後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「多摩川上流でマス釣りを楽しんでいる人々の風景」

2016年08月17日 | 写真
先週の12日、多摩川上流の「多摩フィッシングセンンター」で撮っ写真です。人々がのんびりと楽しそうに釣りを楽しんでいる光景です。
バーベキューをしている人もいます。
清流に泳いでいるマスを釣り上げるのは素人には難しいものです。
釣れなくても楽しそうです。それでも、たまに釣り上げている人がいます。
夏休みの長閑な風景をお楽しみ下さい。









我が故郷、仙台の戦前、戦後の風景を懐かしむ

2016年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
誰でも自分が生まれた頃の故郷の風景が懐かしいと思います。幼いながら心に焼き付いている光景も沢山あるのが普通です。
皆様はそのような昔の故郷の風景をご覧になりたいとお思いではありませんか?
幸い最近はインターネットが発達して昔の日本各地の風景が数多く記録されています。ですから根気よく検索して行くと自分が幼少だった昔の風景が見つかるのです。
私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。その仙台を例にして昔の故郷の風景を幾つか見つけましたのご紹介したいと存じます。
昭和という時代は大きな戦争に明け暮れました。そして徹底的な敗戦、続いてアメリカ軍による占領がありました。外国軍による日本全土の占領は歴史上はじめての一大事件です。
故郷の仙台には昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。ですから仙台は私の大切な故郷です。
仙台に関しては2011年に、以下の4編の記事を、http://blog.goo.ne.jp/yamanasi-satoyama に掲載しています。
追憶の中の我が仙台(1)東洋館、いかり亭、観月亭、黒門下の湯など 
2011年11月21日 掲載記事
追憶の中の我が仙台(2)ベーブ・ルースが来て2本のホームランを打つ 
2011年11月21日 掲載記事
追憶の中の我が仙台(3)仙臺味噌と四代目八木久兵衛とのかかわり 
2011年11月21日 掲載記事
追憶の中の我が仙台(4)思い出のなかの故郷を探す旅
2011年11月22日 掲載記事
そこで、今日は私の追憶にある仙台の風景写真をいろいろ探して、皆様へご紹介したいと思います。
ここでは仙台の風景だけを示しますが、日本全国の都市はほぼ同じような風景がひろがっていたと思います。是非、皆様も故郷の昔の風景写真をインターネットで探してご覧になりませんか?

1番目の写真は戦前の仙台駅です。ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。

2番目の写真は戦後、新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。


3番目の写真は昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

4番目の写真は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。

5番目の写真は 戦災で焼ける前の青葉城の大手門と隅櫓です。

6番目の写真は国分町と大町通りの交差点にあった高札場跡の芭蕉の辻です。

7番目の写真は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて、町には何時も軍人さんが歩いていました。第二師団長の多門大将の名前をつけた「多門通り」という通りもあったものです。

8番目の写真は繁華街の東一番丁通りと大町通りの交差点です。大町通りの東方向に見た時の写真です。右側にある大きなビルは藤崎百貨店です。仙台の地元の百貨店ですが、この他に三越の仙台店が東一番丁通りの北の端にありました。
藤崎も三越も戦災で内部が少し焼けましたが、戦後すぐに復興して仙台市民を明るくしてくれました。

これらの写真を見ていると、戦前、戦後の日本の貧しさがしみじみと身に感じます。
こんなに貧しいにもかかわらず、よくアメリカ相手に戦争をしたものだと驚いてしまいます。日本人は狂っていたのでしょうか。茫々80年、時代の変化に隔世の感を深くします。
昔の日本の風景を見ると現在の豊かさに吃驚します。そしてこの豊かな日本に生きていることに感謝します。人間は感謝の気持ちがあると幸せになると言います。
ですから昔の故郷の写真を見ると懐かしいと胸がうずくと同時に幸福感につつまれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りもうしあげます。後藤和弘(藤山杜人)

イスラム教徒は何故、豚肉を食べず、ヴェールをかぶるのか?

2016年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
イスラム教を信じる人が世界に14億人いると言います。しかし日本人にとってイスラム教ほど理解が難しいものがありません。仏教やキリスト教とはあまりにも違うので全く理解出来ないと言っても過言ではありません。
そこで日本人にも容易に分かりやすい説明の仕方を長い間いろいろと考えて来ました。

イスラム教を検索すると、その教義の「六信五行」がまず出て来ます。教徒が信じるべき6つの事と行うべき5つのことです。
そしてこの「六信五行」の神学的な背景や意味が実にクダクダと書いてあります。
まったく机上の空論です。これではイスラム教徒の実際の日常生活が皆目見当もつきません。
そこで私は勇気をもって簡単に分かるように説明することにしました。

中東やアフリカ北部のイスラム教の国々では禁酒で豚肉を食べず、女は種々の形があるが必ずヴェールをかぶっています。これがイスラム教なのです。
中東から離れたバングラデッシュ、マレーシア、インドネシアでは禁酒とヴェールが必ずしも厳密には守らない人もいます。
しかし、イスラムの特徴は禁酒、豚肉厳禁、ヴェールの3点セットです。如何でしょうか?分かり易いです。

ところがイスラム教は他の宗教と違うところは生活全般と政治や法律も裁判も全て、イスラム法に厳しく従って行われていることです。
ですから政教分離の欧米の考え方や個人の尊厳を守ろうとする考え方からは到底受け入れることに出来ないものなのです。
日本の仏教からも実に理解しがたい考え方なのです。

しかしこれを理解する鍵があります。
何故、豚肉厳禁なのでしょうか?理由はありません。疑問も感じません。イスラム法で厳禁しているから絶対に食べないのです。
何故、禁酒でしょうか?イスラム法で厳禁しているからです。
何故、女はヴェールをかぶっているのでしょうか?イスラム法で決まっているからです。

イスラム教の本質は、「イスラム法」への絶対服従なのです。それは見方によっては一番純粋な信仰といえます。
究極の宗教とも言えます。
よく欧米人や、そして日本人も「彼等には恋愛の自由もなく人権も無く不幸な人々だ」と見下した考えを言う人が多いものです。
冗談ではありません。彼等こそ現在の世界で一番幸福な人々なのかも知れません。そこには宗教的な法悦がみなぎっています。濃厚な家族の愛があります。喜捨の精神があり隣近所が助け合う平和な社会があります。
一日五回の礼拝や、断食月などを行うと生きている喜びが湧き上がってきます。

このように書くとイスラム教の国々は世界一幸福な国ということになります。
ところがイスラム教の国々には大きな貧富の差があります。奴隷のように疲れ切った労働者が沢山います。イスラム教を棄教すれば処刑されます。信仰の自由など絶対にありません。
しかしそれだからと言ってイスラム教の国々は世界一不幸な国ということにはなりません。彼等も赤い血の流れている人間なのです。我々と同じように喜怒哀楽の人生を送っているのです。

何故、中東地域で欧米とイスラム教の国々がいろいろな形の戦争をしているのでしょうか?
その原因の一つに欧米側が「彼等には恋愛の自由もなく、人権も無く、政治と宗教が合体した酷い国々だ」と見下した考え持っているからです。そしてアメリカは敵対する国々を武力で制圧して、民主主義の国家にしてしまえと考えるから戦乱が続くのではないでしょうか?

こんなことを先週の土曜日に山林の中の小屋の窓から周囲の木々を見ながら考えていました。添付した写真がその窓から撮った写真です。
末尾にイスラム教徒の実生活の様子をもう少し詳しく説明してあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










===参考資料=============================
イスラム教の特徴;http://www.geocities.jp/timeway/kougi-44.html

正式の教義である「六信五行」以外のイスラムの特徴

聖戦
ジハードともいう。
 これは、イスラム教徒が異教徒と戦うことです。

イスラム法。

 イスラム教徒はコーランにしたがって生活します。コーランには宗教的な話だけではなくて、日常生活のルールもいろいろ定めている。ムスリムとして生活しようとすると、宗教生活以外でもコーランに縛られることが多いのです。また、ムスリムが生活上でいろいろなトラブルがあった場合にも、コーランの記述に基づいて裁く。
 こうして、イスラム世界ではコーランに基づく法律が発展しました。これをイスラム法という。
 イスラム法を学んだイスラム法学者、ウラマーという人たちが、人々の日常的な生活の相談から政治的な指導までする。そういう世界です。
 日本や欧米では、政教分離が原則ですね。政治に宗教が関わらないように制度上さまざまな工夫をしている。ところが、イスラムでは政治・法律と宗教を切り離すことができない。すべてがイスラム教に関わっているのです。
 だから、一日五回の礼拝や、断食月なども可能になるのです。

 たとえば結婚ですが、ムスリムは結婚前に両者が契約書を作る。何が書いてあるかというと、離婚する場合の条件が書いてある。離婚の場合、夫はどれだけの金額を妻に渡すとかなんとか。契約書をイスラム法学者に見せて問題がないのを確認してもらってから、正式な結婚となります。こういう結婚の仕方がイスラム世界でどこまで一般的かはわかりませんが、そういう地域もあるということ、生活のすべての面がイスラム法、コーランに基づいているということを覚えておいてください。

 聖職者の存在を認めない。
 イスラム教ではお坊さん、聖職者はいません。信者はすべて対等です。キリスト教の牧師や神父のように、神と人間をつなぐ一般信者以上の存在は認めていません。
 テレビを見ていると「○○師」という名前で聖職者のような人が出てくるときがありますが、あれはイスラム法学者で聖職者ではないのです。イスラム法を解釈するだけで、神との関係で特別な地位にあるわけではない。
 ただ、一般民衆の心情として「聖者」を求める気持ちはあって、地域地域でいろいろな聖者がまつられています。ただ、これは公式的なイスラム教から見ると変則的ということになる。

 商人の倫理を重視。
 ムハンマド自身が商人だったこともあって、イスラムは商業倫理を尊重しています。仏教でも、キリスト教でも商売を軽視、もしくは蔑視するところがある。これは、農民のように額に汗して手に豆を作って働きもせず、右のものを左に動かすだけで儲けることを卑しいこととしたためです。イスラムにはこういう面はない。
 むしろ、商人が正しい契約によって利益を得ることを積極的に肯定している。・・・・

 手形や為替のような商業システムも整備されました。

 商業が発展すると、当然都市も発展する。
 都市はその中心にモスクがあります。モスクは礼拝所です。寺院に近いですが、正確には寺院ではない。信者が礼拝のために集まる集会所と言った方がよい。イスラムは偶像崇拝禁止ですから、モスクの中にも何もない。ただ、部屋の壁にメッカの方向を示すくぼみが作ってあるだけです。ご本尊やご神体をまつってある寺院ではない。

 もう一つ都市の中心にあるのが市場です。バザールです。すっかり日本語になっているほどです。ここで、さまざまな取引がおこなわれる。

 それ以外に都市には、隊商宿、公衆浴場、公衆便所、賃貸アパート、貸店舗などが整備されていました。
・・・  ムハンマド時代、そしてムハンマド死後のしばらくの間は、イスラム世界には国家はなくて「イスラム」だけで人々は生活していたわけですから、本来ムスリムの共同体=ウンマがしっかりしていれば国家などなくてもよいということになる。

 全身を服で覆って頭からすっぽりヴェールをかぶっています。肌はどこも露出していない。
 ただ、これは極端な格好で、インドネシアやマレーシアでは女性もここまで肌を隠してはいません。せいぜい頭髪をスカーフで覆っているくらいです。・・・・

 それはともかく、なぜイスラムでは女性はヴェールをつけるのでしょう。

 イスラムでは人間は弱いものだ、という発想がある。人間は意志が弱いという前提でイスラムの倫理は組み立てられている。先ほど、結婚の前に離婚の条件を決めておく話をしましたが、夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしているのです。人は弱いから。決して、永遠の愛は誓わない。

 同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つのです。
 弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す、ということらしい。面白い理屈です。

 だから、単純に女は引っ込んでおけ、という発想のファッションではないようですね。しかし、現代では、肌を出すことができないことは女性に対する抑圧だという意見がイスラム世界の女性からも出ているようです。
 イスラムでは一夫多妻で男は妻を四人持てるというのは有名な話です。あれも、男尊女卑の典型のように思われがちですが、ムハンマドとしては女性を保護するためだったらしい。
 イスラム以前のアラブ社会も一夫多妻で、男は何人でも妻を持つことができた。ムハンマドのイスラムはそれを四人に制限したのです。
 しかも、ムハンマドは「すべての妻を平等に愛せるならば」四人まで持ってよいと、条件を付けている。これ、厳密に考えたら複数の女性を平等に愛するなんて不可能でしょ。だから、現実には一夫一婦制に限りなく近い。ムハンマド自身もハディージャが亡くなるまでは、他に妻を迎えませんでしたね。・・・
また、公共の場では男女を一緒にしないのがイスラム世界では一般的です。先日イランの映画を見ていたら、小学校では男子と女子の登校時間が違うんだね。女子が帰宅してから男子が登校するの。
 イランではスキー場でもゲレンデが男女別になっていて、家族でスキーに行ってもお父さんとお母さんは別のゲレンデ、兄と妹も一緒には滑れないようになっています。銭湯みたいですね。

 最後に、サウジアラビアとかイランとか、女性が顔を隠すのが一般的な国では恋愛はどうなっているのでしょうか。
 イスラム教であろうと年頃になれば女の子が好きになる。ところが、若い男が女の子と知り合う機会は全くない。町を歩けば女性とすれ違うけれど、容姿どころか年齢すらもわからないんだから好きになりようがないです。まことに可哀想です。
 だから、結婚は親が決めたお見合い結婚が一般的らしい。・・・・

「今夜はマリアさまの被昇天のお祝いのミサへ行ってきました」

2016年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、8月15日はマリアさまの被昇天のお祝いのミサがあります。
マリアさまが天に上げられた日を祝うのです。

今夜7時からカトリック小金井教会のミサへ家内と共に行きました。
ミサの中の「共同祈願」の一つとして次のようなお祈りをしました。

「終戦の日にあたり、戦争の惨禍と多数の人の犠牲を思い起こし祈ります。主の愛の教えを心にとめ、戦争の根を絶つために、すべての力を注ぐことができますように。」

そしてマリアさまのお取次ぎによってこの世界に真の平和がくるように祈りました。
今日はカメラを持って行かなかったので代わりのに2枚の写真をお送り致します。

1番目の写真は長崎の大浦天主堂の写真です。

2番目の写真は浦上天主堂の2014年8月9日の夜の平和祈願ミサの風景です。
写真の出典は、http://www.nagasaki.catholic.jp/cms/?p=2055 です。

カトリック長崎大司教区は2014年8月9日(土)20時から浦上教会で、髙見三明大司教主司式による平和祈願ミサを行った。今年のテーマは「明日へつなごう平和の願い」。この日予定されていたたいまつ行列は台風の影響のため中止となり、ミサ前の聖堂ではロザリオの祈りが唱えられた。

 集まった約1,000人の信者らは、被爆マリアと共に、世界平和とすべての戦争犠牲者のために祈りました。

全国200市町村の空襲による焼け野原を忘れないで!

2016年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様、今日は太平洋戦争の終戦記念日です。
日本の300万人におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジアの2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。あれは人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々71年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
しかし今日は自分の目で見た大空襲のことにだけ絞ってご報告したいと思います。

終戦当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っています。

まず、すっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真をご覧下さい。

この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
仙台市の南の高台の向山に家があったので防空壕から抜け出して、広瀬川の崖の上に立ちました。足元の広瀬川の北側の市街地が一面に燃えています。
10日の午後に燃え尽きた中心街まで歩いて行きました。まだ荼毘に付していない黒焦げの遺体が道端に数体ありました。

現在、インターネットで仙台空襲のことを調べますと次のように書いてあります。(出典は1番目の写真と同じです。)
・・・7月9日、アメリカ陸軍航空軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、日本時間の午後4時3分、B-29、131機がテニアン西飛行場を離陸し出撃した。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達した。
7月10日午前0時3分、高度約3,000メートルより、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲した。
焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化した。市街地が焼け野原と化したため、「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られている。被害は、死者2,755人、被災人口57,321人(全市の約26%)、被災戸数11,933戸(全市の約23%)にのぼり、東京以北の都市では最大規模となった。・・・

このような米空軍による無差別空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続きました。
そして全国(内地)で200以上の都市が被災し、焼け野原になってしまったのです。そして多くの国宝・重要文化財も焼失したのです。
全国の空襲による犠牲者は、原爆の犠牲者約20万人を含めて50万人と言われています。

もう一度書きます。全国津々浦々の200の市町村が空襲されたのです。そしてその空襲による犠牲者が原爆による犠牲者も含めると50万人もあったのです。その様子を示す写真をもう2枚示します。

(写真の出典は、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Air_raid_Kofu-City.jpgです。)
2番目の写真は焼け野原になった甲府市の様子です。

(写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/12/tokyo-firebombing-70th-gifanimation_n_6854922.htmlです。)
3番目の写真は東京の亀戸の空襲後の写真です。

このような一般市民を対象にした無差別攻撃は3月10日の東京大空襲から本格的に開始されました。攻撃の主体は多数の焼夷弾を束ねた大きな焼夷弾束で行ったのです。焼夷弾束は落下途中でバラバラの焼夷弾に分かれ同時に多数の家に火をつけたのです。燃えやすい日本の家屋は実に簡単に燃え上がったのです。
このような一般市民に対する無差別攻撃は、ボーイングB-29による爆撃のみならず、英米の機動部隊艦載機や硫黄島などからの攻撃機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。

その上、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃されたところもあるのです。釜石や室蘭は徹底的な艦砲射撃も行われ、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場がある工業都市が攻撃されました。

また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害したのです。
外地でも、1945年5月31日には台北へも大空襲が行われたのです。

このようにアメリカ軍は日本本土の徹底的な焼失攻撃と破壊攻撃を繰りかえしたのです。そして広島と長崎の原爆投下でとどめを刺したのです。

このような戦争の悲惨さを忘れることなく子々孫々に伝承し、平和を守って貰いたいと念じます。
今日の8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘

甲斐駒岳山麓の高原の花畑の写真をお送り致します

2016年08月14日 | 写真
一昨日と昨日、甲斐駒岳山麓の高原の小屋に行って来ました。小屋のあるところは深い森の中ですが、そこから下って別荘地に出ると道端に花畑のある場所があります。近くの別荘に住んでいる人が毎年丹精を込めて植えている花畑です。
高原の花畑です。実にいろいろな花々が咲いています。何時ものように昨日も写真を撮らせて頂きました。
高原の新鮮な空気を想像されながら写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

今日は日曜日なので教会のミサに行きます。そして、
皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













時代はダイナミックに変化する、八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展

2016年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県北杜市の甲斐駒山麓に小生の山林の中の小屋があります。
昨日は、「我が第二の故郷、山梨県北杜市の驚異的な縄文土器と農耕の始まり」という記事を書きました。北杜市の八ヶ岳山麓に約5000年前、縄文文化が華々しく栄え、畑作農耕さえ始まったことをご紹介いたしました。

さて、あれほど栄えた八ヶ岳南麓の縄文文化はその後どのようになったのでしょうか?
よく調べてみると、あれほど隆盛だった北杜市の縄文文化も縄文後期の急激な寒冷化で衰退してしまったのです。

それに入れ替わるようにして甲府盆地には弥生文化(紀元前300年から紀元後300年)が入ってきて、水田耕作が始まったのです。当然、生活の安定を求めて縄文人が山を下り、現在の韮崎市の湿地帯や甲府盆地で稲作を始めるようになったと推定されています。

さてそれではこの水稲栽培は何処から導入されたのでしょうか?いろいろな経路が想定されますが、一番自然な経路は静岡県から富士川を遡って甲府盆地へ伝えられたと考えられます。ただし、これは私の想像で、学問的結論ではありません。
そこで重要なのは富士川の河口に近い登呂遺跡の水田跡です。

登呂遺跡は弥生時代後期の紀元後100年から300年頃の集落跡です。
以下にその復元写真を示します。

1番目の写真は登呂遺跡に復元された農家や米の貯蔵庫の写真です。建物が縄文時代よりも大型になっていることにご注目下さい。

2番目の写真は登呂遺跡に復元された弥生時代の田圃の写真です。

3番目の写真は登呂遺跡の周辺から発見された畔を作る杭や水路遺構から弥生時代の水路と水田を復元したものの写真です。特に水路の整然とした様子に吃驚します。
登呂遺跡の水田復元写真の出典は、http://kankodori.net/japaneseculture/site/023/index.htmlです。

山梨県の弥生時代の遺跡は下の参考資料に示すように数がそんなに多くありません。静岡県のような温暖地に比較すると寒冷で水稲の栽培に向いていなかったのでしょう。
現在こそ山梨県は武川米なというブランド米などが生産されていますが、弥生時代の稲は品種改良も進んでいなくて寒冷地では収穫量が少なかった筈です。

勿論、水稲栽培が始まっても従来通り八ヶ岳山麓に棲みついて縄文時代と同じような生活をしている人もかなり居た筈です。そして平地で稲作をしている人々も周囲の山地で狩猟や採集も兼業していた筈です。
ですから縄文時代から弥生時代への移行時期については地方、地方によって非常に異なるのが普通です。
北杜市の縄文遺跡は金生遺跡、神取遺跡、酒呑場遺跡とあり隣町には江戸尻遺跡があります。しかし弥生遺跡は皆無なのです。
従って一般的に言えば、現在の北杜市や韮崎市や甲府市は弥生時代には衰退した時代と言えます。
弥生時代には北杜市の人口は縄文時代に比較して非常に減少してしまったのです。その結果、小生の山林の中の小屋の近辺には人が入ってこなくなったのです。
鹿や猪や猿や雉や山鳥の天国になったのでしょう。
八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展を考えると、時代がダイナミックに変化している様子に驚きます。そしてこのようなダイナミックな時代の変化は日本全国の地方、地方にあったのでしょう。皆様のお住まいの地方の弥生時代の様子をお知らせ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=======参考資料========================
(1)山梨県の弥生時代の遺跡:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.B1.B1.E6.A2.A8.E7.9C.8C

山梨県の弥生時代の遺跡:
•身洗沢遺跡(笛吹市)
•油田遺跡(南アルプス市)
•大師東丹保遺跡(南アルプス市)
•二本柳遺跡(南アルプス市十日市場)
•長田口遺跡(南アルプス市)
•金の尾遺跡(甲斐市)
•宮ノ前遺跡(韮崎市)
(2)金尾遺跡と韮崎市の宮の前遺跡の概略:
以下の文章の出典: http://www.pref.yamanashi.jp/smartphone/maizou-bnk/topics/201-300/0273.html
1、金の尾遺跡は、山梨県甲斐市、中央線竜王駅の約400m北にある遺跡で、1978年に中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。調査の結果、縄文時代前期から弥生時代後期にかけての家の跡などが見つかりましたが、弥生時代の大規模な集落跡というのは山梨県内ではこのときが初めての発見でした。現在、金の尾遺跡は、山梨県を代表する弥生時代の遺跡として知られています。
2、韮崎市、宮の前遺跡:http://www.isekiwalker.com/iseki/356529/
時代:縄文/弥生/奈良/平安
所在地:山梨県韮崎市藤井町駒井字宮ノ前
遺構概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-竪穴住居6+配石+単独埋甕/弥生-水田/奈良~平安-竪穴住居417+掘立柱建物54+土坑+溝+条里関連溝/平安-水田)
遺物概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-縄文土器+石器/奈良~平安-土師器+須恵器(墨書土器+線刻土器)+灰釉陶器+緑釉陶器+金属製品+鍛冶関連遺物+石製品+木製品/平安-奈良三彩+須恵器製円面硯+帯金具+線刻土器(「寺」)+人面墨書土器+斎串)
発掘概要:韮崎北東小学校建設

我が第二の故郷、山梨県北杜市の驚異的な縄文土器と農耕の始まり

2016年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県北杜市の甲斐駒山麓に小生の山林の中の小屋があります。6畳と4畳半の二間だけの小さな小屋を作りました。しかし40年以上通っているとその北杜市が自分の第二の故郷のようになりました。
第一の故郷は生まれ育った仙台市です。仙台市の歴史はいろいろな記事で書きましたので、今日は、北杜市の縄文時代の驚異的な縄文土器と農耕の始まりをご紹介いたしたいと思います。
その前に北杜市の位置を簡略にご説明いたします。山梨県の西端にあり、釜無川の上流で八ヶ岳と甲斐駒岳の山麓にあります。清里、大泉、白州、武川、須玉などの町や村が合併して出来た広い面積にまたがる市です。
私の小屋は旧武川村にあります。

さて小生の山林の中の小屋から北西に30Kmくらいの所に江戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。八ヶ岳の南麓や西南麓は伏流水が地表に現れ数多くの清流になっています。その多くは釜無川に流れくだっております。黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて比較的多くの人が住んでいました。
特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。出土した土器は大型で、その上、形が奔放でエネルギーに溢れているのです。嗚呼、こんなにも力強い人々が住んでいたのだと驚きます。題目に・・・驚異的な縄文土器という表現を用いましたが、それは誇張ではなく私の実感なのです。
それらの縄文土器は江戸尻考古館(http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html)に収蔵され、一部は常設展示されています。その中から約5000年前の代表的な縄文土器の写真を示します。

1番目の写真は水煙渦巻文深鉢です。
1番目から4番目の写真で示した派手な飾りのついた土器は宗教的な祭器として作られたと想像されます。

2番目の写真は神人交会文深鉢です。

3番目の写真は蛇文装飾深鉢です。

4番目の写真は四方眉月文深鉢です。

5番目の写真は毎日、煮炊きに使用する土器の写真です。
煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていたようです。
底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたようです。

食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。
その進歩を考慮に入れて縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたという説もあります。
江戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して下の写真のように展示しています。

6番目の写真は畑を耕した農耕用の石鍬(いしくわ)と想像されています。

7番目の写真や畑の雑草をとった除草用の小型鍬(くわ)と考えられます。
江戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっているという説明文をHPから以下に転載いたします。
・・・・ 井戸尻遺跡発掘に取り組み、八ケ岳山麓の考古学において、先駆的な業績をあげた藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。これらも今日的にみれば、論旨のなかに不十分な点や修正すべき内容のあることはいなめない。
しかし井戸尻考古館では、この意志を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求してきたが、この10年来、面目を一新するような段階に至った。中期の主要な石器群を体系的に把握することに成功したのである。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達している。・・・以下省略

私も縄文人の全部ではないが一部、農業の好きな人だけが自分の家の周囲に小さな畑を作り、野生の稗や粟を、あるいはクリの木や柿の木のような実のなる木を植えていたと考えるのが自然だと思います。
しかし当時はイノシシや鹿や猿が現在よりも非常に多数棲んでいたので家から遠い畑は全て彼らに食べつくされ役に立たなかったと信じています。
自分の山林の中の小屋の周囲では花を植えても、野獣に食べつくされ、とても大規模な農耕など不可能なのです。
農業は山地でなく野獣の来ない広い平野に水田を作るようになった弥生時代から本格的に発達したという理解が正しい理解と思います。

しかし小規模ながら縄文時代にも農耕が行われていたという理解も正しいと思います。その違いは規模の大小と水田の有無である思います。
文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則だと思っています。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり、混合していた時代があると理解できます。
以上が我が第二の故郷、山梨県北杜市の約5000年前の驚異的な縄文土器と農耕の始まりのご紹介です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本民族が誇りに思うべき地方の歴史・・・五島 列島の無人島に残る天主堂

2016年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の地方には誇りに思うべき歴史的な風景が沢山あります。
今日は、五島 列島の無人島に残る天主堂の風景写真をお送りします。改定した申請書を提出したので、いずれ国連の世界文化遺産に登録される予定の風景です。

(写真の出典は、http://www1.odn.ne.jp/tomas/nokubi.htm です。)
1番目の写真は長崎県、小値賀(おぢか)町の無人島、野崎島にポツンと残っている石組みの天主堂です。旧 野首(のくび)教会です。
隠れキリシタンの住んでいたこの離島の信者達が明治6年の禁教令廃止後の明治41年に貧しい生活の中で建てた天主堂です。

2番目の写真は同じ野首教会を見上げた写真です。
(写真の出典は、http://yuru-chara.jp/prof-t53.html です。)
この島の生活が厳し過ぎるので、過疎化が進み、10年以上前から完全に無人島になってしまいました。写真に写っている教会は現在、小値賀町の所有になり、町が保存しています。

3番目の写真は内部の写真です。
(写真の出典は、http://chabashira.sowzow.com/juumin/19usagi/usagi_041.html です。)
町役場に予約すると教会の内部も観光客が見ることが出来るようです。

4番目の写真は同じ教会を別な角度から見上げた写真です。
(写真の出典は、http://yumiusa217.blog133.fc2.com/blog-entry-1134.html です。)

5番目の写真は星空の下の教会の写真です。
天気の良い昼間は上の写真のように美しい姿を見せますが、星空の夜はこのように静かに座っています。
(写真の出典は、http://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201110040074.html です。)

隠れキリシタンが多く住んでいた五島列島の島々は年々過疎化が進み明治期に建設された天主堂(カトリック教会)だけが島の守り神のように残っています。

五島列島だけでなく長崎県全域にはこのように隠れキリシタンが禁教令の廃止後に建てた美しい天主堂が300もあると言います。

そこで長崎県はそれらの古い教会や修道院をまとめて「世界文化遺産」として認定してもらう準備を進めています。今年の7月に日本政府は国連へ登録の申請書を提出しました。来年度には「世界文化遺産」として認定される予定です。

古い荘厳な教会堂はヨーロッパに幾らでもあります。それらに比べると長崎県の教会は質素すぎます。
しかし何故、それらが「世界文化遺産」になるのでしょうか?

理由はたった一つです。江戸幕府による250年間の過酷な禁教政策と処刑にもかかわらず日本人がキリスト教を信仰したからです。ザビエルたちの宣教師を裏切らなかったからです。古い天主堂や修道院こそが日本民族の誠実さと勇気を示しているからです。

権力者の禁教と弾圧にも耐え忍ぶという事は人間として誇るべき文化なのです。それは外国にはあまり例の無い長崎県や熊本県などの歴史です。
だからこそ「世界文化遺産」なのです。

考えて見ると世界に誇れる日本特有の文化は地方にまだまだ沢山あります。例えば青森県の「ねぶた」祭りや仙台の七夕祭りなど全国に沢山あります。
日本の地方、地方には世界に誇れる文化遺産が沢山あるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====================
1614年、慶長18年の大禁教令が出て、日本中のキリスト教徒は隠れて信仰を守る行動に入ったのです。それが隠れキリシタンです。
一方、高山右近という大名はキリスト教を捨てる代わりにフィリッピンへ逃げて行ったのです。
幕府は隠れキリシタンを摘発する為に「踏絵」を毎年、明治4年まで続行したのです。明治維新後もキリシタン禁教は厳しく守られていたのです。
しかし、この江戸幕府の厳しい禁教政策にも拘わらず、隠れキリシタンは251年も信仰を守ったのです。
この歴史ほど日本人の勇気と誠実さを証明するものはありません。日本人として世界に自慢したい歴史的事実です。
1614年、慶長18年の大禁教令から251年目の1865年、元治2年に隠れキリシタン達が、下の写真のような大浦天主堂に現れたのです。そしてフランスから来ていたプチジャン神父へ、ザビエルの伝えた天主教(カトリック)を信じてきたことを告げたのです。
しかしそれは早過ぎました。信者たちは多数捕縛され各地の藩へ預けられたのです。それは「浦上番崩れ」ともよばれています。このような刑罰は明治政府にそのまま継承され。完全に禁教令が廃止されたのは明治6年になってからでした。

厳しい共産党独裁下の中国にもある宗教の自由

2016年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
神の存在や宗教を否定するのが本来の共産主義です。
中国の共産党独裁政権の厳しさをみるととても宗教の自由があるとは思えません。
マスコミには中国政府内の激しい権力闘争や、中国海軍の尖閣諸島領海の侵犯などの殺伐としたニュースが何度も出ます。そんな社会に宗教の自由なんて本当にあるのでしょうか?

ところが宗教の自由が厳然と存在しているのです。しかしある限定は存在するのですが。
この「ある限定」の内容は後にして、まず道教寺院の玄妙観での光景の写真をご覧ください。玄妙観は蘇州にあります。

1番目の写真は夕暮れの玄妙観の境内です。人々が寛いで歩いています。乳母車を押している母親もわき見をしながらのんびり歩いています。のどかで平和な光景です。

2番目の写真は祀ってある神々の像です。本尊を補佐する神々のようです。

3番目の写真では中年の女性がお賽銭箱(功徳箱)にお金を入れて立ったままお祈りをしています。息子の大学入試が合格するように祈っているのかも知れません。

4番目の写真の右側の女性は拝み台の上に膝まづいて祈ってます。その方が同じお賽銭なら願い事がかないそうな気がします。

5番目の写真では女性が膝まづいています。

6番目の写真では男性がおみくじを買って思案しています。以上の写真は、中國に住んでいた親しい友人が2014年9月に蘇州で撮ったものです。

日本の新聞にこのような穏やかな中国人の暮らしぶりの写真は出ません。 しかし日常の中国人は静かに家族の平安を祈っているのです。 われわれと変わらないのです。

さて道教は中国の民間信仰で、日本の神道のような多神教の宗教です。
そして道教は仏教と儒教とともに中国の三大宗教と言れています。ですから大部分の中国人はこの三大宗教を信じています。そのどれかを信じる人もいますが、多くは同時に、それぞれを信じています。
その他に2300万人ほどのキリスト教信徒や1800万人ほどのイスラム教徒がいます。なおこれらの信徒数の数は資料によって多少違います。
中国の仏教はおもにチベット仏教(ラマ教)と、日本と同じ大乗仏教です。
中国の宗教につぃては末尾につけた参考資料をご覧下さい。

最近、中国は宗教ブームでいろいろな宗教が活性化し、それぞれの信者数が急増しているようです。 その理由は独裁政治を続けている中国共産党が宗教の自由を大幅に認めているからです。
しかしそれには「ある限定」があるのです。
その内容は、「共産党へ楯突かない限り」というものです。
中国の民主化を主張したり、独裁政治を批判しない限り、自由に宣教し、自由に信仰してて良いのです。
ただし全ての宗教組織は政府へ届けるのが命令されています。
この宗教の流行は今後も続き、中国では宗教はますます盛んになると思われます。
そこで中国の宗教や信仰の中身を理解すれば中国人への理解が一段と深まります。それを理解するカギになるのが道教です。
道教寺院は日本の神社のように大小さまざま何処にでもあります。
道教には理路整然とした明快な教義も理屈もありません。賽銭を上げて拝めば、家内安全、無病息災、商売繁盛になるのです。入試も合格しますし、結婚も出来ます。よろずの願い事をかなえてくれるのです。
祀られている神様は関羽のような英雄であったり、地方の偉人であったり、千差万別です。立派な人が死ぬと、人々が守り神として祀るのです。
この様な信仰は日本の神道と非常に似ています。 日本人の多くは仏教と神道の両方を信じています。
同じ様に中国人は仏教徒もキリスト教徒も無宗教の人々も道教寺院にお賽銭を上げて家族の幸福を祈るのです。
道教の寺院(宮観)は漢民族が住んで居る場所なら世界中にあります。
日本人が昔、樺太や満州に神社を建てたように道教寺院は漢民族の守り神なのです。民族の宗教なのです。

今日の記事は中国の宗教事情について明るい面を書きましたが、法輪功弾圧やローマ法王との長年の対立など暗い側面もあるのです。
どちらも共産党独裁の結果、必然的に起きたことです。これらの問題はいずれ稿をあらためて何時か書いてみたいと思います。

しかしどんな民族でもお互いに仲良くなるためには、それぞれの平凡な毎日の風景を見れば良いのです。私はいつもそのように信じて来ました。
日本と中国とのあいだに絶対に戦争が起きないように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料:「中国の宗教政策」===========
 1997年10月発表の中華人民共和国・国務院報道弁公室の宗教に対する政策の概略;
http://j.people.com.cn/special/religion/baishu.html
1.中国の宗教の現状
2.宗教信仰の自由の法的保障
3.司法と行政による宗教信仰の自由の保障および監督
4.独立自主運営の宗教事業に対する支持
5.少数民族が宗教を自由に信仰する権利の保護

1.中国の宗教の現状

中国では様々な宗教が信仰されている。中国には主に、仏教、道教、イスラム教、カトリック、キリスト教の信者がいる。中国公民は、信仰する宗教を自由に選び、自分が信じる信仰を表現することができ、また宗教的身分を明らかにすることができる。統計によると、国内には宗教を信仰している人々は1億人おり、宗教活動施設は8万5千ヶ所、宗教関連の教職員はおよそ30万人、3千以上の宗教団体がある。これらの宗教団体は、宗教関連の教職員を育成するための宗教学院・大学74ヶ所を運営している。

――中国では、仏教は2千年の歴史を誇る。中国には現在、仏教寺院がおよそ1万3千ヶ所あり、出家した僧侶・尼僧は20万人、そのうち西蔵(チベット)系仏教のラマ僧は12万人、活仏は1700人、寺院は3千ヶ所、巴利語系仏教の比丘(びく)や長老はおよそ1万人、寺院は1600ヶ所に上る。

――道教は中国で生まれた宗教であり、その歴史は1700年以上も前に遡る。国内には道教寺院1500ヶ所があり、2万5千人以上の乾道、坤道の道士がいる。

――イスラム教は7世紀に中国に渡った。イスラム教は主に回族、ウイグル族など10の少数民族の間で信仰されている。これらの少数民族の人口はおよそ1800万、モスクは3万ヶ所、およそ4万人の伊瑪目や阿ごう(勹+言)がいる。

――カトリックは7世紀に中国に渡り、1840年のアヘン戦争後、信者の規模が増えた。中国には現在、カトリック信者400万人、教職員4千人がおり、教会などの活動施設4600ヶ所がある。

――キリスト教は19世紀に中国に入り、アヘン戦争後、信者数が増加した。中国には現在、キリスト教信者1千万人、宣教師1万8千人がおり、教会1万2千ヶ所、活動場所や集会所2万5千ヶ所がある。

中国で全国的な活動行なっている宗教団体には、中国仏教協会、中国道教協会、中国イスラム教協会、中国カトリック愛国会、中国カトリック教主教団、中国キリスト教三自愛国運動委員会、中国キリスト教協会などがある。各宗教団体は、独自の規定に基づいて、指導者や指導機関担当者を選挙、選出している。

中国の各宗教団体は自主的に教務活動を進めており、必要に応じて、宗教学校の開校、宗教経典の発行、宗教的刊行物の出版、社会公益事業を行なっている。中国は各国同様、宗教と教育の分離を原則としており、国民教育に宗教教育が持ち込まれることはない。一部の大学や研究機関では、宗教学教育や研究が行なわれている。各宗教組織が運営する宗教学校では、その宗教の必要性に基づいて、宗教的な専門教育が行なわれている。宗教教職員による正常な教務活動については、宗教活動の場所で、あるいは宗教的習慣に基づいて信者の自宅で、あらゆる正常な宗教活動が行なうことができ、これらは法的により保護されており、いかなる干渉も受けない。

1966年から1976年にかけての「文化大革命」では、宗教をはじめ、中国社会のあらゆる分野が大きな被害を受けた。中国の各級政府は「文化大革命」の誤りを訂正する過程で、宗教信仰の自由を保障する政策を復活させ、政策を確実に実行するために、大きな努力を払った。

長い歴史の中で、中国にあるあらゆる宗教文化は、中国の伝統的思想や文化の一部に組み込まれている。中国の宗教信者の間には、国と宗教を愛する伝統がある。中国政府は、宗教界の信者が団結して積極的に国家建設に参加することを支持し、推奨している。

中国では、あらゆる宗教の地位は平等で、調和と共存を基礎としているため、これまでに宗教的紛争が発生したことはない。宗教を信じる人々と信じない人々はいずれも互いを尊重し、団結して付き合っている。
・・・以下省略・・・・ 

オリンピックによる国威発揚と報道の偏向ぶり

2016年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム
オリンピックの開幕早々、日本は数々のメダルを取っています。
私は愛国者なので、日本が全種目で金メダルを取って貰いたいと祈っています。
しかしテレビのNHKの報道には、次の二つの大問題を感じています。
(1)メダルを取った日本選手の映像をテレビに流すと、メダルを取っていない他の種目の様子が分からなくなる。従って日本選手の全体的な弱点が客観的に分からなくなるのです。
(2)スポーツそのものの愛好家にとっては外国の選手の活躍ぶりや、タイムや評点などを公平に報道して貰いたい。

上の2点は、国際社会における日本人の客観的視点の欠落を明快に示しているようです。
これは日本の国民民性の弱点なので仕方が無いのかも知れません。

オリンピックで国威発揚をすることに私は異論がありません。当然です。
しかし報道の偏向ぶりが大問題なのです。
外国選手の活躍ぶりを一切報道しないNHKは、日本人を自画自賛する国民に育て上げているのです。
古い話で恐縮ですが、第二次大戦の真珠湾攻撃とそれ以後の敗けぶりは日米の戦力の差を客観的に考えなかった結果であることは明白な事実です。
NHKの報道ぶりを見ていると、この日本の国民性の弱点を感じて暗い気持ちになります。
そして日本がメダルを取りにくいヨット競技や馬術などの報道がほとんどありません。こういう種目を強化すれば日本はもっと簡単にメダルが取れるはずです。

さてスポーツ愛好家にとってもNHKの報道は非常に不満と思います。
水泳でも陸上でもタイムを競う競技種目では予選から決勝までのタイムが一番重要なのです。
日本選手の活躍も重要ですが、金を取った外国選手のタイムとプレイぶりをゆっくり見たいのです。それがスポーツ愛好家というものです。ところが日本選手のプレイを長々と見せて、金を取った外国選手の映像は全然無いのです。
外国選手の映像は短くても良いから必ずその映像と記録は報道すべきではないでしょうか?

オリンピックのNHKの報道ぶりを見ていると、日本では江戸時代まで「スポーツ」という文化が皆無だったことを思い出します。
剣術は剣道であり、柔道も武道の一種で全て修行するものだったのです。戦いに勝つための技であったのです。

さて私は薬物を用いてまでメダルを取ろうとするプーチンさんの気持ちは分かります。勝てば国威発揚で自分の政権が一層強化されるのです。しかしそれはスポーツの精神に違反する重大なルール違反です。出場停止になるのは当然です。

国威発揚と言えば、私は戦後荒廃しつくした日本が1952年のヘルシンキオリンピックへ初めて参加したことが忘れられません。ラジオに噛り付いて、雑音の多い海外からの放送を聞いたことを思い出します。フジヤマの飛魚 古橋広之進選手はピークを過ぎていたので8着になり、とても残念でした。
その折の日本選手団メダル獲得者は以下の通りです。
金メダル:
石井庄八(レスリングフリースタイルバンタム級)

銀メダル:
鈴木弘(競泳100m自由形)
橋爪四郎(競泳1500m自由形)
鈴木弘・浜口喜博・後藤暢・谷川禎次郎(競泳800mリレー)
北野祐秀(レスリングフリースタイルフライ級)
上迫忠夫(体操競技徒手)
竹本正男(体操競技跳馬)

銅メダル:
上迫忠夫・小野喬(体操競技跳馬)

あれから茫々64年です。今回も日本選手がんばれ!と毎日叫んでいます。

今日の挿し絵代わりの写真は一昨日、都立薬草植物園で撮ったニチニチソウの写真2枚と、順にミソハギ、ハブソウ、フジマメの花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










韓国人の宗教に対する篤い信仰

2016年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国と日本の大きな違いは宗教に対する考え方の違いと言えます。
日本では無宗教の人が多く、仏教離れが進行している一方、キリスト教の信者は常に3%以下を推移しています。
しかし驚くことに韓国人の31%はキリスト教を信じているのです。
CIAのザ・ワールド・ファクトブックに記された2010年の調査の数値によると、韓国の宗教は 無宗教;43.3%、キリスト教 ;31.6% 、仏教 ;24.2% 、その他若しは不明;0.9%と報じられています。

韓国の仏教は中国の道教の北斗七星に対する妙見信仰や風水と習合しています。日本の神仏混淆と同じことです。
このように書いてしまえば判ったような気分になりますが、韓国の宗教は調べれば、調べるほど複雑な宗教が入り組んでいてその全貌を掴むのは至難の業です。
例えば日本の青森の恐山には多くの巫女がいて、死者を呼び戻して家族に会わせてくれるという信仰があります。
この恐山の信仰は、シベリア大陸の原住民のシャーマニズムが現在でも残ったものと考えられます。韓国にも巫俗という原始宗教があり、このような精霊が住む世界の信仰は、先史時代にまで遡る韓国人の宗教生活の最古の形でと言われています。
韓国にはいまだに欧米に知られていない原始的な宗教が存在しているとも言われています。
こんなことを最初に書くと読むのを止めてしまう方々がいらっしゃるかも知れません。
そこで分かりやすい写真を用いて韓国の宗教事情の一端を説明したいと思います。

韓国人はキリスト教に熱狂する人が多いようです。

1番目の写真は2014年8月14日からローマ法王のフランシスコ教皇が韓国を訪問した時の韓国人の歓迎ぶりを示す写真です。
韓国のあちこちで大規模な野外ミサが行われたのですが毎回、数十万人規模の信者が集まったと言われています。

2番目の写真は韓国の11の世界文化遺産の一つの海印寺の山門の写真です。
写真の出典:http://www.seoulnavi.com/special/5003998

3番目の写真は韓国の三大祈祷院の普門寺の本堂の内部の写真です。
写真の出典: http://www.hikorea.jp/tour/tour_view.php?topinfo_tcode=TB1320394145

4番目の写真は韓国の墓地の写真です。
写真の出典は、http://seoul2.blog97.fc2.com/blog-date-200908.html です。
韓国ではお墓には生花ではなく造花を捧げるのでいつまでも鮮やかなのです。

5番目の写真は韓国の土葬の写真です。穴を掘って遺体を埋め、その跡に土を盛り上げ、誰の墓であるかが分かるように墓標を建てます。
写真の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Bochi.htm です。
韓国では経済的に豊かな人は、墓地となる山を入手して、この山を一族又は家の共有の墓地とするのが昔の風習でした。しかし最近では個人での墓地のための山の入手が次第に困難になってきたため、企業が共同墓地を開発して分譲しています。5番目の写真は共同墓地です。

さて仏教と儒教は韓国の伝統文化なので以下に仏教について簡単に説明します。
仏教は三国時代(4世紀から7世紀)に中国から朝鮮に入ってきました。仏教は新羅(668年-935年)や高麗(918年-1392年)の時代に於いて最も優勢で文化的影響力を持っていたのです。儒教も同様に中国から初期に伝わりましたが儒教は朝鮮李朝樹立までは仏教の下の立場に置かれていたのです。
仏教は韓国の東部、つまり嶺南地方や江原道では、伝統的に強力であり、そこでは現在でも人口の半数以上が仏教徒となっているそうです。
韓国の仏教には禅を含めて様々な「宗派」が存在します。しかし、圧倒的大多数(90%程)の寺は曹渓宗に所属しています。
曹渓宗は禅の伝統と他宗派との習合で出来た宗派です。韓国で最も古く有名な寺、例えば仏国寺や梵魚寺は曹渓宗です。
ソウル中心部の曹渓寺がその総本山です。その他、韓国の仏教に関しては末尾の参考資料に説明があります。

仏教信者は仏教とシャーマニズムの一種の「三聖閣」とを結び付けて信仰しています。この「三聖閣」は仏教の寺院の奥に存在しています。「三聖閣」には「山神」や「七星神」や「独聖」が祀ってあります。
まあ簡単に言えば韓国の山岳信仰ですね。日本の神社とお寺の混淆と同じようなものです。


結論を簡単に書きます。
韓国には驚く程多数のキリスト教信者がいます。その一方、韓国人は仏教や儒教やいろいろな原始宗教を混淆して信じています。
一番分かり難い原始宗教は「三聖閣」という殿閣です。

韓国人は日本人よりも宗教を信じている人々が非常に多いと言っても大きな間違いが無いと思います。
誤解を避ける為に書きますが、宗教を信じている人は善良とは限らないのです。私は無宗教でも立派な人格を持っている方を沢山知っています。今日は韓国の宗教風景をスケッチ風に描いてみました。間違いも多いと存じます。コメントをお送り頂き、間違いをご指摘頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料====================
(1)朝鮮の仏教:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 
なお、韓国には円仏教などの仏教系新宗教が存在し、立正佼成会、真如苑、創価学会、霊友会の日本の宗教法人の拠点が存在します。

(2)韓国の仏教:http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo.htm
韓国の寺院は寺院後方、大雄殿より高いところに「三聖閣」という殿閣を置くことが多い。韓国の山岳信仰と融合したものである。何を主体に祀るかで山神閣、七星閣、独聖閣などと言う場合もある。いずれも仏教以外のとこ ろから韓国仏教に融合したものである。 三聖閣という場合は、「山神」、「七星神」、「独聖」を祀り、建物は正面4本の柱、側が2本の柱で囲まれた建物となる。
山神は韓国土俗の「山神霊」が変化したもので18世紀末から19世紀初めにかけて発生した信仰である。山神は護法転身の結果、人格神の山神、化身の虎とし て現れるという。山神に対しては無病長寿、子孫繁栄を祈願する。山神図は虎と子供を率いて手に長寿などの象徴を載せることが多い。
七星は北斗七星のことで、人間の幸福と寿命を象徴する。北斗七星に対する民間信仰が融合したもの。元々は国の兵乱、天災地変が起きたときや、それを予防す るために祭祀をしていたことに始まる。七星図の本尊は熾盛光如来で、北極星を意味する。手に金輪を持つことが多い。脇侍菩薩は日光菩薩と月光菩薩である。このような七星図は16世紀 末にすでに現れている。
独聖は那般尊者ともいわれ、釈迦が出征する前に天泰山で一人12縁起の真理を悟り、聖人の地位に上ったとされる。または16羅漢の一人、賓頭路頗羅堕を指すともされる。因縁の理致を悟った衆生に福を与えるということで信仰される。 絵は天泰山の中に座り、白く長いまつげで、錫杖、念仏を持っている姿で描かれることが多い。(韓国仏教文化事典、仏教文化研究院編より)

「こんなしみじみとした人生があるのですね、もう一つのお話」

2016年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は広島の原爆犠牲者の追悼式のある日です。72年まえの今日の午前8時15分に投下され、一瞬にして20万人以上の人々が犠牲になったのです。毎年、粛然とした気持ちになり、ご冥福を祈ります。そして、亡くなられて人々の一生を想うと、何故か空しい気持ちになります。
ことしはオバマ大統領の広島訪問で私の気持ちも少し癒されました。
それにしても人間の一生とは何なのでしょうか?
よく人間は万事塞翁が馬と言います。そして一生は邯鄲の夢などとも言います。
悲しみを感じながら考えさせられる今日、一日です。

そこで今日はもう一つの、しみじみとした人生のおはなしをお送り致したいと思います。
それは朴壽根(1914~1965)という画家の生涯のおはなしです。
現在は朝鮮半島で一番尊敬されている画家だそうです。しかし彼の一生は苦しみの連続でした。

彼は12歳の時、ミレーの「晩鐘」を見て、電撃を受け「私はミレーのような画家になる」と決心したのです。そしてそのミレーの精神を一生忘れずに描き続けたのです。
彼は貧しいキリスト教徒の家に生まれ、江原道の楊口で小学校を卒業したのです。学歴はそれだけでした。
それでも、その小学校には日本人の校長がいて、その校長先生が朴壽根の描く図画を絶賛し、画家になるように薦めたのです。
朴壽根の家は貧乏で、上級の学校へは行けません。そんな折に偶然目にしたミレーの「晩鐘」に感動を受け、日本人の校長先生の薦めに従う決心したのです。それは1926年のことでした。

日本の領有時代の当時、何の縁故も人脈も無かった彼には「鮮展=朝鮮美術展覧会」が唯一の作品発表の場でした。
最初に「春が来る」という水彩画が1932年に入選し、その後油絵も数回入選しました。
「鮮展」図録に掲載された彼の出品作は、農村の風景と女性たちの生活を主題にした作品が大多数で、戦後の韓国独立後の作品まで同じ作風で描かれているのです。
彼の絵画を見ると日本による領有も第二次大戦も朝鮮動乱も一切感じられません。
素朴で平和な人々の営みを静かに描いているだけです。しかし何か人生の哀歓が浮き上がってくるのです。
さっそく彼の絵画の写真をご紹介いたします。

1番目の写真は朴壽根の1950年作の「洗濯場」(37×72cm)です。農村の小川で数人の農婦が洗濯している光景です。非常に単純化したフォルムにしみじみとした情感を漂わせています。

2番目の写真は彼が好んで描いた農村風景の一枚です。

3番目の写真は農村の光景を描いた1957年作の水彩画(24.5×30cm)です。彼はその場の大気を描いています。

4番目の写真は当時の農村によく見かけた子守の光景です。赤ん坊が安心して寝ています。少女が何か考えごとをしているようです。安らかさの中に寂寥感を感じます。

私は朴壽根の絵画が好きです。インターネットで朴壽根を検索すると彼の絵画の写真が出て来ます。
彼は自分の絵画世界を次のように説明しています。
「私は人間の善良さと真実さを描かなければならないという芸術に対しての非常に平凡な見解を持っています。したがって私が描く人間性は単純であり、多彩ではありません。私は彼らの家庭にいる平凡なお祖父さん、お祖母さん、そして小さな子供達のイメージを最も親しんで描きます」
これはミレーがひたすら人間の善良さと真実さを描き続けたのと同じなのです。12歳の時にミレーのような画家になると決心し、ミレーのと同じ気持ちを一生持ち続けたのです。
しかしミレーの真似ではありません。ミレーの精神に共感しながら独自の絵を描き続けたのです。

そんな一生を送った朴壽根と家族の写真をご紹介いたします。

5番目の写真は朴壽根一家の写真です。1940年代、隣の家の娘であった金福順と結婚し、長女が幼かったころの朴壽根一家です。彼の後ろには多数の絵画作品が立てかけてあります。
この写真に写っている朴壽根の顔は素朴です。この写真を見て私は嬉しくなります。家族を持って幸せそうな彼の姿を見て嬉しくなります。
しかしそれも束の間、彼は1965年、51歳の若さで亡くなりました。

絵を見て何を感ずるかは人それぞれです。変な感想や評論は書くべきとはないと知っています。
しかし一言だけ書かせてください。彼の絵画には人間へ対する深い愛情を感じます。そして悲しみも感じます。この寂寥感は日本の文化の基底をなす無常観と同じだと思います。
彼の一生を考えると、こんなしみじみとした人生があるものだと感じるのです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料==================
(1)朴壽根の生涯:
http://jpn.gwd.go.kr/gw/jpn/sub03_02_02
(2)朴壽根生誕100周年記念展示会がソウル、仁寺洞のカナインサアートセンターで開催されました。2014年1月17日より3月16日までの約100日でした。展示作品は油絵90余点、水彩画とデッサンが30余点で合計120点以上展示されています。
(3)朴壽根美術館

http://4travel.jp/travelogue/10681329

女性の美が輝く3つの場面・・・奥多摩への旅で考えた

2016年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、多摩川をさかのぼり、奥多摩までドライブして来ました。いつもは家内が同乗していますが用事が出来てしまい、昨日は独りだったので、いろいろなことを考えながら夏山の緑の風景を楽しんで来ました。
考えたことの一つに、「どんな時に女性は美しく輝くのか?」という問題があります。
女性は美しいものだから、いつでも輝いているよとおっしゃらないで下さい。それでは今日の話が腰砕けにになってしまいます。
昨日は、「美しさ」をおもに心の美しさ、内面的美しさに主眼を置いて考えてみました。
そうしたら女性が美しく輝く場合は、次の3つの場合ではないかと思いました。
(1)恋愛中や新婚の場合は女性は心が美しくなります。何気ないしぐさまで美しくなります。心が初々しいのです。
(2)子供を乳母車に乗せて押している場合も女性の顔が優しさに満ち溢れ、本当に美しくなります。女性にとっても一番幸せな瞬間です。
(3)病院で女性の看護師が患者を助け、介護する場合は天使のように美しく見えるのです。暗い病室に美しい花が咲いたようです。

今日は上の3つの場合だけを考えてみますが、女性が美しく輝く場面は他にも沢山あります。
皆様が考えている場面を是非、コメントとしてお送り頂きたいと思います。
さて、詳しく述べる前に昨日撮ってきた多摩川の上流の写真をご覧ください。

この1番目の写真は羽村の堰の上から上流方向を撮った写真です。羽村の堰で多摩川の水を取入れて、約40Kmの玉川上水で江戸の町へ送っていたのです。建設から400年もたっていますが、羽村の堰も玉川上水も当時のまま保存してあります。

2番目以下の写真は御岳駅からさらに上流へ遡ったところにある「国際マス釣り場」近辺の風景写真です。

3番目の写真は多摩川の本流そのものに養殖したマスを放流し、釣り人に釣って貰うマス釣り場の写真です。

「国際マス釣り場」という名前は、戦後、立川基地や福生基地に多数やって来た進駐軍のために開設した釣り場だったので「国際・・・」ということになったのです。

この国際マス釣り場には大きな無料駐車場があり春には桜が満開になるので四季折々、車を停める所です。

これらの写真のような風景を見ながら、女性の美が輝く3つの場面を考えて来ました。そこで以下に少しばかり説明を加えたいと思います。
(1)恋愛中や新婚の場合は女性は心が美しくなります。・・・は皆様ご承知のことと思いますので省略します。

(2)子供を乳母車に乗せて押している場合も女性が優しさに満ち溢れ、本当に美しくなります。・・・・について自分の観察結果を書きます。
このような雑駁な記事を朝に書いてから、近所のスーパーやデパートに、その日の食料品を家内と一緒に買いに行きます。
その時間帯は大体午前10時から12時の間です。すると乳母車に幼児を乗せた若いお母さんに何度も会います。毎日、10組以上の乳母車に遭遇します。
私的なことで恐縮ですが、実は孫がすっかり大きくなって寄り付かなくなっているのです。それでつい乳母車をのぞき込む癖がついてしまったのです。覗き込むと母親が誇らしげに微笑むのです。その顔が実に美しいのです。家内が社交的に、「おいくつですか?可愛いですね」などと言うと母親はもっともっと美しくなるのです。

(3)女性の看護師が病人を介護する場合は天使のように美しく見えるのです。・・・へ話を進めます。
これは私の実体験です。7年前に全身麻酔である臓器の切除手術を受けました。全身麻酔なので手術中は痛くなく無事終わりました。
ところがその夜に麻酔が覚める過程で幻聴や幻覚の症状が激しかったのです。それが傷口の痛みと相まって文字通り七転八倒をしました。
枕元のボタンを押すと何度も看護師さんが来てくれます。優しい女性の看護師さんが何か小声で話しかけ体をさすってくれるのです。すこし落ち着くと、「また来ますからボタンを押してください」と言って帰っていきます。
朝まで5回ほど呼びました。本当に美しい天使のようです。後光がさしているように見えます。これほど女性のやさしさに圧倒されたことはありません。家内に話したら、「女性は無限に優しいものです」と言うのです。

これだけの話ですが最後にとても重要なことを書きます。
上に書いた女性の美しさは結婚したり、孫がいたり、重病にならないと分からない話です。
しかし中には結婚していない人が沢山います。結婚しても子供のいない夫婦も沢山います。
しかしそのような方々でも女性の優しさで毎日のように助けられ、毎日を明るい気持ちで過ごせるのです。電車の中で席を譲ってもらう。道に迷ったら優しく案内してくれる。市役所の窓口では実に優しくしてくれます。優しくしてくれるのは男女に関係ありません。
そしてその優しい心が美しく見えるのです。

優しさを失わない限り女性は何時までも美しいものです。私の家人も例外ではありません。これで今日の話はお終いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「老境をすごく楽しくする(4)住んでいる町の旧石器時代の歴史」

2016年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の特権の一つに考え方が自由になれることがあります。仕事を離れるので、仕事の専門分野から離れた自由な発想が次から次へと生まれてきます。
例えば学校で習った日本の歴史は真実なのだろうか?それにしても学校では、何故、地方、地方の歴史を詳しく教えないのだろうか?
皆様はこんな疑問をお持ちになったことはありますでしょうか?
老境を楽しくするのはこの問題に取り組むのも良いと思います。
そこで今日は、自分の住んでいる土地の歴史について書いてみたいと思います。
歴史と言っても縄文時代と、その前の土器の無かった旧石器時代の歴史です。そんな古いことは知らん!と言わずに、まあ、ご一読下さい。
私が現在住んでいる場所は東京都小金井市です。隣には小平市があり、国分寺市や府中市もあります。少し足を伸ばせば相模原市もあります。これらの町からは旧石器時代の石器や縄文時代の土器が沢山出てきます。大げさに言えば、ザクザク出て来たのです。
ですから関東平野には約4万年前の旧石器時代から人間が住んでいたのは明確な事実です。
ここで注意すべきは当時の人口密度が非常の小さかったことです。旧石器時代には日本全国の人口が数万人しかいなかったのです。
縄文中期の温暖期には人口が30万人くらいに増加したようです。しかし縄文時代の終り頃の寒冷期にはまた減少します。
そして稲作の始まる弥生時代からは増加する一方になりました。このような人口密度を考えながら以下をお読み下さい。

当時の小金井市の周辺には、クヌギやカシワやコナラのような雑木林が昼なお暗く平野を覆っていたのです。そしてその森の中にはイノシシやシカやキツネやタヌキが沢山棲んでいたのです。
人口が現在より非常に少なかったので、食料にするイノシシやシカが非常に多く、簡単に落とし穴で捕らえられました。夏や秋になると野生の果物や栗やクルミも豊富に実ります。
森の切れる開けた土地には石器時代や縄文時代には竪穴住居が散在していたと想像できます。

さて小金井の中町には3万年前の旧石器時代の石器と4500年前の縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」があります。
縄文中期の環状集落跡から2m50cm下の約3万年前の関東ローム層から多数の石斧、鏃や石器道具が出て来たのです。ですから現在の小金井市には約3万年前から人間が住んでいたのです。
そして約4500年前の環状集落跡を見ると家々が広場の周りに建っています。そして広場の中心が墓地になっていました。
住居跡からは多数の土器や石器や耳飾りが出てきました。
そして住居の土間の下からは亡くなった乳幼児を入れて葬った埋甕が完全な形で出て来たのです。乳幼児が死ぬと悲しくて家の外に葬ることが出来なかったのです。
この「中山谷遺跡」は小金井市の古代の歴史を物語る貴重なものですが、残念ながら展示施設がありません。

そこで隣町の小平市の展示室を何度も訪問しました。
小平市の鈴木遺跡資料館は感動的な展示をしています。
素人の小生が感動したことが1つあります。
それは発掘した地層の断面模型の展示があり、その横に各地層から出てきた旧石器時代のいろいろな石器が示してあるのです。
地層区分から出てきた石器の作られた時代が厳密に分かるのです。大変明快な展示方法です。
その地層の中には鹿児島湾北部の姶良火山が爆発して飛散し、火山灰が積もった第VI層も有るのです。
旧石器時代の35000年前から12000年前までの石器が時代ごとに区分してガラスケースに展示してあります。
そして縄文時代、すなわち新石器時代の石器も縄文土器も展示してあります。石器はどれも精巧に加工してあります。
この展示室の素晴らしさはその黒曜石で出来た鋭利な石器のその精巧さにあります。そして時代推定が科学的に厳密なことにあります。

少し小平市の歴史を詳しく書きすぎました。
皆様の住んでいる町や村の旧石器時代や縄文時代はどのようだったのでしょうか?
あまり長くなるので今日はこれでお終いにします。

今日の挿し絵代わりの写真は相模原市の相模川の岸辺にある遺跡から発見された石器時代の住居跡の写真、縄文時代の家の写真、そして旧石器時代の人々の生活の様子を示す3枚の写真を示します。この5枚の写真は相模原市の特別な歴史園、田名向原展示館へ何度も通い、自分で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


上の1番目の写真は平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見える旧石器時代の住居跡です。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが日本で初めて発見された旧跡時代の住居跡の一つなのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

2番目の写真は上の層に重なっていた5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。

3番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

4番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。

5番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。

===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

はさみやま遺跡
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。
土坑墓(どこうぼ)とは、土を掘りくぼめて穴(土坑)をつくり、そこに人の遺体を納めて葬送した遺構。土葬にともなう世界的にポピュラーな埋葬に用いられた遺構であるが、日本では縄文時代~弥生時代に多い墓の形式であり、その場合「土壙」とか「土壙墓」と表記される場合もある。