後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、待降節の第四の主日のミサに行きました」

2016年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は待降節の第四の主日なので祭壇の前の4本のローソクの4番目のローソクに火を灯しました。そしてミサを始めました。
いよいよ今週の土曜日はクリスマス・イブのお祝いのミサです。嬉しい気分です。
そんなミサの風景写真をお送りいたします。今日のミサの司式はサレジオ修道会の吉田利満神父さまがなさいました。





日本を愛し、東京の谷中墓地の土になったロシア正教のニコライ

2016年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
幕末にロシア正教を日本へ持ち込んで来たニコライ・カサートキンの一生を想うと私の胸は熱くなります。彼のことを思うと私のキリスト教への信仰が燃え上がります。
ニコライは書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。明治天皇を敬っていました。日本を強く愛していたのです。そして日本の土になったのです。

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。
 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。この言葉に私は感動します。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。神田のニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています。 

東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂は、1891年、明治24年にニコライによって建てられました。
私は数年前に何度かニコライ堂を訪れ、ある日曜日には9時から12時までの3時間にわたる歌ミサにも出席したことがあります。
私はカトリックですが正教会の礼拝はカトリックに似ていて違和感を感じませんでした。
ニコライの日本への篤い想いを考えながら「イエスの体」のパン片を貰い、神父様の持った十字架へ軽く接吻しました。

ニコライの写真と彼の建てたニコライ堂の写真を掲載いたします。ニコライ堂の写真は数年前に自分が撮ったものです。ニコライ堂は日本にあるキリスト教会のなかでもトップクラスの豪華さと古い歴史がある建物です。

このニコライ堂は一般開放しています。見学は自由です。
日曜日の9時からの歌ミサの礼拝式にも是非出席してみて下さい。信者でなくても歓迎してくれます。
一度ご覧になることをお薦めいたします
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









===参考資料;ニコライの経歴==================
Wikipedea でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。
日本へやって来たニコライは、スモレンスク県ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として1836年に生まれました。母は五歳のときに死亡します。
ニコライはベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学しました。
在学中に、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられるようになったのです。
そしてニコライは、函館の在日本ロシア領事館附属礼拝堂が司祭を募集しているのを知りました。すかさず志願して採用されたのです。

神学大学在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなっていたのです。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖されたのです。
そして翌年の1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任しました。

日本では、新島襄らから日本語を教ったそうです。かたわら精力的に正教の布教に努めます。
函館にて日本ハリストス正教会の最初の信者を得ました。その人は後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨です。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行います。
1869年、1879年に二度帰国しましたが、それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂の正教会本会で没します。
1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると腐らない遺体が現れたそうです。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖します。日本教会が独立して日本正教会となったのはこのときです。ニコライの遺体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっているそうです。
関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行されました、(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)。
注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)されます。

列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれ、記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)となりました。

「今、撮って来たストック、パンジー、シクラメンの写真をお送りします」

2016年12月17日 | 写真
今日は風も無く陽射しの暖かい日です。花屋さんへお正月を迎える花を買いに行きました。ついでに花々の写真を撮ってきました。

写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









トランプ大統領でアメリカの貧富の差が益々拡大する

2016年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ次期大統領は選挙運動中に労働者の雇用を大幅に拡大すると何度も言ってました。
そして企業への課税も所得税も非常に小さくすると言明していました。海外へのアメリカ企業の流失を防止し、アメリカ国内の会社の利潤を守ると言っていました。
しかしアメリカ人の貧富の差を縮小するとは一切言いませんでした。アメリカ人同士の経済格差を減少するなどという事には一度も言及したことがありません。個人の所得格差を正確に反映している「ジニ係数」などという言葉を取り上げたことは皆無でした。

アメリカの労働階級は自分達の雇用には強い関心がありますが、「個人の所得格差の統計」には無関心なのです。成功した会社の経営者が莫大な給料を貰うのは当然だと思っているのです。
これと対称的に日本では個人の所得格差が拡大する一方だと騒いでいます。すくなくとも所得格差が拡大することを非難する人が多いようです。
今日はトランプ大統領でアメリカの貧富の差が益々拡大するという予測を書いてみます。

その前に各国の個人の所得格差を正確に反映した「ジニ係数」を簡明に示した図面を見てみましょう。この棒グラフの棒の長い国ほど個人の所得格差が大きいのです。貧富の差が大きいのです。
尚、ジニ係数とはどのようにして計算するかは「ジニ係数」を検索すると明快な説明が幾つも出てきます。

1番目の写真の図面の出典は、http://tmaita77.blogspot.jp/2012/05/blog-post_08.html です。

ジニ係数の大きな国、従って所得格差の大きさから先進国だけを見ると大まかに3つのグループになります。
(1)アメリカ、シンガポール、香港、イギリス、ノルウエイなどの所得格差の大きな国々
(2)ドイツ、韓国、日本、デンマーク、ベルギーなどの所得格差の中ぐらいな国々
(3)スウェーデン、スイス、フランス、フィンランドなどの所得格差の少ない国々

このように分かれる原因は複雑ですが、非常に大雑把に言えば弱肉強食的な自由な資本主義の国ほどジニ係数が大きくなっています。
一方、スウェーデン、スイス、フランス、フィンランドなどの所得格差の少ないのは社会主義的な考えの影響で所得に大きな累進課税を実行している国です。そこでは個人の所得はなるべく平等であることが良いと信じられているのです。尚、シンガポールや香港の貧富の差が大きいのは長い間のイギリスによる統治の影響もあるかも知れません。

さてトランプ大統領の政策はアメリカ企業の隆盛と拡大によって労働者階級の雇用数を増大するという明確な方針です。
これが推し進められるとアメリカの労働者の所得は他の発展途上国の労働者よりも高くなるでしょう。例えば中国に発注していた服装品をアメリカ国内で作れば中国に失業者が増えます。結果として中国の労働者の所得が下がります。
アメリカの労働者の所得が増えますが、一方会社経営者の所得もますます巨大になります。アメリカの富裕階級の所得も拡大するのです。
その結果、ジニ係数が何処まで増加するかは誰にも予測は困難です。しかしアメリカのジニ係数が現在よりも減少するとは考えられないのです。アメリカの最近の歴史を見ると富める者はますます富んで来たのです。
そうした結果としてアメリカ全体の経済力が進展すると考えられます。
トランプ氏の思想はアメリカの富める者をますます富める者にし、その結果、労働者階級の所得を底上げして他国を引き離すというもののようです。それを別の言葉で言えば「アメリカはアメリカのことだけを考える」という表現になります。

我々日本人は所得格差が大きいことは悪だと信じ過ぎているのかも知れません。もしアメリカ人が所得格差が大きいことは善だと信じていたとしたらその社会は日本の社会とは随分と違うのではないでしょうか。

今日のこの問題提起にいろいろな視点からコメントを頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

クリスマスとお正月の花々、そしてモミの木、松竹梅

2016年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム
クリスマスが近づくと花屋さんの店先には真っ赤なポインセチアやシクラメンや色とりどりのパンジーが華やかに並びます。
この季節の野山は寒すぎて花々がありません。どうしても栽培種の花々を求めて花屋さんへ行きます。
特にポインセチアはクリスマスの花のように思っている人も多いようです。

1番目の写真はポインセチアの花です。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%81%E3%82%A2 です。
クリスマスが近くなると花屋さんに鉢物が出回ることから「クリスマスフラワー」とも呼ばれています。
そしてクリスマスと言えばヒイラギがあります。

2番目の写真はヒイラギの写真です。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AE です。
ヒイラギ(柊・疼木)はモクセイ科の常緑樹です。葉の縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、「ヒリヒリと痛む」という古語の動詞が名前になったそうです。
クリスマスの花と決まったものは無いようです。
クリスマスの頃のカトリック教会では白いユリの花を飾ります。マリアさまへ捧げるのでしょう。
そしてクリスマスと言えばモミの木が欠かせません。昔は山から切り出して来たそうですが最近では花屋さんで売っています。緑あざやかなプラスチックで出来ているものも並んでいます。
そんな光景を見ると、嗚呼。今年もクリスマスがやって来るのだなと、時の流れの速さに驚きます。
そしてクリスマスの後は楽しいお正月です。
お正月には松と竹で門松を飾ります。床の間には梅の花も活けます。
ですから松竹梅はお正月には欠かせません。
そして活け花によく使う花に南天センリョウやマンリョウの実があります。

3番目の写真はセンリョウの写真です。写真の出典は、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%82%A6 です。
センリョウ(仙蓼/千両)は冬に赤い果実をつけ美しいので栽培され、特に名前がめでたいのでマンリョウ(万両)などとともに正月の縁起物とされています。

クリスマスやお正月の季節には野山に花が絶える季節ですが、水仙だけは別で、12月になると一斉に咲き出します。
そのような場所はスイセンの名所として全国にあります。あまりにも数が多いので、「全国 水仙の名所 一覧表」のURLのみを以下に示します。それは、http://hananomeisyo.sakura.ne.jp/suisen-meisyo.htm です。
水仙と言えばまず日本古来の「日本水仙」があります。雪の舞う季節に力強く咲く白い花はなんとも印象的なものです。
水仙の名所を見ると、なぜか海辺に多く、海の背景がよく似合う花でもあります。
私共が何度も見に行ったところは伊豆の下田のそばの爪木崎の野スイセンの群落地でした。

4番目の写真は爪木崎の野スイセンの写真です。写真の出典は、
http://denno-travel.com/user/oretabi/blog/277 です。

5番目の写真は爪木崎の日本古来の水仙の花です。この花の苗を買ってきて庭に植えてあります。毎年12月になると、この写真のような可憐な花が咲きます。
このように季節の花々のことを書いていると心が穏やかになります。ほのぼのとした幸せな気分になります。

そして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

トランプ大統領は商取引のような国際外交を展開する

2016年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム
人間には善意と悪意があります。理想主義を語るときもあり、理想を捨てて現実の利潤を求めるときもあります。
アメリカ人も例外ではありません。自由と平等の理想を語るときもあります。でも本音はイスラム教徒を差別するときもあります。メキシコからの不法移民を憎むときもあります。この悪意だけを刺激し、扇動し大統領選挙に勝ったのがトランプ氏です。
トランプ氏は理想を語りません。思想やイデオロギーを語りません。ただ一途にアメリカの経済を強くし雇用を拡大すると主張して大統領になりました。従来、アメリカの誇っていた自由と平等や人権の尊重などには一切言及しませんでした。
このような大統領候補は初めてではないでしょうか?
そのトランプ次期大統領が自分の政権を担う閣僚の人選を全て決めて発表しました。
今日はその顔ぶれを見てアメリカの今後の国際外交の様相を想像してみました。勿論、素人の想像ですからあてにはなりません。
さて閣僚の人選を見ると3つの特徴があるようです。読売新聞による整理をみると以下の3つの特徴があります。

(1)国務長官に国際ビジネスマンのティラーソン氏を指名しました。そして財務長官と国際経済会議委員長と商務長官などの経済閣僚に実業家を起用しました。
(2)国防長官に元中央司令官のマティスを指名し、国家安全保障大統領補佐官と国土安全保障長官にも元軍人を起用しました。
(3)司法長官、厚生長官、環境長官、エネルギー長官にはすべて脱オバマ志向の人を決定しています。

このような閣僚人事には有力政治家やプロの外交経験者がほとんど含まれていません。非常に驚きの人選です。良く言えば画期的な人選です。
この人選から今後のアメリカの外交の方向が見えてくるような気がします。その特徴的な方向を予測すると以下のようになるのではないでしょうか?
(1)トランプ氏自身が成功した実業家であり国務長官にロシア通の国際ビジネスマンがなることで、今後の国際外交は商取引の交渉や営業活動の様相になると思います。そこには人類共通の理想や正義などという空理空論が皆無になります。アメリカが儲かるのならロシアとも手を組みます。オバマ政権が敵視していた親ロシアのシリア、アサド政権も容認します。それでアメリカが儲かるのならクリミア半島を武力併合したロシアへの経済制裁も解きます。
中国に対しては台湾を切り札にして取引します。中国の譲歩でアメリカが儲かるなら中国と付き合います。
日本からはいろいろな取引でお金を出させます。

(2)アメリカの有力な軍人を閣僚に起用したことで、アメリカは今後、軍事力に依存した外交取引を展開するでしょう。軍隊を海外に派遣したら大きな儲けになる場合は躊躇しません。中東のアメリカの石油利権がを拡大するなら派兵するでしょう。イスラム国を直接アメリカ軍が攻撃する可能性もあるかも知れません。アメリカの外交に軍人たちの意見が反映されるようになるでしょう。

(3)オバマ政権の推し進めて来たTPPからも脱退し、国際協調主義は影を消すでしょう。人類全体の安寧などといった理想主義ははかなくも消えてしまいます。オバマ・ケアに見られた弱者救済の考え方も無くなります。
オバマさんのリベラルな考え方に反対の政策を展開するでしょう。
トランプ大統領は広島の原爆犠牲者の慰霊式典はやって来ないでしょう。ビジネスの世界では無駄な行為なのでしょう。

トランプ氏は此の世でお金が一番大切だと信じているかも知れません。そのように考えている日本人はトランプ氏の政治に賛同するでしょう。それも世の中です。私はそれを静かに受け入れて今後を見守るつもりです。

今日の挿し絵代わりの写真は先日三浦半島で撮ったヨットの見える風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





ヨーロッパの冬は低い雲に覆われて暗く、憂鬱な季節

2016年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム
Face Bookでの小生の記事へよくコメントを下さる方にMotoko Boutdumondeさんと 高間 一平さんという方がいます。Motokoさんはフランスに、そして高間さんはドイツに数十年も住んでいます。もともとは日本人でしたがヨーロッパに根を下ろしています。
そんなことを思いながら、それにしても彼の地の冬は暗いだろうな、寒いだろうなと想像しています。なにせ東京でもここ数日は暗く寒い日が続いているのですから。
そこで今日は私共が体験したドイツの暗い文化について書いてみようと思います。ドイツの文化の基調旋律は暗さにあるという小さな話です。

@ドイツ文化の暗さとシュツットガルト
昔のことですが、ドイツ南部、シュツットガルト市のモーツアルト・シュトラーセに住んでいたことがありました。
シュツットガルト市は昔からの音楽の町なので、多くの日本人が音楽留学をしていました。
ある時、オペラでも観に行こうと、研究所のドイツ人にどんなオペラが良いか聞きました。
そうしたらドイツを代表するオペラはベートーベンのレオノーレだと断言するのです。
日本でドイツオペラと言えば、モーツアルトの魔笛、フィガロの結婚、ワーグナーのタンホイザー、さまよえるオランダ人、ニュルンベルグのマイスタージンガーなどです。
しかしドイツ人の研究者がそれは間違いだと言ったのです。
そして「モーツアルトはドイツ人でない。レオノーレがドイツオペラの代表作だ」と言うのです。

レオノーレはベートーベンが作曲した唯一のオペラです。1805年にウイーンで初演され、その後フィデリオと改題されました。日本ではめったに公演されないオペラです。
シュツットガルトでフィデリオを観たのは1969年の冬でした。
ストーリーは比較的単純で、正義派政治家の夫が政敵の悪代官に捕まり、悪代官が所長を兼ねる刑務所に拘留されます。妻のレオノーレが男装しフィデリオと名乗って刑務所に入り込み、中で働くことに成功します。後に善い大臣の助けで夫が釈放され、めでたしめでたしの二幕オペラです。
場面はすべて暗く、陰惨な地下独房や刑務所の内庭です。暗さの中にほのかに見えるソプラノ歌手、フィデリオの顔の輝き、男装の帽子を取った瞬間流れ出す金髪、囚われた夫のシルエットと力強いバリトンの響き。紆余曲折があり、解放後の自由賛歌で終幕。すべては暗さゆえの美しさです。オペラハウスではいつもこの演目が出ており、私は3回も行ってしまいました。

@ドイツ文化の基調旋律は暗さ
1969年ごろ、日本の家庭では蛍光灯が普及し、明るい室内で快適な生活をしていました。ドイツへ行ってみると家の中がほの暗いのです。「どうして安くて明るい蛍光灯を使わないのですか?」と聞くと、ドイツ人は「蛍光灯は工場の照明器具であり、家庭では絶対に使わない。暗い方がよい」と断固として言い放つのです。

冬にボン市のベートーベンの家に入ると、部屋の粗末さ、暗さ、寒さに驚きます。当時は皆そんな生活と言ってしまえばそれまでですが、それにしても屋根裏のような作曲部屋の暗さは尋常ではありません。
耳が次第に遠くなり、作曲した曲をピアノで聴くために耳にあてがうラッパ型の金属製補聴器が数個展示してあります。しかしその補聴器が次第に大きくなっています。そんな補聴器を説明する学芸員の悲しそうな声が部屋を一層暗くするのです。

ドイツの空の暗さ、黒い雲の低さ、凍てつく寒さは十月から四月まで続きます。「麗しの五月」という言葉があるように、ブナの林が一斉に新緑に変わるころの空気の甘さはドイツの冬を越した者にしか分からないものです。
ドイツの文学も絵画も音楽も暗さを基調にし、暗さの中のほのかな輝きの中に人間の美しさを描き出そうとしているようです。その味わいが少しでも分かると、フィデリオがドイツを代表するオペラと理解できるのでしょう。

帰国後あるオペラ通にレオノーレのことを話したところ、「あれはオペラとしては失敗作です。日本ではあまり公演されません。」と言います。
あの暗い冬を日本に持ってくるわけにはいかないのですから私は反論しませんでした。

ヨーロッパ文化を正しく輸入する難しさは明治維新以来の課題です。それは不可能な場合もあるのです。フィデリオを日本で公演することの虚しさが分かると文化の輸入の難しさが身に沁みます。

こんなことを思い出さる最近の東京の寒さです。悪天候です。
挿し絵代わりの写真は寒そうなドイツの冬景色です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真はローテンブルグの冬景色です。出典は、http://tarotraou.blog89.fc2.com/blog-entry-161.html です。

2番目の写真は中世そのままのドイツ中部の街の冬です。出典は、http://kobajun.chips.jp/?p=6770 です。

3番目の写真は年末のクリスマス用の市場です。昼でも零下10度くらいは普通です。出典は、http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201404270000/ です。

年老いても「武蔵野」にロマンを感じ憧れる、この人間の不思議さ

2016年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム
道の奥の杜の都、仙台の大学に行っていた頃から「武蔵野」にロマンチックな憧れを持っていました。
まだ見たことの無い関東平野にはてしなく広がっている美しい雑木林の風景を想像して憧れていたのです。
その雑木林を独り彷徨う孤独を想像し、何故かせつない想いをしていました。
それは国木田独歩やツルゲーネフが雑木林の美しさを讃えていたからかも知れません。
その青春の「せつなさ」を80歳になった現在も感じるのです。武蔵野にロマンを感じ憧れているのです。
その度に私は車で雑木林の広がっている埼玉県南部へ行きます。そんな時に必ず行く場所があります。所沢市の東部の畑作地帯です。
先週も雑木林へのせつない憧れが湧いて来たので車を飛ばしてそこに行きました。
まだ葉が散らないで紅葉が美しいかったのです。

1番目の写真は広い畑の北側に防風林のように作ってある雑木林の風景です。

2番目の写真はクヌギやコナラやカシワの木が混じっている林の中に堂々と生えている大きなケヤキの写真です。ケヤキの右下にはイチョウの木も黄葉しています。

3番目の写真はこの防風林のような雑木林の中央部分の紅葉の風景です。今年は例年になく紅葉が綺麗です。多分、急に寒くなったせいかも知れません。

この雑木林は何故か好きになってしまい何度も通っています。冬の雑木林が好きで、寒い季節にも行きます。

4番目の写真はこの場所の冬景色です。5年前の12月に撮った写真です。

5番目の写真は同じ時に少しアングルを変えて撮ったものです。冬枯れの梢が美しいシルエットを見せています。

関東平野は昔、武蔵野とよばれ、雑木林で覆われていました。人々はその雑木林を切り開いて田畑にしました。しかしその一方、雑木林は薪を取り炭を焼くために必要でした。落ち葉は肥料になります。雑木林からは山菜やキノコも採れます。そこで田畑の周囲には雑木林が大切に保存してあります。このような雑木林を里山とも言います。そんな雑木林が関東地方の農村にはまだまだ沢山残っています。
私は雑木林を見に行くと幸せな気分になります。楽しい気分になるのです。
雑木林のまわりを歩きながら「一体、何故私はこんなに雑木林に憧れロマンを感じるのだろう?」と考えます。
何度考えても分かりません。明確な理由などありません。そしてつくづく人間の不思議さを想うのです。
人間は若い頃あるものを憧れ、好きになると生涯それが変わらないのかも知れません。何故好きになったか本人も分かりません。謎です。人間の不思議な一面ではないでしょうか。

話は変わりますが、最近、不思議な思いをしました。Esu Keiさんの書いた文章を「パリの寸描、その哀歓」と題し、7回の連載記事を掲載しました。
Esu Keiさんはフランスやドイツに長く住んで子育てを経験した方です。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
この連載を丁寧に読んでみると、そこにはフランスの文化の素晴らしさが一切書いてありません。街々の景観が美しいことも書いてありません。印象派の画家の作品も紹介してありません。フランスの教育制度も紹介してありません。
ただただ ひたすら自分の通った歯医者さんや子供の病院のことがこまごま書いてあるのです。フランスで体験した日常茶飯事が流れるような文章で書いてあるだけなのです。
しかし驚くことにEsu Keiさんの会ったフランス人は皆とても親切です。感動的に優しいのです。Esu Keiさんの書きたかったことはただ一つ、フランス人の優しさだったのでしょう。本人はそれを意識していません。自分の経験したことを素直に書いたにすぎません。

私は何故フランス人がこうもEsu Keiさんへ対して優しかったか考えました。そして答らしいことに思いつきました。
結論を先に書けばEsu Keiさんはフランス語に憧れフランスが好きだったからです。フランス人が好きで、会うフランス人をみな憧れのまなざしで見たからなのでしょう。本人が意識していないだけに一層、それはフランス人の胸を打ったのでしょう。
感動したフランス人はEsu Keiさんに対して本当に親切にしてくれたのは自然の成り行きです。

それでは何故、Esu Keiさんはフランスにロマンを感じ憧れたのでしょうか。
その理由は本人も分からないでしょう。私にも分かる筈がありません。
ただ彼女は東京で高校を終えると日本の大学に進学せず日仏学院へ進学したのです。この学校はフランス語でフランスの大学教育をする学校です。ですから彼女は高校時代以前の少女の頃からフランスにロマンを感じ憧れていたのでしょう。
流暢なブランス語が話せて、フランスが大好きな人をフランス人は邪慳にあつかう筈はありません。その上、Esu Keiさんは人柄が良かったに違いありません。
そして彼女は老いた今でもフランスが好きなのでしょう。こうして連載記事を書いてくれたのですから。

人間は不思議なものです。若い頃、憧れて好きになったものは一生好きなのです。
私はネットを通して30年、50年と外国に住んでいる日本人を数人知っています。皆、例外なくその国が好きなって日本へ帰って来ないのです。多くの 場合は、その異国に子供や孫もいます。幸せそうです。好きになれば幸せになるのです。
しかしその一方で、日本が懐かしいのです。望郷の念に駆られる筈です。時々、私はそのような方々へ心を寄せて記事を書いています。

Esu Keiさんの「パリの寸描、その哀歓」と題した7回の連載記事を読み終って、考えたことです。
人間は不思議なものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========================
(1)国木田度独歩の「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。
(2)国木田度独歩の経歴を下に掲載して置きます。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。
田山花袋、柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。
また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%A8%E7%94%B0%E7%8B%AC%E6%AD%A9

「ドイツで遭遇したスリ師の見事なわざ」、Esu Kei著

2016年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄では折にふれて、いろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
Esu Keiさんによる連載記事の「パリの寸描、その哀歓」は少しお休みいたします。頂いている原稿はまだありますが、この辺で気分を変えて頂くためにドイツでの体験談を時々お送りしたいと存じます。
Esu Keiさんはフランスやドイツに長く住んで子育てを経験した方です。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で体験したことを素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
今日はドイツで遭遇したスリ師のことです。お楽しみ下さい。

===「ドイツで遭遇したスリ師の見事なわざ」、Esu Kei著===============
 ハンブルクに住んでいた頃のこと、電車に乗って珍しく都心まで出かけた。夫があつらえたジャケットを洋服屋さんに取りに行く日だった。
我が家としては数年に一度の高い買い物である。夫から預かったお金は1000マルク。用心深く封筒に入れて、深い買い物バッグの内ポケットに入れていた。
家を出て、まず近くの洗濯屋さんによる。そこで洗濯物をおいて、イーザーブルックの駅に向かう。20分に1本の電車を待つ。ようやく来た電車に乗り込み、4人向かい合わせの席に座ろうとしたその時、電車が揺れたのかよろけた。バッグを取り落としてして、みごとに中身をぶちまけてしまった。すでに二人の女性が乗っていて、私ともう一人男性が座ろうとしていた。私は座っていた人に体か、荷物がぶつかったかもしれないし、恥ずかしいし、とにかく平謝りで、身の置き所もない思いだった。男性が荷物を拾うのを手伝ってくれたが、丸い小さなキャンディー缶が転がって座席の下に行ってしまうし、文庫本のページがくしゃくしゃに開いて落ちている。ハンカチ、手帳、ボールペン、鍵も床に落ちて…男性に助けられながら荷物を拾い終わり、何度もダンケ・シェーン(有難う)を繰り返し…電車はもう次のブランケネーゼの駅についていた。
ユンクフェルンシュティークで電車を降りて、湖のほうへ歩いてすぐのところに洋服屋さんはある。ジャケットの代金を払うためにお金の封筒を出そうと、バッグの中のポケットのチャックを開けようとした。あれ?チャックが開いている。ない。封筒はない。あわててバッグの底の方も探してみるが、ない。何度探ってもない。
その時あっと思い出した。荷物を拾うのを手伝ってくれた男性が、何故か私の目をじっと見つめたまま目を離さなかったことを。そして、それが何か気味悪く心にひっかかったことを。あの男はスリだったのかもしれない。
家に戻る途中、念のためと思って洗濯屋さんに寄って見た。「私、ここに封筒を忘れていきませんでしたか?」「何も気が付かなかったけれど、どうしたの?」「実はお金を無くしてしまったの。電車の中でバッグを落として、男の人が助けてくれたんだけれど、どうも掏られた気がするの。」というと、「それよ。彼等の職業なのよ。そりゃかなわないわ。相手はプロなんだから。可哀想に、気を取り直してね」おかみさんに慰められて、家に帰る道々、夫になんと言って謝ったらいいのかと考えていた。
私がよろけたのは本当に電車が揺れたからだったのか? よろけたくらいで、バッグの中身はあんなに見事にひっくり返るものなのか?電車の中でバッグの内ポケットのチャックが開いているのに気付いたとして、取り返すチャンスはあったのか?
でも、どう思い返しても今更仕方のないことではないか。あれがプロのお手並みと言うものか。参りました。
夜、帰宅した夫に「あなたから預かった大切なお金掏られてしまいました。ごめんなさい」というと、夫から返ってきた言葉は「君はぼんやりしてるところがあるからな。でも君がケガしたとかじゃなくて良かったよ。この次は気を付けて」というものだった。私と夫は、普段は実に些細なことで言い合いをする。でも大きな失敗をしでかした時には、夫は決して私を責めないのだ。(終り)

今日の挿し絵代わりの写真は気分が晴れ晴れするような海の見える風景です。先週、三浦半島で撮ってきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「何か物思いを誘う空の色と海の輝き」

2016年12月10日 | 写真
一昨日、三浦半島の西海岸を丁寧に車で走りました。
あまりにも空の色が綺麗だったので写真を撮りました。碧い海も輝いておいます。
何かもの思いを誘うようです。何を思うかは人それぞれです。
80歳になった私はつい亡くなった友人のことを思い出していました。
共にこの海でヨットに乗った友人とのセイリングの光景を思い出していました。
そんな写真をお送り致します。









「今日の日記、平林寺の紅葉の写真を撮りに行きました」

2016年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム
埼玉県の新座市にある平林寺は川越藩主、松平家のお寺でした。
12万坪に及ぶ広大な敷地には武蔵野がそのまま保存されています。
今日は天気も良かったので家内と紅葉の写真を撮りに行きました。もう紅葉の季節が過ぎたようで多くの雑木は落葉しています。しかし楓だけは散り残り美しい紅葉を見せてくれいました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









コンピューターが高齢者へもたらす はかり知れない恩恵

2016年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今更、言うまでも無く現在の世界においてコンピューターのもたらしている恩恵ははかり知れないものがあります。
特に老齢で車の使えなくなり、スーパーに行って食料品が買えなくなった高齢者にとっては生活の必需品です。
私の友人は山の中に独りで住んでいますが、コンピューターで食品を注文して着払い宅急便で取り寄せて生活をしています。
遠方の病院へいくときはブログを通して親しくなった人が車で送り迎えをしてくれます。
生活に必要な物は何でもコンピューターでも取り寄せられる時代なのです。
その上、山の中の独り暮らしの高齢者はメールで親類や知人と交流も出来ます。
しかしコンピューターの使えない高齢者もいます。どうしますか?
簡単です。コンピューターの使える息子や親しい知人へ電話で頼めば良いのです。
全国には過疎地に住んでいる高齢者が沢山います。
その生活を直接あるいは間接的に支えているのがコンピューターなのです。

話は飛びますが、昔、私は「初歩のラジオ」という雑誌を参考にして真空管式のラジオを作っていました。
当時はラジオを作るために真空管を数本買ってきます。コンデンサーや抵抗もいろいろな種類を買い揃えます。
ところが現在は半導体素子が取って代わり、真空管もコンデンサ-も抵抗も全て消えてしまいした。
シリコンで出来た半導体素子には、トランジスタや集積回路(IC・LSI)、抵抗、コンデンサなどに使われています。そして、テレビ、携帯電話、コンピュータといったほとんどに全ての電気製品に内蔵されているのです。
その上、自動車や各種産業機器などにもコンピュータなどの形で組込まれています。今や半導体素子無くしてはこの世が成り立ちません。
あの懐かしい真空管もコンデンサ-も抵抗も全て忽然と消えてしまったのです。
隔世の感です。

さてそれはそれとして私の場合はコンピューターのお陰で2つの良いことがありました。
一つは撮った写真を瞬時にしてコンピュータに取り込め、それを皆様へ送り届けられることです。
二つ目はブログを毎日書いているお陰で親しい友人が出来ることです。
この二つについて写真に従って説明します。

1番目の写真は昨日、城ケ島からの帰りに諸磯湾で撮ったヨットの見える風景です。船体の白さと空の淡い青が美しいと思っています。

2番目の写真は特に気に入った木造艇の雰囲気のあるヨットの写真です。7年前にブログを通して知り合った友人に乗せて貰ったヨットに雰囲気が似ているのです。

3番目の写真は油壺湾に静かに舫うヨットたちの写真です。

さてコンピューターの第二の恩恵はブログを通して友人が出来ることです。
例えば7年前にHootaさんという方と親しくなりました。
彼は北欧風の全長41フィートの大型艇、Bambino号で東京湾や伊豆七島周辺を帆走している方でした。

4番目の写真は千葉県の保田港に係留してあったBambino号を初めて訪問した時の写真です。2009年04月15日に撮った写真です。
その日の夕方から夜にはHootaさんとビールを飲みながら歓談しました。
彼が言ってました。「皆さん、普通の人々で生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ。」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々で話がすぐ通じますよ」。
そして2009年05月9日には私を駿河湾でのセイリングに誘ってくれたのです。

5番目の写真は駿河湾を傾いて疾走中のBambino号の姿です。

私はブログはバーチャルな世界なので親友なんて出来ない。そう思っていました。しかし色々なブログを読み、感動し、そして幾人かの人へコメントやメールを送りました。自然な成り行きで、そのうちの何人かの人と実際お会いし、お話を聞くことになりました。
Hootaさんもそのようにして出来た友人の一人でした。

Hootaさんは本当に海の男です。忍耐強くて、優しくて、天候の変化に従順なのです。そんな男と友人になれたのもコンピューターのお陰です。

コンピューターのもたらす恩恵はその他にもいろいろありますが、今日はこの位にしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、城ケ島までドライブしました」

2016年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、紅葉に飾られた富士山や甲斐駒岳や八ヶ岳の写真を撮ろうとして山にばかり行っていました。

しばらく海を見ていないので、今日は三浦半島の突端の城ケ島まで車を走らせて来ました。

帰路は紺青の海を見ながら、城ケ島、三崎港、油壺、佐島、葉山と細い旧道をゆっくりとドライブを楽しんできました。

1番目の写真は城ケ島の京急ホテルの前から撮った富士山です。
2番目の写真は城ケ島の荒磯の写真です。
3番目の写真は油壺湾に係留されているヨットの写真です。







「パリの寸描、その哀歓(7)フランスの保健所の役目」

2016年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第7回目は、「フランスの保健所の役目」です。フランスでは外国人旅行者の治療は保健所が無料でするという驚くような話です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(7)フランスの保健所の役目」、Esu Kei著=======
 フランスを離れドイツに暮らすようになってから、ちょっとした用事でパリに出かけたことがある。その頃私は体調がちょっと不安定で、時々前触れもなくひどい頭痛に悩まされることがあった。ホルモンの変化と関係があると医師から言われたことがある。その日も街を歩いているうちに、目をつむって歩きたいほどの頭痛で、何とかしなければと思った。フランスにいるときに常用していた薬の名前はわかっていたので、薬局に飛び込んで、その薬を買おうとしたが、医師の処方箋がないと売れないと断られた。それは一般的な薬なので、以前には処方箋なし買っていたものだ。旅行者なので、医師のアポイントをとって診察を受けるのは時間に余裕がなく難しいし、薬は今すぐにも飲みたいのだと説明すると、ここ1年前から薬の規制が厳しくなっていて、抗生物質でなくても、大抵の薬を買うのに処方箋が必要になったのだという。保健所に行けば必要な対応してくれるからと、近くの保健所を教えてくれた。道は分かりやすかったので、すぐに行ってみると、古いビルの一角にそれはあった。
入り口の受付で、要件を言うと、「ドクターと話してください」と、すぐに大きな面接室のようなところに通された。古い応接間のような家具の配置と言い、落ち着いておしゃれな色調といい、私が保健所として思い浮かべるイメージとはえらく違う高級感に驚いてしまった。すぐに背広にネクタイ、清潔な白衣もおしゃれな中年の紳士が現れて、「どうしました?」と聞かれた。私が持病があって、頭痛がおきることはよくあるが、旅行中で薬を持っていないので…と経緯を説明するとすぐに薬に名前を確かめて処方箋を書いてくれた。お礼を言って、お金をどう払うのかと聞くと、無償だという。驚いて旅行者なのに?と聞くと、「フランス人であれ、外国人であれ、フランスにいる人の健康を守るのが我々の役目ですから」という答えが返ってきた。なるほど。防疫の意味からも納得できる。
すぐに 薬局に戻って薬を買い、水をもらって1錠飲むと、コップを返してお礼を言っている間にも頭痛が消える。うそのようだが、私は薬の効きが良い体質のようだ。ただ体に合わないときは、悪い反応も即座に出るので注意は必要で、知っている薬を飲むようにしている。
それにしてもどこの国でも保健所と言うのは個人の旅行者にもこんなに開かれた所なのだろうか? 日本も? おかげさまで予定を変えることなく、夫に頼まれた用事を済ませて無事にハンブルクに帰ることができた。(続く)

今日の挿し絵の写真は印象派のカイユボットの絵画3点です。
彼の作品展が東京の六本木で開催された時、見て感動した『床削りの人々』を第一番にお送りします。この絵が1875年のフランスの官展で落選したことが信じられませんでした。嗚呼、審査員は眼が無かったのでしょうか?!


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は『床削りの人々』(Les Raboteurs de parquet)(1875)、(オルセー美術館)です。

2番目の写真は『ヨーロッパ橋』(Le Pont de l'Europe)(1876)、(オードロップゴー美術館)です。

3番目の写真は『イエール、雨』(L'Yerres, pluie)(1875)、(インディアナ大学美術館)です。

ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte、(1848年8月19日 - 1894年2月21日))は、フランスの画家で、印象派絵画の収集家。印象派の画家たちの経済的支援者であった。富裕な衣料製造業者の子として、パリ10区のフォーブル・サン・ドニ通り(fr:Rue du Faubourg-Saint-Denis)に生まれた。
1873年、パリ国立美術学校に入学したが、あまり登校しなかった。1874年、ドガ、モネ、ルノワールらを知った。1875年の官展に『床削りの人々』を持ち込んだが、「粗野」を理由に拒否された。
彼は印象派絵画の収集家でもあったので、ピサロ、モネ、ルノワール、シスレー、ドガ、セザンヌ、マネの、計68点を、フランス政府に遺贈する気でいたが、当時印象派絵画はまだ『日陰者』で、ルノワールの2年間の折衝ののち、政府は漸く38点を受け入れた。現在はオルセー美術館へ移管されている。
カイユボット自身の作品は、1950年代になって子孫が漸く市場に出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88 より抜粋しました。

「パリの寸描、その哀歓(6)緊急事態 SOS」

2016年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第6回目は、「緊急事態 SOS」です。日本の病院の緊急体制を考えさせられます。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
====「パリの寸描、その哀歓(6)緊急事態 SOS」、Esu Kei著=======
私の歯はひどく弱い。20代の始め頃に病気をして、入院手術して数か月後に、それまでは質の良い歯だと折り紙つきだった歯が一挙にボロボロになってしまった。親戚の外科医によれば手術の影響ではないかと言われている。歯ばかりでなく、いろいろな症状も出ていたからありうることらしい。元々は歯は丈夫で、子供のころから虫歯になど一度もなったことがなかったから、磨き方もそれほど念入りであったわけではないし、それが祟ったということもあろう。丁寧な歯医者さんの治療のおかげでよくなったもの、「歯で苦労しそうな人だな」という医師の予想通り、結婚して子供ができた頃からまた急激に歯が悪くなった。引っ越す先々で、いろいろな国のいろいろな歯医者さんのお世話になることになった。上手な人ばかりではない。
フランスにいた頃のこと、歯科に通っているにもかかわらずどうにも具合が悪い。歯が良くならず、ひどくなっているような気さえして、医師を変えるべきかどうか迷っていた。治療が痛い上、治療後の痛みで食事が取れないことが多く、医師に言うと、虫歯が進んでいるので我慢してもらうしかないという。ある日、別の患者さんが居合わせたことがあって、その人が、「こんな治療受けられない、帰ります。」と怒っているのを見て、やはりと思った。
夫の会社のマダム・ムリエに話すと、優秀な歯科医を紹介するといってくれた。歯科医としてはもちろん、口腔外科医でもあるので信頼してよいという。少し遠いが、ちょうど9月からは次男も幼稚園に通うことになっていたので、思い切って変わることにした。
今回の医師は冗談好きな年配の人で、口髭を蓄え、余裕たっぷりに見える。
「確かにあなたの歯はとても弱いので少し苦しめることになるかもしれない。痛かったら天井まで飛び上がってよろしい」などと言いながら、治療は丁寧で、麻酔も殆ど使わないのである。もちろん治療中も一度も飛び上がることはなかったし、治療後もご飯が食べられないなんてことはなかった。
そんな医師の治療でも、痛くなるときはあった。ある日治療を受けた後、夕方までなんでもなかったのに、夜になって恐ろしく痛くなってきた。9時半過ぎのことで、もちろん診療時間はとうに終わっている。どくんどくんと顎の深部で何事か起きて、顎が壊れてしまいそうな痛みである。尋常の痛みではない。朝まで待てるというような痛みではないのである。大急ぎで電話帳を繰って、歯科のSOSドクターを探す。子ども達はもう寝ている時間だったが、夫はすっかりご機嫌に酔っ払っているので、タクシーを呼んでSOS医に飛んでいく。「これは、充填したところにガスがたまってしまったんだ。すぐ詰め物をはがしましょう。」と言って、したたかに麻酔を打って処置してくれた。少し休むように言われて、ソファで横になっているうちにすっかり眠ってしまった。医師が「眠れるくらいになったなら大丈夫だから、お帰りなさい。」と起こしてくれなかったら、朝まで眠ってしまったかもしれない。タクシーを呼んでもらって痛み止めと、かかりつけの歯科医あてのメモをもらって帰宅したのは深夜に近かった。
翌日、かかりつけ医に電話をすると、予約はなかったがすぐ来るようにといわれた。
SOS医のメモをもって、前夜の騒動を話すと、「それはかわいそうに。恐ろしい痛みだったでしょう。気をつけていても、稀にそういうことが起きてしまう。」熱を測って、「少し熱もあるようだ。」と抗生物質を処方され、歯はその日は殆どいじらず、「家に帰って、すぐ抗生剤を飲んで、今日はベッドで寝ているように。子ども達の面倒はご主人に見てもらいなさいよ。」カードに自宅の電話番号を書いて、「痛くなったら時間外でも、夜中でも遠慮せずに電話していいですよ。」と言ってくれた。もちろんそんなことは2度は起きなかったし、翌週のアポイントの時はすっかり元気になっていて、ご自宅の電話番号はお返しするのである。この歯医者さんにはフランスを離れるまでずっとお世話になった。
それにしてもありがたいのは各科のSOSドクターの存在だ。日本で夜中に我慢できないほど歯が痛くなったらどうすればよいのだろうか?救急車?それとも朝まで頬をおさえて唸りつつ待つのか?我が家では息子が脳膜炎をおこしたときにも、夜中にSOS小児科医のお世話になった。(続く)

今日の挿し絵の写真は記事の内容とは関係ありません。私の好きなマネーの油彩画3点です。

1番目の写真は「笛吹く少年」 1866年、161×97cm 、 オルセー美術館(パリ)です。

2番目の写真の作品は友人の女流画家ベルト・モリゾを描いた肖像画「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1876年)。

3番目の写真の絵画は「フォリー・ベルジェールのバー」です。
50歳を迎えた1882年、マネが晩年に残した最後の作品です。翌1883年、左足の手術が原因で同年4月30日にこの世を去ります。享年51歳。

エドゥアール・マネの人物像;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8D
ギュスターヴ・クールベと並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられている。