後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

サクラソウと日本人の美意識の変化

2016年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の花々に対する美意識が最近とても変わって来たと思います。
日本古来の楚々とした花々よりも華麗な西洋の花々の方が美しいと思う人が圧倒的に多くなってきました。何故か淋しい思いをする私は、時代に取り残された人間なのでしょうか?
そんな想いを込めて今日は日本サクラソウと西洋サクラソウの花の写真をご紹介致します。
数年前に可憐な日本サクラソウに魅了され埼玉県の自生地の「田島ヶ原」へ毎年、足を運んだ時代がありました。4月になるとまだ花が咲いていないかと何度も通ったものです。

1番目の写真は2008年の4月に田島ヶ原で撮った日本サクラソウの写真です。ここは江戸時代から有名な自生地なのです。

2番目の写真は田島ヶ原でサクラソウが密生している場所を探して撮った写真です。
広い草原に細い歩道がめぐらせたあります。その歩道を春風に吹かれながら歩いて行くと青草の間に小さなサクラソウが控えめに咲いています。
しみじみ美しいと思います。
そこで日本サクラソウの花を買おうと隣町の石塚園芸を訪問しました。
しかしニホンサクラソウの姿がありません。皆無です。
その代わり西洋サクラソウの花が広い温室いっぱいに咲いていたのです。
石塚園芸へ家内と何度も行っているうちにご主人の石塚健壽さんとは親しくなりました。
彼はいろいろな意味で感動的な花の栽培家だったのです。精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
そして新種の西洋サクラソウをオランダの新種の花の祭典、フロリアード2012へ出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。

3番目の写真は2012年に特別賞受賞の湖畔の夢です。帰りがけに石塚さんが私に一鉢下さいました。

4番目の写真は石塚園芸の温室内に咲いている西洋サクラソウです。交配して作った白い花も見えます。

5番目の写真も石塚園芸の温室内に咲いている西洋サクラソウです。「湖畔の夢」が溢れています。このような温室が3棟あります。そして春に種を植え、大切に育てて12月の末から1月いっぱい花が咲くのです。
3棟ある温室はシクラメンの栽培とサクラソウの栽培の季節が違うので使いわけるそうです。

石塚健壽さんにニホンサクラソウは何故売っていないのですかと聞きました。
日本サクラソウも美しいと思いますよ。しかし圧倒的に多くの人が西洋サクラソウの方が綺麗だと思っているようですよ。とにかく売れるのです。こんなに一杯ある西洋サクラソウが1月になるとアッと言う間に売れてしまうのです。その花を囲んだ家族の笑顔を想像するとこの商売が止められないのです。こんなことを言っていました。
昨日も石塚健壽さんに会ってきましたが現在はシクラメンの季節でサクラソウはまだ咲いていませんでした。

サクラソウといい、シクラメンとといい、日本の家々に飾ってあるのは多くは西洋の花々になっています。
何故か淋しい思いをする私は、時代に取り残された人間なのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
(1)ニホンサクラソウの栽培の歴史、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%82%A6
江戸時代の中ごろから、荒川の原野に野生するサクラソウから本格的な栽培が始まり、種子まきを繰り返すうちに、白、桃、紅、紫、絞りなどの色変わりや、大小さまざまな花形の変わり品が生まれ、名称が付けられた。やがて江戸時代後半になると品種数も非常に増え、文化元年(1804年)から新花を持ち寄り品評することが始まった。栽培者は旗本や御家人など武士階級が多く、「連(れん)」と呼ばれる2~3のグループが成立し、新品種の作出を競い合った。文化から天保(1804年~1844年)にかけてがもっとも盛んな時代であった。熱心な女性の愛好家もいて、寒天を流し固めた重箱に一品種ずつ挿し並べて鑑賞したという文献もある。幕末には各地に広まり、文久2年(1866年)にはサクラソウとしては現存最古の番付が発行されている。現在栽培される約300品種のうち、その半数が江戸時代から株分けで伝えられたもので、その花は多様な花型と繊細な花色が特徴で、他の多くの日本の伝統的な園芸植物と共通している。品種ごとに鉢植えで育て、花時には「花壇」と呼ばれる屋根付きの五段構造の展示台に配色よく飾る。鉢は「孫半土(まごはんど)」という、本来食品容器として作られた瀬戸焼の陶器が使われた。これはサクラソウのデリケートな花色をよく引き立てる。
愛好者層が武士中心であったので、明治維新前後には衰退の危機にも見舞われたが、やがて愛好者も増え、新花の作出も再び盛んになった。この頃に生まれた名花にも今に伝えられているものがある。やがて太平洋戦争により、サクラソウの栽培も下火になったが、戦後次第に復興し、昭和31年(1956年)に愛好者のグループである「さくらそう会」が発足、関西にも「浪華さくらそう会」が生まれた。この他全国各地に愛好会ができ、今に続いている。

6番目の写真は田島ヶ原サクラソウ自生地の写真です。
埼玉県さいたま市桜区の「田島ヶ原サクラソウ自生地」は国の特別天然記念物に指定されている貴重な群落である(桜区の区名も桜ではなくサクラソウに因んで命名されている)。荒川流域のこの一帯は、下流の戸田ヶ原、浮間ヶ原などとともに、江戸時代からサクラソウの名勝地として人々に親しまれてきた。しかし、度重なる治水工事や工場の開発などによって、原野の植生が変わり、サクラソウの群落も範囲を狭められていった。この群落を守るため、大正9年(1920年)に天然記念物に、昭和25年(1950年)に特別天然記念物に指定された。

(2)プリムラ・マラコイデス(西洋サクラソウ)
http://www.yasashi.info/hu_00008.htm
中国雲南省、四川省に分布するサクラソウの仲間です。本来毎年咲く多年草ですが、高温多湿に弱く花後に枯れてしまうことが多いため、園芸では一年草として扱うことが多いです。秋にタネをまいて翌春の花を楽しむのが一般的です。日本へはヨーロッパ経由で明治末に渡来しました。葉や茎に白い粉が付くので、ケジョウザクラ(化粧桜)の和名があります。
野生種は草丈20cm~50cm、主な開花期は早春~春です。花茎を長く伸ばして段状にたくさんの花を付けます。花茎は3cm~5cm、色はピンク、淡紫、白などがあります。多くの園芸品種があり、草丈、花の色や大きさなどは様々です。サクラソウの名前で苗が流通することも多いですが、従来のサクラソウ(日本サクラソウ)とは別種の植物です。
20世紀前半にイギリスを中心に品種改良が行われた。

7番目の写真はフロリアード2012でオランダのベアトリクス女王陛下とその足元にある石塚園芸のサクラソウ3種の写真です。2012年4月に撮った写真です。

「パリの寸描、その哀歓(5)皮膚科?精神科?」

2016年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第5回目は、「皮膚科?精神科?」です。子供を育てる女性の美しい繊細さが胸を打ちます。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
==== 「パリの寸描、その哀歓(5)皮膚科?精神科?」、Esu Kei著=========
長男が8歳の時だった。なんだか頭のてっぺんのつむじが大きくなったというか、禿げてきたように見えて気になっていた。最初は気のせいだと思っていたが、どうもだんだん大きくなるようなのだ。友人に「禿げてるように見える?」と聞くと、迷わず即座に「ホントだ!」という応え。ヨーロッパでは若くて頭頂の禿げている人はとても多いが、8歳から禿げるのはいかにも可哀想だ。私はすぐに小児科のファンケル医師のところに飛んで行って皮膚科の医師を紹介してもらった。
 紹介されたのは歩いて行ける距離にある皮膚科医だった。次男を友人に預けて、早速出かける。インターフォン越しに通された待合室は高級な応接間のようにきれいで、広い。淡く渋い色でまとめたカラーコーディネイトは完璧だ。完全予約制だから私達だけしかいない。高級できれいな部屋作りをしている人はどちらかと言うと神経質な人が多いから、躾がいいとは言えない子どもを連れた私はちょっと緊張する。
すぐに診察室に呼ばれた。40歳前後に見える女性ドクターである。髪を無造作に後ろに束ねた飾り気のない様子にちょっと安心した。出された用紙に名前や住所を書き、健康手帳(母子手帳のようなもの)を見せ、初対面の挨拶と診療の手続きをしてから、私は息子の頭頂が禿げてきたことを手短に説明する。医師は息子の頭をちょっと見てから「まずお母さんの話を聞きたいので、あなたはそこで遊んでいてちょうだい」と診察室のおもちゃや、本のあるコーナーに息子を誘導する。そして私と向き合う形で座り、いろいろ質問する。私たちが夫の仕事の都合でフランスにきて3年余りたち、息子たちはフランスの小学校や幼稚園に通っていること。日本語学校にも週に一回行っているとか、家での様子や、休日の過ごし方、学校の勉強のことまで聞かれるままに答えた。随分と長い面接で、髪の毛とは関係なさそうなのに何故こんなに詳しい話を?と不思議に思った。話し終えると医師は「今あなたの位置からは息子さんは見えませんが、私の方からは彼の様子を観察していたのです。予想通りでした。彼は自分で髪の毛を抜いているのです。『チック』ってご存知ですか?」「あっ、はい、知っていますが、髪を抜くチックがあるとは驚きました。」「チックは実にいろいろな形で出ます。彼はたまたま髪を抜くというだけなのです。」「なるほど… 治りますか?」「大丈夫です。今度はサトルと話しますので、あなたは席を外してください。」
 私は息子から少し離れて、彼が見えないところに身を置き、医師の顔も見ないようにしていた。話は全部聞こえる。「サトル、大事な話だからきちんと聞いてね。あなたは自分でも気づかずに、自分で髪の毛を抜いているの。それで頭が剥げてきているの。そんなこと続けていると、いまに大きな禿になってしまうの。学校で友達に見つかったらからかわれるかもしれない。そんなのいやでしょ? 止めなくちゃね。でも癖になっているし、気付かずにやってるから、止めるの難しいかもしれないわね。それで今から私がいい方法を教えるから、それを毎日やるという約束を守ってちょうだい。わかりましたか?」そういうと医師は白い紙に定規を使って14の大きなマスを書き、一つ一つのマスの端に日付を入れた。その紙を息子に見せて「髪の毛を抜かないように自分で注意しましょう。そして毎晩寝る前に今日は髪の毛を抜いたかどうかしっかり思い出してみて、抜かなかった日は、このマスの日付のところにあなたの好きな絵を描くの。自動車でも、動物でもいいのよ。今日は抜いちゃったという日は大きなバツをかくの。毎日必ずよ。2週間たったら、この封筒に入れて、お母さんに切手をもらって貼って、自分でポストに入れに行くのよ。」そう言いながら、医師は自分の住所を書いた封筒に、マスを書いた紙を入れると息子に渡した。
そして息子に待合室で少し待つようにと言って室外に出し、私の方に向き直り、「難しいことではないのですが、彼の自覚と、ご両親の協力が必要です。お父さんやお母さんはこれ以後髪の毛のことは一切口にしないでください。マスに絵を描くか、バツを書くかも、彼の責任で決めるのが大事なのです。実際には抜いているのに絵を描いてしまうことがあっても、黙っていてください。さっきお母さんから長くお話を聞いたのは、彼の能力や家庭や学校での様子を知りたかったからなのです。お母さんは毎晩『ドクターとのお約束はすませた?』と聞いてあげてください。それだけです。」私はすっかり感心してしまった。このドクターは皮膚科医であり、小児精神科医であると思った。
 彼女は私から話を聞きながら、息子のことも、私のことも観察していたと思う。そして息子の自主性を引き出してなおすことができると判断したのだと思う。その晩、夫には「心配ないそうよ。気にしなくていいらしいわ。」とだけ言った。夫は病気のこととなると大変な心配性で、しかもそれを口に出さずにはいられない質なので、髪の毛のことは家では口にしないということが守れそうになかったから… 彼は「良かったね。」と安心した様子だった。これで大丈夫と私は確信した。
 2週間たち、色鉛筆で果物やら花やらを描き、バツも5,6カ所くらいはあったが、息子は宿題の紙をポストに投函した。ドクターから早速、息子宛てにお返事をいただいた。もちろん封を切らずに息子に渡す。息子は読んでから私に見せてくれた。「あなたは、ちゃんと約束を守っていますね。でもまだ時々髪の毛を抜くことがあるようですから、また2週間続けてみましょう。髪の毛を抜かないように自分で気を付けましょう。」とあり、新しい2週間分のカレンダーとドクターの住所を記した封筒が入っていた。
 さらに2週間経って、まだバツは2つ、3つくらいはあったようだったが宿題を送り、「よく頑張りましたね。もう心配ないでしょう。そろそろ髪の毛もまた生えてきているかもしれません。これからも気を付けてね」というお返事をいただいた。それ以後このような問題は全く起きなかった。
 子ども自身の自主性と責任感にまかせる、しかも医師と子ども自身の信頼関係をもってというやり方は、私の胸に深く残った。万一、家庭内の何らかの原因で(親か、子どもに何か問題があって)この解決方法がうまくいかなくても、このドクターならきっと次の策を持っていたことだろう。賢いやり方に感服する。
 チックという症状は、子どもに何かストレスがあると出てくると聞いている。息子はフランスの学校と日本語学校にいくという二重生活だったし、もともと集団生活が苦手で振舞いに問題があって、私が叱らなければならない場面も多かったから、ストレスフルな生活だったと思う。こういう時、医師が親を責めないでいてくれるのは有難い。責められると親が緊張するから、それが子どもに自然と伝わって問題はなおややこしくなると思う。こんな名医のおかげで、薬も一切使わずに息子の問題は一カ月余りで解決した。
 息子の髪がすっかり元通りになおってから私は夫にこの尊敬すべきドクターの話をし、経緯を話した。「もし貴方に話したら、あなたが黙っていてくれないと思って言えなかったの」と言うと、「そうだったのか、俺なら、毎日何回も髪の毛抜くなとか、禿げちゃうぞとか絶対言ったな」と笑っていた。やっぱり… (続く)

今日の挿し絵の写真は記事の内容とは関係がありません。フランスの文化や雰囲気が伝わって来るようなシスレーの絵画3点です。

シスレー 「サン=マルタン運河の眺め」1870  50 x 65 cm   オルセー美術館、パリ

シスレー 「ポール・マルリの洪水」1876  Oil on canvas  50 x 61 cm  ルーアン美術館

シスレー 「 モレのウジェーヌ通り、冬 」 1891 | 46.7 x 56.5 cm | メトロポリタン美術館

アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839年 - 1899)は、フランス生まれのイギリス人の画家。
シスレーは1839年、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。
1857年、18歳のときにロンドンに移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、商業よりも美術に関心を持ちターナーやコンスタンブル等の作品に触れた。4年後中断してパリに戻り、フレデリック・バジールのすすめでマルク=シャルル=ガブリエル・グレールのアトリエで学び、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会う。彼らは共に、スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはあまりなかった。彼らの作品は当時のサロンの審査員からは受け入れられなかった。1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場あった。当時はとくにルノワールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品している。
1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年、マリー・レクーゼクとしても知られる)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まるカフェ・ゲルボワの常連ともなっていた。
1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。
1870年、 普仏戦争勃発し、ブージヴァルに住んでいたシスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産、経済的必要を満たすために作品を売るしかなくなる。しかしシスレーの作品はなかなか売れず、以後彼は死ぬまで困窮した中で生活することになる。 1871年、パリ・コミューンを避けルーヴシエンヌにほど近いヴォワザンへ移住。その後、アルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリにも移住。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%BC より抜粋しました。

トランプ氏、台湾総統と電話!台湾と断交した日本の薄情さ

2016年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ氏政権の主要人事が着々決まって行きます。非常に有力な共和党関係の人物が閣僚になっていきます。
その上、国防長官には強面の元中央司令官が決まりました。
これでトランプ氏の外交が軍事力と経済力でロシアと中国と対決しながら相手の譲歩を引き出す強い外交政策をとるのではないかと考えられます。
そのトランプ氏が驚くべきことにアメリカと国交の無い台湾の総統の蔡英文氏と電話会談をしたのです。
日本は1972年に共産主義中国との国交樹立のため、台湾を犠牲にして台湾と断交したのです。それは田中角栄政権の時でした。
戦後、日本の賠償を放棄してくれた蒋介石総統を裏切ったのです。
その上、50年間も日本の領土だった親日的な台湾人を見放すように国交を断絶してしまったのです。
「台湾と断交しなければ国交をしない」という共産主義中国の理不尽な要求に屈したのです。
日本人は義理人情に篤いと言います。それを自慢する日本人も多数います。
「外交は義理人情で行なってはいけない」と偉い人は説教します。
私は1972年以来、台湾と断交した日本人の薄情さが、ずっと気になっていました。それは何時までも取れない喉にひっかった小骨のようなものでした。
私は北京や瀋陽に親しい友人がいました。台湾の人とも親しくしてきました。
ですから今回のトランプ氏と台湾の総統の蔡英文氏との電話会談のニュースを見て少し安堵しました。
多くの高齢な日本人の心が癒されたと思います。
そこで以下の情報を提示したいと思います。

(1)トランプ氏と台湾の総統の蔡英文氏と電話会談(朝日新聞、電子版より)
トランプ次期米大統領は2日、台湾の蔡英文(ツァイインウェン)総統と電話会談した。政権移行チームが明らかにした。米外交筋によると、1979年の米中国交正常化に伴って米国と台湾が断交して以来、米国の大統領や次期大統領が、台湾総統と電話会談をしたことが公になることは初めて。
 トランプ氏は2日のツイッターで、蔡氏を「台湾総統(The President of Taiwan)」と呼び、「私の当選祝いのために電話をくれた。ありがとう」と書き込んだ。「私に電話した」という部分が大文字で記されており、蔡氏からの申し出であったことを強調したかったとみられる。
 米政府は公式には、外交関係がない台湾の総統を名前で呼ぶことが多いが、トランプ氏は肩書で言及した。
米政府はこのほか、高官が訪米する際は会談場所を政府施設ではなく、ホテルなどを使うことが多かった。いずれも台湾を国家と認めない中国への配慮のためだ。
 トランプ氏の政権移行チームによると、会談では、蔡氏からトランプ氏に対して当選への祝辞を伝えた。トランプ氏も今年5月に総統に就任した蔡氏を祝った。その上で、両者は「経済、政治、安全保障での緊密な関係が台湾と米国の間にある」と確認し合った。

(2)日本が台湾と断交した経緯
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8F%B0%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2 より抜粋)
1967年9月、佐藤栄作首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、蒋介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる蒋経国国防部長が日本を公式訪問した。
これまで戦後から国連の常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。
こうした国際情勢の中で、1971年の第26回国際連合総会のアルバニア決議(2758号決議)により常任理事国の権限が中国側に傾き、中国の常任理事国入りが決定され、台湾は国連を追放された。日本は、中国の国連加盟に賛成であるが、台湾の議席追放反対を政府方針とし、アルバニア決議に反対票を投じた。また、二重代表制決議案の共同提案国となり提出したが表決されず、佐藤首相は国内のマスコミや野党から激しく追及された。
翌年1972年のニクソン訪中は日本に衝撃を与え、1972年9月29日、田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言した(日台断交)。・・・

国と国との外交交渉は個人的な感情を反映してはいけないという考え方も理解出来ます。
しかし私は中國大陸も台湾も何度も訪問し親しい友人を持っていました。中国大陸の人々は台湾の人々に強い親近感を持っていました。逆もその通りでした。
ですから私は何故、日本は台湾と断交したのか理解出来ませんでした。現在でも理解出来ません。

1番目の写真は1960年6月の台北訪問時にて、蒋介石総統の隣で観衆に手を振ったドワイト・D・アイゼンハワー米大統領の写真です。出典はアイゼンハワー大統領を検索して得た写真です。
2番目と3番目の写真は台湾の風景写真を検索して、借用した写真です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「パリの寸描、その哀歓(4)ドクターはバカンス?」

2016年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第4回目は、「ドクターはバカンス?」です。最後の落ちが面白いですよ。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
==== 「パリの寸描、その哀歓(4)ドクターはバカンス?」Esu Kei著============
子ども達がまだ小さい頃、母親が病院などに通うのはかなり工夫がいる。私は歯が悪く、早く歯科にかかりたいと思いながら、ぐずぐずと思い迷っているうちに痛みはどんどん強くなり、結局一番近い歯科医院に飛び込むことになった。ところが、真面目そうで優しそうな医師ではあるのだが、治療はかなりの荒療治。2ヵ月ほどは我慢して通ってみたが、家に帰っても食事がとれないこともしばしばで、隣人に「少し痩せたじゃないの。どうしたの?」なんて聞かれる始末。このまま続けて通ったものかどうか迷っていた。夫の秘書のマダム・ムリエに相談すると、優秀な歯科医を紹介するから変わったほうがいいと言う。ちょうど7月の終わりのことで、9月の新学期からは次男も幼稚園に行き始めることになっていたので、少し遠くでも通える見通しもつき、勧めに従うことにした。それでそれ迄の治療費を清算しなくてはいけない。この医師は帰り際に支払おうとすると、いつも「治療が終わってからまとめてでいい。」と言うので、ずっと溜まってしまっていた。
 8月初め、小切手帳をもって支払いに出かけた。ビルに入ろうとすると、いつも閉まっているドアが広く開け放たれているので、そのままエレベーターに乗り3階に上がる。歯科医院は休みらしく、ドクターの姿は見えず、診察室も待合室も、家具類にも、壁の絵にも、みな白布のカバーがかかっており、4、5人の白い作業着姿の人達が立ち働いている。「今日は。ドクターはお留守ですか?」と聞くと、作業員の一人が奥に声をかけた。目の前に現れたのは千鳥格子の三つ揃いのスーツを着た、恰幅のいい紳士である。この作業の指揮をしている人だと一目でわかる。「ドクターは休暇中ですよ。ドアに貼り紙があったはずだが見なかったのかな?」「気が付きませんでしたけれど...」「あっそうか、我々が開けてきたから見えなかったかもしれない。8月いっぱいバカンスで休診と貼ってあったんだけど。」「そうだったんですか。Merci, Monsieur(ありがとうございます)」 私は丁寧にお礼を言って歯科医院を出た。なるほど、内装工事を休診期間中に済ませようというので、頼んでからバカンスに出かけたのだと思った。なかなか合理的ではないか。
 9月に入ってすぐ、とにかくお金を払わないままなのが気分が悪くて、私は歯科医院に行った。3階に上がっていくと、内装工事は何も手がついていないばかりか、ドクターが僅かばかりの紙類や小さな道具類の散らかった部屋で、難しい顔で書類と睨めっこをしている。「ドクター、休暇前にお支払するべきだったのに遅くなって...」と切り出すと、「あ、今それどころじゃないんだ。休暇中にドロボーに入られて何もかも持っていかれてしまった。家具も、医療道具類も、装飾品も、壁の絵から、カーテンまで...」前日警察に届け、今被害届をまとめようにも、自分でも良くわからなくて困っているのだという。組織的なドロボー団だと思うと...私は、はっとして「組織的な?...私、多分そのドロボー団に会っていると思います。」「どういうこと?」「私が8月初めに未払い分を清算しようとここに来た時に、作業中のグループがいて、家具にカバーなどかけてあったし、...」「それだ!」そういうドロボー団がいるということは聞いていたし、喜劇映画などでも見ていたが、まさか直にそんな場面を見るなんて考えもしなかった。ドクターは証言が必要な時には力を貸してほしいと言う。私のフランス語で役に立つとは思えないし、そうならないことを祈る。それから3週間以上もたって、ようやく計算書ができたからと電話があったので出かけて行った。
 ドクターはにこにこと上機嫌である。待合室には真新しく張り替えられたソファや肘掛け椅子、ガラス戸棚から、壁にかかる絵の額まで、ピカピカに磨き上げられてある。ドロボー団の工場が発見され、警察の急襲を受けて盗品は被害届と一致するものは持ち主に返されたのだという。
「おかげで家具も他のものもみな、全くただでリニューアルできたんだ。」
ヨーロッパでは家具は何世代にもわたって受け継がれ、お金をかけて張り替えを繰り返して大事に使う。高級な家具はアンティックとして高く売ることもできる。ルイ**世風など格式のあるものはひと財産である。お医者様の待合室などは大抵高級な家具が置いてある。ドロボー団は何回かの成功に気が緩んで、あまりに大々的に盗品をさばいたらしく、足がついたらしい。良かった良かった。
 この話を遊びに来た友達にしたところ、「間抜けも、貴女くらい度が過ぎると身を助けるということもあるのね。」と言われてしまった。「ドロボー団をちょっとでも疑ったりしたら、今頃は洋服ダンスか何かに入れられて、セーヌ川に浮かんでる頃よ。」ということだった。はい気をます。(続く)

今日の挿し絵は上の文章とは関係ありません。私の好きなカミーユ・ピサロの農村風景の油彩画3点です。

1番目の写真は「エルミタージュの丘、ポントワース」1867 年、151x200cm です。(グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)

2番目の写真は「ルーヴシエンヌのヴォワザン通り」です。

3番目の写真は「食器を洗う女」1882年、85 x 65.7 cm です。(フィッツウィリアム美術館、ケンブリッジ、イギリス)

ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro、1830年 - 1903年)は、19世紀フランスの印象派の画家。
ピサロは印象派展には1874年の第1回展からグループとして最後の第8回展(1886年)まで毎回参加しており、計8回の印象派展に欠かさず出品した、ただ一人の画家でもあった。
印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは温厚な性格だったようで、画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていたという。生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロを師と仰ぎ、しばしば共同制作をし、マティスとはしばしば印象主義について熱心に討論した。ピサロは1885年頃から90年まで、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの影響で点描画法を試みている。晩年はパリ郊外のエラニーに住み、描くのに時間がかかり感情に追いつけないとして点描法を放棄し、風景だけでなくピョートル・クロポトキンらのアナキズムの影響を受け、農村を舞台にした人物画を多く描くようになった。ピサロが生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余りにものぼる。
詳細は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD をご覧下さい。

「パリの寸描、その哀歓(3)駐車違反には買収で対抗?」

2016年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
このブログではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
何気ない書き方ですが、人々の息づかいが感じらるのです。ユーモアもペーソスがあります。
連載の第3回目は、「駐車違反には買収で対抗?」です。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(3)駐車違反には買収で対抗?」Esu Kei著=====
 日本に限らず、世界のどこでも大都市の通りでは駐車場が不足している。そういう時にお国柄が出る。ドイツなどでは駐車違反をする人はとても少ない。ドイツ人の車に乗せてもらうと、駐車するためにだけでも正規の駐車場を探してちょっとしたドライブをする人が多い。規則はきちんと守るという真面目な国民性は実に見上げたものだ。日常的な意味では。ただ私は、どんな長所も同時に欠点になり得るし、どんな欠点も長所と裏表でであると思っているので、ドイツ人だけが素晴らしいとか、ラテン系の人達がけしからんと言うつもりはない。
 パリのヴィクトル・ユーゴー大通りで愉快な場面にであった。ある日の午後、駐車違反の車を監視するオーベルジーヌ(茄子)とよばれる茄子色の制服を着た女性の補助警官が、違反の車に罰金支払い命令の紙を貼りつけて歩いている。そこへちょうど車の持ち主が戻って来た。太っちょの気の好さそうなおじさんだ。大慌てで駆け寄ると「ちょっと、ちょっと待ってよ!マドモアゼル、ちょっと待って...大急ぎで帰ってきたんだから。息も切れそうに走ってきて、ほら、こんなにドキドキしてるよ。あなたのほうが偶然一歩早かっただけじゃないか。それはあまりにも意地悪というものだ。貴女のような美しくて、優しくて、エレガントな人のすることじゃないでしょ。お願いします、今日一度だけはお見逃しください。」と胸の前で手を合わせて、拝まんばかりである。オーベルジーヌ嬢(日本風に言えば茄子娘)は、お腹をよじって笑いをこらえながら、首を横に振っている。「美しいマドモアゼル、あなたにプレゼントがあります。この私の傑作を見てください。これをあなたに差し上げましょう。」とさっきから巻いて手に持っていた絵らしきものを差し出した。今度は買収作戦か。楽しませてくれる人だなぁ。もちろんそんなことが通じるはずもなく、茄子娘は笑いながら去っていった。
喜劇の一場面をを演じた名優は、両手を広げ、肩をすぼめ、ちょっとうなだれて見送っていたが、一転、ずっと側に黙って立っていた連れの男と肩をたたきあうと何事もなかったような表情で車を出した。(続く)

さて挿し絵ですが、この記事の内容と関係の無い私の好きなユトリロの絵画にしました。サクレクール寺院の見える風景画です。
彼は『サクレクール寺院』の見える風景画を沢山描いていますが、私の好きな絵3点を選びました。
不思議な詩情が漂っている絵です。





モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年 - 1955年)は、近代のフランスの画家です。生活環境に恵まれなかった上、飲酒依存症でした。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものです。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な静謐さに満ちています。特に、用いられた白色が独特で美しいのです。
第二次世界大戦後まで余命を保ちましたが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高いそうです。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館があります。またモンマルトルにある墓には献花が絶えないと言います。

非日常の光景の写真を撮りに遠くの森の中へ行く

2016年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
題目の非日常とは都下の小金井市に住む私の日常では絶対に経験出来ないことを意味します。
私の家は住宅に囲まれていて高い山々は見えません。道路は全てアスファルト舗装です。近所に少し畑は残っていますが、道路には車が溢れていて、その排気ガスで空気が汚れています。
時々、嗚呼!自然の中に浸りたい、生の自然と親しみたいと無性に思います。
そんな時には車で遠方の森の中へ行きます。甲斐駒岳の麓の森深くにある小屋に行きます。昨日も行ってきました。
そして非日常の光景の写真を撮って来ました。新鮮な空気の中で自然の景観に酔いしれてきました。
昨日撮ってきた5枚の写真を下に示します。

1番目の写真は標高2967mの甲斐駒岳の写真です。この山を右に見ながら森の中の道をゆっくり登ります。

2番目の写真は小屋へ上る森の中の道です。このような道を車で走ることは日常ではありません。悪路の凸凹を避けながらゆっくり登って行きます。歩いたら大変な距離の悪路です。車の有り難さがしみじみと体験出来るのです。

3番目の写真は深い森の中の小屋の写真です。小屋のすぐ傍に太い松の木が密着して生えています。小金井市の自宅の傍には巨木などありません。この松の樹が台風などで小屋の上に倒れたら一巻の終わりです。この太い松の木は小屋を建てた42年前はヒョロヒョロの細い木でした。歳月の流れを感じます。
もう一つの非日常は薪ストーブの煙突です。小金井の自宅には無い薪ストーブを燃やすと非日常の体験になります。薪の燃える煙が少し部屋に漏れ木の香りが部屋に満ちます。

4番目の写真は小屋の窓から見た小川の光景です。小金井の自宅の庭には小川などありません。
この小川に浮いた落ち葉を掻きわけ柄杓で水を汲みます。ヤカンで沸騰させてお茶を淹れます。嗚呼、風流だと独りで感動します。つまらない感動です。しかし何故か自然に浸っているような気分になります。

5番目の写真は伐採地に停めた車の写真です。車が枯れ木や草に埋まってしまい頼り無い風情です。
この写真の手前の方向に道のように見える踏み跡があります。その「けもの道」のような道を搔き分けながら、100m位、根気よく辿って行くと大きな山荘に着きます。
高齢の友人が独りで住んでいる山荘です。11月の24日に山荘の雪景色の写真を撮ろうとして転倒しました。
腰を強打し、救急車で病院へ行ったそうです。昨日はお見舞いに寄ったのです。
少し元気になって玄関まで歩いて出てきました。家内が心ばかりの品を出していました。
その後、また伐採地のけものみちを歩いて車まで帰って来ました。このようなけもの道を歩くのが非日常なことなのです。
ズボンにイノコズチが沢山着きます。枯葉が上着にまとわり着きます。自然と戯れているような気分にまります。
やっと車にたどり着くと家内がいません。サルたちの遊んでいる道を歩いて下っているのです。昨年までは走って下っていました。

帰りは高速道路に上がらないで昔の甲州街道をゆっくりとドライブしながら帰って来ました。前方に雪に覆われた富士山が光っていました。笛吹市に入るまでズウッと富士山を仰いでいました。

これが昨日の私の非日常な生活でした。高齢になっても時々、非日常な生活をすると新鮮な精神がよみがえって来て良いものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

パリの寸描、その哀歓(2)パリ的交通渋滞

2016年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
このブログではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年の秋から84年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
何気ない書き方ですが、人々の息づかいが感じらるのです。ユーモアもペーソスがあります。そして温かい人間愛がそこはかと感じられるのです。
連載の第ニ回目は、「パリ的交通渋滞」です。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(2)パリ的交通渋滞」Esu Kei著====
ある日のこと珍しく中心市街へ出て帰りが丁度ラッシュアワーに当たってしまった。何故かその日は特別に混んでいた。パリの道路では車線がないので、適当に走る人が多い。困るのは物理的に通れるところを縫って走る車も多いということである。その日の渋滞では、カミオンも、タクシーも、乗用車も、正に缶詰状態(フランス語では瓶詰≪embouteille≫という)。僅かな空間に割り込もうとする身勝手ドライバーの多いこと。結果...道路の隙間をモザイクのように埋め尽くした車、車、車...前後左右どうにも動けない。信号は最早ないも同然。私が乗っていたのは路線バス。あちこちで苛立ったクラクションの音。車から体を半分乗り出し、こぶしを振り上げている人の怒鳴り声。バスの中ではにっちもさっちもいかないと諦めた乗客が妙に静かである。運転手も「渋滞で遅れ、ご迷惑をかけます。」なんてことは言わない。見ればわかることだし。そのうちに誰かが電話したのだろう、プーパープーパーとパトカーがやってきた。誰も動けない道路のどこを通ってくるかといえば、なんと堂々と歩道を走ってくるのである。幸いパトカーは小型で、パリの歩道は人々がちょっとよければ車一台くらいは通れるところが多い。警官が手動で交通整理を始めるのだと誰もが思った。パトカーから3人の警官が降りてきた。どうしたものかと大渋滞を見回し、顔を見合わせ、両手を広げ、肩をすくめ(例の “為す術なし!”のポーズ)、またパトカーに乗り込み、プーパープーパーと間抜けな音を立てて戻っていった。タクシーをはじめ、車、車のクラクションとブーイング!... さてこの後どうなったか?
一台のタクシーから運ちゃんが降りると、自分の車の前にいる車の何台か(10台前後?)を誘導して、歩道に並べ始めたのである。それが呼び水となって、あちこちでタクシーの運ちゃんたちが同じことをする。集まって相談しなくても、やるべきことは分かっているとばかりに交通整理を始めたのだ。こうしてある程度隙間ができると、もう誘導は止めて素早く車に戻り、自分が先ずそこを通る。そのためにも自分の車はちゃんと車道に残しておくのだ。どんな大渋滞でも、ほんの数パーセント車が減ると流れはできるのだ。私の乗っているバスも、動き出した。乗客は知らない者同士、お互いに顔を見合わせて、“Enfin, on se debrouille comme ca!(やれやれ、なんとかなったわ)” ”Tant mieux(良かった)”とか呟いて頷き合っている。車の流れができてきた。それでもいつもは30~40分の道のりをこの時ばかりは1時間半もかかったのである。
さてあの後、歩道に退避させられた車がどうなったか、再び渋滞が起きなかったかどうかは分からない。でも誰かが何とかしたにちがいない。
ああいう時のタクシーの運ちゃん達の機転(自分の車が最優先ではあるが)と連係プレーはすごい。大いに褒めたたえられるべきところである。パトカーが尻尾を巻いて逃げ出した後だからこそなのである。その前に勝手に歩道に車を誘導すれば警察の交通課は黙って見過ごしたかどうかは分からない。
私はこの文の中でタクシーの運転手さんたちを運ちゃんと呼んだが、それは親しみと尊敬を込めてのことだからお許しいただきたい。パリの運転手さんたちにはそう呼びたくなる風情があるのだもの。(続く) 

さてこの記事の挿し絵として私の好きなモネの「サン・ラザール駅 」を示します。
この絵が描かれた1877年の頃のパリの街路には貴族を乗せた馬車だけがのどかに走っていたのです。自動車が増えだしたのは1909年にT-型フォードが多量生産されるようになってからです。
モネが活躍していた頃の交通機関の主流は蒸気機関車だったのです。
そんな頃のパリの風景をご想像して頂き、現在の交通渋滞と比較して考えると興味が深まります。
何年も前にパリでこのモネの「サン・ラザール駅 」を見た時の感動を思い出します。

サン・ラザール駅 (La gare Saint Lazare) 1877年
75.5×104cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)
印象派最大の画家のひとりクロード・モネの代表的な作品のひとつ『サン・ラザール駅』は1877年の第3回印象派展に出品された30点あまりの画家の作品群で最も批評家たちの注目を集めた絵画だったそうです。1837年に建設されたフランス初の鉄道の発終着駅≪サン・ラザール駅≫を描いた8作品の中の1点で、公式な許可を得て駅舎の中で描いたことが知られています。

「今日の日記、甲斐駒岳の麓の小屋に行ってきました」

2016年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム
帰りの中央高速自動車道度で後ろの窓から家内が夕日に染まる空の写真を撮りました。一日中、快晴で富士山、南アルプス連峰、甲斐駒岳、そして八ヶ岳が鮮明に見えました。新鮮な空気の中をゆっくり車を走らせて来ました。





今週から待降節、そして間もなくクリスマスがやって来ます

2016年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

(この絵画は1130年頃に建てられたノルウェーの世界遺産のウルネスの木造教会です)

先日の11月27日の日曜日はクリスマスを待つ「待降節」の始まりでした。
カトリックでは祭壇の上に太いローソクを4本立て待降節の間の日曜日に一本ずつ火を灯してからミサを始めます。アドベント(待降節)の歌を唄いながら子供がローソクに火を灯します。
こうして待降節が始まると、嗚呼、クリスマスの季節がやって来たなと何となく楽しくなります。
そこで今日はクリスマスにまつわる話を書いてみたいと思います。
まずイエスさまが生まれたいきさつを書きます。
ローマ帝国の占領地であった中近東にイエス様が生まれました。ローマから派遣された総督がその地方を統治しています。丁度、マッカーサー司令官が敗戦後の日本を統治していたような状態です。その地方はユダヤ教の地でした。
現在のイスラエルの死海のそばのナザレという町があります。そこに大工のヨゼフとマリアが住んでいます。

当時のローマ皇帝が全領土の人口を正確に調べることにしました。ヨゼフとマリアは自分の郷里のベツレヘムへ行き登録しなければならないのです。この政策ではローマ帝国領の住民全員が出身地へ帰って戸籍簿へ登録する必要があったといいます。
ヨゼフとマリアがベツレヘムという町の郊外にやっと着いたときは夜も更け、どの宿屋も満員でした。仕方が無いので馬屋の中の少しでも温かい所に寝ることにしました。明け方に、マリアが一人の男の子を産みます。生まれた赤子は飼葉桶の藁の中に寝かせました。イエスはこうして生まれたのです。

飼葉桶の赤子は成長して、新しいユダヤ教を広めました。イエス様は異教徒や下層に生きる人々を差別なく大切にしました。
ユダヤ民族もあらゆる民族も差別しないという教義のためギリシャ、ローマ、アフリカと広まり、ついには世界中に広まりました。
そしてキリスト教と呼ばれる世界宗教に育っていったのです。

クリスマスは、この赤子がベツレヘムで生まれた誕生日です。
もちろん2000年位前の大昔のことですから、正確な月日は分からないと考えたほうが学問的には正しいと思います。
誕生日はヨーロッパに伝わって北欧の冬至祭と一緒になり、古くから12月25日の明け方に生まれたということになりました。ですから24日はイエス様の生誕前夜祭(クリスマスイヴ)と言います。

キリスト教信者はイエスが2000年位前の実在の人間で、新約聖書に書いてある数々の奇蹟をおこしたと信じている人々のことを言います。またイエス様は神から遣わされ、後にピラト総督の裁判によって処刑され、3日後に復活し、現在は神の右の座についていると信じている人々です。
そうして信者にとってはイエス様は現在でも生きていると信じています。
この感覚を日本人へ分かりやすく説明するとき、私は何時も四国のお遍路さんの気持を説明します。お遍路さんは「同行二人」と信じて苦難の道を歩き通すのです。同行二人とは弘法大師と自分の二人という意味です。いつも弘法大師様が付いてきて下さるから、苦しい道も歩き通せるのです。

さて2000年も前に死んだイエスさまの誕生日を何故いつまでも祝うのでしょうか?
その説明は2008年の12月の待降節の折に山本量太郎神父様がして下さいました。
子供が山本神父さんへ聞きます、「イエスさまは、ずうっと昔に死んでしまったのに、なぜ毎年誕生日のお祝いをするの?」
返事に困った神父さんが(イエスさまがよく聞き返したように)、「どうして、そう思ったの?」と聞き返したそうです。
女の子はおじいちゃんが大好きでした。毎年おじいちゃんの誕生日のお祝いの宴が楽しいのです。ところがある年からその楽しい宴会が突然なくなりました。おじいさんが死んでしまったからです。死んだら誕生日はお祝いしない。女の子は悲しい理解をしました。でも教会では毎年クリスマスにイエス様の誕生をお祝いします。

山本神父さまはこの思いもかけない質問に一瞬戸惑います。が、次の瞬間あたかも精霊がおりてきたような感じで、良い返事を思いつきました。
「それはね。イエスさまは今でも生きているからですよ。いや毎日私達の中に生まれているから、誕生日をお祝いするのですよ」、続けて山本神父さんがおっしゃいました。
「この答えに女の子は納得した様子ですが、一番よく納得したのは私自身でした」
この一言で教会中が笑い出しました。
山本神父様の説教はこれだけでした。いつも説教が簡潔なのです。でも意味が深いのです。
クリスマスはそういう意味のお祝い日なのです。

今日のクリスマスにまつわるお話はこれでお終いです。
挿し絵代わりの写真は1130年頃に建てられたノルウェーの世界遺産のウルネスの木造教会の絵画と写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%80%A0%E6%95%99%E4%BC%9A です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

この教会が建築されたのは、1130年前後と推測されています。ウルネスの教会建築は、キリスト教建築とヴァイキング建築が結びついた、いわゆる「ウルネス様式(en:Urnes style)」と呼ばれます。
考古学的調査によれば、現存する教会よりも前に1つあるいは2つの建物があったと考えられています。

パリの寸描、その哀歓(1)クロッシャール(浮浪者)の懐から

2016年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
このブログではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
私だけが書くととかく話題が狭くなるので、他の方々のいろいろな視点から書かれた面白い話を皆様に楽しんで頂こうと考えています。
今回はフランス生活が長く、そしてドイツにも住んで子育てを経験なさった、Esu Kei さんに寄稿をお願いしました。
頂いた随筆は主婦の目で見たヨーロッパの街角や人々の何気ないスケッチです。
フランスでの日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
何気ない書き方ですが、人々の息づかいが感じらるのです。
ユーモアもペーソスがあります。そして温かい人間愛がそこはかと感じられるのです。
それがはからずもヨーロッパの文化論となっているようです。
連載の第一回は、「クロッシャール(浮浪者)の懐から」です。
今日から始まる連載をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(1)クロッシャール(浮浪者)の懐から」Esu Kei著====
ある日、シャンゼリゼ界隈を友だちと歩いていた時のことである。二人ともあまり賑やかな場所には慣れていない人間だから、歩き疲れてカフェに入った。パリのカフェは大抵は歩道に大きくせり出したテラス席と言うか、歩道席と言うか、とにかく建物に収まっていない席があり、気軽に通りを眺めながら、午後のひと時を過ごす人は多い。ガルソン達は店の中からテラス席まで、身ごなしは素早く、しかもうるさくはなく、大変な数のお客さんへのサービスをこなす。私達は建物の中では外に近い席、テラス席のそばにいた。シャンゼリゼの歩道はいつも人通りが多い。
と、テラス席の前のほうで爆笑が起こった。何かしらと目をやると一人のクロッシャール(浮浪者)がその笑いの中心にいるらしい。もじゃもじゃ髭、髪も伸び放題、ちょっと太めの老人…といえるほどの年恰好。もう春だというのに、よれよれの厚手のコートに、皮の長靴。ちょっと表通りには来ないようないでたちの浮浪者。見ていると彼はコートの懐から何かを取り出して行き交う人に、見せている。その動作がまた絶妙である。見せるでもなく隠すでもなく、微妙な動作で懐中のものに気付かせるのである。すると見た人は、ぎょっとして固まるか、悲鳴を上げて飛び退る。恋人に抱きついて守ってもらおうとしている女の人も...首を伸ばして見てみると、なんと大きなドブネズミ。一瞬こちらもたじろいだが、よく見ればそれは実にうまくできたゴムのおもちゃである。シャンゼリゼを歩くすまし顔の貴婦人風マダム、甘い関係を隠しもせずに歩く恋人らしいアベック、これ以上はないとばかりにスキのないおしゃれを決め込んでいる紳士、自分の魅力と美貌を信じ切っているらしいマドモアゼル。適当なインターバルを置いてこういった人達が笑いの種にされている。その度にカフェでは大爆笑が起こり、今やみなお喋りをやめて、この見世物を楽しんでいる。私と友人も…
さて、ひとしきり笑いを取った後、このクロッシャールはどうしたか?
ポケットからよれよれの帽子を取り出すと、テラス席の間を回りだしたのだ。見物料をと言うわけである。ところがこれに応じてくれる客はいない。一人も...「みんな笑ってたじゃないか...」と声は出さずに、大仰な身振りで抗議するが無視される。カフェの奥まで入ろうとすると、これはスマートにしかしきっぱりとガルソンに阻まれた。うなだれて首を振り、大きくため息をついて彼は出ていった。可哀想に。大道芸として認められないのかぁ...
 
 この文の中でクロッシャールと書いたのは、日本でいえば浮浪者にあたるのだろうか。浮浪者と言うと彼等の気楽な様子が伝わらないのでクロッシャールと呼ぶことにした。物乞いではないが、お金も家も家族もないらしい人たちである。スクワールとよばれる、子供たちが遊んだり、年寄りが日向ぼっこをするような地域の小さな公園などによくいて、3,4人集まっていることもあり、大抵は葡萄酒など飲みながら楽しそうにしている人の好い世捨て人達。実際はアルコールに身を持ち崩して、世の中からはじき出されてしまった人達だろう。(続く)
今日の挿し絵代わりの写真はクロード・モネの『日傘を差す女』です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ/Claude Monet(1840 – 1926)の『日傘を差す女』は、1875年の作品です。当時滞在していたパリ北西の街アルジャントゥイユの草原に立ち日傘をさす女性は、当時の妻、カミーユ・ドンシューで傍らの幼児は長男ジャンです。Esu Keiさんの若かりし頃の姿と息子さんとの姿と重なります。

あとがき、(Esu Kei さんにより頂いた文です。)
「ヨーロッパの思い出」
夫の仕事のために、私たち家族がヨーロッパで暮らしたのは1974年の秋から84年の間の8年足らずのことです。一番短かったのはベルギーであり、長かったのはフランス、最後はドイツの2年半の生活でした。
 その頃の雑書きが出てきました。題名だけのものから、数行、数枚の短文、実家の家族にあてた書きかけの手紙…整理の悪い私の家の、整理の悪い段ボール箱の中にあったのです。数回の引っ越しや、家族の変化にもかかわらず…特別な旅行などではなく、30数年前の日常生活のあれこれが手繰り寄せられるように思い出されます。
今のヨーロッパはもう変わっています。世界中が便利と発展を追い求めた時代。日本ももちろんそうですが、世界中であまりにも早い変化が起きました。今もそのスピードは変わらないし、加速してさえいるようです。時代に反するようですが、私の好きだったヨーロッパの思い出を処分せずに、誰も読んでくれる人がいなくても、自分のためだけにでも残しておこうと、思い出すままに書き起こしてみました。それを思いがけず、後藤和弘様が読んでくださって、取り上げてくださったのです。嬉しいことです。感謝しております。