後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の林業や農業の危機は増え過ぎたシカとイノシシの問題

2015年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「荒れゆく牧草地、放棄される田圃や畑・・悲しい日本の風景」という記事を掲載致しました。
日本の農村に住む人々の高齢化で廃屋が増え、シカやイノシシが急に増えています。その鳥獣被害が年間1000億円と言われるようになりました。そのような内容の記事でした。
その原因を深く考えると1970年の頃から日本にも広がった「環境保護」や「公害防止」、そしてその関連で生まれた「野生動物保護」や「絶滅危惧種保存」などのいろいろな考え方が日本の社会にも深い影響を与えて来たのです。
これらの新しい社会運動は主にアメリカで始まり世界中で流行しました。
その結果、日本でも公害防止の技術が進歩し、海や川が綺麗になりました。隅田川に白魚が泳ぐようになったのです。
このように「環境保護」や「公害防止」の運動には大きな良い成果があったのです。
しかしその一方、悪い影響もあるのが当然です。例えばアメリカでは野生のオオカミを保護した結果、オオカミがアメリカ北部で増え、牛や羊などの家畜が襲われるようになりました。
アメリカだけではなく「野生動物保護」を推進した先進国では農業における鳥獣被害が増大したのです。それは日本だけのことではありません。しかし日本は国土が狭く、農地と山林が密着しているだけに深刻な問題になっているのです。
この農業の鳥獣被害の実態について、昨日、趣味人倶楽部の「 ゆっきーさん」と「よはちさん」のお二人から以下のようなコメントを頂きました。鳥獣被害の実態を見事に描いてあるにで、まずご一読下さい
===== ゆっきーさんからのコメント: 2015/09/09 20:04==========
綺麗な牧草地や田畑が荒れ始めているのは非常に残念です。野田市でも放棄地と思われる畑が50%くらいです。後10年で畑90%が荒れ放題になりそうです。
会社組織とか規模拡大とかで解決できると言われる人がいますが。しかし麦や大豆などなら最初は出来るが、5年くらいで雑草に作物が負けてしまいます。軟弱な野菜など最初から雑草だらけになります。これが規模拡大が出来ない原因です。小規模で手間暇を掛けていまは出来ているいのが畑の実態です。
時給にしたら1時間で200円位になりますかな? これで会社が成り立ちますか? だから条件の良い田畑だけを耕作することになり、他は放棄地なっています。
会社の営農参加も有りますが補助金で設備や機械を整えているようです。税金で農産物を作るので良いんでしょうか? 
農地は1年荒らすと10年祟ると言われます。綺麗な田畑にするには10年間の苦労があります。根性のある方は農業をしてみてください。 雨や風にも負けてはダメです。鹿やイノシシはまだいませんがハクビシンで困っています。動物愛護団体の方が居たら連れて帰ってください。 (終り)
=====よはちさんからのコメント: 2015/09/09 18:16==============
NHKのドキュメンタリ-で、群馬県の南牧村の過疎化と現状を放映したことがあります。一般的にドキュメンタリーは制作者の 意図や主観を含まぬ事実の描写なので説得力のある番組でした。
過疎化の進行度は凄まじいもので、大きい立派な農家が荒れ果て軒並み空き家になっていきます。
テレビの内容は、高齢の女性が一人暮らしをしているけれど、東京に家族を持った息子さんが東京に行こうと誘っても、何が何でも先祖と夫の眠るこの家から離れられない。
息子さんは、毎週日曜には体の都合を付けては戻ってくる。
鳥獣の被害にあうかも知れない野菜を作り、洗濯をしたり掃除をしたりします。
逆に家族が田舎へ戻ったのでは生活ができるだけの収入が危うく、子供の将来を考慮すればやはり無理です。
南牧村でも上野村でも、野生鳥獣を追いやるほどの開発力は絶対にあり得ません。
山林を切り払って畑にしたから、イノシシやシカの住むテリトリ-を奪ったからなんて、何の知識もない人の寝言でしかありません。
相変わらず同じような主張を繰り返す人が居ます、
「私は事実に基ずくことは知らずに感情論を主張する愚か者です」と書き込んでいるのです。まさに愚か者というより恥を知らぬ人です。
私は25年間の銃猟と射撃の経験者ですから、何がどうだか実際に観ています。キツネが増えるとウサギが減って、ウサギが増えるとキツネも増える、のです。食物連鎖が現在は滅茶苦茶狂っています。
ユウスゲの花は群馬県の榛名山で有名ですが、南伊豆でも群生の場所があってユウスゲの岬という大きな看板がある大変景観の素晴らしい目の前に海が開けた場所があります。しかし、現在はユウスゲは、その季節に行っても一輪もありません。鹿が群生していて根絶されてしまったのです。
西伊豆へ行くと、海の向こうへ富士山が見える黄金岬という場所があります。カノコユリが沢山植えられて素晴らしい眺めでした。
三年後に行ったら、全くカノコユリの姿がありません。いくらなんでも、あれほど沢山有ったのと呆然としてしまいました。
散歩に来た老人夫婦の話では、ユリの根は野生動物の大好物だから目を付けられたらお陀仏だそうです。
食物連鎖を考えると、日本オオカミの絶滅が全国に影響を及ぼしたとも考えられます。場所によってですが適正生息数の10倍迄増えた鹿の食害、これからどうすれば良いのか大問題です。
愚論を主張する人は、少しでも責任を感じたり事実確認の良心の欠片でもあるなら、山村の山裾の畑を取り囲みむ被害防御柵の脇を歩いてみたら良いのです。
スコップで撒いたのかと思うほど、そして山になってまとまった鹿のフンの量に愕然とするでしょう。ヤギや羊の糞とよく似ています。
それでも、いざ駆除となれば、決してたやすいものでは無いのです(狩猟法がありますから)。 (終り)
・・・ここで狩猟の話が出て来ましたのでその経験者の「でいしゅうさん」からのコメントを掲載致します。
=====でいしゅうさんからのコメント: 2015/09/09 11:03===========
終戦後、陸軍飛行場が開墾地となり、満州からの引揚者が開拓しました。その苦労が実り、美田に変わる頃減反です。そして宅地化の波が追い打ちを掛けました。
それはさておき、銃所持者が激減したのは警察による締め付けです。その背後には銃撲滅の大衆世論です。無責任な世論はヤクザのピストルとハンターの猟銃を一緒にしました。警察にとってヤクザは難しいのでハンターから銃を取り上げました。猟銃は管理されていますがピストルは管理されていませんから大変です。そして例外的な銃犯罪も銃規制に拍車を掛けました。
この為、嫌気がさしたハンターは次々と猟銃を手放しました。山野が荒されても嫌気のさしたハンターには関係ありません。手放せば嫌がらせ的な警察規制から解放されます。決して警察を批判していません、彼らは世論の動向でやっているだけです。
一般の方が知れば驚くような規則がありますが、銃撲滅の大号令でやっているだけです。
あと考えられるのは社会の変化です。狩猟よりもゴルフに関心が変わったのです。つまり趣味の多様化です。どこを向いてもスマホでは自然への関心は無くなるでしょう。
心配なのは現在の動きです。サバイバルゲーム感覚でのハンターが増える事です。銃の研究は良いのですが、軍用銃やマニア銃に走る事です。警察でもなければ猟友会幹部でもない小生が心配する事ではありませんね。
まもなく猟期です。安全無違反の狩猟を楽しんでもらいたいと祈るだけです。 (終り)
さてイノシシの増加はフランスでも同様なことのようです。
下にフランスに在住のMotokoさんからFace Bookで頂いたコメントをご紹介致します。
======Motoko Boutdumondeさんから頂いたコメント====
写真の風景の所は素晴らしいところなのに...でもどこも同じ問題が発生しています。うちの庭(というか荒れ庭)にはイノシシが一頭住み着いているらしいのです。それも家から20mもないところにです。まあ、襲ってこないし、うちでは作物を作っていないので被害はありませんが、農家とかはたいへんでしょうね。イノシシが荒らすとブルドーザーが通った後のようになりますよね。あと、フランスのアルプスに近い地方では、東ヨーロッパから持ってきたオオカミの数が増えて、羊やヤギを次々に襲っています。難しい問題ですね。時々はイノシシとかは狩りのシーズンでなくても、狩ることにしたりして数の調整を行っていますが、オオカミはもともと絶滅に瀕していたのを移住させたので、手をつけていません。羊飼いの人たちは自衛しか手段がないようです。(終り)
以上のように鳥獣被害は日本だけの問題ではなく多くの国々で起きている深刻な問題です。
しかし1970年頃から40年以上も続いた「環境保護」や「公害防止」、そしてその関連で生まれた「野生動物保護」や「絶滅危惧種保存」の影響で起きた現象なのです。従って、この問題の解決は一朝一夕では出来ません。まず鳥獣被害の実態を理解し、冷静にその対策を考え、根気良く実行しなければなりません。この記事が少しでも獣被害の実態の理解に役に立つことをお祈り致します。
写真に雄大な北海道の農地の写真と増え過ぎた北海道のエゾシカの写真を示します。写真は自分で撮ったものではなく、ネット検索で見つけた写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





荒れゆく牧草地、放棄される田圃や畑・・悲しい日本の風景

2015年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
下の写真は山梨県北杜市の山林の中にある私の小屋のそばに広がる草原です。遥か彼方には雲に覆われた八ヶ岳が横たわっています。

以前は緑豊かな牧草地でした。28頭の乳牛が食べていた牧草が生えていたところです。
数年前に高齢化した牧場主が牧畜を止めて、便利の良い村落へ引っ越してしまったのです。勤勉に働いたので大きな立派な家も建ちました。遊びに寄ると、元気な夫婦が昔と同じ様に歓迎してくれます。
しかし、この草原を散歩してみると牧草が次第に勢いを失い雑草が茂り、自然の草原へ変わっているのです。
しばし眺めていたら先代の牧場主の老爺が鎌を研ぎながら、牧草を刈っていた光景を思い出します。いつもニコニコしていました。その奥さんもとても親切な人で、朝早く絞った牛乳を一升ビンに入れて私達の小屋へよく届けてくれたものです。春は自分の家の竹藪にクワを担いで行って、竹の子を掘ってくれました。
その先代の牧場主夫妻もとっくにいなくなってしまいました。
足もとを見ると猛毒のトリカブトの花が咲いています。下にその写真を示します。

こうして牧草地は自然へと還って行くのです。
自然へ還って行くのは牧草地だけでありません。えいえいと何年も苦労して作り上げた田圃も放棄され雑草が茂っています。
畑も野原に変わっています。しかしそれを惜しんだ人が花の種を播いています。そのような野原の写真を下に示します。

それだけではありません。薪取りや山菜採りに足しげく通った里山へ続く道へ誰も入って来なくなりました。たまに都会の人がその別荘に行くために通るだけです。下にそんな淋しい山道の写真を示します。

そして農村から引っ越してしまった人の廃屋があちこちにあるのです。下の写真は甲斐駒岳の麓に広がる山梨県北杜市武川町の長閑な風景です。数年前までは武川村と呼んでいました。

40年前にその山林の中に小屋を作った頃は廃屋など一軒もありませんでした。
白壁の美しい農家が並び家々の門前には綺麗なシバザクラの花が咲いていたのです。
しかし最近はそのシバザクラも消え廃屋があちこちにあるようになりました。
このような農村の風景の変化は私どもにとっては悲しい風景です。それは都会に住む者の勝手な感傷に過ぎませんが。
そこで何故農村の風景がこんなに変わってしまったのか原因を少しずつ調べてきました。
大きな原因は高度成長による日本の産業構造の変化です。利潤の多い工場や会社に人々が集まり山がちな農村の過疎化が進行したのです。そして残った農民の高齢化は一層拍車をかけました。
他のもう一つの大きな原因もあります。
農作物の鳥獣被害が加速的に増加していることです。
この鳥獣被害の実態については8月14日に以下のような二つの記事を掲載しました。
「鳥獣被害額は年間1000億円くらい!」と「狩猟の趣味の実態を知り、皆で考えよう」です。
農林水産省ホームページによると日本の鳥獣被害額は年間200億円弱といいます。
その内訳を見ると鹿と猪の被害が一番多いのです。
そして届け出ていない害獣被害を含めると被害額は年間1000億円と推定されています。
大切に育ててきた農作物が一夜にして食い荒らされてしまうのです。
この年間1000億円は大企業の年間利潤と比較するとそんなに大きな金額ではありません。
しかしこの被害は山間部の零細な農家にのみ偏って起きている被害なのです。
それがこの問題を一層深刻にしています。
イノシシや鹿や猿が急増し、農作物の被害が深刻な問題になっています。
そこで各地の自治体はイノシシと鹿の駆除をしています。狩猟で獲ったイノシシやシカを役場に持って行くと報奨金がもらえるのです。
有害駆除で捕獲されたイノシシとシカの数は30年前は合わせて10万頭程度でした。それが2007年度には44万頭にまで増えています。
しかし、これだけ捕獲しても被害増加のペースは一向に衰えないのです。
駆除の方法は罠猟と銃猟です。罠猟は効率が悪いのでどうしても銃猟になります。
ところが銃猟をする人が激減しているのです。
 2007年度のデータによると、狩猟免許所持者約23万人中、60歳以上が約13万人、50歳以上まで含めると約20万人となり、50歳未満の狩猟者数はわずか3万人程度です。このままの状況であれば、20年後、30年後には銃猟者が消滅してしまうでしょう。
日本の農林業を守るためには鳥獣被害をこれ以上増やさないようにする必要があるのです。
ところが都会にある動物愛護団体が猛然と反対運動をするのです。山に近い農村の窮状の実態も知らずに狭い視野での動物愛護運動を大々的に展開しているのです。
鳥獣被害が山に近い農村の人々の死活問題だということを知らないのです。そして「人間が自然の動物の縄張りまで開墾したのが悪い!」と言って冷笑するのです。
しかしこれは倒錯した、そして幼稚な考えです。シカやイノシシと人間の命とどちらが大切なのでしょうか?
考えてもみてください。戦後の食糧難の時代に農民が苦労して荒地や山地を開拓してくれたお陰で食糧がなんとかなったのです。動物愛護団体の人々の父母の命は当時の農民の努力によって永らえたとも考えられのです。
もちろんお釈迦様の教えにあるように殺生はいけません。貴重な動物は保護すべきです。
しかし動物保護には限度があります。適正な動物の分布がどうあるべきか理知的に研究する必要があるのです。感情論では山がちな日本の農村は次第に荒廃して行くでしょう。
動物愛護運動が過度に感情論に流されず本来の美しい運動にあることを祈らずにはいません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

奈良県にある江戸時代に作られた森野旧薬園の花の写真

2015年09月08日 | 写真
奈良県宇陀市にある江戸時代に作られた森野旧薬園の花の写真をご紹介します。

ネットの上で交友のある、でいしゅうさんという方から江戸時代からある薬草園を教えて頂きました。

宇陀市で、くず粉を作り始めて11代目の藤助が享保年間に自宅の裏山に開いた「小石川植物園」と並ぶ日本最古の薬草園です。 約250種類の薬草木が四季折々に来園者の目を楽しませてくれます。薬園からは、大宇陀の町を見渡す事が出来ます。(http://www.morino-kuzu.com/kyuyaku/)
そのHPから花の幾つかの写真をご紹介いたします。
花の写真は順に、カタクリ、シャクヤク、キョウカノコ、カザグルマの4種類です。









上海の「韓国臨時政府」旧庁舎式典に出席した朴槿恵大統領

2015年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム
みなさまこんにちは。少しだけ政治的なことを書きたいと思います。しかし政治的な記事は読みたく無いという方々の為に、いろいろな花の写真をお送りいたします。写真だけでもお楽しみ下さい。薬草植物園で撮った花々です。その名前はこの記事の終りの部分にあります。
さて先日、下のような目立たない小さな記事がありました。
「韓国大統領:上海の改装式典に出席ー臨時政府旧庁舎」
毎日新聞 2015年09月04日 21時12分
 【上海・大貫智子】中国の抗日戦争勝利記念行事出席のため訪中している韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は4日、日本の植民地時代に独立運動の拠点となった上海の「大韓民国臨時政府」旧庁舎改装オープン式典に出席した。韓国は、中国が韓国の独立運動を評価したことを歓迎しているが、日韓関係の改善を目指す朴大統領は式典での激しい対日批判は避けた。(以下省略)

また嫌がらせをしていると顔をしかめる人も多いと思います。
しかしこの小さなニュースこそ日韓関係史の中で重要なある出来事を明確に示しているのです。日韓関係を少しでも改善すべきとお考えの方は以下もお読みください。
話を簡略に書けば日本が朝鮮半島を併合したときそれに反対して独立運動が起きました。1919年の3月1日に起きたので三・一運動と呼ばれています。
そして上海に亡命した人々が大韓民国臨時政府を組織したのです。その代表に選ばれたのが李承晩でした。
しかし世界情勢は韓国にとって不利でした。第一次世界大戦で戦勝国になった日本を尊重し欧米各国はこの上海の臨時政府を承認しませんでした。
しかし時が流れ、第二次大戦が終了すると韓国は独立します。そしてこの臨時政府代表だった李承晩が初代大統領になったのです。当然ながら李承晩大統領は反日的な政策を次々と実行します。
そして出来上がった韓国の憲法の前文には独立運動の三・一運動が明記され現在の韓国は1919年に上海に出来た臨時政府の流れに従った国家であると高らかにうたい上げているのです。その憲法の前文の冒頭の部分を抜粋し以下に示します。
・・・ 悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び、不義に抗拒した、・・・・
この憲法に忠実に従って槿恵大統領は北京から遠い上海まで行ったのです。
韓国の独立運動の拠点となった「大韓民国臨時政府」が使っていた旧庁舎を改装しオープン式典が行われたのです。
ある外国の大統領が何をしようが自由です。干渉しない方が良いのです。
しかしこの臨時政府の旧庁舎を改装する費用は全て中国政府が出したのです。
伊藤博文を暗殺したトマス安重根の記念室をハルピン駅に整備したのも中国政府が費用を出したのです。
これらの記念室や臨時政府庁舎の整備は本来韓国の費用でするべきであるのは当然です。
私の冒頭の記事の感想は朴槿恵大統領の外交は個人的な感情が強すぎるというものです。
韓国は一方でアメリカと軍事同盟を持っています。
アメリカはどのように考えているのでしょうか?朴槿恵大統領の上海訪問について黙して語らずです。日本政府も同様です。何故でしょうか? 日本政府は上海に臨時政府があったこと広く知られるの嫌なのかも知れません。

皆様は上海に1919年、韓国の臨時政府が出来、李承晩がその代表だったことはご存知でしたでしょうか?私は知りませんでした。
今更、日本人が朝鮮の併合を卑屈に謝る必要はありません。しかし上海に1919年から韓国の臨時政府が存在し、現在の韓国政府はその臨時政府の延長にあると憲法の前文に明記してあることだけは知っておく方が良いのではないでしょうか?
そんなことをあれこれ考えさせる出来事でした。
添付した花の写真は一昨日、東京都立薬用植物園で撮った写真です。
一番目の写真は根が漢方薬になるコウホンです。
二番目の写真は根や種が薬の原料になるイヌサフランです。
三番目の写真はサトイモ科のムサシアブミです。
四番目の写真はオオベンケイソウです。
五番目の写真はカラスウリの花です。
六番目の写真はツリガネニンジンの小さな花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











陽賜工房の恒例の秋のオープンガーデンのお知らせ

2015年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
主催者の原田聖也さんからご案内状を頂きましたので皆様へもご案内いたします。

企画の内容は、山里の心地良いガーデンを開放して、参加者にゆっくり寛いで頂くというイベントです。参加自由、参加無料のイベントです。
毎年、春と秋に開催しています。

何方でもふるってご参加下さい。

開放日:9月21日(月)と21日(火)と22日(水)の三日間です。

時間:午前10時から午後4時ころまで。

場所:陽賜里(ひだまり)工房ガーデン:山梨県北杜市武川町山高3567-556

連絡先:生活庭園県研究家、原田聖也:携帯電話:090-4170-0370
E-mail: t-taraku@t-net.ne.jp

ご参考までに2011年の春のオープンガーデンに家内と共に参加した折に撮った写真を以下に示します。

上の写真の右端が原田聖也さんです。その隣が原田さんの母上です。その左が小生です。この写真は家内が撮りました。

上と下の写真は庭の様子です。庭の一番奥の高いところに別荘があります。



薬草の花々の写真・日本人は戦後まで薬草を普通に使っていた!

2015年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
薬草植物園が好きです。昨日も行きました。裏の広い雑木林で夏の名残りのアブラゼミとミンミンゼミが鳴いています。涼しい秋風が林から吹いてきます。私は珍しい薬草の小さな花々を上手に撮ろうと中腰になったりしゃがんだりしながら時を過ごしました。
この植物園は東京都が運営していて広い畑に昔、人々が薬として使っていた薬草や現在も薬の原料になっている植物の畑や有毒植物のケシ・アサ試験区があります。その上外国の珍しい薬草まであります。とにかくよく見られるあちこちの公園の花園とは違います。
帰りの車のなかで何故こんなに薬草園が好きなのか考えてみました。
そしたら薬草は楽しかった幼児のころをつぎつぎと思い出させるのです。
戦前、戦後のころまでは日本中でいろいろな身近の薬草が日常的に使われていたのです。
私の家には農村出身の女中さんが2人いました。幼い私をとても可愛がり、病気や怪我をすると薬草で親切に手当をしてくれたのです。
お腹が痛いときはゲンノショウコやドクダミをからからに乾したものを煎じて飲むのです。
怪我をすると傷の上にオオバコの葉をあてがって包帯をしてくれます。冬に指が霜焼けになり膨れるとアオキの葉を火に焙ってから膨れた指を巻いてその上から包帯をしてくれました。
今、考えてみると薬草の効き目は少しだけでした。しかし薬草を使って手当してくれる女中さんの優しさが良い思い出になっているのです。
薬草といえば庭に除虫菊やヨモギを植えていました。夏前に刈り取って乾しておくのです。当時は網戸が無かったので夏になると蚊が猛然と襲って来ます。そこで廊下に火鉢を出して乾いた除虫菊やヨモギを燻すのです。蚊はその煙が嫌いで家の中に入って来ないのです。
そしてそれから20年位の年月が流れました。
その頃は私も結婚して小さな子供が二人いました。その新婚の家に富山の薬売りがやって来ました。そして富山の薬は昔から薬草を原料にしているから体に良いですとしきりに勧めます。
そして引き出しにいろいろな富山の薬の入った小さな箪笥を置いていったのです。
その薬屋さんは毎年一回訪ねて来て、小さな箪笥を開け、使った分だけの薬の代金を受け取ります。そして新しい薬を補充して帰って行きます。
子供はよく病気になるものです。夜中に病気になるとすぐ富山の置き薬を飲ませます。そして夜が明けてから近所の小児科のお医者さんへ連れていったのです。このように薬草を使った富山の薬は大変役に立ちました。しかし経済の高度成長のころになると富山の薬売りも何時しか来なくなりました。そして家々で日常的に使っていた薬草も消えてしまったのです。
このように幼児の頃と新婚の頃の幸せだった頃のことを薬草園に来ると思い出すのです。
ですから小平市にある都立薬用植物園に何度も行くのかも知れません。
話はこれでお終いです。昨日撮って来た9枚の写真を示します。
ところでまだ薬草を使っている方がおられましたら、是非お知らせください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

上の写真はキキョウ科のサワキキョウです。

上の写真はショウガ科のヘディキウム・コロナリウムです。

上の写真はシソ科のラベンダーセージです。

上の写真はアオイ科のトロロアオイです。

上の写真はマメ科のチョウマメです。

上の写真はナス科のヤエチョウセンアサガオです。

上と下の写真はアオイ科のリクチメンです。世界で一番栽培されている綿を取る植物です。



上の写真はフウチョウソウ科のクレオメです
===参考資料======================
東京都立薬用植物園の薬草の栽培地の配置図
1、温室
2 漢方薬原料植物区

3 水生植物区

4 有用樹木区

5 民間薬原料植物区

6 ケシ・アサ試験区

7 製薬原料植物区

8 ふれあいガーデン

9 染料・香料植物区

10 外国植物区

11 有毒植物区

12 ロックガーデン

13 林地

14 栽培試験区

「過ぎ行く夏を惜しみつつ、やがて枯れる行くヒマワリ達の姿」

2015年09月06日 | 写真
昨日、三鷹市花と緑の広場に行きましたら夏の名残りのヒマワリが一面に咲いていました。しかし秋の冷たい風で少し枯れ始めていました。
季節のうつろいです。今年最後のヒマワリの写真です。







世界に影響力があるという謎のイエズス会の修道院の探訪記

2015年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
イエズス会は近代においてさまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かったのです。さらにイエズス会の世界的な組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、教皇とバチカン市国を陰から操っているとも言われます。
そこでいろいろな本を読み、そして東京にあるイエズス会の修道院を訪問してその活動の一端が判りましたので簡略にご報告いたします。
イエズス会はカトリック教会の男子修道会としては最大のもので現在世界中に20000人の会員がいます。
もちろん日本にも支部があります。そして上智大学、栄光学園(鎌倉市)、六甲学院(神戸市)、広島学院(広島市)、上智福岡中高の泰星学園(福岡市)などを所有し運営しています。これらの学校の理事長はイエズス会の神父です。
このイエズス会の創立は1534年です。創立メンバーの一人のザビエルが1549年に日本にキリスト教を伝えたのです。下の写真はよく教科書に載っているザビエルの写真です。

イエズス会の神父による東洋への布教活動については東洋文庫から出された何冊かの本で読んでいました。
しかし以前はイエズス会が日本でいろいろな活動をしていることは知りませんでした。
ところがカトリック小金井教会でイエズス会石神井修道院の若い修練者にお会いしたのです。
下の写真はこの若い修練者が聖なるパンを信者に与えている場面です。2010年の春頃から毎週、日曜のミサのお手伝いに修道院から小金井教会へ来てくれていたのです。

イエズス会については幾つかの本を読み興味があったので何度か立ち話をしました。素晴らしい青年です。そこで気楽な気持ちで、イエズス会石神井修道院の取材に行ったのです。
電話で訪問を申込みました。お会いして下さったのは塩谷恵策神父様でした。
下にイエズス会石神井修道院の玄関と神父様の写真を示します。



気楽に会って下さった塩谷恵策神父様は訪問するとすぐに修道院の隅々まで明るい態度で案内してくれました。修練者の食堂があり教室や図書館があります。そして聖堂とその入り口には和服姿のマリア様の像もあります。
下に聖堂とマリア像の写真を示します。



修道院という場所は一般人の立ち入り禁止の筈なので見学出来たことにびっくりしました。
修道院の案内後、塩谷恵策神父様からいろいろ話をお聞きしました。
博識な上、学問的に体系化されたイエズス会の歴史、修道院の種類とそれぞれの役割を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。
そして世界中で現在も布教活動をしていて日本にも支部がありその建物は上智大学の敷地の中にあると教えてくれました。
イエズス会は各国に学校を作り教育事業に力を入れているそうです。
塩谷神父様は以前は栄光学園で働いていたそうです。この記事の彼の写真を栄光学園の卒業生が懐かしく思ってくれるように祈っています。
今日の記事の表題に「謎のイエズス会」と書きましたがイエズス会はj秘密結社でもなく実に開放的な修道会だったのです。
なお最後の写真に示した和服姿の聖母子像は8月31日掲載記事の「舟越保武の彫刻の世界・・・聖なる美しさと深い精神 」でご紹介した船越保武氏の作品です。船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家で、それに対して高村光太郎賞が1962年に与えられています。敬虔なカトリック信者でした。

最後にいきなり俗っぽい話に飛びますが現在アメリカ発祥のいろいろなチェーン店が日本や各国に展開しています。ファミリーレストランや大型量販店の経営思想の多くはアメリカで考え出されました。独創的な経済活動だと私はかねがね感心していました。
しかしイエズス会の活動を調べて行くとその各国への展開の仕方がアメリカの経済活動の世界展開の仕方によく似ているのです。
もしイエズス会の考え方が影響していたとしたら驚きです。文化や文明の奥の深さを考えさせられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

秋の花の写真をお楽しみください

2015年09月05日 | 写真
秋です。オミナエシと萩とススキの写真を撮ってきました。
久しぶりに三鷹市の花と緑の広場に行きました。広場はすっかり秋の草花でした。
いろいろな花の写真を撮りましたが今日はオミナエシと萩とススキの写真をお送りいたします。秋の風情をお愉しみいただけたら嬉しく思います。











多くの日本人が知らないアメリカ社会の奥深さ・・・ある体験記

2015年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカは自由の国と言いますが、日本と比べてどのくらい自由なのでしょうか?
アメリカ合衆国には州によって多少の違いはありますが、いろいろな幅広い自由があるのです。
国家が教育に干渉しないで自由に教科書を作れる自由、同性婚の自由、銃を持つ自由、狩猟趣味の自由、などなど州によって違いがありますが、国家による規制が一切ありません。
そして外国の宗教や新興宗教の布教活動も自由です。創価学会や統一教会もアメリリカで盛んに布教活動をしています。
唯一の国民の義務は徴兵制度のあった昔はそれに応ずる義務でがありました。それも絶対平和主義の人は期間を長めにして後方勤務をして良い自由があったのです。
これらの多種多様な自由がアメリカの社会に深い奥行を作り、それがアメリカの強さの根源になっているのです。
今日はその一つの実例としてアーミッシュ派という極端に禁欲的なキリスト教の一派の存在をご紹介致します。私はこんなアーミッシュの村を訪問し、一泊した体験があります。
約25万人いるこの一派の人々は全てのアメリカ文明を拒否し、農村地帯に孤立した村を形成して自由に暮らしています。
アーミッシュの村は、ペンシルバニア州、オハオ州などの中西部に散在しています。
禁欲的な質素な生活を守り、職業は農牧業のみです。電気・ガス・水道、自動車、耕運機、電信電話など近代文明の産物は一切使用しないのです。
義務教育はないし税金もありません。
アメリカの市民権は認められ、白人ではありますが、まったく異質の文化を守り、孤立した村として散在しているのです。それは現在のアメリカ人とは全く異質のアーミッシュ民族とも呼べる人々なのです。
1989年にオハイオ州コロンバス市に住んでいた時、訪問し一泊して来ました。
車で二時間の所にありました。まったく想像を絶する原始キリスト教のような生活をしているのです。以下に探訪記をお送りいたします。
@「現存する中世の村人たち」ーーアーミッシュ村の風景ーー
アーミッシュの村に入ると、「路上で黒塗り箱型の馬車が近付いたら徐行すべし」という意味の絵看板が増えて来ました。周りは一面の実り豊かな麦畑。その間に牛馬がのんびり草を食む牧場が散在し、素朴な木造一階建ての農家が栃の大樹の木陰に見え隠れしています。
看板通り、黒塗りの箱形馬車が近付いて来たので慌ててブレーキをかけ、徐行しながらすれ違います。手を挙げて挨拶をすると、黒いシルクハットをかぶり、襟の小さな黒い背広を着た老人が目を上げないで、手をわずかに振って挨拶を返します。
麦畑では刈り取った麦束を馬車に積み上げています。農夫はさすがに上着を脱ぎ、黒いチョッキ姿で汗を流しながら一心に働いていました。
アーミッシュ村に車で観光に行った場合のマナー
「御土産店、喫茶店、民宿の前以外の道端に絶対車を停めないこと。馬車が見えたら急いで減速し徐行する。必ず挨拶をすること。しかし相手の目を見たりしない。もちろん話し掛けてはいけない。女性は黒い長い服を着ているが、車と馬車がすれ違う時、前から覗き込んではいけない。アーミッシュ専用のスーパーマッケットがあり、黒い馬車がたくさん止まっているが、スーパー店内へ入ってはいけない。ソーッと遠方から眺めるだけにすること」「御土産店では村への入場料のつもりで多めにチーズやヨーグルトを買って上げなさい」 そんなことがルールだそうです。
夜は木造2階建ての民宿に泊まりました。
部屋にはローソクしかないのですが、外の方が明るいのです。窓から見ると、満天の星空。星明りで外が明るいのです。
「夕食ですよ」と呼びに来たので、食堂に下りて行くと、そこには電気がついています。新鮮なホーレン草のサラダと鶏肉のソテーのみでしたが、自然栽培なので実に美味しいのです。残念ながらビールや酒類は一切ありません。
布に包んだ温かい焼きたてのパンが籠に入って出て来ました。
そばに座ってくれている女主人にいろいろ聞きました。
電気は使っていますが、冷蔵庫、洗濯機、井戸水汲み上げポンプ、食堂と調理場の電燈に限って使っているそうです。
そしてアーミッシュの人の職業は農牧業しか許されていないので、民宿やスーパーマーケット、御土産店などの経営者は普通のアメリカ人が経営しているそうです。
「ところで、明日、アーミッシュの人々の生活を見たいし、話も聞きたいので、誰か紹介してくれませんか」と頼んでみました。
すると女主人が、「泊り客はそういうことをよく頼みます。でも丁重にお断りしています。アーミッシュの信仰中心の日常生活を邪魔しない。それが人として正しい接し方と思いますよ。」と答えます。そして続けて聞いてきます、「日本にもキリスト教徒がいるのですか?」。
私は、五島列島の隠れキリシタンの二百六十年の歴史や現在のキリスト教信者の話をしました。
食後はローソクの炎の揺れる暗い自分の部屋へ引き揚げ、星明りの窓の外をもう一度見てベッドへ潜り込んだのです。
アーミッシュの村には静けさに満ち、時がゆっくり流れているようです。
聖書の教えを守り、絶対平和主義を貫く彼らは「電気」「ガス」「電話」「車」などの近代文明は、トラブルの元になり、信仰の邪魔になると信じているのです。思想が異なる外部の世界と接触しないで孤立した生活を送っているのです。
男女ともに早朝5時に起き、日の入りまで働きます。子どもたちはコミュニティーの学校に通い、8年生(中学2年生)以降は職業教育のみを受けるのです。
 衣服は、下着を含め、主婦がすべて縫います。
テレビも見なければ、「冷蔵庫」「冷房」「洗濯機」も使いません。
電話も、外部の世界と接触することになるため使用しません。交通手段も馬車で、農耕も馬や牛に助けてもらいます。病気や怪我も、自然治療や伝統療法で治すのです。結婚も10代後半でするケースが多く、避妊も禁じられているため、子だくさんが多く、女性は子育てに家事に、農業などに忙しい生活を送っているのです。
増加傾向にあるアーミッシュ人口
 アーミッシュの人口数は、ここ最近の2013年、少しずつ増えており、現在、ペンシルベニアやオハイオを中心とした米22州に約25万人のアーミッシュが住んでいるといわれています。
殺伐として現代において、「アーミッシュの思想や生活こそが理想なのではないのか」と、彼らに興味を持つアメリカ人が年々増えているそうです。
このようにアメリカ文化ととは全く異質なアーミッシュの村々の存在を自由に許しているのがアメリカ社会なのです。アメリカの社会の奥行きの深さなのでしょう。
その生活ぶりの写真をお送りします。特に3枚目の室内の写真を注意深くご覧下さい。部屋には電燈が無く、薪ストーブが中央にあるだけです。衣類も壁にぶら下がっているだけで、何枚もクローゼットに並べて吊るして仕舞うほど沢山持っていません。下着は箱に仕舞い、農作業と礼服を常に共用する服を毎日着ています。農作業にはトラクターは一切使いませんので、4枚目の写真のように馬車と人力だけで刈り取りを行います。
上の3枚の写真の出典;http://en.wikipedia.org/wiki/Amish
4枚目の写真の出典;http://en.wikipedia.org/wiki/Amish
5枚目の写真の出典:写真の出典は、The Huffington Post:http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/12/amish-life_n_6313752.htmlです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









朴韓国大統領の外交と苦悩

2015年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の北京での抗日戦勝利記念軍事パレードに朴韓国大統領がロシアのプーチン大統領と並んで出席しました。習主席の左にプーチン大統領が立ち、その左に朴韓国大統領が立って軍事パレードを見下ろしています。
この写真に多くの日本人は驚いたと思います。
本来アメリカと韓国は朝鮮動乱以来の強固な軍事同盟で結ばれていました。その韓国の大統領がアメリカが敵視し、欠席した中国の軍備誇示のパレード行事に出席したのです。
狭い考え方では朴韓国大統領はアメリカを裏切ったとも考えられます。しかし韓国の外交事情には複雑な事情があると思います。
それは好戦的な北朝鮮との問題です。最近、北朝鮮が中国とのパイプ役として重要だった幹部を処刑して以来、中国は北朝鮮を冷遇するようになりました。今回も北朝鮮の代表が出席しましたが末席をあてがわれました。今回のパレードを見下ろす席順を見ると中国は明らかに北朝鮮よりも韓国を重要視しているのです。朴韓国大統領はこの状態を北朝鮮の弱体化のいチャンスとして利用しようとしています。
もう一つの朴韓国大統領の目的は中国と組んで日本を牽制することにあります。日本の朝鮮併呑に対する完全な謝罪を求めているのです。
中国という虎の威を借りた狐が日本を脅している構図です。このように考えて笑い飛ばすのは簡単です。
しかし私は同じ漢字文化圏の東洋人としての根源的な考えが底流にあると思っています。
1980年代に何度も中国に行き数人の中国人と非常に親しくなりました。その結果判ったことは中国人の本当の敵は欧米人なのです。
日露戦争や真珠湾攻撃で欧米人を打ち破った日本人を尊敬しているのです。本気で大東亜共栄圏を信じ行動していた人を尊敬しているのです。しかし残念ながら大東亜共栄圏は薄い墨の字でした。はかない思想でした。
中国人や韓国人が日本を憎むのは彼らの日本人に対する敬意に全く気が付かないで、欧米人と強く軍事協定を結び中国に敵対しているからです。それは同じ漢字文化圏の東洋人に対する裏切り行為かも知れません。
朴韓国大統領の外交の苦悩はその辺に根差しているのかも知れません。
賢明なアメリカの政治家はその辺をよく理解している筈です。ですからこそオバマさんも政府の高官も感情的な反発をしていません。
アメリカに住んでみると日本人も中国人も韓国人も平等に差別されているように感じる時があります。ドイツでも同様でした。
このように中国人や韓国人にたいして好意的な書き方をすると、中国人や韓国人の悪口をコメントとして投稿して来る人がいます。
丁寧な言葉を使った異なるご見解やご意見は大歓迎いたします。しかし汚い言葉や悪口のコメントは即刻削除いたします。ご了承下さい。

今日の挿絵の写真はこの4月に東京都薬草園で撮った花の写真です。
順々に、ジキタリス、キショウブ、ウスベニアオイです。みな薬の原料や染料に使われてきた大切な植物です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





今日の山中湖と富士山の写真です

2015年09月03日 | 写真
新しいスポーツカーを買った人が道志川沿いに山中湖まで行くので同乗しませんかと誘ってくれました。スポーツカーに乗るのは久しぶりなので楽しんできました。
一番目の写真は「道志道の駅」の裏側の道志川の渓流の写真です。
二番目からの4枚の写真は今日の富士山と山中湖の写真です。
お楽しみいただけたら嬉しく思います。









鹿や猪や狐とともに暮らす孤独な人々をご存じでしょうか

2015年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の西端の甲斐駒岳や八ヶ岳の麓は北杜市と言います。水田や畑の広がる農村地帯ですが山地も多い場所柄です。
その山地の森の中のあちこちに質素な別荘が建っています。多くの別荘は週末だけ都会からの人で賑わいますが、平日は誰もいない淋しい森が広がっています。人がいなくなると鹿や猪や狐が森の奥から出て来ます。
そのような別荘の幾つかに都会を捨てて引っ越してきた人が住んでいます。大抵は年老いた孤独な男性です。鹿や猪や狐とともに暮らしているのです。時々は猿の群れが家の近くで遊んでいます。
私の山の小屋のまわりにも独りで住んでいる人が数人います。亡くなった方も3人ほど知っています。
人は何故、都会の生活より森の中の生活を選ぶのでしょうか。私は小屋に行くたびに独りで住んでいる人々の家を訪ねます。森の毎日の様子や天気のことを少しだけ聞いて帰ってくるだけです。
「何故、お独りで森の中で暮らしているのですか?」という質問は絶対にしません。
しかし幾つかの理由は何となく分かります。
職場での人間関係のわずらしさから離れる為に停年後に移り住んだのかも知れません。
都会の喧騒が嫌で静かな森の中に移り住んだ人もいるでしょう。
奥さんが早く亡くなったので彼女の良い思い出を大切に心に抱き、移り住んだのかも知れません。
あるいはもともと独身を通うしていたので、早めに停年にして憧れの自然の中に移り住んだ人もいます。
そのように森の中に独り暮らしをしている人は何故か毅然としています。他人を頼りにしていません。
そして野草の花々が好きです。猿に食べられないように金網の中でシイタケやクリタケを栽培しいています。金網の中や屋上に花々を咲かせています。人に頼らず独立独歩の生活を楽しんでいます。訪ねて行くと礼儀正しく優しく迎えてくれます。
まだ元気で車が運転出来る間は県境を越えて長野県の観光地を巡ります。
山地といっても少し里に下れば大型のスーパーもホームセンターもあり生活には困りません。
しかし年老いて車が運転出来なくなると大変なのです。
食糧や生活に必要な物資は宅急便で取り寄せます。電話やインターネットで注文するのです。
私の小屋の近所に独りで住んでいたNKさんは大工さんでした。近所に小さな別荘を幾つも建てて、売っていました。小型のブルドーザーを持っていて道普請もします。冬は除雪もします。井戸も掘り自家水道も作りました。私もいろいろ助けられました。
そんなに元気だったNKさんも年老いてからは宅急便で食料品を取り寄せていました。
そのうち病気が悪くなり何度か救急車で町の病院に入院していました。
その彼も2年ほど前に亡くなりました。幸い親孝行の娘さんがいて都会の家に引き取り、みとったということです。
その他にも、私の小屋の上の方の白樺林の中のログハウス風の小さな別荘に住んでいた人がいました。一生東京にある共産党本部に勤めていたOTさんです。森の中の散歩が好きで私の小屋の前をよく通りました。礼儀正しく挨拶をしてくれるので庭のテーブルに誘いお茶やコーヒーを一緒に飲みます。柔和な性格なので家内も親しくなりました。そのうち問わず語りに共産主義に打ち込んだ一生をポツリポツリと話していました。
いろいろ聞きましたが昔は警察の監視が厳しくて辛い生活だったそうです。しかし一度も警察の厄介にはならなかったそうです。
本部事務所では徳田球一や野坂参三の下で事務的な仕事をしていたそうです。
徳田球一は親分肌で親しみを持てたそうです。一方、野坂参三は緻密な性格で、事務用紙を100枚渡すと一枚一枚自分でも勘定していたなどと話していました。
地元の人々とも打ち解けて山の生活を楽しんでいる様子でした。あるとき近所で買うパンは美味しくないと言います。それで家内が東京のパンを届けたらとても喜んでいたこともありました。
そのOTさんも3年ほど前に認知症が悪くなり森の中を徘徊し、朝になっても帰って来なくなったのです。優しかったOTさんを慕っていた地元の人々が捜索隊をつくって森の奥まで探しに行きます。そしてついに発見したそうです。東京の息子が引き取り埼玉県の施設に入ったそうです。
その後、OTさんが懐かしく彼の別荘を何度か訪ねました。ある時は娘さんが来ていました。そしてある時は息子さんに会いました。OTさんは元気ですが何も分からなくなったと言います。すっかり遠方に行ってしまったような感じがしています。
そんな別荘の散在している山地の様子を示す写真をお送りいたします。
一番目の写真は森の奥に入って行く道路です。奥に甲斐駒の山並みが写っています。
二番目の写真は悪路を2Kmほど上った伐採地の様子です。このさらに奥にNKさんやOTさんの住んでいた別荘があります。
三番目の写真は森の中に散在している別荘の一です。この別荘の主のNKさんとも親しかったのですが数年前に亡くなってしまいました。
四番目の写真はこの別荘地で自分で撮った野生の鹿の写真です。夫婦の2頭のうちの一頭です。
五番目の写真は数年前小屋の前に遊びに出て来た狐の写真です。このほかに猿や猪が沢山棲んでいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)








====参考資料=======================
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年(明治27年)9月12日 - 1953年(昭和28年)10月14日)は、日本の政治運動家、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球の愛称で知られる。
沖縄県名護市出身。家業は印刷屋。「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、旧制第七高等学校に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学、苦学して日本大学の夜間部を卒業、弁護士になった。1920年(大正9年)、日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)にソ連を訪問。1922年(大正11年)、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加。中央委員に選出される。以下省略。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80
野坂 参三(のさか さんぞう、1892年(明治25年)3月30日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の政治家、日本共産党議長、コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記を務め、名誉議長となる。衆議院議員(3期)・参議院議員(4期)。初名は小野参弎(おの さんぞう)。中国では岡野進と称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。
山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。
明治31年、明倫尋常小学校入学、萩中学校を経て、県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)に進学。在学中論文に「社会主義を論ず」を発表して教師からひどく叱責される。明治45年、慶應義塾大学理財科に入学し、在学中に友愛会や新人会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年(大正8年)友愛会の派遣でイギリスに渡り、英国共産党に参加する。帰国後、第一次共産党結成に参加。1923年(大正12年)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航した。以下省略。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89

2週間ぶりに青空になりました!

2015年09月02日 | 写真
本当に秋の長雨が2週間も続きました。しかしついに晴天になりました!
あまり嬉しいので窓から見える青空の写真を撮りました。ついでに昨日咲き出したジンジャーの花の写真も一枚とりました。これが咲くと秋が始まります。
皆様のところでは青空が見えますでしょうか。





過ぎ行く夏の花々との惜別・・・空不異色

2015年09月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は9月の2日です。あの暑かった夏も過ぎ去り秋雨が降り続いています。
この夏には甲斐駒岳の山麓に咲く夏の花の写真を撮りました。そして森の中の小屋の冷たい小川に浸かって遊んで来ました。
あの美しく咲いていた花々はとうに散ってしまったことでしょう。
夏の日の花々を思い出しています。目を上げて甲斐駒岳を仰ぎ、はるか北に雲をたなびかせた八ヶ岳を眺めた日のことを思い出しています。そしてあの花々との別れを惜しんでいます。少し大げさに言えば惜別の情が胸に溢れます。それは年老いた人のみに湧く情感かも知れません。来年まで健康で、またあの花々に会えるということが約束されていないのですから。
表題にある空不異色 という言葉は般若心経のなかの言葉です。色不異空 という言葉に続き対句のようになっています。意味は、「形あるものは実体がないことと同じことであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである」という意味です。
この説明文の中の「形あるもの」を「夏の花々」と置き換えてみます。そうすると夏の花々が消えて行くのも自然なことで、私が悲しむことも意味がない、悲しまないで下さいということになります。
そういわれても夏が過ぎて秋が来るとそこはかとなく淋しいものです。
この夏は家内が小屋の前に流れる小川にジャブジャブ浸かって遊んでいました。冷たい水で気持ちが良いから私も入れと言います。しかたなく裸足になって流れに入ると、涼しさが足から上がってきて体中が涼しくなります。その頭上を大きなトンボのオニヤンマが小川に沿って行ったり来たりしています。周囲の松林からマツゼミの声が響いています。小川の底の砂地がチクチクと足裏を刺しているようで少し痛いのです。
夏が過ぎてしまうと、そんなつまらないことまで貴重な思い出になります。
しかしそれも色不異空、空不異色 なのです。不思議な気がします。
それはそれとして夏の花々の写真を4枚と続いて雲に覆われた八ヶ岳の写真、そして最後に小屋の屋根の上から撮った小川の写真を示します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)