後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

入国制限の大統領令の大改定はトランプ政権の始動

2017年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の2月22日に「トランプ外交の柱は軍事力とアメリカの強大な経済力」という記事を掲載しました。
この記事の骨子は、トランプ政権には、教養の深い、そして良識的な人材が参加しているので今後の政局運営は従来の路線を尊重した慎重なものになろうという趣旨でした。
教養が深く良識的な人材とは、穏健な実力派のペンス副大統領、テラーソン国務長官、マティス国防長官、マクマスター国家安全保障担当大統領補佐官などのことです。

先般、テラーソン国務長官やマティス国防長官が北太平洋軍事条約機構の主要メンバー国の首脳との会談した時、両氏は従来の同盟関係を尊重し、慎重な態度で外交を進めたのです。大変好感の持てる礼儀正しい態度でEUの国々と交渉をしたのです。
ペンス副大統領もヨーロッパを訪問し、各国の首脳と会談し、礼儀正しくアメリカの要求をゆっくり伝えたのです。
これに加えて、現職の陸軍中将のマクマスター氏が国家安全保障担当大統領補佐官になったのです。

今回の入国制限の大統領令の大改定はトランプ政権の中で慎重に審議されたのです。したがって昨日、発表された入国制限に関する大統領令は大幅に改定され、かなり穏健な内容になっています。
以前に出された大統領令は裁判で執行停止になりましたが、それは大統領上級顧問のスティーブン・バノン氏の個人的な提案でした。
しかし、今回の大統領令は政権内でよく議論されたものです。そこが大きな違いです。

前回の大統領令と今回の主な違いは以下の通りです。
(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1703/07/news063.html より)
1)懸念地域からイラクが抜け、シリア、イラン、リビア、ソマリア、スーダン、イエメンの6カ国になった。
2)シリアからの難民受け入れを「相当の修正」を加えるまで禁止していたのが、他の地域からの難民同様120日の停止に変更。
3)大統領の署名から執行までに10日間の準備期間を設定。
4)米国永住権証のグリーンカード保有者は対象外。
5)宗教弾圧を理由にした難民申請の検討を優先するという項目の削除。
6)180日ごとの報告についての項目の追加

以上の改訂の結果は、3月16日から執行されることになりました。
もう少し詳しく説明すると以下のようになります。(http://www.bbc.com/japanese/39188856 より)
入国禁止対象は、イラン、リビア、シリア、ソマリア、スーダン、イエメンの計6カ国の市民です。ホワイトハウスによると、前回の大統領令で禁止対象の7カ国に含められていたイラクは、イラク政府が査証(ビザ)審査強化と情報共有に合意したため、新たな大統領令の対象から除外されたそうです。
新しい大統領令によると、国務省がすでに受け入れを認めた難民は入国できます。またすべてのシリア難民を無期限に入国禁止にするという前回大統領令の規定は解除されました。
米国永住権証(グリーンカード)を持つ対象国の国民は、禁止の対象から除外されました。
さらに、前回は対象国の宗教的少数者の受け入れを優先すると規定していましたが、新しい大統領令ではこの条項は削除されました。
前回の大統領令については、イスラム教徒が多数を占める7カ国からの宗教的少数者受け入れ優遇とは、つまりキリスト教徒の難民優遇で、信仰に基づく差別だと批判されていた条項でした。

そしてここが新しいことです。
新しい大統領令は、レックス・ティラーソン国務長官、ジェフ・セッションズ司法長官、ジョン・ケリー国土安全保障長官が6日朝、合同記者会見で発表したのです。
ティラーソン国務長官は、大統領令は「イスラム過激主義のテロリストが、破壊的な目的のために悪用できるし悪用する脆弱性を取り除くため」のものだと説明しました。
難民受け入れ停止の正当性については、セッションズ長官は、テロ関連の疑いで300人以上を捜査中だと述べ、具体的な事案の詳細説明はしませんでした。
司法長官はさらに、対象6カ国のうち3カ国はテロ支援国家だと断定し、さらに他の3カ国は、いわゆる「イスラム国」やアルカイダなどの過激派に国土の一部を失っていると説明し、入国制限の必要性を説明したのです。

これで前回起きたような混乱は起きないと予想されます。
前回は、有効ビザを持って飛行機に乗っていた大勢が、アメリカ到着時にいきなり入管係官に拘束される理不尽な事態が相次いだのです。

アメリカは自由な法治国家です。 今回の大幅な改定にもかかわらず新しく改訂された大統領に対して執行停止の裁判を起こす人々もいます。アメリカは自由に入国出来る移民の国家だとする考えにもとづく憲法に違反しているという訴えをしようと準備している人々がいます。
この提訴の動きは以下の通りです。
ニューヨーク州のエリック・シュナイダーマン司法長官は6日、新しい大統領令についてトランプ政権を提訴する用意があると声明を発表しました。
「ホワイトハウスは入国禁止を修正したかもしれないが、イスラム教徒差別の意図は明白だ」、「私どものスタッフが新しい大統領令を詳しく精査している。ニューヨークに住む人たちや組織や経済を守るため、再び提訴する用意がある」と州司法長官は表明したのです。
また前回の大統領令についても執行停止を直ちに求めて提訴した米自由人権協会(ACLU)は、新しい大統領令を「ムスリム禁止2.0」と呼び、あらためて提訴すると発表しています。
主要アラブ系市民団体アメリカン・アラブ反差別委員会(ADC)も、ただちに法廷闘争のための資金援助を呼びかけています。
「この禁止令は、外国人恐怖症とイスラム恐怖症の産物だ」とADCは、BBCに文書でコメントしたのです。
以上のように改訂されて大統領令も裁判沙汰になりそうです。

しかし前回と今回の決定的な違いは前回はトランプ氏の個人プレイだったが、今回はレックス・ティラーソン国務長官、ジェフ・セッションズ司法長官、ジョン・ケリー国土安全保障長官などが慎重に議論して発表している点です。
これはトランプ政権の集団合議体制が実質的に動き出したことを意味します。このようになれば良識的で安定した政策が次々と実施される体制が出来たことを示しています。
なにか安堵を感じます。皆様はどのようなご意見をお持ちでしょうか?ご意見を頂けたら嬉しく思います。

今日の挿し絵代わりの写真は先日、神代植物公園の温室で撮ってきたいろいろなランの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









邯鄲の夢、そして日本に生まれたことを、何故感謝するか?

2017年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は年齢や経験によって考え方が変わります。
例えば戦前生まれで戦後の教育を受けた私は無謀な戦争をした日本をさげすんでいました。欧米に比べて自由や平等の無い日本が嫌でした。日本民族である事実に劣等感を持っていました。
その劣等感を克服するためにアメリカへ留学しました。その結果、個人的な劣等感はかなり消えました。しかしアメリカ社会を直接見たお陰で日本の民主主義の遅れを鮮明に理解出来ました。
それからいろいろな事がありました。経済の高度成長、そしてバブル景気の崩壊があり、国外ではベルリンの壁の崩壊がありソ連が瓦解しました。冷戦が終わり、今度は中近東の戦乱がはじまりました。中国の経済が急成長し、そのGDPがアメリカに次いで世界で2位になりました。
そんなことを想い、自分の人生を振り返っています。そしてそれはやはり邯鄲の夢に過ぎなかったとしみじみ思います。人の世の栄枯盛衰は、はかないものであるこという中国の古い話どおりなのです。
老境にいたると多くの人は自分の一生はこの邯鄲の夢のようだったという感慨に捉われるのです。
そして何故か自分の生まれた国への感謝の気持ちが湧いてくるのです。

ここで止めておけば良いのですが、理屈っぽい私はつい何故、日本への感謝の気持ちが湧いて来るのか書きたくなるのです。
そこで具体的に私が何故日本に生きたことに感謝しているか順々に書いてみます。
(1)四季の変化に従って花々が次々に咲くこの土地が好きです。美しい風景が彼方此方に沢山あります。春になると暖かい風が吹き、秋になれば涼しい風が吹きます。気候も温暖です。このような自然に恵まれた国に生きることが出来たのです。感謝しています。
(2)人々が穏やかで親切です。高齢になると電車やバスに乗ると気持ち良く席を譲ってくれます。道を聞くと途中まで連れて行ってくれます。スーパーでもレストランでも働いている人々が実に親切です。感謝しています。
(3)この国では何処に行ってもトイレが清潔で完璧に掃除してあります。2年前に、五島列島という離れ島を旅しましたが誰もいない不便な集落に立派なトイレがあるのです。訪れる旅の人の為です。島の人々の心が豊かなのです。その光景を思い出して感謝しています。
(4)この国は穏やかな仏教国です。宗教を信じない人もお寺や仏像を大切にしています。京都や奈良や鎌倉には外国人に自慢したくなるような美しい寺院や神社があります。例えば私の好きなお寺は607年創建の法隆寺と752年創建の東大寺です。そして唐から波濤を越えてやって来た鑑真の建てた唐招提寺です。759年に創建されました。これらの寺には何度も行きました。荘重な本堂、五重の塔の美しさや廻廊や長く延びる土壁の光景が心に焼き付いています。
このような美しい寺院の沢山ある国に育ったことに感謝しています。
(5)この国の素晴らしさは自然や神社仏閣の美しさだけではありません。工業製品の高い信頼性には感動しています。テレビ、冷蔵庫、洗濯機などが故障しないで何年も使えるのです。それを苦心して作った技術者の良心を思うとこちらまで心豊かになります。
特に最近2年前に買ったニッサン・ノートという車には感動しています。走行性能の良さもさることながら、車の前後左右にカメラとソナーが多数ついていて360度周囲の映像がテレビ画面に出るのです。これには感心です。車の出し入れや車同士のすれ違いが実に安全になったのです。この様な工業製品を作り出す国に生きていることに感謝します。
このように書いているとすぐに10以上のことが書き出せます。

感謝をすると心が豊かになります。幸せになります。老境とは体力が衰えて悲しいものです。しかしその一方で幸福感が毎日心の中にとめどなく湧いてくる不思議な時期のようです。

皆様はこの国のどのようなことに感謝していらっしゃいますか?皆様の老境は幸でしょうか?

下に法隆寺の写真3枚と東大寺と唐招提寺の写真を順に示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









=====参考資料==================
法隆寺:607年創建、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

東大寺:752年創建、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

唐招提寺:759年創建、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。

私が書く記事の中の虚構と真実

2017年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、毎日、短い記事を書いています。書きながら。「これは虚構に違いない!」とか「うん。これは真実だ!」と考えながら書いています。嘘やフィクションだと感じてていても今更調べ直すことが出来ないことが多いのです。ですから当時、他人から聞いた話をなるべく忠実に書こうと努力しています。
私が昨日書いた記事で「真実だ!」や「嘘やフィクションだ!」と思っている部分を示したいと思います。
昨日の記事の題目は、「私が聞いたベトナム戦争にまつわる敵味方双方の4つのエピソード」でした。その中の第一番目のエピソードは次のようなものでした。
(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。
・・・1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれた。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。
「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。
ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」
チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。
さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」
この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」・・・以下省略。

このエピソードの中で米軍の投下した時限爆弾に日本語で、『これは不発弾ではない!、時限爆弾である!アジア人の血を流したくない日本人より』と書いてあったとありました。
この部分は真実だと思っています。
しかし続く、『筆跡から五人以上の違う人間が書いていた』という部分は虚構ではないかと考えています。

真実だと考える根拠は以下の2つの理由です。
(1)このような文章を当時のベトナム人が思いつく筈がないと考えられるからです。
(2)当時の日本ではベトナム戦争反対の市民運動が燎原の火のように広がっていたのです。
それに乗じて、ソ連の影響を受けた左翼系の政党が日本の労働者組織と共に反戦運動や街頭デモを盛んにしていました。米軍基地の日本人労働者の組合もデモに参加していたと想像出来ます。結果として米軍の時限爆弾のこんな文句を書いた労働者が1人や2人はいたかも知れません。

一方、嘘だと思う部分は、『筆跡から五人以上の違う人間が書いていた』という部分です。これはベトナム人の誇大宣伝と思います。ですからこの部分は私は嘘だと考えています。

以上はどちらにしても証拠の無い話です。しかし当時の社会の風潮や雰囲気から考えて「真実そうな部分」と「嘘らしい部分」がはっきりと見えてくるようでうす。

昨日、府中市の郷土の森公園の梅祭りの野点の席で、やっぱり私の書く記事の嘘と真実について書くべきだと思いました。
それにしても平和はやはり良いものですね。お送りする5枚の写真をご覧下さい。人々が平和に野点や梅の花を楽しんでいるのです。
今年はどういう訳か野点を4回も楽しむことが出来ました。平和な日本に感謝しつつ、中東の戦乱に心を痛めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









私が聞いたベトナム戦争にまつわる敵味方双方の4つのエピソード

2017年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「ベトナムを天皇陛下と美智子皇后は何故訪問したか?」と題した記事を掲載しました。
その書き出しは次のようなものでした。
・・・今回の天皇と皇后のベトナム訪問を唐突に感じた人は多いと思います。
現在、ベトナムと早急に友好を促進する理由もありません。懸案の問題もありません。
しかし私は1940年に仏領インドシナと呼ばれていたベトナムを日本軍が占領して以来の歴史を思い返し、天皇の退位の前に訪問されたことは大変良かったと考えています。
ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。
それは戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏したのです。ベトナム人は日本の義勇兵のことを忘れませんでした。
今回の天皇と皇后は日本の義勇兵の奥さんだった女性とその子供達と直接お会いし、「いろいろご苦労なさったことでしょう」とねぎらったのです。勿論、その会見を準備したのはベトナム政府です。
私は1990年代のはじめにこのような残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作った日本人の話しも直接聞きました。その方はもと横浜正金銀行に幹部社員として勤めていた方でした。・・・・以下省略。

そこで今日はベトナム戦争にまつわるエピソードを4つ書きたいと思います。この4つのエピソードは敵味方双方から直接聞いた話です。みなベトナムやアメリカや北京で直接聞いたことです。それは日本の新聞やマスコミでは報道されなかったことです。
当時、日本では「ベ平連」などの反戦運動が盛んで、朝日新聞などの大新聞の戦争の取り上げ方はアメリカ帝国主義のせいで戦争が起き、社会主義国家は平和主義であるという、恐ろしく単純すぎる見方でした。それに合致しないエピソードは取り上げません。

敵味方双方から直接聞いた4つのエピソードとは以下の通りです。

(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。
1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めた。
1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれた。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。
「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。
ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」
チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。
さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」
この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」

(2)韓国兵がベトナムで勇敢に戦ったことにアメリカ人は感動している。
1978年にロサンゼレスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りであった。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話す。
「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負って帰ってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」
タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言う。残念ながら日本人だったので代金を払った。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

(3)ベトナムの難民を一般のアメリカ人が家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をした。
これはオハイオ州立大学のラップ教授の自宅でビールを飲みながら直接聞いた話です。
「ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った。アメリカの一般人はみなそうしたよ」「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」
アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。礼儀上そう露骨には言わなかったが。

(4)中国人のベトナム懲罰戦争の奇怪さ。
1985年、北京。知り合いの周教授と五星ビールを飲みながら、こんな話をしたことがある。
「ベトナム戦争が終わった後に、中国軍が北ベトナムを攻撃して北部の三都市を占領した理由を知っていますか?」「軍事作戦のことは日本の新聞にも出ていましたが、その理由は全く出ていません」「十年にわたるベトナム戦争の間、揚子江より南の諸省は食うものも食わずに、食料をホーチーミンルートでサイゴン付近まで送り続けたのです」
「ところが戦争に勝った途端、ベトナム政府は中国の反対を無視してカンボジアへ侵攻、またラオスを攻撃した。カンボジアとラオスを植民地にしようとしたのです。思い上がりもはなはだしいので、懲罰のため北ベトナムを攻撃、三都市を占領したのだ」「懲罰とは穏やかでないですね?」「もう一つの理由は、中国の反対にもかかわらずソ連海軍へダナンなどの港湾の使用を許可したからです」
周教授の説明はいつもの明快さがなくて歯切れが悪い。
ベトナム戦争を支援した中国は戦勝後、ベトナムを思い通りにしようとした。しかし独立心の強いホーチーミンはソ連の支援を使い中国から距離を置こうとした。中ソ関係は1959年以来悪化していた。中国はカンボジアを支援していた。ベトナム戦争後の中国とベトナムの戦争も中ソ関係の影が見え隠れする。その辺が真相と考えて間違いないのではないでしょう。

以上の脈略の無い4つのエピソードの真偽の程は確かめようもありません。しかし全てベトナム人、アメリカ人、中国人から現地で個人的に聞いた事実です。
新聞の一つの役目はこのように戦争に関係する事柄の真偽の程を客観的に調査し独自のニュースとして報告することと思います。
単純にアメリカ政府や日本政府の一方的な発表をそのまま報道するのは間違っています。
またアメリカ帝国主義が悪の根源で社会主義国家は平和勢力であるという教条主義的な視点でしか記事を書くのも間違っています。
戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して敵味方双方の人間の本音を調査し記事にすることは人々の心を豊かにする大切なことと信じています。

1番目の写真は越南阮朝の都と宮廷の門です。
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されています。

2番目の写真は世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。

3番目の写真はベトナム北部の徳天瀑布です。
これらの写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





ベトナムを天皇陛下と美智子皇后は何故訪問したか?

2017年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の天皇と皇后のベトナム訪問を唐突に感じた人は多いと思います。
現在、ベトナムと早急に友好を促進する理由もありません。懸案の問題もありません。
しかし私は1940年に仏領インドシナと呼んでいたベトナムを日本軍が占領して以来の歴史を思い返し、天皇の退位の前に訪問されたことは大変良かったと考えています。
ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。
それは戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏したのです。ベトナム人は日本の義勇兵のことを忘れませんでした。
今回の天皇と皇后は日本の義勇兵の奥さんだった女性とその子供達と直接お会いし、「いろいろご苦労なさったことでしょう」とねぎらったのです。勿論、その会見を準備したのはベトナム政府です。
私は1990年代のはじめにこのような残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作った日本人の話しも直接聞きました。その方はもと横浜銀行に勤めていた方でした。
以下は2人の残留日本兵から聞いた話です。
◎ 温顔の将校ホーチーミン
フランス軍との戦いです。作戦の最中、川を渡ることがしばしばあったそうです。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡る。軍隊では当たり前の習慣です。
残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡りました。
ところが、ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのです。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていた。こんな場合、日本軍出の将校は兵から飛び降りる。一方ベトナム人将校は自分の行動をそのまま続けます。
ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しなし、そんなことを期待もしない。
しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がったのです。
ベトナム兵の士気が上がるのは当然です。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言ったのです。
@日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチーミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したそうです。
話を聞いたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞きました。
「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人の元横浜銀行の幹部社員だったH氏もホーチーミンを尊敬していました。
ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。
H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
@ホーチーミン記念館
1990年頃に訪問したハノイでガイドをしてくれたベトナム人の若者はいいかげんなやつで、ホテルに迎えに来る時間は遅刻ばかり。道案内もでたらめで、とにかくやる気がない若者でした。
こんなガイドにはほかの国でも会ったことがない。
そんな若者に、「君、ベトナム人が一番尊敬しているホーチーミンの記念館に、あす案内してくれないかね?」と頼んでみました。すると翌朝いつもは汗臭いシャツ姿の彼が背広姿をビシッと決めて、ホテルのロビーで朝早くから待っていたのです。ホーチーミン記念館へ私を案内するのがそんなにうれしいのか、喜びに絶えないといった様子で、私を引っ張るように連れて行くのです。締め慣れないネクタイを何度も直しながら道を急ぐのです。
記念館には、ホーチーミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を敗ったグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあります。
記念館を出る時、たくさんの横長の旗が生暑い風にハタハタとなびいているのに気付きました。
そしてその旗に文章が書いてあるのです。「なんて書いてあるの?」。いいかげんな案内人は目を潤ませて、「ホーチーミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と説明してくれました。この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音です。美しい文章です。

それからいろいろな事がありました。
10年間にわたるベトナム戦争があり改革開放政策がありました、ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りまました。ベトナムは復興したのです。
◎ホンダバイクの奔流―サイゴン
 1994年、サイゴン、夏の夜のことでした。目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに三、四人乗せて大河の奔流のように流れて行くのです。ほかに楽しみのないベトナム人家族の夜の娯楽です。1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから18年。
立ち尽くす私の頬を静かに、しかし止めどなく熱い涙が流れる。平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。ハノイ市郊外の山並みを低空で飛ぶ米空軍の戦闘機を打ち落とした、元ベトナム兵の話を思い出していました。先の大戦の終戦間際の東京空襲を思い出します。

こんなベトナムと日本との歴史を想うと今回の天皇、皇后の訪問に感謝します。訪問して下さって本当に良かったです。
1番目の写真は晩年のホーチーミンです。
2番目の写真はハノイにあるホーチーミン廟です。
3番目の写真はグエンザップ将軍(左)とホーチーミン初代ベトナム民主共和国主席です。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3 です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





日韓友好・日中友好と寛大で深遠な愛国心の薦め

2017年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「深遠な愛国心」と「偏狭な愛国心」の違いを描いてみたいと思います。そして日本の平和を守るためには寛大で深遠な愛国心が非常に重要になるという考えを説明いたします。

日本人の中には韓国や中国を非難し、罵倒し、それが愛国心だと思っている人がいます。そして日米安保の軍事力だけに頼って、韓国や中国と対峙しようとする考えの人がいます。そういう愛国心を私は「偏狭な愛国心」と定義します。
この「偏狭な愛国心」は日本へ禍いを招き、日本人を不幸にする危険な愛国心なのです。勿論、韓国人や中国人も不幸にする危険な愛国心です。
それに対して一方、「深遠な愛国心」とは国際社会の連帯のなかで同盟国と調和を取りながら、仮想敵国と考えられる中国とも友好関係を築き、中国の危険性を少しでも小さくすることです。それを私は深遠な愛国心と定義します。
一番重要なことは国際社会のなかで賢明な外交を展開し、仮想敵国が攻撃出来ないようにすることです。
そして軍備は戦争の抑止力になる現実を理解し、それを常に増強し、維持する努力も大切です。

このように書くと南京事件を誇大に宣伝する中国人は許せないと叫ぶ人がいます。政治決着した慰安婦像問題を蒸し返して新たに釜山に慰安婦像を作った韓国人を許せないといきり立つ人がいます。
しかし日本人はもっと大人(おとな)になりましょう。もっと大人(たいじん)になりましょう。
たとえ中国や韓国が日本人の感情を害するような宣伝をしても、それは過去の日本の歴史にも責任があるのです。
日中韓の2000年の交流の歴史を想えば日中戦争も朝鮮併合も一瞬の歴史に過ぎないのです。
日中韓の交流の歴史には仏教伝来や遣唐使や朝鮮通信使節のような輝かしい交流もあったのです。勿論、元寇や秀吉の朝鮮出兵のような悲劇もあります。
このような日中韓の交流の歴史の全てを想えば、南京事件や慰安婦像問題にいちいちいきりたつのは「愚か」の一語につきることは明白です。
私の「深遠な愛国心」とは上に書いたようなものです。

それはさておき、お釈迦様の教えに従って日中戦争に反対した僧侶もいたのです。
その一例が左の写真の竹中彰元 師です。(出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/pen_tsuyoshi/34608018.html です。)
昭和12年に日中戦争反対を公言して、昭和20年の敗戦までその主張を変えませんでした。
陸軍刑法の流言飛語罪で禁固4か月の刑をうけましたが、仏の教えに従ったまでなので考えは変わらないと敗戦まで主張続けたのです。
詳しくは「竹中彰元」を検索すると沢山の資料が出てきます。
竹中彰元を破門した浄土真宗大谷派は70年後に破門が間違いだったとして竹中師の名誉回復をしたのです。

さて、続いて、戦争反対を主張した僧侶をもう一人、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E5%BE%B9%E8%AA%A0 からご紹介します。
それは2007年3月に80歳で亡くなった植木等さんの父親でした。知る人は少なかったのですが、植木等さんの父は筋金入りの反戦平和主義の僧侶だったのです。
名前は植木徹誠と言います。三重県伊勢市の浄土真宗大谷派の常念寺の住職でした。
「戦争というものは集団殺人だ」などと説教していたのです。当然、治安維持法違反で逮捕です。そして4年間も投獄されていたのです。
植木等は小学生でしたが、牢屋にいる父の住職の仕事を代行して、お経をあげたり檀家の世話をしていたそうです。そして牢屋にいる父へために毎日自転車で鶏卵を差し入れに行っていたそうです。
父は息子へ「等(ひとし)、いいか、戦場に行っても絶対に銃を撃つんじゃないぞ」と言っていたそうです。
植木等がコメディアンとして有名になった後も父の話を忘れませんでした。大部分の芸能人が自衛隊の後援会に入っていますが、植木等だけは終生入会しませんでした。
ちなみに等(ひとし)という名前は人間はお釈迦様の前ではみんな等しいのだということで父の徹誠さんがつけた名前だそうです。

話を戻しますが、最近の日本ではどうも偏狭な愛国心を叫ぶ風潮があるようなので私は大変危惧しています。
愛国心は人それぞれにその中身は違います。他人へ愛国心を持てと言ったとたん怪しい中身になってしまいます。
しかし「深遠な愛国心」と「偏狭な愛国心」の違いを、各自が深く考えた方が良いのではないかと信じています。
静かな心でこの文章をお読み頂いた全ての方々へ深く感謝いたします。

今日の挿し絵代わりの写真は先日、神代植物公園の温室で撮った熱帯植物の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









トランプ大統領の施政方針演説を讃える、暗い気持ちが晴れる!

2017年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム
これは私のまったく個人的な感想です。公平さも客観性も無い私的な感想です。
昨日のアメリカの上院、下院総会でのトランプ大統領の施政方針演説で、昨年以来の私の憂鬱な気分が霧消したという話です。
演説の冒頭で彼は、「真実と自由と正義を守るたいまつは今我々の手の中にある。それは全世界を照らすたいまつである」という意味の力強い言葉を発したのです。昨年の選挙運動中に消えかけた自由と平等の国、アメリカが再び蘇ったのです。
この施政演説は昨年から続いた私の気持ちを明るくしてくれました。昨年の選挙運動中に、彼は人種差別的な主張を繰り返していました。従来の同盟国との関係を見直すとも言明し、日本の安保体制やNATO体制も再検討すると言っていました。アメリカは世界から手を引き、アメリカだけの利益を考えると公言していました。
それはあたかも理想国家アメリカの崩壊を暗示していたのです。

冒頭にこの文章は公平さも客観性も無い私的な感想ですと書きました。
私は9歳で終戦を迎え、マッカーサーの寛大な政策で、生活が次第に楽になって来た体験をしました。食糧難の時にアメリカから供給された赤い砂糖や粉ミルクの美味しさを忘れません。
そして若い頃、アメリカに留学しいろいろなアメリカ人に個人的に親身の世話になったのです。初めて自家用車を手に入れ、婚約者を日本から呼びよせ結婚したのもアメリカでした。その結婚式のこまごました世話をしてくれたもの留学先の先生と同級生でした。
ですからアメリカは私の大恩人なのです。アメリカのすることは何でも善意に解釈し、アメリカを応援して来ました。流石にベトナム戦争の後半にはアメリカ政府が間違っていると考えましたが、それ以外は全てアメリカが正しいと支持して来ました。
こういうのをアメリカ馬鹿というのかも知れません。しかし私はアメリカ馬鹿を通うして死にたいと思っていました。
私は古い日本人です。義理人情を大切にしたいと思っています。アメリカから受けた恩義にむくいる義理があるのです。アメリカで助けてくれた人々の温かい人情は絶対に忘れません。

アメリカ人も人情に篤いのです。トランプ大統領は施政演説の最中に一人の戦死したアメリカ兵の未亡人を紹介したのです。拍手喝さいを受けた未亡人は涙ぐんでいたそうです。トランプ大統領の命令で1月下旬にアメリカの特殊部隊がイエメンにいる過激派の幹部を急襲する作戦を実施したのです。この作戦でアメリカ兵の一人が戦死し、作戦に加わったオスプレイ一機が破壊されたのです。目的の過激派の幹部はイエメンの荒野に逃げてしまったそうです。作戦は失敗でした。しかしトランプ大統領は自分の命令で戦死した兵士を忘れなかったのです。
その兵士の未亡人、カリン・オーウエンズさんをトランプ氏は「彼の功績は永遠に刻まれる」と言いながら紹介したときは聴衆全員が立ち上がって拍手しました。その拍手は数分間止まなかったそうです。
そして結びの言葉です。
「小さな考え方をする時は終わった。細かなことで争うのも終りだ。必要なのは、我々の心を満たす夢を分かち合う勇気、魂をかき立てる希望を言い表す勇敢さ、そして、そうした希望や夢を行動に変える自信だ。・・・
ありがとう。皆様に、そしてアメリカ合衆国に、神のご加護があらんことを。」と力強く宣言しています。

施政演説ではトランプ氏一流の下品な言葉がありません。格調高いアメリカの理想主義をうたい、再び世界に積極的に関与し、全世界がより良い国々になるように真剣に取り組むと言明したのです。

嗚呼、再びアメリカは今まで以上の自由と平等の理想の国になるのです。

これが私のまったく個人的な感想です。公平さも客観性も無い私的な感想です。
甘いとお叱り下さい。しかし甘いままで旅立つ決心をしています。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、神代植物公園の温室で撮った睡蓮の花々の写真です。こんな寒い冬でも常夏の温室内では美しい睡蓮の花が咲くのですね。驚きです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「今日の日記、神代植物公園の温室で写真を撮ってきました」

2017年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は寒い曇り日です。そうだ温室に行けば暖かいに違いないと思いつきました。
車で30分くらいの所に大きな温室のある神代植物公園に行きました。
そこは常夏の世界です。熱帯樹の緑豊かな葉、ベゴニア室、ラン類の部屋、睡蓮の部屋、サボテンの部屋と分かれています。
全ての花々の写真を撮りました。今日はベゴニアの花の写真をお送りいたします。
お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。











今日から弥生、春の花々が咲き出します

2017年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
ロウバイ、マンサク、サンシュユ、梅は早春の花です。今年は近辺の梅祭りの野点を3回ほど楽しみました。梅の香りと琴の音をめでながら抹茶をゆっくり飲むのは風流です。嗚呼、日本は良い国だななどと意味も無い感動を覚えます。
さて月日はめぐり今日から弥生です。一斉にいろいろな春の花が咲き出します。
コブシ、モクレン、レンギョウ、モモ、アンズ、サクラ、ボケ、ユキヤナギ、コデマリ、ヤマブキ、フジ、ツツジ、などなどが枝に次々と咲きます。そして草花のスミレ、スズラン、レンゲ、ニホンサクラソウ、チューリップなどなども咲きます。
それを想像しただけで心が温かくなります。幸せとはそんな他愛のない状態などでしょう。
そこで3年前の花の写真をいろいろ見て楽しみました。
静かな朝のひとときです。
皆様ににもご覧になって頂きたいと思いモクレンとサクラとボケとユキヤナギの写真をお送りします。2014年の3月31日に小金井公園とその周辺で撮った写真です。
もう少し待つと今年も同じような花々が咲きだします。
この季節になると「年々歳々、花相似たり、歳々年々、人同じからず」という漢詩の一句を思い出します。
それは劉希夷(りゅうきい)の「白頭を悲しむ翁に代る」という漢詩の中の一句です。

「代悲白頭翁」    劉希夷

洛陽城東桃李花
飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜顏色
行逢落花長歎息
今年花落顏色改
明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪
更聞桑田變成海
古人無復洛城東
今人還對落花風
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同

寄言全盛紅顏子
應憐半死白頭翁
此翁白頭眞可憐
伊昔紅顏美少年

洛陽の町の東では桃や李の花が舞い散り、
飛び来たり飛び来たって、誰の家に落ちるのだろう。
洛陽の娘たちはその容貌の衰えていくのを嘆き、
花びらがひらひらと落ちるのに出会うと長い溜息をつくのだ。
今年も花が散って娘たちの美しさは衰える。
来年花が開くころには誰が元気でいるだろう。
私はかつて見たのだ。松やコノテガシワの木が砕かれて薪とされるのを。
また聞いたのだ。桑畑の地が変わって海となったのを。
昔、洛陽の東の郊外で梅を見ていた人々の姿は今はもう無く、
それに代わって今の人たちが花を吹き散らす風に吹かれている。
来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、
年ごとに、それを見ている人間は、移り変わる。
お聞きなさい、今を盛りのお若い方々。
よぼよぼの白髪の老人の姿、実に憐れむべきものだ。
この老人の白髪頭、まったく憐れむべきものだ。
だがこの老人も昔はあなた方と同じく紅顔の美少年だったのだよ。
貴公子たちと共に花の咲く木のもと、
花の散る中、清らかな歌を歌い、見事な舞を舞ったりもした。
漢の光禄大夫王根が自分の庭の池に高楼を築き錦や縫い取りのある布を
幕としたように、
後漢の将軍梁冀(りょうき)が権勢を極め、
自宅の楼閣に神仙の絵を描かせたように、
そんな贅沢もしたものだが、
ある日病に臥してからというもの、友達は皆去って行った。
春の行楽は、誰のもとへ行ってしまったのだろう。
美しい眉を引いた娘もどれだけその美しさが続くだろう。
たちまち白髪頭となり、その髪が糸のように乱れるのだ。
見よ、昔から歌や舞でにぎわっていた遊興の地を。
今はただ黄昏時に小鳥が悲しげにさえずっているだけだ。
(訳は、http://kanshi.roudokus.com/nennensaisai.html からの転載です)
なお劉 希夷は「りゅう きい」と読み、651年生まれ、 679年没の唐代の詩人です。
 詩集4巻があるが、ここに取り上げた ”年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず” で有名な詩「代悲白頭翁」と、「公子行」が代表作である。28歳の時、何者はに殺されて夭折したようです。悲しい出来事でした。
春の花々を見ると何か悲しみも覚えるのはこの漢詩と作者の短か過ぎる生涯を思い出すせいでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)