昨日の読売新聞に、既に亡くなった画家、山内龍雄氏(1950年ー2013年)とその作品を世界へ紹介し、藤沢市に山内龍雄芸術館を私財を投じて作った須藤一實氏のことが出ていました。
お二人の人生の軌跡をみると、心が静まります。嗚呼、こんなにもしみじみした人生があるのだと感じ入ります。
詳しく調べました。そうしたら、神奈川県全域と東京都多摩地域に約221万部を発行されている「タウンニュース」とう地域新聞の藤沢版に詳しく掲載されていました。
今日は自分の美に対する信念を貫いた画家、山内龍雄氏と、その作品に魅了され無名の画家を世に紹介し、記念館まで作った須藤一實氏の2人の人生を短くご紹介致します。
なお詳細は末尾の「参考資料」にあります。
それでは、現在67歳の須藤 一實さんの独白からご紹介します。
(タウンニュース、藤沢版;掲載号:2016年4月22日号http://www.townnews.co.jp/0601/i/2016/04/22/329829.html )
「山内」に取り込まれた人生
○歳月をかけて削り込んだキャンバスに油絵具で色を乗せる。画家・山内龍雄氏が唯一無二の技法で描き出すのは「無の境地」だ。2013年に山内氏が亡くなるまでの30年間、山内作品だけを扱う画商として、二人三脚で歩んできた。開館した芸術館は、山内芸術を広く伝えるための拠点。「彼は死ぬまでにやろうとしたことをやったと思う。今度は俺の仕事だ」
○高校卒業後に勤務した貿易会社が倒産。銀座の画廊の画商に転職した。美術を学んだ経験もなく「絵で商売するなんて思っていなかった」と言うが、転職後は「水を得た魚」。ピカソやセザンヌなどの数々の名画を扱い、魅せられた。そんな中、画廊に現れたのが山内氏だった。取り出した小さな絵はキャンバスの側面がボロボロ。「ずいぶん年季が入った絵だと驚いた」と話す。生活に困り金が必要という山内氏からその絵を買ったことが後の人生を変えた。
○「この人のための画商になる」。北海道を拠点にする山内氏との手紙のやりとりを通じて人となりを知り、そう決意し独立した。「はぐれもの同志、息があった」と笑顔。「山さんを世界の舞台に持っていくつもりで頑張る」と伝えると、「すーさんを世界的な画商にする」と返ってきた。2007年以降には海外での展示も実現。各国で「見たことのない絵画」と絶賛された。
○1992年5月の夜、自らが出産する夢を見た。うなされるほど痛みを感じる夢。子を産み、目を覚ますと電話が鳴った。「すごい絵ができちゃった」。当時、創作に行き詰っていた山内氏からだった。「産みの苦しみのエネルギーが伝わってきたんだと思う」。「老賢者と少年が浮かび上がってくる」というその絵は代表作として芸術館にも並ぶ。「あの絵は彼の精神だ」。画商になったのも、芸術館を作ったのも、そこを訪れる人も全て「山内芸術を助けるため。山内に取り込まれた気がする」。これからも山内氏とともに生きる。・・・・・
こうして須藤 一實の人生が変わってしまったのです。
須藤は、画商の会社を辞め、1988年に独立し、山内の作品を紹介するためだけの画廊、ギャラリー・タイムを 設立したのです。
それ以後、山内が描く全ての絵画は、須藤を通して世の中に出ることになったのです。
山内は画を描くためだけに生き、須藤は、山内の制作と生活を支え続けたのです。
そんな山内と須藤の、画家と画商との美しい関係は、山内が亡くなる2013年まで続きます。
そして2016年には藤沢市の自分の私有地に山内龍雄芸術館を自力で作ってしまったのです。
山内龍雄は1950年 北海道 厚岸町上尾幌に生まれ、北海道で21歳から独学で画を描き出します。
油彩画のキャンヴァスを自分で作った道具を使って紙のようになるまで薄く削る方法を編み出し、過去に全く前例のない独自のマチエールを作り出したのです。
その画は、油彩画の本場であるヨーロッパで「新しい絵画様式が日本から生まれた」と評価されたそうです。
下の参考資料の写真にあるように山内龍雄の絵画は華やかな色彩がありません。水墨画のような世界です。日本の伝統的な無常感が漂っているようです。なぜか東洋的な精神性が感じられるのです。東洋の精神の判る西洋人にも感動を与える作品です。
考えてみると山内は上野の芸術大学にも学んでいません。中央の画壇とは全く無縁です。
北海道の質素な家に住み、まったく独りでキャンバスを削り、600点以上の絵画を須藤 一實に託して旅立って行ったのです。生前にその作品はあまり売れませんでした。
しかし須藤 一實の友情を信じ安らかに亡くなったに違いありません。
そんな一生もあるのですね。
一方、画商の須藤 一實は魅了された山内龍雄の絵画だけを売り続ける画商になったのです。画商としてそれは一つの幸せな人生に違いありません。
こうして須藤 一實の人生が変わってしまったのです。
2人の人生を考えてみると何故かしみじみとします。
多くの人々はお金や名誉を追う人生を送ります。華やかなものに憧れます。
しかし今日ご紹介した2人の男の人生は違います。でも2人の人生は幸だったと私は信じています。
皆様のご感想をお送り頂けたら嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
(1)画家、山内龍雄の作品と記念館などの写真
下の1番目の写真に彼の代表作の写真を示します。
1番目の写真のように山内の絵画は抽象画的です。
2番目の写真は須藤が開催した山内のある個展の光景です。
3番目の写真は2016年に藤沢市に出来た山内龍雄芸術館です。
4番目の写真は北海道にある山内龍雄の家と想定される写真です。
5番目の写真は1990年の山内龍雄の写真です。北海道厚岸町上尾幌のアトリエにて。
出典;http://www.yamauchitatsuo.net/ryakureki.html
(2)画家、山内龍雄の軌跡
2007年からは海外での展覧会をしている。オーストリア、ドイツ、台湾で個展を開催した。
2013年、アトリエで死去。2016年に須藤によって山内龍雄芸術館が神奈川県藤沢市にできる。
1950年 北海道 厚岸町上尾幌に生まれる
1971年 初めて筆をとる
1984年 須藤一實と出会う
1988年 須藤との二人三脚が始まる。山内龍雄を紹介するための画廊 ギャラリー・タイム設立
ギャラリー・タイム主催で初めての山内展を銀座で開催 以降、毎年開催
1990年 ギャラリー・タイムより「山内龍雄画集」発行
1992年 代表作「老賢者と少年」ができる
1993年 NICAFに出展 (97年、99年も同展に出展)
2000年 ギャラリー・タイム 山内作品の常設画廊を銀座8丁目に開廊
2006年 ギャラリー・タイム 銀座2丁目並木通りに移転
2007年 ギャラリー・タイムより「YAMAUCHI Tatsuo」画集を発行
アートマークギャラリー(オーストリア・ウィーン)で山内龍雄展 開催
2008年 ミューワ美術館(オーストリア・グラーツ)で山内龍雄展 開催
芸術家協会(ドイツ・インゴルスタット)で山内龍雄展 開催
2009年 学学文創志業大楼(台湾・台北)で山内龍雄展 開催
ギャラリー・タイム 京橋2丁目に移転
2010年 芸術家協会(オーストリア・ザールフェルデン)で山内龍雄展 開催
2013年 釧路市内の自宅アトリエにて逝去
2014年 ギャラリー・タイムより 冊子「山内龍雄」発行
軽井沢現代美術館(長野県)にて追悼展 開催
2015年 ギャラリー・タイム 神奈川県藤沢市に移転
長野県東御市の梅野記念絵画館にて回顧展開催
2016年 神奈川県藤沢市に山内龍雄芸術館開館
(3)孤高の画家、山内龍雄の孤独な私生活:
http://members2.jcom.home.ne.jp/myanagi/jcom_yamauchi_002.htm より転載。
画家・山内龍雄は家庭を持たず、生まれ育った北海道上尾幌の
野原の一軒屋でただ一人生活し、絵を描いている。集落から離れ、
車で5分間は走らなければ人の気配がするところまで到達しない。
その集落にしても店舗は一軒もない。
「50メートル先の木の実がポツンと落ちる音が聞こえる」静寂の
中に住んでいる。
こうした画家が現実に存在するということに、驚く。
例えばゴッホの生涯を引用して画家の生き方を語っても、現代
ではおとぎ話となり、そんな画家が存在するはずがないと断定で
きるだろう。絵だけに専念して他のすべてを犠牲にする生活を現
代日本の人間がするだろうか。ところが北海道・上尾幌に山内龍
雄がいた。
開拓者としてここを切り拓いた父親が昭和20年初旬に自ら建て
た家が、彼の現在の住まいであり、2階がアトリエになっている。
昭和25年に生まれた山内は高校卒業後郵便局に3年勤め、そこを
辞めた後、釧路で数年生活し絵を描く。その時期は画家などとの
交流もあったが、その後、上尾幌のこの家に帰り絵を描く生活を
続け今日に至る。すべて独学で学び、独自のマチエールをものに
して、毎年、作品を発表している。これまでは寡作で、納得のい
く作品ができるまで発表することはなかった。
作品の制作が始まると、彼は3時間以上の睡眠をとらないため
の目覚まし時計を用意し、とことん自分の世界に向き合っていく。
夜も昼の区別もなく、ただただ制作に熱中する。なぜなのだろう
か。
『見えてくるものがあるんだね。そこから自分の絵ができてくる
時の快感は何事にも変えがたい。絵に引っ張られているんだね。
しかたがないね。』
山内の制作風景を見た者はわずかしかいない。人間嫌い、とし
て通っている彼のもとには近くの集落の人間もほとんど寄り付か
ない。又逆に、彼のアトリエを訪ねても制作中はいくら親しい友
人でもそこに入ることはできない。生前二人で暮らしていた母親
も、アトリエの扉の前に握飯を置いて中には入らなかった。現在
でも、彼のもっとも近くにいるのは、毎日、家の周りにやってく
る蝦夷鹿や動物たちかもしれない。
夜になれば漆黒の闇に包まれる。天気の好いときは満点の星が
空を飾るが、それすらも恐ろしい孤独の世界で、彼は憑りつかれ
たように制作に没頭する。バッハの音楽を時には大音響で響かせ
ながら。睡眠を抑制し、空腹状態でいることが制作するときのコ
ンディションとしては重要なことだという。
お二人の人生の軌跡をみると、心が静まります。嗚呼、こんなにもしみじみした人生があるのだと感じ入ります。
詳しく調べました。そうしたら、神奈川県全域と東京都多摩地域に約221万部を発行されている「タウンニュース」とう地域新聞の藤沢版に詳しく掲載されていました。
今日は自分の美に対する信念を貫いた画家、山内龍雄氏と、その作品に魅了され無名の画家を世に紹介し、記念館まで作った須藤一實氏の2人の人生を短くご紹介致します。
なお詳細は末尾の「参考資料」にあります。
それでは、現在67歳の須藤 一實さんの独白からご紹介します。
(タウンニュース、藤沢版;掲載号:2016年4月22日号http://www.townnews.co.jp/0601/i/2016/04/22/329829.html )
「山内」に取り込まれた人生
○歳月をかけて削り込んだキャンバスに油絵具で色を乗せる。画家・山内龍雄氏が唯一無二の技法で描き出すのは「無の境地」だ。2013年に山内氏が亡くなるまでの30年間、山内作品だけを扱う画商として、二人三脚で歩んできた。開館した芸術館は、山内芸術を広く伝えるための拠点。「彼は死ぬまでにやろうとしたことをやったと思う。今度は俺の仕事だ」
○高校卒業後に勤務した貿易会社が倒産。銀座の画廊の画商に転職した。美術を学んだ経験もなく「絵で商売するなんて思っていなかった」と言うが、転職後は「水を得た魚」。ピカソやセザンヌなどの数々の名画を扱い、魅せられた。そんな中、画廊に現れたのが山内氏だった。取り出した小さな絵はキャンバスの側面がボロボロ。「ずいぶん年季が入った絵だと驚いた」と話す。生活に困り金が必要という山内氏からその絵を買ったことが後の人生を変えた。
○「この人のための画商になる」。北海道を拠点にする山内氏との手紙のやりとりを通じて人となりを知り、そう決意し独立した。「はぐれもの同志、息があった」と笑顔。「山さんを世界の舞台に持っていくつもりで頑張る」と伝えると、「すーさんを世界的な画商にする」と返ってきた。2007年以降には海外での展示も実現。各国で「見たことのない絵画」と絶賛された。
○1992年5月の夜、自らが出産する夢を見た。うなされるほど痛みを感じる夢。子を産み、目を覚ますと電話が鳴った。「すごい絵ができちゃった」。当時、創作に行き詰っていた山内氏からだった。「産みの苦しみのエネルギーが伝わってきたんだと思う」。「老賢者と少年が浮かび上がってくる」というその絵は代表作として芸術館にも並ぶ。「あの絵は彼の精神だ」。画商になったのも、芸術館を作ったのも、そこを訪れる人も全て「山内芸術を助けるため。山内に取り込まれた気がする」。これからも山内氏とともに生きる。・・・・・
こうして須藤 一實の人生が変わってしまったのです。
須藤は、画商の会社を辞め、1988年に独立し、山内の作品を紹介するためだけの画廊、ギャラリー・タイムを 設立したのです。
それ以後、山内が描く全ての絵画は、須藤を通して世の中に出ることになったのです。
山内は画を描くためだけに生き、須藤は、山内の制作と生活を支え続けたのです。
そんな山内と須藤の、画家と画商との美しい関係は、山内が亡くなる2013年まで続きます。
そして2016年には藤沢市の自分の私有地に山内龍雄芸術館を自力で作ってしまったのです。
山内龍雄は1950年 北海道 厚岸町上尾幌に生まれ、北海道で21歳から独学で画を描き出します。
油彩画のキャンヴァスを自分で作った道具を使って紙のようになるまで薄く削る方法を編み出し、過去に全く前例のない独自のマチエールを作り出したのです。
その画は、油彩画の本場であるヨーロッパで「新しい絵画様式が日本から生まれた」と評価されたそうです。
下の参考資料の写真にあるように山内龍雄の絵画は華やかな色彩がありません。水墨画のような世界です。日本の伝統的な無常感が漂っているようです。なぜか東洋的な精神性が感じられるのです。東洋の精神の判る西洋人にも感動を与える作品です。
考えてみると山内は上野の芸術大学にも学んでいません。中央の画壇とは全く無縁です。
北海道の質素な家に住み、まったく独りでキャンバスを削り、600点以上の絵画を須藤 一實に託して旅立って行ったのです。生前にその作品はあまり売れませんでした。
しかし須藤 一實の友情を信じ安らかに亡くなったに違いありません。
そんな一生もあるのですね。
一方、画商の須藤 一實は魅了された山内龍雄の絵画だけを売り続ける画商になったのです。画商としてそれは一つの幸せな人生に違いありません。
こうして須藤 一實の人生が変わってしまったのです。
2人の人生を考えてみると何故かしみじみとします。
多くの人々はお金や名誉を追う人生を送ります。華やかなものに憧れます。
しかし今日ご紹介した2人の男の人生は違います。でも2人の人生は幸だったと私は信じています。
皆様のご感想をお送り頂けたら嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
(1)画家、山内龍雄の作品と記念館などの写真
下の1番目の写真に彼の代表作の写真を示します。
1番目の写真のように山内の絵画は抽象画的です。
2番目の写真は須藤が開催した山内のある個展の光景です。
3番目の写真は2016年に藤沢市に出来た山内龍雄芸術館です。
4番目の写真は北海道にある山内龍雄の家と想定される写真です。
5番目の写真は1990年の山内龍雄の写真です。北海道厚岸町上尾幌のアトリエにて。
出典;http://www.yamauchitatsuo.net/ryakureki.html
(2)画家、山内龍雄の軌跡
2007年からは海外での展覧会をしている。オーストリア、ドイツ、台湾で個展を開催した。
2013年、アトリエで死去。2016年に須藤によって山内龍雄芸術館が神奈川県藤沢市にできる。
1950年 北海道 厚岸町上尾幌に生まれる
1971年 初めて筆をとる
1984年 須藤一實と出会う
1988年 須藤との二人三脚が始まる。山内龍雄を紹介するための画廊 ギャラリー・タイム設立
ギャラリー・タイム主催で初めての山内展を銀座で開催 以降、毎年開催
1990年 ギャラリー・タイムより「山内龍雄画集」発行
1992年 代表作「老賢者と少年」ができる
1993年 NICAFに出展 (97年、99年も同展に出展)
2000年 ギャラリー・タイム 山内作品の常設画廊を銀座8丁目に開廊
2006年 ギャラリー・タイム 銀座2丁目並木通りに移転
2007年 ギャラリー・タイムより「YAMAUCHI Tatsuo」画集を発行
アートマークギャラリー(オーストリア・ウィーン)で山内龍雄展 開催
2008年 ミューワ美術館(オーストリア・グラーツ)で山内龍雄展 開催
芸術家協会(ドイツ・インゴルスタット)で山内龍雄展 開催
2009年 学学文創志業大楼(台湾・台北)で山内龍雄展 開催
ギャラリー・タイム 京橋2丁目に移転
2010年 芸術家協会(オーストリア・ザールフェルデン)で山内龍雄展 開催
2013年 釧路市内の自宅アトリエにて逝去
2014年 ギャラリー・タイムより 冊子「山内龍雄」発行
軽井沢現代美術館(長野県)にて追悼展 開催
2015年 ギャラリー・タイム 神奈川県藤沢市に移転
長野県東御市の梅野記念絵画館にて回顧展開催
2016年 神奈川県藤沢市に山内龍雄芸術館開館
(3)孤高の画家、山内龍雄の孤独な私生活:
http://members2.jcom.home.ne.jp/myanagi/jcom_yamauchi_002.htm より転載。
画家・山内龍雄は家庭を持たず、生まれ育った北海道上尾幌の
野原の一軒屋でただ一人生活し、絵を描いている。集落から離れ、
車で5分間は走らなければ人の気配がするところまで到達しない。
その集落にしても店舗は一軒もない。
「50メートル先の木の実がポツンと落ちる音が聞こえる」静寂の
中に住んでいる。
こうした画家が現実に存在するということに、驚く。
例えばゴッホの生涯を引用して画家の生き方を語っても、現代
ではおとぎ話となり、そんな画家が存在するはずがないと断定で
きるだろう。絵だけに専念して他のすべてを犠牲にする生活を現
代日本の人間がするだろうか。ところが北海道・上尾幌に山内龍
雄がいた。
開拓者としてここを切り拓いた父親が昭和20年初旬に自ら建て
た家が、彼の現在の住まいであり、2階がアトリエになっている。
昭和25年に生まれた山内は高校卒業後郵便局に3年勤め、そこを
辞めた後、釧路で数年生活し絵を描く。その時期は画家などとの
交流もあったが、その後、上尾幌のこの家に帰り絵を描く生活を
続け今日に至る。すべて独学で学び、独自のマチエールをものに
して、毎年、作品を発表している。これまでは寡作で、納得のい
く作品ができるまで発表することはなかった。
作品の制作が始まると、彼は3時間以上の睡眠をとらないため
の目覚まし時計を用意し、とことん自分の世界に向き合っていく。
夜も昼の区別もなく、ただただ制作に熱中する。なぜなのだろう
か。
『見えてくるものがあるんだね。そこから自分の絵ができてくる
時の快感は何事にも変えがたい。絵に引っ張られているんだね。
しかたがないね。』
山内の制作風景を見た者はわずかしかいない。人間嫌い、とし
て通っている彼のもとには近くの集落の人間もほとんど寄り付か
ない。又逆に、彼のアトリエを訪ねても制作中はいくら親しい友
人でもそこに入ることはできない。生前二人で暮らしていた母親
も、アトリエの扉の前に握飯を置いて中には入らなかった。現在
でも、彼のもっとも近くにいるのは、毎日、家の周りにやってく
る蝦夷鹿や動物たちかもしれない。
夜になれば漆黒の闇に包まれる。天気の好いときは満点の星が
空を飾るが、それすらも恐ろしい孤独の世界で、彼は憑りつかれ
たように制作に没頭する。バッハの音楽を時には大音響で響かせ
ながら。睡眠を抑制し、空腹状態でいることが制作するときのコ
ンディションとしては重要なことだという。