日本は幸いにも共産主義の被害が小さく、大きな影響もありませんでした。しかしヨーロッパ世界は共産主義に怯え、特に1917年のロシア革命の成功の後は、自国の共産化を防ごうとする人々が沢山いました。そうしてどうにか資本主義を守り通せたのです。
特にロシアの政権は1923年に国際的に共産主義革命を援助する為に「コミンテルン」を組織し、ソ連の国家予算で各国の革命運動を支援し始めたのです。日本の共産主義者もコミンテルンに連携したのです。
もう一つは、共産主義はキリスト教を完全に否定したのです。これは世界中にいるキリスト教信者に恐怖を与えました。文字通り世界を震撼させたのです。
レーニンは、1918年から1920年までに、28人の主教を殺害し、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄されたのです。
ほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれています。
このニュースは1919年2月にロンドンで公刊されます。この公開文書は、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡で、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えていたのです。
ヨーロッパのキリスト教国は大きな精神的な打撃を受けたのです。いや全世界のキリスト教徒が衝撃を受けたのです。
この衝撃の大きさは仏教国の日本では比較的軽く見られがちです。
しかしキリスト教徒には大きな不安と挫折感を与えたのです。
ご存じのとうりキリスト教は2000年前にガリラヤ湖の近辺で生まれました。それ以来、紆余曲折はありましたが1517年のマルチン・ルターによる宗教改革まで教勢を一途に上げてきました。この宗教改革でヨーロッパのキリスト教はカトリックとプロテスタントに二大宗派に分裂します。
しかし1848年の共産党宣言でヨーロッパ人の一部が歴史上初めてキリスト教を完全否定したのです。
革命成功後のロシアではレーニンもスターリンもフルチュコフも大々的にキリスト教を弾圧したのです。特にスターリンは神学校を卒業し神父になる直前に共産主義に転向した人です。
全世界のキリスト教界に与えた精神的打撃ははかり知れないほど大きかったのです。
共産主義による宗教弾圧は現在でも中国やベトナムでも続いています。
中国ではカトリックのことを天主教と言いますがその教会はローマ法王の傘下に入ることを許されていません。中国共産党が大司教や司教や神父を任命しているのです。
個人的な話で恐縮ですが私どもがこれからミサに行く教会の主任神父のヨゼフ・ディン神父は共産党の弾圧を恐れてベトナムからボート・ピープルとして日本へ亡命した方です。
そのことを想うと共産主義の弾圧のすさまじさが身近に感じるのです。私は共産主義を恐ろしいと思います。
そしてソ連が崩壊してロシアにキリスト教が73年後に復活したことを嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===========
(1)ルターの宗教改革
1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。この批判はまたたくまに各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯の支持を得た。
「宗教は民衆のアヘンである」とのマルクスの言葉を踏襲し、宗教の存在を否定する。階級社会が発生して以来、支配階級は、民衆の目を厳しい生活からそらさせるため、常に宗教を利用してきたからである、とする。実際に、ロシア革命以降、諸宗教の数多くの教会が破壊され、聖職者及び信徒が殺害された。マルクス・レーニン主義者の、宗教に対する否定的な姿勢は、戦闘的と言ってもいい。
(2)マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』
http://page.freett.com/rionag/marx/mcp.html
共産主義の基本的革命理論を構築したマルクスとその友であるエンゲルスは、その著書『共産党宣言』において、「共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。」として、暴力によってのみ共産主義革命が達成できると主張した(暴力革命必然論)。革命理論としては他に、国家は抑圧のための暴力装置であり、全社会は相対立するブルジョアジーとプロレタリアートの二大階級に分裂するという(階級国家観)。革命転換の時期においてはプロレタリアートの革命的独裁が行われなければならないという(プロレタリア独裁論)。「万国のプロレタリアよ団結せよ」で知られるプロレタリア国際主義などがある。
(3)革命直後レーニン時代のキリスト教の迫害
http://www2.odn.ne.jp/~caq10260/c14.htm
…政教分離の名の下に行なわれた一連の宗教抑圧政策は、しばしば聖職者の処刑や教会の強制的閉鎖といった直接的な宗教弾圧をも伴い、その結果、宗教界の抵抗を招いて各地で流血の衝突が頻発するにいたった。
ロシア正教会の場合、1918年から1920年までの間に少なくとも28人の主教が殺害され、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄された。
またほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれている。
1919年2月にロンドンで公刊された、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡は、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えている。
過激派が1917年のロシアで政治権力を掌握すると、彼らは社会の教養階級だけでなく、宗教そのもの、教会の指導者たち、そしてあらゆる人々から尊ばれた宗教的記念碑を一掃しはじめました。
モスクワのクレムリン大聖堂、ヤロスラーヴリやシンフェローポリといった諸都市の聖堂は略奪され、多くの教会が汚されました。
由緒ある至聖所も、モスクワとペトログラードの有名な総主教書庫も略奪を受けました。
キエフ府主教ウラジーミル、20名の主教そして数百人の聖職者たちが暗殺されました。
しかも殺害する前に、ボリシェヴィキどもは犠牲者の手足を切り刻み、そのうちの幾人かは生きながら火で焼いたのです。
(4)レーニン主流派(ボリシェヴィキ)による各国の革命に支援:
武装蜂起の支援:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
ボリシェヴィキはロシア革命をヨーロッパ革命の導火線と位置づけており、ヨーロッパ革命なしではロシアで国家権力を維持することも難しいと考えていた。そのため、ソヴィエト政府の財政資金も利用して[6]ヨーロッパの共産主義運動を積極的に援助した。
とりわけ重要視されたのがドイツだった。1918年11月に社会民主党政権が成立して以後、1919年のバイエルン・レーテ共和国、1920年のカップ一揆と政治的激動がつづき、勝利が近いと考えられた。
1921年3月のドイツにおける三月行動はコミンテルンが組織的にヨーロッパの革命を援助した最初の例となった。
(5)ボリシェヴィキよは?https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AD
ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派。ボルシェヴィキ、ボルシェビキとも呼称される。
1917年の十月革命以前から活動していた者は特にオールド・ボリシェヴィキと呼ばれる。ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴である。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
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写真の説明:
一番目と二番目の写真はマニラでの野外ミサの様子です。写真と説明文は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/9688495/… から転載しました。
(2015年1月18日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News
三番目の写真は、18日、フィリピン・マニラの大学を訪れ、子どもたちと交流するローマ法王フランシスコの様子です。(AP=共同)
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以下は、http://news.livedoor.com/article/detail/9688495/ からです。
【AFP=時事】フィリピンを訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王(78)は18日、首都マニラ(Manila)で大規模な野外ミサを主宰した。雨の降りしきる中、歴代法王が開いたミサとしては過去最多の600万人が集まり、貧しい人々の救済を掲げた法王のアジア歴訪のフィナーレを飾った。
法王は、フィリピン名物の派手なミニバス「ジープニー」風に仕立てた専用車「パパモビル」に乗って、マニラ湾沿いにあるリザル公園(Rizal Park)のミサ会場に登場した。
フィリピンはアジア最大のカトリック国で、国民の80%がカトリック信者。だが、さすがの法王も群衆の数に驚いたようで、付添のマニラ大司教によると、「純真な人々の信仰の深さは私にも測り知れない」と語ったという。
マニラ市当局によると、沿道と公園には法王を一目見ようと警察推定で600万人が集まり、1995年に当時のローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)が同じ場所で行ったミサに集まった500万人という記録を超えた。
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そして、この動画も是非ご覧下さい。
ローマ法王を好きすぎる男の子が乱入した時の様子の動画です。
ローマ法王フランシスコが座るステージに上がってきた1人の男の子が法王のいすに座ってみたり足に抱きついたり、やりたい放題です。「ローマ法王を好きすぎる男の子が乱入」を検索して下さい。面白いから是非ご覧下さい。http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p8471f0f4fce756c8cb5535eff1186302 です。