいません。空き家になった別荘が白樺林のなかにポツリと建っているだけです。
5枚の写真は順々に1甲斐駒岳、2私の小屋、3彼と何度も談笑したテーブルの脇を流れる小川、4その周囲の林、5そして山に咲く花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









「今日の青空と奥多摩湖の風景写真です」

2015年09月11日 | 写真
昨日の鬼怒川の洪水をもたらした豪雨も今日は嘘のよぅに晴れ上がりました。
五日市町から奥多摩周遊道路に入り、その展望台から奥多摩湖の写真を撮りました。
その後は柳沢峠を越え勝沼に出ました。笹子峠を越えて大月から中央高速道路に入り帰ってきました。
今日の青空と奥多摩湖の風景写真をお楽しみいただければ嬉しく思います。









宇宙の写真を見て考えることは人によって非常に違います!

2015年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
宇宙は約136億年前に出来たと言われています。そして地球のある天の川銀河系は129億年前に出来ました。そして我々の住む地球は46億年前に出来たのです。
宇宙の半径は460億光年で、天の川銀河系の半径は5万光年で、隣のアンドロメダ銀河までは250万光年も離れています。そして宇宙には1000億個の銀河が存在していると言われています。
宇宙は気が遠くなるいほど大きいのです。地球の海は水平線のかなたまで果てしなく広いものですが、宇宙の大きさに比較すると見えないくらい小さな水溜りです。
たまにはそんな壮大な宇宙を考えるのも良いものです。偶然この宇宙の片隅の地球上に生まれた自分は不思議な存在です。奇蹟としか考えられません。何故か感謝の気持ちが湧いてきます。幸せな気分です。
それではハッブル望遠鏡で撮った宇宙の写真を見てみましょう。ハッブル望遠鏡は宇宙船に乗っているので空気の層を通らない鮮明な宇宙の写真が撮れるのです。

(写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99 )
そしてついでに太陽系惑星を見ましょう。

(写真の出典:http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9021/gplanetj.jpg)

この宇宙の写真を見て人々はいろいろな考えを持つと思います。
そこで人々を無宗教者、仏教徒、キリスト教徒の三つに分けて考え方を想像してみます。
(1)無宗教者
現在の人類につながる新人が生まれたのは約20万年前です。
神は人間が考えた空想の存在ですから宇宙の全ては単なる物理現象と化学現象です。
宇宙のすべてのの星や惑星は人間の科学の進歩でその理解が詳細になるだけです。
人間の死は宇宙の中の小さな、極く小さな生物現象に過ぎないのです。
(2)仏教信者
お釈迦様はこの世の全てのものは必ず変化する。そして変化こそが物質の本質なのですと教えてくれました。
宇宙の中で星が生まれ、惑星が生まれ、お互いに衝突し、やがて消滅して行くのもお釈迦様の教え通りなのです。
ですからお釈迦様の教えは真理なのです。仏教信者はお釈迦様が全ての知恵の本質と信じています。その知恵を少しでも自分のものになるようにと毎日、お経を唱えたり修行をします。
人間の死も宇宙の中の極く小さな変化の一つだけです。悲しむほどのことではありません。このように言うに違いありません。
(3)キリスト教信者
ただ独りの神様が136億年以上前から存在していて全宇宙を作ったのです。
半径460億光年というとてつもなく大きな宇宙の隅から隅まで作ったのです。
20万年前に人間を作りました。そして2000年前にイエス様をこの世に送ってくれたのです。
神は人間をも愛しています。その愛はイエス様を通うして、より一層強く人間へ働き掛けているのです。
人間の死はこの世から神様の足元に呼び集めてくれた結果起きるのです。
そして最後の審判の時、全ての人間は復活して生き返るのです。
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さて皆様は上に書いた3つのうち、どれがお好きでしょうか?どれを信じているのでしょうか?
その答えは他人へ言う必要など一切ありません。時々、自問自答してみれば良いだけの話です。
ところが答えは明確でないのが普通です。上の3つとも好きな人も多いのです。その上、神道や道教のような民族宗教も好きな人も多いのです。
そんな事も含めて宗教のことを気軽に考えるのが人生の達人なのだと私は思います。
達人は狂信しません。達人は宗教を軽蔑しません。達人は人を非難しません。
達人は全ての他人を許します。そして悠々と日々を過ごしているのです。

私もそういう達人になりたいものです。
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東京にある江戸時代の田舎の風景・・・国分寺市お鷹の道

2015年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は栃木県と茨城県を流れる鬼怒川が氾濫して家々が流されたり亡くなったりした方々もいました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
そしてヘリコプターで命がけの救助を着実に行った自衛隊の方々へ深く感謝いたします。
さて今朝は青空に秋の鯖雲が広がっています。今日は静かな気持ちで過ごしたいと思います。そこで懐かしい風景写真をお送りいたすことにしました。

東京都の国分寺市に尾張徳川家の鷹狩リ場がありました。そこに行く道が「お鷹の道」として昔のままの景観がよく保存されています。
そのお鷹の道に沿って江戸時代の風情のある農家が並んでいます。国分寺崖線のふもとの南向きの場所なので豊かな湧き水があります。農作物の良く出来る場所なので昔から人が住んでいました。縄文時代の土器も出てくる住みやすい場所です。
このお鷹の道のすぐ西には東西にのびる東山道武蔵路があります。
そしてこの武蔵路を挟んで武蔵国分寺と国分尼寺があります。
この武蔵国分寺と国分尼寺は聖武天皇の詔で出来ました。そして1333年の鎌倉幕府の終焉の時の戦いで灰燼に帰したのです。
そのお鷹の道は私どもが良く散歩するコースです。
歩きながら子供の頃、毎年夏になると、父の実家のお寺へ里帰りしましたことを思い出します。一家5人で、2週間くらいお寺に泊るのです。そこは阪急線の「能勢口」で「能勢妙見」へ行く支線へ乗り換え、山の方へ入ります。途中で下車して10kmくらい田舎道を歩いた先にある馬場という小さなでした。狭い盆地のですが水田が広がり稲穂が夏の陽射しに輝いていたものです。
十数軒の農家が水田の端の山ぎわに密集して建っていました。お寺はそれを見降ろすような高台にありました。
お鷹の道沿いにある農家は昔、家族と一緒に帰省した馬場という小さなにあった古い農家を思い出させる風景なのです。見る度に、旧懐の情で胸が熱くなります。
今日はそのお鷹の道で撮った農家の写真をお送りします。
お楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







鬼怒川氾濫、自衛隊のヘリコプターによる救助活動に感動!

2015年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
午後に自衛隊のヘリコプターによる救助活動のを実況放映を2時間ほどテレビで見ていました。
今日ほど自衛隊を頼もしく思ったことはありません。
大型ヘリコプターを完全に静止したホバリング状態にして、隊員を一人下ろし、屋根の上で救助を待つ人に抱き着いて、またヘリコプターへ吊りあげるのです。この作業に1時間くらいかけるのです。
注意深く準備をしてから吊りあげるのです。決して急ぎません。素晴らしい職人技です。日ごろの訓練のおかげです。電柱につかまっている人、ベランダで救助まつ人とゆっくり着実に吊りあげたのです。ヘリコプターによる救助者数は合計150人を救助したと報道していました。

2011年3月11日の大津波の時の自衛隊員の大規模な活動にも感動しましたが、今日はひさしぶりに自衛隊を頼もしく思い感動しました。
NHKなどの今日のニュース写真を2枚お送りします。