後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水力発電が重要だった時代の懐かしい風景を撮りに行く

2018年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前、戦後の日本では水力発電が非常に重要でした。家々には電燈とラジオしか無かったので発電量の少ない水力発電で充分だったのです。
そして1963年に黒部ダム発電所が完成し33万キロワットの発電量を誇ったのです。
黒部ダム発電所は産業に必要な電力も供給し始めたのです。日本の経済の高度成長が始まりでした。
当時は水力発電は日本の救世主だったのです。ですから黒部ダム建設は小説や映画になったのです。
しかし現在の日本の電力需要は1000万キロワット以上の膨大なものになってしまったのです。
それにつれて発電方法は電力供給量の小さい水力から火力発電と原子力発電に変わってしまいました。
現在の日本では水力発電所は忘れ去った存在になってしまったのです。
山々の斜面にある水路とその下の発電所を訪れる人は誰もいなくなりました。

昔、仙台で中学生だった私は先生に引率されて三居沢水力発電所を見学に行った懐かしい思い出があります。
仙台の三居沢水力発電所は1888年、明治21年に日本で一番初めに始まった水力発電所だったのです。

その後いろいろな発電所を訪ね歩きましたが、一番近く、何度も行ったのは山梨県上野原市にある八ツ沢発電所です。明治45年に出来、当時は東洋一の発電量を誇っていたのです。
そんな想い出もあったので私は水力発電にはロマンを感じます。
そして懐かしさのあまり発電所の写真を撮りに行きます。まあ、はっきり言えば老人の懐古趣味です。

今日は先週の土曜日に行った山梨県の八ツ沢発電所の風景写真をご紹介したいと思います。

1番目の写真は八ツ沢発電所の全体の風景です。
数年前までは発電していましたが現在は廃墟になっています。廃墟ですが国の重要文化財として保存されています。気が付いてみると、以前あった発電所の歴史を書いた説明板が無くなっています。そこには明治45年にフランスから発電機を買って据え付けた技師たちの努力と苦労の様子が抒情的に書いてあったのです。昨日みた発電所には人影が無く、周囲を高い金網で囲った巨大な廃墟になっていたのです。フランスから発電機を買ってきた技師たちも忽然と消えてしまったのです。私の胸には悲しい思いが湧き上がってきました。

2番目の写真は巨大な鉄管の様子です。全長80m余の巨大な鉄管の中を水を落とすのです。発電に用いる水は富士五湖の山中湖から流れる桂川の水です。

3番目の写真は八ツ沢発電所から流れ出た多量の排水が注いでいた桂川の風景写真です。
考えてみると、たった42000KWしか発電しない巨大な水力発電所を動かすのは、いくら何でも無駄なのでしょう。この発電所の所有は 東京電力です。東京電力には時代遅れの八ツ沢発電所などにかまっていられないのです。

4番目の写真はこの桂川がすぐに注いでいる相模湖の上流端の風景です。

5番の写真も相模湖の上流端の風景ですが静かな上野原市郊外の山里が背景に写っているのでもう一枚示しました。

6番目の写真は八ツ沢発電所の石積みの取水口施設です。写真の出典は、http://www.suiryoku.com/gallery/yamanasi/yatuzawa/yatuzawa.html です。
この発電所は14Kmの水路と貯水池も含めた施設群を一括して国の重要文化財に指定されているのです。国の重要文化財において最大の規模です。

7番目の写真はこの八ツ沢発電所へ水を供給する大野ダム貯水池の風景です。
この貯水池の岸辺には桜が植えてあり春に何度も訪れた懐かしい場所です。
これらの全ての施設は明治期の土木工学と電気工学の遺産として平成17年に、国の重要文化財に指定されたのです。
しかし数年前まで発電機が100年余も回っていたのにそれも停止して、現在は廃墟のような光景になっています。

時代は流れ、万物流転なのでしょうか。淋しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===================
(1)八ツ沢発電所の歴史
平成17年、国の重要文化財に指定。
所有:東京電燈-日本発送電-東京電力[現在]
明治45(1912)年7月:運用開始(水車2台)
大正 3(1914)年:設備改修(水車6台、35000kW)、大野調整池運用開始
昭和38(1963)年11月~昭和39(1964)年:設備改修(水車4台、42000kW)
国の重要文化財(建造物)、登録番号:02475(重要文化財)、名称:八ツ沢発電所施設(大野調整池堰堤/大野調整池制水門/大野調整池余水路)、年代:大正3年(1914)
http://www.suiryoku.com/gallery/yamanasi/yatuzawa/yatuzawa.html

(2)大野調整池堰堤や取水口施設、隧道、水路橋の説明
八ツ沢発電所は、相模川水系の桂川の水を利用した、日本で初めての大規模な調整池式発電所で、当社の前身である東京電灯株式会社が建設したものです。建設当時は、水力発電所として東洋一の規模を誇り、明治45年に営業運転を開始して以来、約1世紀近くが経過した現在も稼動しております。
 この発電所は、川の上流に小さな堤(取水口)をつくって水を取り入れ、長い水路で落差が得られるところまで水を導き、そこから下流に落ちる力で発電する方法(水路式)を採用しています。
 今回、重要文化財に指定されたものは、取水口施設、隧道、水路橋(谷間などに水路を渡すための橋)、調整池をはじめとする合計20箇所の発電所関連施設と土地で、約14kmの範囲におよび、わが国の重要文化財の中で最大規模となります。
 重要文化財の指定にあたっては、明治後期の水力発電所建設の黎明期における大規模な水力発電所関連施設が水系全体として残っていることに加え、当時の鉄筋コンクリート構造の水路橋としては国内最大級の径間(橋脚の間隔)を実現した第1号水路橋や、ダムの高さとしては国内最大であった大野調整池堰堤など、複数の構造物に高度な土木建設技術が発揮されていることなどが評価されました。

(3)『全長14km、取水口から八ツ沢発電所までの水の旅』 http://portal.nifty.com/2008/02/07/c/
 山梨県の東部にある大月市には、たくさんの水力発電所が存在する。 特に桂川(相模川水系)沿いに多く、 付近に行けば水力発電所のパイプをよく目にすることができる。
そんな水力発電所の一つ、 八ツ沢発電所は明治45年に営業を開始したとても古い発電所。 当時の最先端技術と人海戦術によって作られたその導水路は、 優れた産業遺産として国の重要文化財にも指定されている。
あと数年で営業開始100周年。 そんな歴史ある八ツ沢発電所の導水路を、取水口からたどってみた。(木村 岳人)

シベリアから冬鳥が飛んで来て水仙が咲き始める

2018年12月10日 | 写真
小さな公園の池にも冬鳥が飛んで来ました。多分シベリアからはるばる飛んで来たのでしょう。
池の畔の陽当たりの良い場所には例年のように水仙が咲き出しました。
今日は一番寒い日で、北海道のある所ではマイナス21度になったそうです。
午後に東京都清瀬市の金山緑地を少し散歩しながらゆっくり写真を撮ってきました。
写真をご覧になって季節の移ろいの早さを感じて頂けたら嬉しく存じます。









孤高の俳人、飯田蛇笏と芥川龍之介の評価

2018年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は学校で芭蕉や一茶の俳句を習います。芭蕉の句を幾つも暗唱している人もいます。
俳句とはそれだけのご縁という人も多いようです。私もその部類でした。
しかし飯田蛇笏の句を読んだ後は考えが変わりました。毎日の新聞に出ている俳句を真剣に読むようになりました。 82歳になって俳句が少し分かったのです。まったく恥ずかしいですね。

山梨県の県立美術館や文学館には何度も行きました。甲斐駒岳の麓の山林の中の自分の小屋に通う道の途中なので度々立寄ったのです。美術館でミレーの絵画を沢山見た後で同じ敷地内のの文学館にも寄ったのです。
すると山梨県を代表する文人として俳人の飯田 蛇笏の直筆の俳句や句集や、 蛇笏関連の数多くの写真が広い部屋に展示してあるのです。
そうして飯田蛇笏を格調の高い俳句を作った孤高の俳人だったと紹介してあったのです。
俳句など作ったことの無い私は飯田蛇笏のことを知りませんでした。愚かでした。
最近偶然にも芥川龍之介が飯田蛇笏を賛えている文章を読んだのです。
そこで蛇笏の句を幾つか読みました。成程、穏やかな美しい俳句なのです。穏やかな中にも人生の深さが暗示してあります。そして読む人の心を高いところへ連れて行くのです。

今日は飯田蛇笏の俳句をご紹介します。そして芥川龍之介の蛇笏の俳句を讃えた短い文章も示したいと思います。
飯田 蛇笏(いいだ だこつ)は1885年(明治18年)に生まれ 1962年(昭和37年)に亡くなりました。享年77歳でした。どちらを向ても山ばかりの甲斐の国で孤高の暮らしをしていました。
そして俳句を作り、大正時代における俳句の雑誌、「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した俳人です。俳誌「キララ」後の「雲母」を主宰します。
蛇笏は山梨県の笛吹市境川町小黒坂の旧家に生れました。
1898年(明治31年)には山梨県尋常中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、後に早稲田大学に入学します。
詳しい経歴や活躍の様子は、https://ja.wikipedia.org/wiki/飯田蛇笏 に書いてありますのでご覧下さい。

飯田蛇笏が詠んだ冬の俳句
●浪々のふるさとみちも初冬かな   (ろうろうの ふるさとみちも しょとうかな)
●炉をひらく火のひえびえともえにけり(ろをひらく ひのひえびえと もえにけり)
●写真師の生活ひそかに花八つ手   (しゃしんしの たつきひそかに はなやつで)
●桃青忌夜は人の香のうすれけり   (とうせいき よはひとのかの うすれけり)
●ふぐ食うてわかるゝ人の孤影かな  (ふぐくうて わかるるひとの こえいかな)
●風邪の児の餅のごとくに頬ゆたか  (かぜのこの もちのごとくに ほおゆたか)
●山国の虚空日わたる冬至かな    (やまぐちの こくうひわたる とうじかな)
●市人にまじりあるきぬ暦売     (いちびとに まじりあるきぬ こよみうり)
●大つぶの寒卵おく襤褸の上     (おおつぶの かんたまごおく ぼろのうえ)
●手どりたる寒の大鯉光さす     (てどりたる かんのおおごい ひかりさす)

以上の10句の出典は、https://cazag.com/1892 です。
続けて春、夏、秋の俳句も示します。

春の俳句
●川波の手がひらひらと寒明くる   (かわなみの てがひらひらと かんあくる)
●古妻や針の供養の子沢山      (ふるつまや はりのくようの こだくさん)
●春めきてものの果てなる空の色   (はるめきて もののはてなる そらのいろ)
●彼岸会の故山ふかまるところかな  (ひがんえの こざんふかまる ところかな)
●花弁の肉やはらかに落椿      (はなびらの にくやわらかに おちつばき)
●つみためて臼尻に撰るよもぎかな  (つみためて うすじりにえる よもぎかな)
●月に鳴く山家のかけろ別れ霜    (つきになく やまがのかけろ わかれじも)
●ぬぎ捨てし人の温みや花衣     (ぬぎすてて ひとぬくみや はなごろも)
●わらべらに天かがやきて花衣    (わらべらに てんかがやきて はなごろも)
●花薊露珊々と葉をのべぬ      (はなあざみ つゆさんさんと はをのべぬ)


夏の俳句
●滝おもて雲おし移る立夏かな    (たきおもて くもおしうつる りっかかな)
●白牡丹顎をあらはにくづれけり   (はくぼたん がくをあらわに くずれけり)
●五胡のみちゆくゆく余夏の曇りけり (ごこのみち ゆくゆくよかの くもりけり)
●やまみづの珠なす蕗の葉裏かな   (やまみずの たまなすふきの はうらかな)
●野いばらの青むとみしや花つぼみ  (のいばらの あおむとみしや はなつぼみ)
●大南風くらつて尾根の鴉かな    (おおみなみ くらっておねの からすかな)
●夜にかけて卯の花曇る旅もどり   (よにかけて うのはなくもる たびもどり)
●大串に山女のしづくなほ滴るる   (おおぐしに やまめのしずく なおたれる)
●白衣着て禰宜にもなるや夏至の杣  (はくいきて ねぎにもなるや げしのそま)
●じだらくに住みて屋後に立葵    (じだらくに すみておくごに たちあおい)

秋の俳句
●秋立つや川瀬にまじる川の音    (あきたつや かわせにまじる かわのおと)
●落日に蹴あへる鶏や鳳仙花     (らくじつに けあえるとりや ほうせんか)
●をりとりてはらりとおもきすすきかな(おりとりて はらりとおもき すすきかな)
●桔梗やまた雨かへす峠口      (きちこうや またあめかえす とうげぐち)
●竜胆を見る眼かへすや露の中    (りんどうを みるめかえすや つゆのなか)
●刈るほどにやまかぜのたつ晩稲かな (かるほどに やまかぜのたつ おくてかな)
●山柿の一葉もとめず雲の中     (やまがきの ひとはもとめず くものなか)
●無花果を手籠に湖をわたりけり   (いちじくを てかごにうみを わたりけり)
●濡れそむる蔓一すぢや鴉瓜     (ぬれそむる つるひとすじや からすうり)
●白菊のあしたゆふべに古色あり   (しらぎくの あしたゆうべに こしょくあり)

これらの飯田蛇笏の俳句に対して芥川龍之介はどのような感想を持っでしょうか?
以下に彼の感想文を紹介します。
出典は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43362_26111.html よりの抜粋です。

   『飯田蛇笏』  芥川龍之
 或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻しきりに蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
 丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。
爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
 その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども作った。
 当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透すかさず「君と雖いえどもついに蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。
 しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。
或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。
 爾来更に何年かを閲けみした今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。
春雨の中や雪おく甲斐の山
 これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。
おらが家の花も咲いたる番茶かな
 先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。(終り)

さて格調の高い俳句とはどういうものでしょうか?愚見を申せば次のような俳句だと思います。
1、詩的な美を感じさせる句であること。
2、季語がさり気なく読み込まれ、自然の季節を示し、そして詠まれた情景が眼前に見えること。
3、俳句の内容が読む人の心を俗世間から離れさせ、ある高いところへ連れていってくれること。
4、俳句の内容の一部が心象風景を暗示していて高い精神性を感じさせること。

例えば、次の句はススキの原の情景が眼前に見えます。つい手を伸ばしてその一本を折って手に取ってみたら意外に重かったのです。軽そうに見えるものが重いのという精神のありかたを詠っているようです。
●をりとりてはらりとおもきすすきかな(おりとりて はらりとおもき すすきかな)
そして・・・はらりとおもき・・・は何と詩的で美しい表現ではないでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は飯田蛇笏が住んでいた笛吹市の境川から見える山々の写真です。私が撮りました。
写真は南アルプスの主峰、農鳥、間ノ岳、北岳や鳳凰三山と甲斐駒ケ岳などの写真です。
最後の写真は八ヶ岳の写真です。
3番目の写真は鳳凰三山で右から順に地蔵岳、観音岳、薬師岳です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










欧米のクリスマスはお正月のように家族で過ごす楽しい祝い日

2018年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は待降節第二の主日です。間もなくクリスマスです。
欧米ではクリスマスは、日本のお正月のようなものです。実家に家族が集まって、プレゼントの交換をし、美味しいものを食べて楽しく過ごします。街の店々やレストランは一斉に休みますので、家族のいない人や旅行者はとても淋しい思いをします。
クリスマス前の時期には街角にクリスマス市がたって大変賑やかになります。その店々は夜も賑わい、子供達の可愛い声がしています。
ですからクリスマスという言葉を聞くと欧米人は家族との楽しい日々を思い出して幸せな気分になります。
その様子を示す写真をお送りします。

1番目の写真はドイツのフランクフルトの『クリスマスマルクト(Weihnachtsmarkt)』です。写真の出典は、http://urarande.blog.fc2.com/blog-entry-62.html です。

2番目の写真は同じくフランクフルトの夜のレーマー広場です。カップルと家族連れで賑わっています。
このクリスマスマーケット(バイナハトマルクト)は「クリスマスを迎えるための市場」です。だから、クリスマス関連の物、例えばツリーの飾り、 部屋の飾り、リース、キャンドル、子供達のオモチャなどが沢山並んでいます。そしてソーセージを挟んだ丸いパンやワインも売っています。子供の乗り物のメーリーゴランドも音楽を奏でながら回っています。子供にとっては楽しい、楽しい思い出が出来る場所なのです。

3番目の写真は私どもの教会のクリスマスの飾り物です。生まれたばかりの赤子のイエス様を人々や羊が覗き込んでいる場面です。
このような飾りは家々にもしますが、教会の祭壇脇にも飾ります。

4番目の写真は教会の祭壇に飾った4本のローソクの写真です。待降節の4回の主日に一本ずつ火を点けて行きます。この写真では、第一の主日の時の一本のローソクに火が点してあります。
今日は待降節第二の主日なので2本のローソクに火が点きます。

5番目の写真は昨年のクリスマスのミサ風景です。
欧米では家族全員で24日クリスマス・イヴの夕食をとってから揃って夜のミサへ行く場合もあります。あるいは25日の昼間のクリスマスのミサに行く場合もあります。
私共のカトリック小金井教会では24日は夜の6時と8時に主の降誕のミサがあります。
そして25日(月)は早朝の主の降誕のミサが6:30 時にあり、日中の主の降誕のミサは14:00 時にあります。

クリスマスのミサでは一般の方々も歓迎します。是非一度見にいらっしゃって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

春に咲く日本サクラソウと冬に咲かせる西洋サクラソウ

2018年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の花々に対する美意識が近年とても変わって来たと思います。
日本古来の楚々とした花々よりも華麗な西洋の花々の方が美しいと思う人が圧倒的に多くなってきました。
その上、自然では春に咲く花を品種改良して冬に咲かせたりするのです。
年老いた私はそんな風潮に馴染めません。しかしその一方で、冬に咲かせている花や、温室で華麗に咲く花々もやはり美しいと思い買って来ます。少し心の中に矛盾があるのです。

今日は実例として春に咲く日本サクラソウと冬に咲かせる西洋サクラソウをご紹介したいと思います。
数年前に可憐な日本サクラソウに魅了され埼玉県の自生地の「田島ヶ原」へ毎年、足を運んだ時代がありました。4月になるとまだ花が咲いていないかと何度も通ったものです。

1番目の写真は2008年の4月に田島ヶ原で撮った日本サクラソウの写真です。ここは江戸時代から有名な自生地なのです。

2番目の写真は田島ヶ原でサクラソウが密生している場所を探して撮った写真です。
広い草原に細い歩道がめぐらせたあります。その歩道を春風に吹かれながら歩いて行くと青草の間に小さなサクラソウが控えめに咲いています。
しみじみ美しいと思います。
そんな頃の冬に何気なく隣町の石塚園芸店を訪問しました。
しかしニホンサクラソウは売っていなと言います。
その代わり西洋サクラソウの花が広い温室いっぱいに咲いていたのです。冬にもかかわらず咲いているのです。
石塚園芸へ何度も行っているうちにご主人の石塚健壽さんとは親しくなりました。
彼はいろいろな意味で感動的な花の栽培家だったのです。精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
そして新種の西洋サクラソウをオランダの新種の花の祭典、フロリアード2012へ出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。

3番目の写真は2012年に特別賞受賞の湖畔の夢です。帰りがけに石塚さんが私に一鉢下さいました。

4番目の写真は石塚園芸の温室内に咲いている西洋サクラソウ(プリムラ)です。交配して作った白い花も見えます。

5番目の写真も石塚園芸の温室内に咲いている西洋サクラソウです。このような温室が3棟あります。そして春に種を植え、大切に育てて12月の末から1月いっぱい花が咲くのです。
3棟ある温室はシクラメンの栽培とサクラソウの栽培の季節が違うので使いわけるそうです。

石塚健壽さんにニホンサクラソウは何故売っていないのですかと聞きました。
日本サクラソウも美しいと思いますよ。しかし圧倒的に多くの人が西洋サクラソウの方が綺麗だと思っているようですよ。とにかく売れるのです。こんなに一杯ある西洋サクラソウが1月になるとアッと言う間に売れてしまうのです。その花を囲んだ家族の笑顔を想像するとこの商売が止められないのです。こんなことを言っていました。

冬は野山には花はありません。淋しい季節です。しかしさまざまな色も鮮やかなシクラメンや西洋サクラソウが豊かに咲いています。パンジーやビオラやポインセチア、そしていささか高価ですがいろいろな熱帯のランの花も売っています。
冬になっても花屋さんの店先には美しい花々が溢れています。今日も花屋さんの店先を観賞しに行こうと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
(1)ニホンサクラソウの栽培の歴史、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%82%A6
江戸時代の中ごろから、荒川の原野に野生するサクラソウから本格的な栽培が始まり、種子まきを繰り返すうちに、白、桃、紅、紫、絞りなどの色変わりや、大小さまざまな花形の変わり品が生まれ、名称が付けられた。やがて江戸時代後半になると品種数も非常に増え、文化元年(1804年)から新花を持ち寄り品評することが始まった。栽培者は旗本や御家人など武士階級が多く、「連(れん)」と呼ばれる2~3のグループが成立し、新品種の作出を競い合った。文化から天保(1804年~1844年)にかけてがもっとも盛んな時代であった。熱心な女性の愛好家もいて、寒天を流し固めた重箱に一品種ずつ挿し並べて鑑賞したという文献もある。幕末には各地に広まり、文久2年(1866年)にはサクラソウとしては現存最古の番付が発行されている。現在栽培される約300品種のうち、その半数が江戸時代から株分けで伝えられたもので、その花は多様な花型と繊細な花色が特徴で、他の多くの日本の伝統的な園芸植物と共通している。品種ごとに鉢植えで育て、花時には「花壇」と呼ばれる屋根付きの五段構造の展示台に配色よく飾る。鉢は「孫半土(まごはんど)」という、本来食品容器として作られた瀬戸焼の陶器が使われた。これはサクラソウのデリケートな花色をよく引き立てる。
愛好者層が武士中心であったので、明治維新前後には衰退の危機にも見舞われたが、やがて愛好者も増え、新花の作出も再び盛んになった。この頃に生まれた名花にも今に伝えられているものがある。やがて太平洋戦争により、サクラソウの栽培も下火になったが、戦後次第に復興し、昭和31年(1956年)に愛好者のグループである「さくらそう会」が発足、関西にも「浪華さくらそう会」が生まれた。この他全国各地に愛好会ができ、今に続いている。

埼玉県さいたま市桜区の「田島ヶ原サクラソウ自生地」は国の特別天然記念物に指定されている貴重な群落である(桜区の区名も桜ではなくサクラソウに因んで命名されている)。荒川流域のこの一帯は、下流の戸田ヶ原、浮間ヶ原などとともに、江戸時代からサクラソウの名勝地として人々に親しまれてきた。しかし、度重なる治水工事や工場の開発などによって、原野の植生が変わり、サクラソウの群落も範囲を狭められていった。この群落を守るため、大正9年(1920年)に天然記念物に、昭和25年(1950年)に特別天然記念物に指定された。

(2)プリムラ・マラコイデス(西洋サクラソウ)
http://www.yasashi.info/hu_00008.htm
中国雲南省、四川省に分布するサクラソウの仲間です。本来毎年咲く多年草ですが、高温多湿に弱く花後に枯れてしまうことが多いため、園芸では一年草として扱うことが多いです。秋にタネをまいて翌春の花を楽しむのが一般的です。日本へはヨーロッパ経由で明治末に渡来しました。葉や茎に白い粉が付くので、ケジョウザクラ(化粧桜)の和名があります。
野生種は草丈20cm~50cm、主な開花期は早春~春です。花茎を長く伸ばして段状にたくさんの花を付けます。花茎は3cm~5cm、色はピンク、淡紫、白などがあります。多くの園芸品種があり、草丈、花の色や大きさなどは様々です。サクラソウの名前で苗が流通することも多いですが、従来のサクラソウ(日本サクラソウ)とは別種の植物です。
20世紀前半にイギリスを中心に品種改良が行われた。

日本の立場を強くする世界2位の中国の経済力

2018年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
楽しい記事を書く。これが私のモットーです。
今日の題目は理屈っぽいので、それはさておいて楽しい中国の奥地の農村の風景写真をまずお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しいです。







これら4枚の写真の出典は、「中国の農村風景」、
http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2018-03/13/content_50703606.htm です。
 中国の南西部の少数民族の農村には昔ながらの美しい風景が広がっているのです。魅惑的な農村風景です。
見たこともない風景ですが郷愁を誘います。歴史の重みを感じさせる農村です。

さて話は変わって今日の主張を簡潔に述べます。
それは日本と中国、韓国、台湾そして可能なら北朝鮮はもっと協力しあって欧米諸国と対抗した方が良いという主張です。昔ながらの漢字文化圏の団結を忘れてはいけないという主張です。
まあ、はっきり言えば時代遅れな考えです。
しかしこの時代遅れの主張をする理由があるのです。それは中国の経済力、GDPが世界で2位になり、やがてアメリカを抜いてトップの座につこうとしているからです。
日本と中国、韓国、台湾のGDPを合計すれば大きな数字になります。ですからこれらの国が団結すれば大きな発言力になるのです。日本の過去の武力侵略の歴史を克服して協力関係を築くべきなのです。

5番目の写真は世界の主要国のGDPの1980年から2021年の推移を示す図面です。この図を見ると中国のGDPの増加は驚異的で、2025年には間違いなくアメリカを抜いて世界一になる勢いです。従来、アメリカのGDPを抜いた国は皆無だったのです。これは破天荒なことです。この図の出典は,各国のGDP、http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html です。
今後、中国はアメリカと並んで世界経済の秩序の規範を決めるようになると考えられています。
アジアの一国である中国が世界秩序の主導権の一角を握るのです。
これはアジアの国々にとって喜ばしいことです。日本もその対応を適正に行えば日本の運命も非常に素晴らしいものになるのです。日本の立場が強くなるのです。
日本はアメリカと安保同盟を結び、軍事的にはアメリカの支援があれば日本の安全を守れます。中国なんか怖くありません。ですから日本人は中国の経済力を過小評価する傾向があります。
しかし経済力は軍事力の支えなのです。その意味でも中国の経済力とその中国が作ろうとしている巨大経済圏のことを客観的に理解すべきと考えています。

世界全体のGDPに占める各国の2017年の比率を考えてみましょう。
中国の15.5%と日本の6.4%とインドの3.1%とを加算すると25、0%になります。この数字はアメリカの24、4%よりも多いのです。
この中国、日本、インドの合計の25%に韓国と台湾のGDP加えればアメリカのGDPを遥かに抜いてしまうのです。
さらにインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、ミャンマー、バングラデシュなどのDGPを加えればアジアには巨大な経済圏が既に出来ているのです。
21世紀はまさにアジアが台頭する時代なのです。
ですからこそ世界2位の中国の経済力が日本の立場を強くする可能性があるのです。
アジアの盟主として中国はこの情勢に乗じて中国主導の経済圏を作ろうとしています。
それは一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想です。
中国政府は中国から西方のアジア諸国、ロシア、中東諸国、ヨーロッパ諸国にまたがる広大な地域を一帯一路でつなぎ巨大な経済圏を作ろうとしています。
一帯とは陸路でつなぐ経済圏で一路とは海路でつなぐ経済圏です。

何故か日本のマスコミはこの中国の一帯一路経済圏に関するニュースが非常に少ないのです。いたずらに尖閣諸島の問題だけに大騒ぎしています。木を見て森や山を見ていません。
トランプ大統領自身も一帯一路への協力について米国はオープンであると述べています。
米国内ではキャタピラー社などといった米国企業、カリフォルニア州などが独自に一帯一路構想への参加を表明しています。
以上のような中国の一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想に対して韓国や台湾はどのような対応をしているのでしょうか?
報道がありません。もっと日本と韓国や台湾との緊密な協力が必要ではないでしょうか?
世界を動かすのは今やアメリカ一国だけでなくなり、中国も世界を動かし始めたのです。
今まさにアジアの時代が始まろうとしているのです。日本の舵取りの如何によって、日本の立場を強くする可能性があるのです。日本民族の運命が大きく変わろうとしているのです。
中国は共産党独裁の国だから付き合いは止そうという考えは現実的でありません。
国際経済はイデオロギーや宗教とは関係無くダイナミックに動いて行くものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

米原万里著、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の書評

2018年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
すごく面白い本でした。テレビも見ないで3日かけて丁寧に読みました。2002年に刊行された感動的な文学作品です。
今日は何故感動したか、その理由を3つに整理して説明したいと思います。
まずこの作品のストーリーを簡略に書きます。
米原万里さんが1960年から1964年迄、小学3年生から中学2年にかけてチェコのプラハにあった「ソビエト学校」で学んでいた時の思い出なのです。その学校は各国の共産党幹部の子供を集め、ソ連から派遣された先生がロシア語で教える国際エリート学校だったのです。
そこで万里(マリ)に3人の親友が出来ました。ギリシャ人のリッツア、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカの3人です。この3人は帰国後のマリ(万里)にとっても生涯かけがえの無い存在になってしまったのです。
しかし1991年のソ連崩壊で混乱の起きたチェコやルーマニアやユーゴスラビアに住んでいたリッツアとアーニャとヤスミンカは消息不明になってしまったのです。
1964年に帰国したマリが30年後にこの3人を探しに行くのです。根気よく探し、そして執念深く探したあげくついに3人に会えたのです。つもる話をしたマリは少女の頃は知り得なかった人生の深い淵を見てしまうのです。それが題目の・・・真っ赤な真実」なのです。その深い淵の描写がこの作品を重厚にします。人間とは一体何だろうと考えさせるのです。人間の幸福や不幸とは何だろう? 共産主義は人間にとって何だったのだろうか?こんな余韻を残して私はこの本を閉じました。

それはさておき私が感動した3つの理由を書きます。
(1)リッツアとアーニャとヤスミンカの魅力的な個性が見事に描き別けてあるのです。
まず少女たちの清純な美しい心に感心します。3人とも良い家庭の育ちなので素直で優しいのです。世の穢れを知らないのです。大人の女性と違うそれぞれの挙動に感動します。
そして少女同志のこまやかで緻密な友情に驚きます。
それは男の小年同志の素朴な友情とは異質な友情です。
私は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の少年ジョバンニの友情を思いました。水死したカンパネルラを探すために銀河鉄道に乗り一緒にしばし楽しい旅をするのです。
同じようにマリもリッツアとアーニャとヤスミンカも再会し、一緒に話をして別れるのです。はるか遠方の日本に帰り2度と会うことはなかったのです。

(2)マリが30年前の親友の消息を探す執念と情熱に圧倒されたのです。
リッツアはドイツに住んでいました。アーニャはロンドンに住んでいました。ヤスミンカはユーゴスラビア崩壊後のセルビアの首都のベオグラードに住んでいますた。
胸の熱くなる場面は沢山でてきますが、特にマリとアーニャが一緒にプラハにあった「ソビエト学校」の昔の校舎を訪問する場面に感動しました。
昔の校舎はそのまま看護学校になっていました。許可を得て教室に入ってマリとアーニャは涙を流します。机も椅子も黒板も30年前と寸分変わっていなかったのです。2人は昔の自分の席に座ります。30年前の少女の姿と心が蘇ってきたのです。私は思わず息を飲みました。このような場面がつぎつぎ現れるのです。
さてマリは3人の友達の親にも会います。そして親たちの第二次大戦中の生き方と共産主義になった後の生き方がこの本に書いてあるのです。
この部分があることで作品の奥行を深くしているのです。人間は何故苦難の道を選ぶのか考えさせます。

(3)1945年の第二次大戦後から1991年のソ連崩壊までのソ連圏衛星国の内情は厚いベールに隠され全く分かりませんでした。僅かにチュコソロバキアで1968年に「プラハの春」が起き、ソ連軍主導のワルシャワ条約機構軍が侵攻しソ連に敵対する勢力を処分したことだけは報道されていました。
しかしこの事件でルーマニアやユーゴスラビアなど他の衛星国でも、ソ連に対する反対運動が燃え上がったのです。その内情がこの本に書いてあるのです。
更に1991年のソ連崩壊後におけるルーマニア革命と独裁者チャウシェスク夫妻の処刑の経緯が書いてあるのです。
そしてユーゴスラビアが存在していたバルカン半島のボスニア内戦の複雑な民族対立の内情など日本人には知らなかったことが沢山書いてあるのです。
この理由で「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」は大宅ノンフィクション賞を受賞しました。

結論です。この米原万里の作品は芥川賞に値する文学作品と思います。特に上記の(1)と(2)だけでも芥川賞に値すると信じます。しかし何故、芥川賞にならなかったのでしょうか?
国際的な舞台を使った作品は芥川賞にふさわしくないのでしょうか?あるいは米原万里が共産党員だったからでしょうか?
米原万里は一生独身のまま2006年病死しました。享年56歳でした。

今日の挿し絵代わりの写真はこの物語に出て来る「ソビエト学校」のあったチェコのプラハの風景写真です。
出典は、https://blog.goo.ne.jp/junsanta/e/a4f832f2b76137a02ebb17b8c70a7089 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









週刊誌を読まくなったら老化現象の始まり

2018年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃から低俗な週刊誌を一切読まない人は別にして、老化現象が始まると週刊誌に興味が無くなるようです。
私も週刊誌を読まなくなりました。老化現象なのです。
しかし最近、12月6日号の「週刊文春」と「週刊新潮」を買って来ました。
ゴーン氏の逮捕にいたる経緯が詳しく掲載してあったからです。

今日は「週刊文春」と「週刊新潮」のゴーン氏に関する記事の書評を書きたいと思います。
その前にゴーン氏の逮捕を私は行き過ぎだと感じていることを説明します。
ゴーン氏とケリー氏は有価証券報告書に虚偽の記載をして日本の法律を犯す犯罪を行った容疑です。
逮捕して3畳の独房に20日以上収監する必要が本当にあったのか疑問に思います。
司法取引で西川社長たちがゴーン氏とケリー氏が有価証券報告書の虚偽記載の動かぬ証拠書類を検察陣に手渡しているのです。証拠隠滅など出来ない状態なのに逮捕は行き過ぎではないでしょうか?
検察がゴーン氏とケリー氏の日本からの出国を禁止して任意で取り調べをすれば良いのです。
それではゴーン氏の会長解任は不可能でしょう。しかしそれは民間会社の人事問題です。検察や裁判官が関与しない方が良いのです。
ゴーン氏の会長解任は検察が彼を有価証券報告書に虚偽の記載をしたとして起訴してから決めても良いことです。しかしいきなり逮捕したのは検察陣が国民感情を斟酌して行ったような感じがします。
彼が常識外れの高額報酬を得ていたことへの復讐のように感じられるのです。
この感想は「週刊文春」と「週刊新潮」のゴーン氏に関する記事を読み一層強まりました。
それはさておき「週刊文春」の「日産極秘チーム、ゴーン追放一年戦記」と題する記事は驚異的に詳細な調査にもとづく称賛に値する記事です。
感情論でなく日産の常務取締役だったハリ・ナダ氏が少数と秘密チームが昨年からゴーン氏の疑惑を詳細に調べ上げたのです。
そしてその調査結果をゴーン派だった西川社長へ今年の8月に報告したのです。
調査結果の酷さに驚いたゴーン派だった西川社長も即座にゴーン氏追放も決意をしたのです。
「週刊文春」の記事は秀逸です。探偵小説のように緻密です。一読に値します。

一方、「週刊新潮」のゴーン氏に関する記事は典型的な週刊誌的な記事です。感情論です。煽情論です。
ゴーン氏が日本の文化を無視して高額過ぎる報酬を得ていたことに私も怒りを感じます。ゴーン氏を憎らしいと感じます。やっつけてやりたいと感じます。
こんな感情をこれでもか、これでもかと煽り立てているのが「週刊新潮」の記事です。内容が面白いのですが読まなくても良い記事です。

今回、ゴーン氏を追放した西川社長たちはゴーン政権を支えた幹部たちです。トップだけを追放してその幹部たちは生き伸び権力の座についています。

それは1989年のルーマニア革命で チャウシェスク夫妻が死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された事件と似ています。トップのチャウシェスク書記長だけを抹殺してその政権を支えた幹部たちはそのまま権力の座に残ったのによく似ています。このことは米原万里の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」という本に詳しく書いてあります。

今日の挿し絵代わりの写真はゴーン氏の出身地のレバノンの風景写真です。
遠い昔から、レバノンは東西貿易の交差点となる重要な位置にあり、繁栄の極みにありました。古くから数多くの王様や将軍が、この土地を支配しました。これらの時代に建築された数々の遺産は、ローマ帝国の史実を語る上でもとても重要とされています。
レバノンの地中海沿岸は、平坦な土地が南北に延びており、一年を通して過ごしやすいそうです。
また、レバノン山脈に代表される山の多い国土は、アラブ諸国のなかで唯一砂漠のない国です。
写真の出典は、ttps://tripnote.jp/lebanon/beirut-byblos-baalbakk-sightseeing-spotです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)











初冬の風物詩、干し柿作り、村上の鮭、信州の寒天干し

2018年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
読めば気持ちが晴れ晴れする。気分が良くなる。そして最後にちょっと考え込む。
そんな記事を毎日書きたいと思いっています。
今日は初冬の風物詩としての干し柿作りの風景、村上市の塩引き鮭作りの風景、そして信州の寒天干しの風景を取り上げました。
毎年、この時期になると農家の軒先に干し柿が釣り下がります。その光景は見ていただけで心が暖かくなります。寛ぎます。そのような故郷の思い出があるのか都会の家でも干し柿を作る人がいます。
我が家でも毎年少しだけ渋柿を買ってきて軒先に吊るします。
戦前、戦後の砂糖が無かった時代に干し柿の甘さに魅了されたものです。その頃は初冬になると都会の家々の軒先にも干し柿があったのです。私が干し柿のある風景が好きなのは郷愁なのでしょう。
美味しい干し柿を作るには2つの条件が必要です。寒い乾いた風が吹き抜けることと、充分な太陽の光にあてることです。
ですから山梨や長野、そして山形などの東北地方が美味しい干し柿の産地なのです。
そこで山形と山梨の農家の干し柿がある風景写真を下に示します。

1番目の写真は山形県上山市の干し柿のある風景です。背景の雪の山は蔵王山です。
写真の出典は、https://ssl.yamagatakanko.jp/gallery/…/img/food/food012.html です。

2番目の写真は山梨県 甲州市の甘草屋敷のころ柿づくりの風景です。
甘草屋敷とは高野家の大きな家のことです。江戸時代に薬用植物である甘草の栽培をして幕府に納めていた家なので、「甘草屋敷」と呼ばれてきれてきました。
江戸時代の「甲州甘草文書」によると、八代将軍徳川吉宗治世の享保5年(1720)に幕府御用として甘草の栽培と管理することになったのです。
そして高野家の甘草園は年貢諸役を免除され、以後同家が栽培する甘草は、幕府官営の薬園で栽培するための補給源として、また薬種として幕府への上納を負うこととなりました。
この2番目の写真の出典は、https://tokuhain.arukikata.co.jp/hokuto/2018/11/post_27.html です。

干し柿が初冬の農家の軒先を飾るころのなると新潟県の村上市では塩引き鮭が軒先に吊るされます。
村上の三面川(みおもてがわ)での鮭の遡上が始まり、塩引き鮭が作られるのです。
鮭の町、村上ではそれぞれの家庭で塩引き鮭を作るそうです。村上市庄内町は「鮭塩引き街道」として有名です。
毎年この時期になると大きな塩引き鮭が軒先にぶら下がっている風景写真が新聞にでます。
そうすると北海道の川をさかのぼっている数多くの鮭たちの写真を思い浮かべるのです。ヒグマがその鮭を取っている知床の川の風景を連想するのです。東の北海道の標津へ旅した時サーモンセンターという立派な建物があり、種々の生きた鮭が遡上する様が見られて感動しました。
寒い季節の到来です。雪が野山を覆う風景を思います。ですから村上の塩引き鮭の風景は私にとって初冬の風物詩なのです。下に村上の塩引き鮭の写真を示します。

3番目の写真は新潟県、村上の軒先に吊るされた塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、http://www.senamiview.com/blog/log/eid196.html です。

4番目の写真は室内で天井から吊るした多量の塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、https://www.murakami-salmon.com/driedfield/ です。

そしてもう一つの初冬の風物詩は信州の雪の田圃に広がる寒天干しの情景です。寒天とは冬の空を意味しています。

5番目の写真は信州の雪の田圃にえんえんと広がる寒天干しの光景です。昔、信州を旅した時に何度も見た懐かしい風景です。
この写真の出典は、http://homepage1.nifty.com/hottayukio/syasin/KANTEN.htm です。
寒天の作り方です。
海で採ったテングサをを大きな釜で煮溶かし、四角形のトコロテンにして、それを凍らせては干し上げるのです。カビたり腐る前に干しあげるためには寒風が吹き太陽光の射す信州でないとうまく行きません。
信州の寒天作りに関して面白い話があるので下に、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9 から抜粋して示します。
江戸時代初期の1685年、京都府伏見の旅館『美濃屋』の主人、美濃太郎左衛門が、戸外に捨てたトコロテンが凍結し、乾物になっているのを偶然発見したのです。
これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励されたそうです。隠元は「冬の空」を意味する漢語の寒天という名前をつけたのです。
さらに、天保年間(1830年から1843年)に信州の行商人の小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着しました。
明治14年、ロベルト・コッホが寒天による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えます。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品になっていましたが、第二次世界大戦中は戦略的意味合から輸出を禁止してしまったのです。
現在、寒天はあまり料理に使われていませんが寒天にも面白い歴史があったのです。

冒頭に、「読めば気持ちが晴れ晴れする。気分が良くなる。そして最後にちょっと考え込む。そんな記事を毎日書きたいと思いっています。」と書き込みました。
そこで最後に、ちょっと考え込む問題を出したいと思います。
「干し柿と塩引き鮭は縄文時代には重要な食べ物だったのでしょうか?」
私が想像した答です。
干し柿と塩引き鮭は簡単に作れる保存食なのです。縄文時代から作っていたと考えるのに無理はありません。
柿は野生の渋柿を採集して来て竪穴式の家の周りで干したに違いありません。石器のナイフで皮は剥いたのでしょう。
縄文時代は鮭が現在より多量に日本の川をさかのぼっていた筈です。しかし塩は貴重品でしたから海水に何度も浸けて、乾かすことを繰り返して作ったのでしょう。

現在でも柿も鮭も皆天然のものです。自然食品です。それらを食べると自然に対する憧れと感謝を感じるのです。ですから気持ちが晴れ晴れしま。気分が良くなるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

貴方の老化の進捗段階をご自分で判定する方法

2018年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は高齢になるに従って次第に体力が衰えてきます。健脚で山々に登っていた人も足腰が弱くなり近所の散歩がやっとになる人もいます。
このような肉体の老化の進捗状態は殆どの場合が遺伝的な現象です。これを自然の摂理として、多くの人々はおだやかな気持ちで受け入れています。
その一方、精神の老化現象も進んで来ます。それを時々達観の境地などと言いますが、別な言葉で言えば「老人ボケ」とも考えられます。
しかし精神の老化現象はチョッとした努力で防ぐことが出来るのです。
今日は貴方の老化の進捗段階をご自分で判定する方法を書きたいと思います。そしてその進捗を止める簡単な方法も示したいと思います。

さて以下に示す老境の気持ちは、アメリカ在住の日本人の女性が私の記事に関連して投稿されたものを私が整理、編集したものです。
このご婦人は幸せな家庭を持ち、息子さんもアメリカで活躍しています。現在は猫と一緒に一人暮らしをしています。
1、自己中心的になり、 興味の範囲が狭くなる。八方美人で無くなる。
他人との関わりがめんどうくさくなり、むしろ無い方が良いと思う。

2、 新しい友人関係を作る興味もなく、実在する家族関係だけを大切にする。
地域社会のいろいろな交流イベントには出席しなくなる。ボランティア活動もしなくなる。

3、大自然の風景を眺めるのが至福と感じ長い時間ボーッと眺めている。
また家庭内ではペットに非常に愛着を持つようになる。

4、テレビや新聞のような情報機関に興味が薄れる。特に外国のニュースや国際関係に興味が無くなる。
テレビや新聞の評論や解説は読まない。議論に関わりたく無い。時間の無駄と思う。
若い頃、あんなに読書が好きだったのに本も読まなくなった。
「井の中の蛙大海を知らず……」に満足する。大海を知ったとして、それがどうした!と開き直る。自分の可能範囲を知っているから。

5、 それじゃあ、生活がおもしろくないでしょうと言われても、さほど生活に飽きているわけでもない。老人は老人なりに毎日することが多く、結構忙しい。

貴方の老化の進捗段階をご自分で判定する方法は上記の5項目に0から10の段階をご自分でつけて判定するのです。
5項目の総合計が0なら全く若いのです。総合計が50なら完全な達観の境地です。別な言い方では完全な老人ボケなのです。
このように書くと曖昧過ぎて、1、から5までの進捗状態の評価の仕方が判然としません。
そこで私自身を実例にして点数をつけてみます。
1、は7点くらいでしょう。かなり自己中心的になり、 興味の範囲が狭くなっているのです。もともと社交的でないのが高齢になり他人とのお付き合いが面倒になって来ました。

2、は3点です。私は現在でも人間に興味があり、新しい知人や友人を作ろうという気持だけは残っています。
しかし気持ちだけなので、まあ3点くらいでしょう。

3、は8点です。大自然の風景を眺めるのが至福と感じ長い時間ボーッと眺めている場合が結構しばしばあるのです。

4、は0点です。私はテレビや新聞のような情報機関に興味があります。特に若い時より外国のニュースや国際関係に興味があったのですが、老化にしたがいますます興味が湧いてきました。
国際関係にはそれぞれの歴史があって、年を取ると歴史が分かり、国際関係の理解が深まります。面白くなるのです。

5、は3点位が妥当でしょう。私は現在82歳ですが車のドライブが趣味で半径100Km以内のあちこちへ行きます。家内が同乗していて安全運転と評価していますので毎日のように車を動かしています。

さて以上の5項目の総合計は21点です。完全老人ボケの状態の50点よりはまだかなり低い点数です。

最後に精神の老化現象をチョッとした努力で防ぐ方法を書きます。
それは1、2、5、の反対の事を心がけることです。心がけるだけで良いので、簡単に出来ます。
すると他人は貴方の心を察し近づいて来ます。新しい友人ができます。
3、はそのままで良いのです。
4、は努力して新聞の国際ニュースの紙面を読むようにします、テレビの国際ニュースを丁寧に見ます。すると国際ニュースが面白くなります。

さて今日の挿し絵代わりの写真は花と紅葉の写真です。
ああ、これは見たことがあると気づいた方は精神的には老化していません。
これらの写真は5日前の11月28日掲載の記事で使った写真なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











敦煌莫高窟の壁画が伝える仏教への熱い想い

2018年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教のことを少し書きます。
今日からカトリックではイエスさまの降誕を待つ「待降節」が始まります。寒くなる一方ですが、心楽しい季節です。
それはそれとして今日はいろいろな佛さまが中国の敦煌を通って日本へやって来た様子を書きたいと思います。
我が町、小金井市の市立「はけの森美術館」で中国の敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)の壁画と法隆寺金堂の壁画の摸写展覧会が12月22日まで開催されています。東京藝術大学の大学院生たちが模写したものです。
昨日の午後に見に行きました。
忠実な模写でした。丁寧に見て行くと当時の仏教の伝来に対する中国人の熱い情熱に圧倒されます。
中国人は炎熱、極寒のシルクロードを通って、はるばるインドから敦煌迄、仏教を運んで来たのです。
阿弥陀様や観音菩薩や勢至菩薩や極楽浄土などが描かれています。大乗仏教が敦煌を経て中国へ、そして日本へ流れ込んで来た様子が如実に分かるのです。
佛教の壮大な力に感銘を受けます。
それでは写真をお送りします。

1番目の写真は小金井市の市立「はけの森美術館」です。

2番目の写真は中国の西端にある敦煌の莫高窟の写真です。中央の建物の左右に無数の洞窟があり、その内面に絢爛たる仏画が描かれているのです。

3番目の写真は洞窟の内面に仏画が描かれている様子を示す写真です。

4番目の写真は「はけの森美術館」に展示してあった模写の写真です。

5番目の写真も「はけの森美術館」に展示してあった模写の写真です。大乗仏教のいろいろな佛さまの姿が描かれています。

6番目の写真は、「敦煌莫高窟 仏教壁画」http://www.allchinainfo.com/photos/5635 からお借りした写真です。

7番目の写真も「敦煌莫高窟 仏教壁画」からお借りした写真です。
さて敦煌はシルクロードのオアシス都市として栄えた町です。その東南25kmの地砂漠の中に莫高窟があります。
鳴沙山東麓の断崖に南北約1600mにわたって700ともいわれる石窟があり、極彩色で彩られた壁画や2400余体もの色鮮やかな彩色塑像が安置されているそうです。
莫高窟が作られた時は敦煌が前秦の支配下にあった五胡十六国時代の西暦366年頃といわれ、元代まで約1000年にわたり石窟の造営は続けられのです。
当初は仏教の修行の場として築かれたもので、北側の石窟には、僧たちが修行や祈りの生活を続けた痕跡が残っています。
南側の石窟は仏教芸術の宝庫です。
交通の要衝にあった敦煌は、東西交易の中継地として栄えました。
初期の壁画はインド仏教芸術の、仏塑像は西域の影響をそれぞれ受けており、また後世になると中国色が強くなるなど歴史的価値が大きいと言われています。
佛教を中国に来て伝承したインド僧の鳩摩羅什も後にインドに行った玄奘三蔵法師もここを通ったのでしょう。
悠久の歴史を感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


今日から師走、行く秋を惜しみつつ紅葉、黄葉の写真を撮る

2018年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
月日の流れは早いもので今日から師走です。冬になります。
流れゆく秋を惜しみつつ最後の紅葉や黄葉の写真を撮って来ました。おもに都立小金井公園で撮りましたが、一部に一昨日撮った八王子の散り残ったイチョウの黄葉の写真もあります。
これで紅葉や黄葉も終りです。
やがて裸になった梢を木枯らしが吹いて本格的な冬になるのです。
明日から待降節が始まり、クリスマスもやって来ます。師走は文字通りアッと言う間に過ぎ去って行くでしょう。
名残の紅葉、黄葉の写真をお送りします。









美しい日本庭園を造った無窓国師と小堀遠州

2018年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃、私は日本庭園が嫌いでした。自然の風景の方が好きでした。
日本庭園は矮小で作り過ぎです。自然で健康な美が無いのです。同じような理由で西洋庭園も好きになれませんでした。草木の配置があまりにもシンメトリーで人工的過ぎるのです。人間の浅知恵を感じておぞましかったのです。
しかし老境に至って感じ方がすっかり変わってきました。
箱庭のように作り過ぎた日本庭園をじっと眺めていると雄大な自然の風景が見えて来るのです。
日本庭園の美しさを知るためには縁先に座って静かに眺めることが重要なのです。歩きながら眺める場合も必ずゆっくり、ゆっくり歩くことが重要なのです。
日本庭園の美しさを楽しむためには静かな時間と見る人の豊かな経験にもとずいた想像力が一番重要なのです。
私は老境に至ってやっと日本庭園の限りない美しさに感動するようになったのです。

今日はこの日本庭園を独創的に造った無窓国師と後の時代の小堀遠州の庭の写真をお送り致します。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。
以下の無窓国師の庭の写真と文章の原典は、https://oniwa.garden/tag/夢窓疎石/ です。


1番目の写真は夢窓疎石が京都の天竜寺に作った池泉回遊式の庭園です。天竜寺は足利氏ゆかりの京都五山の一つです。
夢想国師は鎌倉時代〜室町時代に活躍した禅僧であり、後醍醐天皇から与えられた「夢窓国師」の名でも知られます。
代表作であり世界遺産にも選ばれている天龍寺庭園、西芳寺庭園(苔寺)をはじめ、多くの寺院の庭を造りました。
鎌倉、京都、修行の場であった甲斐国(山梨県)などに庭園が残っています。中には都から離れた四国・高知の「竹林寺庭園」(国指定名勝)というのも夢窓疎石が手がけた庭園と伝っています。

2番目の写真は南禅寺 南禅院庭園です。
夢窓疎石作庭と伝わる池泉回遊式庭園では京都の庭園の中では古い部類に入ります。湯豆腐を食べた記憶はありますが庭のことは忘れていました。

3番目の写真は山梨県の恵林寺の庭です。恵林寺は鎌倉時代に鎌倉より招かれた夢窓疎石によって開かれた寺院で、戦国時代には甲斐武田氏の菩提寺となりました。ここは山の家に近いので何度も訪れています。

4番目の写真は鎌倉の「瑞泉寺」の庭です。この寺は鎌倉時代に夢窓疎石(夢窓国師)により開かれた寺院で、庭園の作庭も夢窓疎石が手掛けたとされています。京都の天龍寺や西芳寺の庭園を手掛ける以前に造られた初期の作品です。
鎌倉地域でよく見られる「やぐら」が岩壁を削り造られ、その岩壁を登るための橋という組み合わせがインパクトを放つています。梅・水仙を見て裏に廻ると荒々しい光景で吃驚します。

さて次は江戸時代の小堀遠州の庭を見ましょう。
以下の小堀遠州の庭の写真と文章の原典は、https://oniwa.garden/tag/小堀遠州/ です。

5番目の写真は東京の「池上本門寺」の庭です。この寺は東京を代表する寺院の一つで、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠によって建てられました。
池上本門寺境内にある庭園「松濤園」は小堀遠州作庭と伝わる池泉回遊式庭園です。親戚の法事の折りに訪ねて都心にあるのにと雄大さに感動しました。
小堀遠州は江戸時代初期に徳川家康に仕えた大名であり、代表的な作庭家であり、茶道「遠州流」の祖でもありました。
小堀遠州の庭園は、出身地である近江国(滋賀県)を始め、藩主を務めた備中松山、そして江戸時代に政治の中心であった京都・江戸、そして駿府・遠江国(静岡県)に比較的多く集まっています。

6番目も写真は東京国立博物館の庭園です。
『東京国立博物館』の本館の裏にある池泉回遊式庭園です。
庭園内には、小堀遠州によって造られた茶室「転合庵」をはじめ、江戸時代に造られた茶室や書院といった歴史的建造物も数軒移築されています。

7番目の写真は鎌倉の光明寺庭園です。ここは静かで心が落ち着く石庭もあります。
鎌倉の「光明寺」は鎌倉時代に創建された寺院で、江戸時代に造られた大きな本堂が国指定重要文化財になっています。

さて皆様は若いころから日本庭園がお好きだったでしょうか?日本庭園に感動していましたか?
もし感銘を受けていたなら皆様は素晴らしく想像力の豊かな方です。良い感性に恵まれた羨ましい方です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)