後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、暖かい陽気に誘われて薬用植物園に行きました」

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日も気温が18度もあります。陽気に誘われて久しぶりに都立薬用植物園を散歩しながら花々の写真を撮って来ました。
1番目の写真はサンシュユの花です。
2番目の写真はアンズの花です。
3番目の写真はキクザキリュウキンカです。
4番目の写真はバイモ(貝母)です。アミガサユリとも言います。
5番目の写真はボケです。
6番目の写真はミツマタの花です。
7番目の写真はコブシです。
8番目の写真はトサミズキです。
9番目の写真は植物園の裏の雑木林です。

















ベトナム戦争のある一つの悲劇、そして神の愛

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ベトナム戦争には本当にいろいろな悲劇が起きました。
今日はそのある一つの悲劇と、そして神の愛について書きたいと存じます。
実は私どのもカトリック教会の主任司祭のヨセフ ゴ・クアン・ディン神父はベトナム人でした。
10年ほど続いたベトナム戦争の末、共産党軍が全土を制圧して共産党の国家が成立しました。1975年のことでした。その時、ディン少年は教会の学校に熱心に行っていました。
神学校や教会の閉鎖と弾圧に耐えかねた、ディン少年は1981年のある闇夜に難民船に乗って南の海に逃れたのです。
3日間の難民船の旅の末、折よく通りかかった日本のLPGタンカーに救助されたのです。
そして東京大司教区で神父になったのです。
その後、東京の幾つかの教会の主任司祭を務め、2010年に小金井教会の主任司祭になったのです。
ディン神父さんは完璧に漢字の読み書きが出来ます。非常に良く信者の世話をしてくれる優しい神父さんです。そして彼の素朴で強い信仰心が小金教会の信徒の信仰の模範になっています。毎年、洗礼を受ける人が沢山います。
神様はディン少年を愛していました。3日間の難民船の苦難のあとで日本のタンカーを送ってくれたのです。その愛に感謝したディン少年は漢字の難しい日本語を完全に使えるようになったのです。そして東京大司教区の司祭になったのです。
小金井教会に送ってくださったのも神様です。私どもも神の愛を感じています。

昨日はこのヨセフ ゴ・クアン・ディン司祭の叙階25周年の銀祝に盛大なミサがありました。ミサ後に楽しい祝賀の野外パーティがありました。
それでは昨日撮った写真に従ってもう少し詳しく書きます。

1番目の写真は聖職者が祭壇の上に並んでミサが始まる場面です。説教台のすぐ右がディン神父さまです。そして時々ミサを司式してくれたイエズス会の住田神父さまやサレジオ会の吉田神父さまも並んできます。

2番目の写真はミサの中で聖杯を捧げて祈っているディン神父さまです。右隣は助祭の神父さんで、やはりベトナム人でディンというご苗字です。
パンと葡萄酒が聖変化してイエスの体と血になるように祈っています。この後、イエスの体になったパン片を信者の一人一人に手渡すのです。この儀式を聖餐と言います。

3番目の写真はミサが終わって、信者代表から花束を貰った後で挨拶をしているディン神父さまです。

4番目の写真はミサ後の祝賀野外パーティの折の楽しそうなディン神父さまです。この時、神父さまと私の並んだ写真を撮りました。
神父さまは私の肩に優しく手をまわしてくれました。

5番目の写真はベトナムのホーチミン市にあるカトリックの大司教座大聖堂です。聖マリア大聖堂とも呼ばれています。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設されました。

6番目の写真はベトナムがまだアメリカの支配下のあった当時のサイゴンの風景です。

尚、ディン神父さはは6人兄弟の上から2番目で、サイゴン脱出の時は家族を残して一人で難民船に飛び乗ったのです。
日本に着いてから2年ほど徳島県の造船所で働きます。その後品川に移り、日本語を勉強します。そして粕谷神父さまに会います。
この粕谷神父は親身の世話をしてくれ、やがて白柳誠一大司教の面接を受け東京神学院へ入学したのです。東京神学院の初めての外国人の神学生でした。

25年前に東京大司教区の神父として叙階された後はあちこちの教会で主任司祭を務めましたが、信者の面倒をよく見て下さいます。
それにしてもディン神父の波乱万丈の半生を考えると神の愛を感じざるを得ません。よくぞ生き残って日本の神父になられたものです。

ディン神父のご健康と平和をお祈りいたします。

===ベトナムのカトリック========
ベトナムにおけるローマ・カトリック教会の信者は、現在、全人口の約6.87%あると言われています。
17世紀になるとフランスから宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが派遣され、6000人以上のベトナム人に洗礼を授けたと報告した。ちなみにドゥ・ロードはクオック・グーというベトナム語のアルファベット表記を発案し、現在でも使われている。19世紀になってフランスの支配が強まると、カトリック教会は全面的に擁護された。
20世紀後半になって冷戦が深刻になると、社会主義国の北部から逃れたカトリックは多数南ベトナムに移り住んだ。アメリカ合衆国は南部に資本主義陣営の国家としてベトナム共和国を設立し、初代大統領としてゴ・ディン・ジエムが就任した。ゴ・ディン・ジエム政権のもと、南ベトナムはカトリック中心主義を推し進めた。将校や官僚のトップはカトリック教徒が占め、カトリックは土地政策や税制で優遇を受けた。果ては、1959年にゴ・ディン・ジエムは南ベトナムを聖母マリアに捧げることを宣言した。公的な催しの日にはバチカンの旗が翻り、カトリック教会が国で最大の地主となる一方、人口の70%から90%を占める仏教徒は抑圧され、仏旗を掲げることすら禁じられた。
1963年5月には仏旗掲揚禁止に抗議する民衆が射殺されたことを期に「仏教徒危機」と呼ばれる騒乱が発生した。ゴ・ディン・ジエムは戒厳令を出し、仏教寺院を迫害した。抗議の焼身自殺を図った僧侶、ティック・クアン・ドック師の行動に対し、大統領の弟ゴ・ディン・ヌーの妻マダム・ヌーが「人間バーベキューだ」と発言し、ますます宗教間の対立を深めた。この混乱は同年11月に軍事クーデターが起きゴ・ディン・ジエムらが失脚し射殺されるまで続いた。
共産主義政権となった現在では、公式には宗教は否定されているが、それでも教会の活動は続けられている。2007年に教皇ベネディクト16世はベトナムの信徒に手紙を送り、励ました。

大司教区と司教区
ハノイ大司教区
ソンタイ教区、バーリア教区、ハイフォン教区、ランソン教区
フエ大司教区
ダナン教区、ニャチャン教区、クイニョン教区
ホーチミン市大司教区
ミトー教区、カントー教区、ファンティエット教区

上記は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF からの抜粋です。


「今日の日記、近所の花々の写真を撮りに行きました」

2017年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
午前中は教会のミサに行き、午後から近所に咲いている菜の花、パンジーの花壇、雪柳、ミモザの写真を撮りに行きました。
春爛漫のような日和で、花々が急に咲き出したようです。
皆様お住まいの場所は春の訪れは如何でしょうか?









キリスト教は何故「愛の宗教」というのか?

2017年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本は人々が意識していませんが仏教の影響を深く受けています。正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭のディン神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要にまります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真はこの季節の花、モクレンの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





第51回、「八丈島フリージアまつり 」へのご案内

2017年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
何年か以前に冬の八丈島を独りで旅をしたことがあります。そうしたら天候が荒れ出して帰りの客船も飛行機も欠航続きになりました。
独り旅だったので、島に取り残され心細い思いをしました。その折に島の人々がとても親切にして下さったのです。
その恩返しに八丈島で行われるイベントは宣伝するようにしています。なるべく多くの方々に八丈島を訪問して頂きたいのです。

今日は第51回の「八丈島フリージアまつり」をご案内したいと存じます。
今年は3月19日(日)から4月2日(日)まで開催されます。
八丈富士を望む広大なフリージア畑で、美しい花を無料でつみ取ることができます。
約35万本の黄色、白、ピンク、紫、赤など、色とりどりの愛らしい花に囲まれて、春の訪れをお楽しみ下さい。
フリージアの花の鑑賞と無料つみ取りの他、花遊び体験ワークショップ、島内スタンプラリー、八丈太鼓演奏&体験などのイベントも楽しめます。
詳しくは、http://www.rurubu.com/event/detail.aspx?ID=14176 をご覧ください。

八丈島へは羽田から毎日飛行機があります。また竹芝桟橋から毎日、船旅を楽しめる客船が出ています。島には洒落たホテルや民宿が沢山あります。
それでは1,2,3番目の3枚の写真で八丈島のフリージア畑の風景を示します。






八丈島は想像以上に大きな島です。東に10万年前に噴火で出来た三原山、西に1万年前に出来た八丈富士、そして西の海上には八丈富士の弟のような急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠う過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmで東京の千代田区、港区、新宿区、中央区などの合計位の大きさだそうです。
八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。
伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。

八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
そして忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来たばかりの島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。
そんな楽しかった八丈 島への独り旅の思い出を楽しみながら皆様へも島で撮った風景写真をお送りいたします。

4番目の写真は東の三原山の中腹から撮った八丈富士の風景です。手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。

5番目の写真は八丈富士の南西の沖に浮かぶ八丈小富士です。以前は人が住み、小学校もありましたが現在は無人島です。

フリージア祭りの折に、レンタカーで八丈島の全部を巡る旅もたのしみましょう。あちこちに温泉があり、気軽に入浴が楽しめます。
海の風景も雄大です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

あなたはご存知ですか?実に奇妙な庚申塚のことを

2017年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
農村の道を歩いていると道端に石碑が立っていて花が供えてある光景があります。
旅人の安全を守る神様のようです。馬頭観音や道祖神なのだろうと気軽に見過ごしていました。
しかしある時、少し詳しく調べてみようと思い立ちました。
そこで分かったことは道端の石碑には庚申塚とか庚申塔と呼ばれる石碑が多いことです。
旅人の安全を守る馬頭観音や道祖神なら理解出来ますが、この庚申塚は本来旅とは全く関係の無いものです。

この甲信信仰は実に奇妙です。調べてみると、中国の道教の庚申信仰が日本に伝承されたものでした。
その信仰とは人の体内に住む三匹の虫にまつわる俗信です。馬頭観音や道祖神とは全く違うのです。
しかもこの俗信の内容が時代とともに、どんどん変化して行ったのです。
いろいろと検索して詳しく調べてみましたところ、庚申信仰の時代による変化を精緻に学問的に研究した記述がありました。
それは、戸原のトップページ:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/index.html でした。
優れた記述ななので、以下にその一部を転載させて戴きました。

=======庚申信仰の時代による変遷==========-
庚申信仰とは:
今、“庚申(コウシン)信仰”とか“庚申さん”といっても知る人は少ないであろう。“庚申”とは干支(エト)でいう“カノエサル”で、昔、年や日などを干支で記していたとき、60年(日)の周期で巡ってきた。庚申日は年に6回(年によっては7回、この年を「七庚申年」と呼ぶ)巡ってくるが、その庚申の夜、人々は身を慎み徹夜して過ごしたという。
Ⅰ、庚申信仰とは
 庚申信仰とは、教祖もなければ経典・教義らしきものもない信仰で、今の我々からすると何とも得体の知れない俗信である。もともと中国の民間道教の一つで、その源淵は東晋時代の古書『抱朴子』(ホウボクシ、葛洪著・283~363)に記されている『三尸(サンシ)説』によるという。

※三尸説
 『三尸』とは人の体内に住む三匹の虫で、それぞれ頭部・腹部・脚部に潜むとされる。抱朴子には、『人の体内に潜む三尸は形はないが、実は鬼神や霊魂の類である。人が死ぬと、三尸は体外に出て好き勝手なことができるので、常に人の早死を望み、庚申の夜、眠っている人の体から抜け出して天にあがり、人間の罪過を事細かく天帝に告げる』とある。天帝(司令神ともいう)は、庚申の日には門戸を開いて多くの鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すが、その最たるものが寿命の伸縮である。
 人間は誰しも過ちはあることで、それを60日ごとに天帝に報告されて寿命が短くなるのは困るわけで、そのために庚申の夜、三尸の虫が体内から抜け出られないように徹夜して過ごすことが必要、と説くのが庚申信仰の骨子で、特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な宗教行為で、これを『守庚申』といった。

※庚申の御遊
 この三尸説あるいは守庚申がわが国へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが、はっきりしない。しかし平安時代、宮中で天皇を中心とした守庚申がおこなわれていたのは確かで、これを『庚申の御遊』と呼んだ。「続日本後記」(869編纂)仁明天皇・承和元年(834)七月庚申の条に『中旬はじめの庚申の日だから、天皇出御のもと侍臣に酒を賜り、御前で囲碁をして遊んだ』とあることや、慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」承和5年11月26日(庚申日に当たる)の条に、『(中国揚州の地で)廿六日の夜、人々は皆睡らない。これはわが国正月の庚申の夜と同じである』とあること、その後の史書あるいは公卿の日記などからみて、9世紀末から10世紀のころ庚申の御遊は半ば恒例化していたという。
 宮中でおこなわれていた庚申御遊がどんなものだったかははっきりしないが、清少納言の「枕草子」(1000年頃)に、『(中宮さまが)「庚申御遊をなさいます」というので、内の大臣殿がいろいろお世話なされた。夜が更けてきた頃、題を出して女房どもにも和歌を詠ませることになった。みんなが緊張し、良き歌を詠もうと苦吟いていたが・・・』(94段)とあるように、人々は管弦を奏したり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、時には酒なども出して夜を過ごしたようで、睡らずに三尸の虫を体内に閉じこめるという庚申本来の趣旨からは外れた遊興的なものだったらしい。

※庚申待(コウシンマチ)
 この庚申の御遊という形で、一夜を睡らずに過ごして長寿を願う守庚申の風習は、鎌倉・室町時代になると上層武士階級へと拡がり、「吾妻鏡」にも守庚申の記事が散見され、また.続く室町将軍家あるいは織田信長が庚申待と称して酒宴乱舞の宴をもったとの記録もあり、これを『庚申待』といった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのであろう。

 この庚申待が一般庶民に広まったのがいつ頃かは不明だが、古書「庚申之本地」(1527、室町末頃)に『貴賤上下ともに庚申を守れば七福が生ずる。貧人はその分にしたがって供物せよ』とあること、関東地方にその頃の庚申塔が残っていることなどからみて、室町末期(16世紀前半)には一般に広まっていたらしい。

 ただ一般庶民の庚申待には、宮廷貴族のそれとは異なり礼拝対象となる神仏が登場してくる。はじめの頃は阿弥陀仏や薬師如来・文殊菩薩などの諸仏だったが、江戸時代にはいると、それらの庶民信仰を主導した密教僧や修験行者の影響を受けて、仏教系では青面金剛が単独の主尊となり、神道系では猿田彦命へと収斂していったという。

 いずれにしろ、そこでおこなわれる庚申待は、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので、三尸説など影も形もないものに変貌している。換言すれば、庶民の庚申待とは、古くから続いているカミ祀り(カミ祀りは夜おこなうのが本来の姿)・先祖祀りが庚申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。

 庚申講の人々は、入浴するなどして身を浄め、庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱えるといった“おつとめ”をおこない、その合間に酒を飲んだり世間話をしたりして夜を過ごした(「長話は庚申の夜に」ともいったらしい)が、完全に徹夜するのではなく、鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝にはいったともいう。古くから鶏が鳴くと夜のあいだ跳梁していた悪霊・邪鬼どもが退散するといわれ、すべての禍は去っていくといわれていた。これが今、庚申尊掛軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁でもある。

※庚申の神仏
 今、庚申信仰で礼拝対象となっているものは、仏教系では『青面金剛』、神道系では『猿田彦』というのが大方である。
◎青面金剛(ショウメンコンゴウ) 
 庚申尊としての青面金剛は、室町末期頃に諸仏の一尊として現れ、江戸時代に入って主尊として崇拝されるようになったが、庚申と青面金剛との関係はよくわからない。

1番目の写真は『青面金剛』です。
 青面金剛とは仏・菩薩ではなく、ましてや神でもない。仏教(密教)パルテノンの天部に属する夜叉(ヤシャ)の類である。夜叉とは、ヒンドゥー教にいう荒々しく怖ろしい鬼神だが、仏教に入って帝釈天の使者で毘沙門天の眷属となり北方を護るとされる護法善神で、中国で民間道教と習合して庚申尊となったという(仏教辞典)。
 また雑密経典・「陀羅尼集経」によれば、“大青面金剛呪”という真言陀羅尼を唱えて青面金剛に祈れば、諸病たちまち治癒するという。特に江戸時代に死病として恐れられた労咳(ロウガイ、今の肺結核)は“伝尸(デンシ)病”とよばれ、これの予防・治癒には体内に潜む三尸九虫を駆除する要があり、それには青面金剛に祈ることが肝要とされていたという。この伝尸・デンシが字形・音ともに三尸・サンシに似通っていること、病気治癒に験があるとされたことなどから庚申と混同され、青面金剛が持ちこまれたのかもしれない。

庚申信仰ーーー青面金剛童子像
 陀羅尼集経に記す青面金剛は、一身四手(下手に三股叉と棒、上手に法輪と羂索を持つ)、身は青色、眼は三眼で牙をむき、髑髏を頂く逆立った頭髪や両腕には大蛇がまといつき、足許に邪鬼を踏まえるという恐ろしい姿で、その左右に童子二人を従えるという(中央に青色の主尊、左右に赤色2躰・黄色2躰の五夜叉一組が普通)。

 これに対して庚申尊としての青面金剛はほとんどが主尊の一躰のみで、身は青色と経典に準じるが三面六手と腕が多くなり(一面もある)、中段の2手には弓と矢を持つのが普通で、二童子とともに三猿・鶏などを従えるという違いがある。他に二手・四手・八手などがあるというが、いずれもその忿怒相を以て邪霊を威嚇調伏し、教えに従わない衆生を教化するとされる。ただ庚申尊掛軸での青面金剛が、前に4夜叉を描いているところは経典に忠実といえる。

◎猿田彦
 仏教にいう青面金剛に対して、神道の側から「庚申の夜に祀るべき祭神は猿田彦大神である」と説いたのは、江戸前期の儒者・神道家である山崎闇斎(1618~82)で、その流れを汲む神道家によって広まったという。
 サルタヒコとは記紀神話で天孫ニニギ尊の降臨に際して道案内者として現れた国つ神で、簡単にいえば“赤い顔をした鼻高の天狗”である。そのサルタヒコを庚申尊とするわけは、猿田彦の“猿”が庚申の“申”に通じることもあるが、サルタヒコが降臨するニニギの道の露払いをしたことかせ、禍を払う力があると考えられたためとも、別名・大田神と呼ばれるサルタヒコが田の神・豊饒の神とみなされ、豊作豊饒の願いを叶えてくれる神と考えられたためともいう。ここには、山の神が春になると里に下りてきて田の神となって豊饒を見守り、豊かな収穫を見届けて山に帰っていくという、わが国古来からの山の神・田の神交代信仰がうかがわれ、庚申尊が豊饒を司ると見られていたことを示唆している。

※庚申塔
 今、庚申信仰が残っているかどうかはわからないが、かつて庚申待がおこなわれていたことを証するものに『庚申塔』と呼ばれる一群の石碑・板碑がある。 “庚申”・“庚申待”・“庚申供養”などと刻んだ文字碑、あるいは青面金剛を彫りこんだ石碑で、信州から北の東日本に多いというが、関西でも、注意すれば古い集落の片隅などで時折見かけることがある。
 庚申塔とは、庚申縁起に『一座と申すは三年に十八度なり。両三年目には供養致すべし。供養とは道の辺に塚をつき四方正面の卒塔婆を立てて供物をととのえ、云々』とあるように、3年18度の庚申待を続けた記念として立てたもの、庚申年を記念したもの、特に庚申のご縁年として祝われた七庚申年を記念したもの、庚申講内に目出度いことが起こったのを記念して立てたものなど種々あるという。
 しかし、いずれにしろ庚申講あるいは庚申年を記念して石碑を立てることと、守庚申本来の三尸説とは何の関わりもない。庚申塔とは、縁起に“供養のために卒塔婆を立てよ”というように一種の供養塔ということもできる。その例証として、仏教で三十三回忌を迎えてホトケがカミになったことを祝って立てる“梢付塔婆”(ウレツキトウバ)と同じように、七庚申年を記念して枝先の梢が残る生木を立てる風習もあったという。庚申待が、三尸の虫を云々するというより、先祖の霊を祀る古来からの祭祀習慣の延長上に位置づけられていたことを示唆しているといえる。
 今、残っている最古の庚申塔は、文明3年(1471、埼玉県川口市)の庚申待板碑で、ついで文明15年(1483、東京都足立区)、長享2年(1488、東京都練馬区)が続くという。いずれも室町時代のもので、室町期には庚申信仰が一般に広まっていたことを示す遺構である。
 
庚申信仰ーーー庚申塔

2番目の写真は熊野・那智の庚申塔(左は青面金剛)です。 

そして3番目の写真は伊豆・修善寺の庚申塔)   
Ⅱ、庚申信仰の現状
 庚申信仰は、いろんな変遷を経ながらも庶民の宗教生活になかに根を下ろしていたようだが、大正以降急速に衰えたという。資料によっては昭和30年代頃の農村部には残っていたともいうが、平成の代になった今、昔ながらの庚申信仰はなくなったといっていいだろう。例えば、江戸時代に日本三大庚申とその殷賑さをうたわれた大阪・四天王寺の庚申堂、京都・八坂の庚申堂、東京・入谷の庚申堂についても、大阪・京都の2社は庚申日ともなればそれなりの参詣人を集めてはいるが、東京・入谷のそれは廃絶している。
 庚申信仰を支えたのは同信心の者が集まってつくる“庚申講”だったといえるが、人々の社会的関係と宗教意識が大きく変わってしまった今、都会はもとより地方にあっても宗教を絆とした集まりがもたれることはなくなっている。今、四天王寺や八坂にお詣りする人々も老齢の方が多く、時が経つほど寂れていく可能性がある。
 四天王寺庚申堂・八坂庚申堂など、大阪近傍の庚申堂については稿を改めて記す。
(以下省略)
===================================
以上が中国の道教に由来する庚申信仰が飛鳥、奈良時代に日本に入って来てどのように変化して行ったかの説明です。
信仰の内容が時代とともにどんどん変わって行く様子が興味深いです。そして現在はこの俗信の一種が忘れ去られていくようです。
考えてみると人々の信仰や思想の内容が時代と共に変わるのは仕方がないのです。
そしてある時代に隆盛をきわめた宗教や思想も歴史の闇に呑み込まれて消滅するのです。何か無常を感じます。この世のことはすべて無常なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

最も信頼出来る親日国、タイ王国

2017年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
日本はアジア文化圏の一国であることはまぎれも無い事実です。そこでアジアの諸国と日本の関係について考え、幾つかの記事を書くことにしました。
3月10にはインドを取り上げ、「経済力の拡大と善い意味でのアジア主義の薦め」という記事を掲載しました。
この記事の主張はインド、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、台湾、韓国、そして中国などのアジア諸国と友好関係を推進することが重要だという主張でした。日本の将来の安全を守り、豊かな文化を築くために重要だという主張だったのです。このような考え方を私は善い意味でのアジア主義と呼ぶことにしました。

続いて3月13日には中国を取り上げました。その記事は、「中国の経済発展が欧米人のアジア人への評価を改善した」という題目でした。
その記事の主張は現在、多くの日本人が嫌っている中国と友好関係を築くべしという主張でした。
中国とは日中戦争を続け満州国を作ったという歴史がありました。その負の遺産のせいで日中関係は一向に改善しません。
その上に中国は航空母艦を中心にした艦隊を編成し、太平洋を巡航させています。そして南沙諸島に軍事基地を作っています。これらは日本にとって脅威になっています。
そのことを充分知った上で、私の主張はこの軍事的対立を超越して日本はアジアの一員として中国とも友好関係を進めたほうが良いというものでした。広い視野でアジア全体を視ればそのほうが将来の日本のためになるという考えからです。

さて3番目に取り上げる国として私はタイ王国を取り上げたいと思います。何故か多くの日本人が好きで、タイに長期滞在したり移住している日本人が多いようです。
タイは19世紀から始まったイギリス、オランダ、フランスによるアジア地域の植民地争奪戦のなかで唯一独立を守った国でした。正確には日本とタイだけが植民地にならず独立を守ったのです。
そして第二次大戦中は日本の軍事作戦に協力した同盟国でした。

このようなタイの賢明な外交政策も立派なものでしたが、私個人はタイが仏教国としてお釈迦様を大切にしていることに深い感銘を受けています。

1番目の写真は巨大な釈迦像の周りを練り歩いている僧の行列の光景です。この写真も含めてすべての写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD です。
個人的な感じで根拠も薄弱ですが、私はタイの仏教がお釈迦さまの像だけを大切にしているので、日本の仏教より本物だと感じています。
そこで少しタイの仏教をご紹介します。
まずタイの宗教は、仏教(南方上座部仏教)95%、イスラム教4%、キリスト教、他にヒンドゥー教、シーク教、道教などとなっています。
その仏教は上座部仏教であり、それにヒンドゥー教や、精霊信仰を加味した独特の仏教になっていると言われています。
タイの仏教ではヒンドゥー教の神々を神話の産物として位置づけ、信仰の対象にしていません。
タイの寺院では本尊には必ず仏像を配置しヒンドゥーの神々はあくまで装飾の一部としています。
一方、日本のお寺の本尊としては、大日如来や薬師如来や観音菩薩や弘法大師やいろいろな信仰の対象が祀られています。多神教のような信仰内容になっているのです。
タイの寺院の本尊はお釈迦さまだけです。でしから私はタイの仏教は日本の仏教より本物だと感じています。
その他、一生に一回以上の出家の習慣も古い仏教の信仰形態も守っているようです。

仏教のことはさておき日本とタイの経済関係を見てみましょう。
2015年のタイのGDPは約3952億ドルであり、東南アジアではインドネシアに次ぐ経済規模です。これは日本の九州とほぼ同じ経済規模です。同年の一人当たりのGDPは5,742ドルであり、隣国のカンボジア、ラオス、ミャンマーより遥かに高い反面、中進国とされるマレーシアに比べると大幅に低い水準です。
経済の安定や外国企業の積極的な進出を背景にした1980年代以降の高度経済成長はすさまじく、1985年から1995年にかけての10年間、タイは年間平均9%の経済成長率を記録した。
従って多数の日本の企業がタイに投資し、工場を作りました。
その上、タイの人々の人情は日本と似ていて人事管理上のトラブルの少ないことでも有名です。
首都のバンコクはビジネス、文化、政治などの中心として発展しました。世界都市格付けでは41位の都市と評価されているそうです。

2番目と3番目の写真はこのバンコックの写真です。


さてタイの特徴は国民が王様を尊敬していることです。
伝統的に王家に対して崇敬を払うよう国民は教えられているのです。王や王妃の誕生日は祝日となり国中が誕生日を祝うお祭り状態となるそうです。国王や王妃の誕生日の前後には、肖像画が国中に飾られます。日常生活においても、国民の各家庭やオフィスビル、商店や屋台に至るまで、国王の写真、カレンダーや肖像画が飾られているのです。。

4番目の写真は王宮の写真です。
その他にタイの風景写真を示します。

5番目の写真はプーケット島パトンビーチの夕暮れです。

6番目の写真は山岳地が広がる北部地方の写真です。

7番目の写真は水田の写真です。タイは世界最大の米の輸出国です。

この記事ではタイの素晴らしところをご紹介しましたが、タイにも問題があるのです。
タイでは政変や軍事クーデターによる政情不安があり、軍による民主化運動の弾圧などが多発しているのも事実です。
現在、反政府運動を封じる手段として報道の自由を全面制限しています。
政府によるタイ国内放送局の掌握、BBCワールドニュース・NHKワールドTV、CNN等の海外衛星放送ニュースチャンネルを切断し、配信させていません。
さらに、無期限の夜間外出禁止令を首都バンコクなどタイ全土で発動しています。しかしパタヤ、プーケットなど一部の観光地は現在解除されています。
その他、タイ南部のイスラム教反政府武装集団に対する抗争や周辺の国境線問題において国境紛争などを抱えています。
しかし不思議なことにタイ人はこれらの国内問題が観光事業や日本の工場の企業活動に極力影響を与えないように努力している様子なのです。

このような事情で私はタイ王国を最も信頼出来る親日国と信じているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

瀬戸内海の素晴らしいローカル文化、イカナゴの釘煮と文学

2017年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
早春の瀬戸内海の風物詩、イカナゴの釘煮を今年も頂きました。
友人の鈴木 裕さんの母上が精魂込めて煮たものを送って下さいました。
山椒入りのものとショウガ入りのものと2種類がハランの葉で分けてパックに丁寧に詰めてあります。特に解禁早々のまだ幼魚の高級なイカナゴのクギ煮です。
毎年、3月になると須磨にお住いの鈴木裕さんが送ってくれるのです。これを食べると、「ああ、今年も春が来た」という温かい気持ちになり、春の陽に輝く瀬戸内の海の風景が眼前に広がるのです。早春の季節の風物詩です。
このように瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴという小魚を大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化です。瀬戸内海地方の伝統的な輝かし『地方文化』です。この地方文化の恩恵を楽しめる幸運に心が豊かになります。

イカナゴは日本各地の沿岸で漁獲される魚です。しかし瀬戸内海のイカナゴは特別に美味しいのです。生育中に食べている餌が違うのです。
毎年、瀬戸内海でのイカナゴの解禁日は年によって違いますが、大体2月下旬に解禁になります。
稚魚を瀬戸内沿岸部ではイカナゴ(玉筋魚)、関東ではコウナゴ(小女子)、大阪ではシンコまたはカナギと呼ばれています。
イカナゴは暑さに弱く、6月から晩秋過ぎまで砂に潜って夏眠する珍しい魚です。
関東ではコウナゴの佃煮と同じものが瀬戸内海沿岸ではイカナゴのクギ煮と呼ばれています。

イカナゴのクギ煮と同じものを東京ではコウナゴの佃煮と言います。味がどのように違うのか食べ比べてみると歴然と違いが分かります。
同じ魚ですが全く味が違うのです。
瀬戸内海沿岸の須磨のイカナゴのクギ煮はかすかにフォアグラのような肝臓の風味がするのです。そして骨を感じさせない柔らかい小魚の食感です。魚の肝臓ではアンコウの肝やカワハギの肝が美味ですが、それらと一脈通じる味がかすかにするのです。これこそイカナゴのクギ煮が絶賛される原因だと断定できます。
断定したといえば大げさですが、交互に東京で売っているコウナゴの佃煮を食べてみると明快に分かるのです。コウナゴにはアンコウの肝やカワハギの肝の美味成分が皆無です。その上、身が固すぎます。魚としての旨さは充分ありますが固すぎるのです。
この違いは餌の違いなのでしょう。

毎年、3月の早春になると友人の鈴木さんが送って下さいます。彼の母上の味は上品です。その上、生姜や山椒の香りが程良くてなんとも言えない風味があるのです。料理は作っている人の性格を表わすと言いますが優雅で、その上根気の良い母上のお人柄が偲ばれるのです。
2種類の釘煮の仕切りをお庭の葉蘭でしてあるのですがその細かな切り方が本当に丁寧な事に今年も感嘆します。
これこそ瀬戸内海地方の伝統的な輝かし『地方文化』なのです。
そして鈴木さんの母上はお正月の初詣でのおりに毎年、須磨の海苔もお送り下さいます。このように伝統文化を大切にするご婦人は素晴らしいと須磨の初海苔を頂くたびに想います。

イカナゴの釘煮がローカル文化であることは、それにまつわる和歌や俳句や随筆をみるとよく分かります。
毎年、いかなごくぎ煮振興協会が主催してイカナゴの釘煮にまつわる和歌や俳句や随筆を募集しています。
そして優秀な作品へ『いかなごのくぎ煮文学賞』を与えているのです。(http://kugini.jp/contest/index_b2016.html )
昨年の第5回目を迎えた文学賞では、過去最多の1410作品が全国43都道府県から寄せられました。

その中から主な作品をご紹介いたします。
第五回 いかなごのくぎ煮文学賞 グランプリ作品

≪ 短歌 ≫
「春暁(しゅんぎょう)の 海に漁火 煌(きら)めきて 茅渟(ちぬ)の浦曲(うらわ)に ●子(いかなご)のくる」 ( ●は魚へんに白)    
                 大濱義弘 さん  72歳 (神戸市垂水区)

三田 完 先生 講評
さながら万葉の一首のような風格を持つ作品です。「茅渟」は大阪府南部の古称で、黒鯛のことを「チヌ」と呼ぶのも、この地名にちなんだものととか。「浦曲」は入江のこと。こうした古語をすんなりと用いた技量に感服しました。

≪短歌≫ 「 くぎ煮炊く 母との会話 味わって 顔知らぬ祖母へ 想いをはせる 」 
                  川野沙綺 さん  高1 ( 神戸市垂水区)
三田 完 先生 講評
くぎ煮を炊く香りを鼻孔で味わいながら、作者はくぎ煮を炊くお母さんとの会話も耳で味わっています。会話の内容は、くぎ煮の炊き方を教えてくれたお祖母ちゃんのこと。この会話のおかげで、炊き上がったくぎ煮の味がふっくらと豊かになります。味がそれぞれの家庭で受け継がれていく-そのことについて書いた投稿は毎年たくさんあります。この短歌もそうした一篇なのですが、未知の祖母に寄せる孫の思いが、くぎ煮の味わいを数段引き立ててくれました。

≪ 俳句 ≫ 「 いかなごを ふくふく育てる 春の波 」     
                        マコッチャン さん  58歳 (神戸市西区)

三田 完 先生 講評
「ふくふく育てる」が、瀬戸内の海の豊かさをみごとに伝えてくれます。春風駘蕩の海原を詠んだ句なのに、口の中にはくぎ煮の味が沸きあがる-まさしくくぎ煮文芸の神髄といえるでしょう。

≪ 俳句特選 ≫ 「 春を告ぐ ほのかに香る いかなごよ 」   
                        さりい さん  高2 (神戸市長田区)

三田 完 先生 講評
温かいご飯の上にくぎ煮を載せたとき、ほのかに香りがたちのぼる。その淡い香りに春を実感する…。これこそ、まさに俳句-日々の暮しのなにげない一瞬に季節を感じ取ることです。

この他にイカナゴに関する随筆もありますが、長くなるので割愛いたします。

如何でしょうか?瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴを大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化ではないでしょうか?瀬戸内海地方の伝統的な輝かし『地方文化』と言っても過言ではないと存じます。

1番目の写真はイカナゴ漁をしている漁船の写真です。
2番目の写真は目の細かい網にイカナゴがビッシリ獲れて、それを船の上に引き上げようとしている光景です。
3番目の写真はとれたイカナゴです。背景に大人の指が写っていますが、イカナゴは指の半分くらいしかない小さな魚です。
4番目の写真は大量にとれたイカナゴの写真です。
5番目の写真はイカナゴを丁寧に煮て作った釘煮の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









陽賜里工房の恒例の春のお花見会のご案内

2017年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの春の公開と花見が例年通り開催されます。桜が満開になる頃です。庭でお茶をゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその母上です。

日時:4月7日(金)、8日(土)、9日(日)の、朝10:00時~午後4:00時ころまで、
ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp

このオープンガーデンには私も家内と一緒に参加したことがあります。
======花の園の中の喫茶店・・・陽賜里工房というコーヒー店===
これは不思議な喫茶店です。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。
春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。
この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が数本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。
花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。
コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれづれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。
下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。





中国の経済発展が欧米人のアジア人への評価を改善した

2017年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム
世界に住む人類は歴史的にいろいろなことで対立や競争をし、それぞれの文化を発展させて来ました。宗教の違いによる対立と競争。人種的な対立と競争。軍事的な対立と競争。そして共通な文化をもとにした文化圏の対立と競争。そしてこれらの複合した複雑な対立と競争。いろいろな種類の対立と競争があります。
これらの対立の中で私は異なる文化圏の競争というものに非常に興味があります。
1、佛教やヒンズー教を基盤にしたアジア地域文化圏。
2、キリスト教を基盤にした欧米地域文化圏。
3、中東や北アフリカのイスラム地域文化圏。
4、その他の地域文化圏。

ソ連とアメリカの冷戦が終わる頃から中国とインドの経済成長が急速になって来ました。
欧米地域をアメリカとヨーロッパに分けると、アジア地域のGDPの合計はほぼ同じになっています。そしてすぐに追い越す勢いなのです。
このようなアジア地域の躍進は当然、欧米人のアジアに対する考え方を変えたと考えられます。極論すれば欧米人のアジア蔑視がアジアへの尊敬へと変わったと考えられるのです。

この世界の趨勢を説明するために、「経済力の拡大と善い意味でのアジア主義の薦め」という記事を3月10日 に掲載いたしました。
明治維新以来、「脱亜入欧」という言葉があるように日本はアジアから抜け出して、欧米と一緒になるという考えが根強くありました。
しかし広い視野で考えると日本はアジア文化圏の一国であることはまぎれも無い事実なのです。
従ってインド、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、台湾、韓国、そして中国などのアジア諸国と日本が友好関係を推進することが重要になります。日本の安全を守り、豊かな文化を育てるために重要なのです。
このような考え方を私は善い意味でのアジア主義と呼びたいと思います。

このアジア地域のGDPの急成長は主に中国とインドの経済成長によって支えられています。インドのGDP(国内総生産)は、金額は約6000億ドルでアジア地域では中国に次ぐ数値です。そして全世界では7位ですが、2050年頃には日本を抜いて、中国・アメリカに次ぎ世界第三位になるという試算もあります。

さて今日の私の主張は現在、多くの日本人が嫌っている中国と友好関係を築くべしという主張です。
中国とは日中戦争を続け満州国を作ったという歴史があります。その負の遺産のお陰で日中関係は一向に改善しません。
その上に中国は航空母艦を中心にした艦隊を編成し、太平洋を巡航させています。そして南沙諸島に軍事基地を作っています。これらは日本にとって脅威になっています。

しかし私の主張はこの軍事的対立を超越して日本はアジアの一員として中国とも友好関係を進めたほうが良いというものです。広い視野でアジア全体を視ればそのほうが将来の日本のためになるという考えかたです。
このアジア主義の理想論の実現には日米安保体制との折り合いが絶対的に必要です。
日本は中国の侵略の可能性に対して十分な軍事力を保持することをアメリカに充分納得して貰う必要があります。その一方で戦争予防として日中友好の重要性をアメリカに理解して貰う必要があります。

その上で日本がアジア文化圏の諸国とも友好を促進するのです。このアジア主義は将来の日本の文化をより一層豊かにするものと私は信じています。
いかがでしょうか?皆様のご意見を歓迎いたします。

今日の挿し絵代わりの写真は葛飾北斎の浮世絵です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






キリスト教の信仰とマティスとルオーの絵画の関係

2017年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、新橋のパナソニック汐留ミュージアムで開催中の『マティスとルオー展』を見てきました。
マティスとルオーは同じ師匠、ギュスターヴ・モローのもとで絵画を習った同門の友人でした。
二人は敬虔なクリスチャンであったと言います。
従ってキリスト教は彼等に深い影響を与えたと考えられます。特にルオーはステンドグラスの職人の父を持ち、数多くのキリストの姿を描いた絵画を残しました。彼を宗教画家と呼ぶ人が多いくらいです。
しかし彼等の信仰心はどうだったのでしょうか?その信仰心はマティスとルオーの絵画にどのような影響を与えたのでしょうか?
結論を先にか書けばマティスの場合は直接的には影響を与えなかったと言えます。一方、ルオーの場合は自分の信仰心を強めるために数多くの宗教画を描いたと考えられます。
宗教と芸術は別です。宗教に寄り掛かった絵画は芸術性がそがれると言います。今日はこの問題を考えてみます。マティスとルオーの二人を例にして考えてみます。

一見キリスト教的な絵画を多くは描かなかったマティスは晩年に礼拝堂の内装デザインをしました。
一方、ルオーはキリストの姿を描いた数多くの絵画を残しています。
従って彼等二人の心には時々キリスト教への想いが湧き上がっていたことは疑いがありません。
それではキリスト教の信仰とマティスとルオーの絵画の関係とはどのようなものだったのでしょうか?
人間の行為は全て神が司るという教条的な書き方にすれば、二人の絵は神に従って彼等の信仰心が描かせたことになります。しかしこの書き方はあまりにも抽象的過ぎて理解に苦しみます。

そこで次のように書けば納得しやすいのではないでしょうか?
マティスとルオーは絵画を描きながらイエスや神のことを思い出していたのです。そして疑いながら信じようとしていた自分の信仰心を励ますためにルオーはキリストの絵を幾枚も書いたのです。
一方、マティスはキリストの絵を描きません。しかし美しい絵を完成するたびに神が自分に与えてくれた絵の才能に感謝していた筈です。それがマティスの信仰心だったに違いありません。そのことは彼が晩年に礼拝堂の内装や祭服のデザインに情熱を捧げていることで推定出来ます。

明快に書けば、マティスとルオーの絵画は彼等の独創的な才能の産物であります。キリスト教と無理に結びつけるのは間違っているかも知れません。しかし彼等二人は時々イエスや神を信じようとしていたのです。彼等の信仰心が絵を描くことを支えたに違いありません。
彼の精神活動の中では絵を描くこと、イエスや神へ対する愛、そして妻や子供などに対する愛があったのです。
彼等が交換した手紙の翻訳を見ると政治や社会問題に関しては一切何も書いていません。絵を描くことのいろいろな問題と自分の病気のこと、そして家族のことしか書いてありません。

それでは何枚かの彼等の絵を見てみましょう。

1番目の写真の絵はマティスの傑作と言われている絵です。人間が手をつないで踊っています。人間賛歌のような絵に見えます。

2番目の写真はマティス作マグノリアの花の絵です。丁寧に描き込んだ静物の色彩が深い芸術性を感じさせます。キリスト教との関係はありません。

3番目の写真は晩年にマティスが作った礼拝堂の窓のステンドグラスの写真です。
彼は晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインや祭服のデザインに5年間の情熱を捧げます。この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と言われています。ですから宗教画をあまり描かなかったマティスの信仰心が晩年に作品として現れたのでしょう。

4番目の写真はルオーの描いたキリストの姿です。彼は同じような絵を何枚も描いています。彼の信仰心が描かせたのが数多くの宗教画です。

5番目の写真は日本にあるジョルジュ・ルオー記念館の礼拝堂の写真です。
山梨県の北杜市の清春芸術村に吉野画廊によって建てられた礼拝堂です。私の山の家の近くにあり、静かなたたずまいに惹かれて何度も訪れています。
入口の扉の上には、ルオーがエベール・ステヴァンのアトリエで制作したルオーステンドグラス「ブーケ(花束)」があります。祭壇背後のキリスト像(17世紀)は、ルオー自身が彩 色したものです。この像は、ルオーの次女イザベル・ルオーから贈られたものです。堂内の壁面 にはルオーの銅版画「ミセレーレ」が掲げられています。建築設計者は美術館と同じく谷口吉生氏です。

以上のような説明の通り、キリスト教はマティスとルオーの絵画の独創性そのものには何も影響を与えていないとも考えられます。
しかし他のクリスチャンと同様に疑いつつも信じようとしていた彼等の信仰心がキリストの絵や礼拝堂のステンドグラスを作ったのです。

宗教を信じている人の信仰心では、皆疑いつつも信じようとしているのです。最近、ご紹介した「沈黙ーサイレンスー」の映画監督のスコセッシ監督も熱心なカトリック信者です。彼も「私は疑いつつも信じようとしています」と明記しています。彼は自分の信仰を強めるためにもこの映画に何年もの情熱を注いだに違いありません。

同様なことは仏教を信じている人々の心の中に見え隠れする心象風景です。

さて上記ではマティスとルオーの絵画に対する私の感想を書きませんでしたので追記したいと存じます。
マティスの絵画は色彩が豊かで装飾的でもありますが、優しさがあります。芸術性もあります。明るく洗練された美しさです。私自身はルオーの宗教画より好きです。
ルオーの絵はステンドグラスの模様のように輪郭線が太く情熱を感じさせます。しかし何故か土俗的な雰囲気があります。民族芸術がお好きな方は感動するでしょうが、私の好みではありません。
しかし何故か日本人はルオーの絵が好きらしく彼の絵が日本に沢山あります。
例えばパナソニック東京汐留美術館は別名、ルオー美術館と称するようにルオーの絵を多数所有しています。
また山梨県の北杜市の清春美術館にはルオーの宗教画が数十枚あります。
何故、日本人がルオーの宗教画が好きなのか私には理解出来ません。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「今日の日記、都心まで車で行って『マティスとルオー展』を見てきました」

2017年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりに首都高に入り霞が関で出て、新橋のパナソニック汐留ミュージアムで開催中の『マティスとルオー展』を見てきました。
2人の絵画が想像以上に数多く集めて展示してあり良かったです。

特に2人の若い頃の絵画はよく似ています。それが年齢と共にマティスは装飾的な芸術になり、一方のルオーは宗教的な油彩画を描くようになっていきます。
2人は親友同士て、交換した多くの手紙も展示してあります。

ヒットラー軍がパリを占領した時期の手紙には、戦争のことが一切書いてありません。絵を描くときの話題と自分達の病気のことしか書いてありません。
今回の企画の重要な部分はマティスが最後に作ったフランスのヴァンス礼拝堂の美しいステンドグラスの上映にあります。
それはマティス芸術の最後の集大成のようなものです。大型スクリーンの映像は美しいものでした。

原田マハ著「ジヴェルニーの食卓」の中の「うつくしい墓」を読んで晩年のマティスの切り絵に興味を持っていた家内は大喜びでした。

全体的にこの展覧会は見るべき価値が大いにあると思いました。
尚、会場のパナソニック東京汐留ビルの地下2階には有料駐車場があり車で行くと便利です。


『マティスとルオー展』
2017年1月14日(土)~3月26日(日)
開館時間
午前10時より午後6時まで(ご入館は午後5時30分まで)
休館日
1月18日、25日/ 2月1日、8日、15日
入館料
一般:1,000円 65歳以上:900円 大学生:700円 
中・高校生:500円 小学生以下:無料
主催
パナソニック 汐留ミュージアム、産経新聞社 









経済力の拡大と善い意味でのアジア主義の薦め

2017年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の将来の安全と平和は日米安保体制の堅持が重要なことは多くの人が認めています。したがって日本人の関心はアメリカに集中しがちです。そしてヨーロッパのイギリス、フランス、ドイツとの交流が重要だとも考えられています。
明治維新以来、「脱亜入欧」という言葉があるように日本はアジアから抜け出して、欧米と一緒になるという考えが根強くありました。
しかし広い視野で考えると日本はアジア文化圏の一国であることはまぎれも無い事実なのです。
今日の主張はインド、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、台湾、韓国、そして中国などのアジア諸国と友好関係を推進することが重要だという主張です。日本の安全と豊かな文化のために重要だという主張なのです。
このような考え方を私は善い意味でのアジア主義と呼びたいと思います。

このアジア地域の注目すべきことは経済の急成長ぶりです。
是非、1番目の写真の図面をよくご覧下さい。
1番目の写真は世界の地域別GDPの変化を示す図面です。出展は、http://www.my-adviser.jp/new_contents/column2009/j_ooyama_c200912.html です。

この図面はアジア・オセアニア地域の2009年までのGDPの成長ぶりを示しています。
2009年にはアジア地域のGDPはEUやアメリカのGDPに追いつき、現在は追い抜いていると考えられます。
アジア・オセアニア地域のGDPは急成長しているので2020年や2030年頃には群を抜いて世界一になることは間違いありません。
このアジア地域のGDPの成長は主に中国とインドの経済成長によって支えられています。インドのGDP(国内総生産)は、金額は約6000億ドルでアジア地域では中国に次ぐ数値です。そして全世界では7位ですが、2050年頃には日本を抜いて、中国・アメリカに次ぎ世界第三位になるという試算もあります。

そこで今日は日本とインドの交流を概観したいと思います。
インドでは紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えたことは学校で習います。そして現在のインドは南アジアで一番大きな面積を有し、人口も多く、世界2位の12億人を超える人口を持っています。
このインドと日本の交流は仏教伝来から始まりました。その頃インドのことは天竺と呼れていました。
東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那はインド人でが中国を経由して渡来したと言われています。
第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成しました。そして、日本軍とともにインパール作戦に参加しました。
チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいいました。
ラース・ビハーリー・ボースの名前は、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。

そして日本の敗戦です。戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、インドなどはマッカーサーの指揮のもとで日本の戦争犯罪者を裁くために1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)を始めたのです。
東条英機などの戦争指導者を死刑にしたり終身刑にしたのが東京裁判です。
この裁判で、インド代表の裁判官のパール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年 - 1957年)だけが日本人被告全員が無罪だと主張したのです。

2番目の写真は戦後の東京裁判でただ一人日本の無罪を主張したインドのパール判事の写真です。
(写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89 です。)
「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張しました。
そして、インドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席し、1952年4月に日本とインドの間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結されたのです。

このようにインドは親日国なのです。
広島の原爆記念日である毎年8月6日にはインドの国会は黙祷を捧げているそうです。
そして昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したのです。
このようにインドは極めて親日的な国家なのです。

2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行いました。
最近の2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結されました。
日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣、2005年に小泉純一郎総理大臣、、2006年に麻生太郎外務大臣、2006年に谷垣禎一財務大臣、2007年に菅義偉総務大臣、2007年8月に安倍晋三総理大臣、2009年鳩山由紀夫総理大臣がそれぞれ訪問しています。
そして 2011年8月1日には日本・インド経済連携協定が発効しました。
また2012年4月には日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施されたのです。
2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれました。 日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」も発表さらました。
安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討が合意され、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化が決定したのです。

さて皆様、ここに書いたような日本政府の最近のインド政府との交流や2国間のいろいろな協定のことをご存知でしたでしょうか?
きっとアメリカのトランプ大統領の騒ぎで注目されなかったと存じます。その上、日本のマスコミはアジアの案件には関心が無く、報道も大きくはされません。しかし新聞の国際面の下の方に上記のような首相の訪問や協定は必ず小さく掲載されています。

日本人の欧米中心主義や明治維新以来の「脱亜入欧」の思想が影響しているとしたら、これほど悲しいことはありません。
アジア諸国との友好促進は日本に経済的な恩恵をもたらすだけでなく、日本の将来の精神文化をより豊かにするものと確信しています。
日本人はもっと、もっとアジアの諸国に関心を持ち友好関係を作るのが良いのではないでしょうか。

挿し絵代わりにインドの写真を示します。
3番目の写真は夕暮れのガンジス河の風景です。
4番目の写真はIT企業の集まるバンガロール市の中心街の風景写真です。
5番目の写真はタージ・マハルです。
6番目の写真はアクシャルダム寺院(ヒンドゥー教)の写真です。
7番目の写真はナーランダ僧院跡です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









花咲く小道を歩みながら人間の心の貧しさを想う

2017年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム





昨日、足もとに花々の咲いている小道をゆっくり歩きました。
小さな花の一つ一つを見ると可憐で、ホッとするような清純さです。一つ一つが美しいのですが、小道の両側にびっしりと植えてある姿も美しいものです。
こんな楽しい小道を歩きながら何故か人間の心の貧しさ想います。
それは数か月、書こうか書くまいかと逡巡していたことです。
私はよく西洋の絵画を讃えたり欧米の科学や技術の独創性を褒めた記事を何度も書きます。すると毎回のようにその記事を非難するコメントが投稿されて来ます。
そのコメントの内容が判で押したように同じなのです。「南米の原住民を殺戮し植民地にした西洋人を讃えるのは間違っている!」とか「北米の原住民を殺しアメリカ合衆国を作ったイギリス人達を許せない!」
こういうコメントは私の記事の内容とは関係がありません。しかし欧米の文化を褒め讃えた記事の内容に狭量で感情的な反発を感じたのです。このようなコメントを貰うと悲しくなります。投稿する人の心の貧しさが悲しいのです。
私は常に考えています。もし日本人も鉄砲や大砲を持っていたら、同じことをしたに違いないと信じています。
ポルトガル人やスペイン人やオランダ人やイギリス人は、他の国々に先駆けて大型帆船で大洋を航海することに成功したのです。その上、彼等は鉄砲や大砲を持っていたのです。近代的な武器を持っていない原住民を征服し、植民地にすることは容易なことですた。
もし日本人が大型帆船による大洋航海術と鉄砲や大砲を持っていたなら西洋人と同じことをしたに違いありません。
どうして、そのように考えないのでしょうか?何故、そのように思い付かないのでしょうか?あまりにも狭量です。我田引水的です。
そのように考える人の心は貧しいのです。

もう一つ書かせて下さい。映画、「沈黙ーサイレンス」の感想を書きました。この映画にはイエス・キリストの人間に対する愛が溢れるように描いてありますと書きました。そうしたら次のような私の感想文とは関係の無いコメントが来るのです。
「秀吉や徳川幕府が禁教をしたのはスペインが日本を植民地にしようとしていたからです。従って禁教政策は良いことです!」
このようなコメントは何度も貰います。
しかしスペインは武装した艦隊をフィリピンや厦門に待機させ日本征服の準備をしていたという客観的記録は皆無なのです。
勿論、スペイン本国にいる国王や政治家たちは日本も植民地にしたいと思っていたに違いありません。
しかし、キリシタン弾圧の激しい日本へ潜入したロドリゴ神父と彼を取り囲む信者たちの愛の絆を描いたのがこの映画なのです。ロドリゴの顔や村人の顔が美しく輝いています。ロドリゴと信者たちが愛の絆で結ばれているのです。これが映画、「沈黙ーサイレンス」に描かれているのです。それが分からない人がいるのです。
ロドリゴと本国にいる政治家の違いが分からない人がいるのです。

私が寒々し気分になるのは「禁教は正しかったという主張は、先の太平洋戦争で日本は正しかった!」という歴史観と同じだからです。こういう歴史観は我田引水的な歴史観でなんら客観的姿勢が無いのです。歴史には客観性は無いのが本質ですが、客観的姿勢こそが建設的な結果を生むのです。

花々が無心に咲いている小道を歩みながら人間の心の貧しさを考えていました。
かたわらを歩いている妻は何も考えていないようです。あるいは毎週一回作る孫一家の今夜の夕食の料理のことでも考えているようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







「早咲きの白いモクレンの花の写真をお送りいたします」

2017年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、この時期になるとモクレンの花々を集めた京王フローラル・ガーデンの白いモクレンが咲き出します。
今日は青空の広がった暖かい春らしい日和でした。午前中から写真を撮りに行きましたところ、3本のモクレンの木が咲いていました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。