後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

回る寿司、回らない寿司、どちらがお好きですか?

2019年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
回転寿司という便利なものが出来る以前は昔からの寿司屋さんから寿司を自宅に取って食べていました。寿司は誕生日とか何かのお祝いの日だけ取る貴重な食べ物でした。
それが現在は、手軽な回転寿司の店が沢山出来ています。つい手軽な回転寿司の店へ気軽に行くようになりました。
今日は家内が出掛けていません。近くの銚子丸という回転寿司で昼食を食べなさいとお金を置いて行きました。
ぞれで回る寿司の店で回らない寿司を食べて来ました。

1番目の写真は千葉、東京、埼玉、神奈川に店舗を展開している銚子丸という回転寿司の店です。自宅から200m位の近くにあるので時々行きます。

2番目の写真は銚子丸の店内風景です。回転寿司店ではカウンターに沿い小皿の寿司が回っています。しかし私はカウンターの中にいるお兄さんに直接注文して握って貰います。握りたての寿司が食べたいからです。

3番目の写真は今日食べた「春うらら」という名前のセットです。あら汁つきで税込み1250円でした。
セットですから回らない寿司です。しかし品質や味は回っている寿司と同じです。握りたてなだけです。
さてこの銚子丸の寿司はネタの魚が大き過ぎるのです。昔の寿司はネタと寿司飯のバランスが良くてネタが寿司飯に馴染んでいたものです。
銚子丸はネタの魚や貝が大きければ大きいほど良いと単純に考えているのでしょうか?
その上使っている米が中級品のようです。かならずしも美味しくありません。酢のしめ方が弱すぎるようです。
最近の若者はご飯の塊の上に大きな切り身の魚が乗っているだけで喜ぶのでしょう。それが証拠には銚子丸は何時も若者が来ています。
昔の寿司文化は消えたのです。老人は柔軟に新しい寿司文化を受け入れるべきなのです。
その上、私は時々スーパーで握り寿司のパックも買ってきます。
この記事に掲載するために先程撮って来た写真を示します。

4番目の写真はサミットという大きなスーパーに並んでいた握りずしのパックです。

5番目の写真も同じくスーパーに並んでいた握りずしのパックです。
このスーパーの握りずしは防腐のためにか酢のしめ方が強く、その上使っている米が美味しいのです。
生魚のネタでは回転すし店にかなわないので美味しい飯を売り物にしているのでしょうか?
スーパーの握りずしを美味しく食べるためには空腹になってから食べると美味しく感じます。

回転寿司の寿司やスーパーのパックの寿司をつい食べてしまうのは見た目の美しさに私が幻惑されているからです。
食べ物は見た目の美しさが重要な要素なのです。
回転寿司店で回っている小皿の寿司を眺めて楽しんでいるのは私だけではないと思っています。

それにしても日本人の食文化も世界的になったものですね。

須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」ー人それぞれの悲しみを描いた美しい水彩画ー

2019年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
6年前に私は「透明で、そして淋しい須賀敦子の文章世界」という記事を書きました。2013年05月25日に掲載しました。
私は須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」という本を読んだ時の感動を絶対に忘れません。そして私は20年前に「コルシア書店の仲間たち」を読んで以来、その文章の透明感と淋しさを時々思い出しています。

そこで今日はあらためてこの本の書評を書いてみようと思います。
さて「コルシア書店の仲間たち」はどういう人々なのでしょうか?
須賀敦子は明快に書いていませんがこの人々はカトリック左派のイタリア人なのです。
それはミラノの教会の祭壇で共産主義の歌を唄って追放されたトゥロルド神父が中心になった物語から推察されます。
しかしコルシア書店の仲間たちの考えかたは皆違うのです。それぞれがイタリアの伝統的な社会に適合出来ず迷いの日々を送っているのです。悲しい日々を送っています。須賀敦子はそんな人々を優しく抱きしめて仲間たちの人間としての淋しさを描いているのです。
それは美しい水彩画のような珠玉の文学作品になってるのです。
さてコルシア書店の仲間たちは皆カトリック信者です。そして書店の経営の費用は全て貴族出身の未婚の老嬢が出しているのです。この未婚の老嬢にトゥロルド神父たちが女王の如くかしずいているのです。嗚呼、ヨーロッパの階級社会とはこういうものだとしみじみ理解出来るのです。
この作品には淋しいことは具体的に一切書いてありません。しかし何故か読者に寂しさを感じさせるのです。ヒョッとしたら作者自身が孤独で淋しい人生を送ったのでしょうか。
しかし須賀敦子は芦屋の裕福な家で育ち、聖心女子大に学び、パリへ留学し、イタリアの神学に興味を持ち、ミラノに定住し、コルシア書店で知り合ったペッピーノというイタリア人と結婚したのです。
夫、ペッピーノは若くして亡くなったので日本に戻り、いろいろな大学でイタリア語やイタリア文学を教えていました。晩年になってから書いた「コルシア書店の仲間たち」が評判になり数々の作品が出版されました。そして69歳で亡くなります。

彼女の人生は決して淋しいものでではありません。むしろ華やかで知的に輝いていたのです。淋しい人生ではないのです。
私は彼女の作品にある特徴を考えています。
カトリックの信者だったのにキリスト教のことは一切書いてありません。
イタリアで結婚したのに新婚生活の楽しさも見当たりません。
不思議な人です。
日本では大学の講師をしながら、何時もイタリア製の高級な洋服を着て、高価な車に乗っていたそうです。そして若い男性達を引き連れて遊んでいたそうです。心が満たされなっかのでしょうか?淋しかったのでしょうか?
しかし須賀敦子の文章にはそんな遊びの話は一切書いていません。
知的に輝けば輝くほど淋しかったのです。遊べば遊ぶほど淋しかったのです。
彼女はその淋しさを描きませんでした。ただ読む人が感じるだけです。
須賀敦子はただ一つ、「こうちゃん」という童話を書きました。それは暗くて悲しいような童話です。彼女の心象風景を書いたものと私は感じています。
彼女が亡くなってから20年。もう忘れられた作家と思っていましたら現在でも時々彼女の作品の書評が掲載されています。

最後に私の好きな「遼 (はるか)」さんの書評の終りの部分だけをお送りします。
https://thurayya65.exblog.jp/18270189/
・・・・コルシア書店はなくなってしまい、集っていた人々も離れ離れになってしまう。夫・ペッピーノも他界してしまう。同じ場に集っていて、ひとつのものを目指している仲間たち。でも、その心の中が全く一緒とは限らない。私もそんな経験は何度もある。その度にかなしい、残念だけれども、これは当然のことなんだ、私と他者は「別人」なのだから、と言い聞かせる。でも、完全に「別人」でもない。「孤独」とは。最後の232ページを読んで、また最初から読むと、描かれている人々がますます愛おしく感じる。
文章を味わい、描かれている情景や人々を味わう。いとおしむ。優しく抱きしめたくなる。最初に書いたとおり、「モノクローム」な味わいもありますが、そんな雰囲気もまた愛おしい。何度でも読み返したい本です。・・・

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真は白いモクレンと赤い桃の花とユキヤナギの花の写真です。





花の写真を撮りに行った昨日の日記

2019年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日記を正直に書いてみたいと思う。晴天、最高気温19度だった昨日の日記です。朝は7時に起床。
朝食に久しぶりに自分でベーコンエッグを作った。トーストとジャム3種、コールスロー、コーヒー。
その後、「略語が多すぎる、もう付いて行けない!」と題する記事を書く。
10時30分家を出て近所の植木栽培地に花の写真を撮りに行った。
足の悪い私は車の中に居て、身軽な家内が何時もの様に走りまわって花の写真を撮った。
お送りする5枚の写真は順々に植木栽培地全体の光景、白いモクレン、紫のモクレン、ミモザ、ミツマタの花となっております。









帰宅後は昼食。私はウナギ丼大根漬物、家内は塩鮭と野菜の煮物とご飯。夫婦好きなものを好みの味で食べるのが家庭円満の秘訣です。でも半分以上は同じ料理も食べます。

午後は桜町病院に行って腰痛の診断です。5ケ月前に転んで痛めた腰骨が直ったので最後の診断です。
整形外科部門の山口美樹先生へ「長い間、お世話になり有難うございました」と丁寧にお礼を言いました。
病院に行くと待ち時間が長いので家内と私は読書します。
家内が私の為に選んでくれた本は、「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子/文藝春秋・文春文庫/1995(単行本は1992年)でした。20年位以前に読んだのですが、昨日読んでも古さを感じさせません。
 1960年代須賀さんが若い頃、イタリアへ留学し、ミラノで「コルシア書店」という小さな書店に出入りした時に会った人々のことを描いたものです。
兎に角、文章が美しい。書店に集まる人々の個性が生き生きと描き出されている。イタリア人の人生の悲しみと苦悩が水彩画のように淡い色で描いてある。やがてコルシア書店が閉店し、仲間たちが消えて行く。
白黒のモノトーンの映画のように仲間たちの苦しみが描かれているのです。

病院の長い待時間の間にこの本の書評をもう一度書こうと思いました。
帰宅後、まず午前中に撮って来た「黄梅」の写真をトリミングしてブログに「今日撮ってきた黄梅(迎春花)という珍しい花の写真、」と題して5枚の写真を掲載しました。

その後夕食まで時間があったので「コルシア書店の仲間たち」の書評を調べました。評判の高い本だったので沢山の書評があります。
書評を急いで書くのは止めてもう少し考えることにしました。
特に共産主義の影響を受けたトゥロルド神父を中心にして書評を書く構想を考えました。
そうするとニカラグアの革命政権の大臣になったカトリックの神父達のことに繋がります。
ですからサンディニスタ革命軍のことを調べなおしました。
そうしたら夕食の時間になりました。家内は隣に住む孫達一家の夕飯を作っています。
夕食はスーパーのヤオコーの生ギョーザを焼いたものと牛肉と長ネギの炒め物少々です。いつものようにビール350cc一缶と日本酒2合です。
夜はテレビで自然ものとドキュメンタリーものを見ました。家内は別室で自分の好きな番組を見ます。
夜10時に家内と再会し一緒に寝ます。私は電動ベットです。

こうして83歳の3月20日の一日が終わりました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

==参考資料===============================
(1)「コルシア書店の仲間たち」の書評の一例
https://thurayya65.exblog.jp/18270189/
 1960年代須賀さんが若い頃、イタリアへ留学し、ミラノで「コルシア・デイ・セルヴィ書店」という小さな書店に出入りするようになる。カトリック神父のダヴィデ・マリア・トゥロルド神父が中心となり、理想の共同体をつくろうと政治的な活動も行う若い人々が書店に集っていた。そんなコルシア書店に通い、集う仲間たちのことを綴ったエッセイです。
そして物語は暗転します。
・・・・コルシア書店はなくなってしまい、集っていた人々も離れ離れになってしまう。夫・ペッピーノも他界してしまう。同じ場に集っていて、ひとつのものを目指している仲間たち。でも、その心の中が全く一緒とは限らない。私もそんな経験は何度もある。その度にかなしい、残念だけれども、これは当然のことなんだ、私と他者は「別人」なのだから、と言い聞かせる。でも、完全に「別人」でもない。「孤独」とは。最後の232ページを読んで、また最初から読むと、描かれている人々がますます愛おしく感じる。
文章を味わい、描かれている情景や人々を味わう。いとおしむ。優しく抱きしめたくなる。最初に書いたとおり、「モノクローム」な味わいもありますが、そんな雰囲気もまた愛おしい。何度でも読み返したい本です。

(2)ニカラグアの革命政権の大臣になったカトリックの神父達
https://www.jstage.jst.go.jp/article/americanreview1967/1992/26/1992_26_145/_pdf/-char/ja
1979年7月19日,ニ カラグアの主都マ ナグアにサ ンデ ィニス タ革命軍 が侵攻し,45年 にわた ったソモサ独 裁政権 は打倒され た。 サンディニスタ革命政府 の中心 は,初 代 の大統領 となったウンベルト ・オ ルテガ をはじめとす るマルクス主義者であったが,サンディニスタ政 府の閣僚の中には4人の解放の神学派の神父が含まれていた。
外務大 臣のミゲ ール・デスコー ト,文化大臣のエルネスト・カルデナル,エルネストの弟で文部大臣のフェルナンド・カルデナ、厚生大臣で後 に米州機構大使 となるエドガルド ・パラレスである。
革命が成功 した2ヵ月後の1979年11月には,ニカラグア・カトリック教会の司教団は声明を発表し,サンデニ革命は「貧しい者たち」を選択するための絶好の機会であると革命支持を打ちだした。
ハーバード大学 の神学者コックスは 「ニカ ラグアの革命におけるキリスト者の役割 は,近代の革命の歴史ではじめて,キリスト者が最初から人民の側に立ったものであり,画期的なものであった。ニカラグアはキリス教と革命の双方を変化させるだろう」とニカラグアの将来に希望を託した。

今日撮ってきた黄梅(迎春花)という珍しい花の写真、

2019年03月20日 | 写真
まず今日、近所の野川で撮ってきた黄梅(迎春花)の写真をお楽しみ下さい。









写真の花は黄梅ですが原産地の中国では「迎春花」と呼ばれ大切にされています。
黄梅はキク類モクセイ科のジャスミン属です。つる性の落葉低木です。
中国語名は「迎春花」で、中国では他の花に先駆けて咲き、いち早く春を迎えるのでこう呼ばれています。

日本では、「黄梅」は立春〔2月4日ごろ〕から啓蟄の前の日〔3月5日ごろ〕までの季語とされています。
実が成らないため、挿し木か株分けをして増やします。
元禄年間の1695年の三之丞伊藤伊兵衛による『花壇地錦抄』に、「黄梅、花形梅花のごとく黄色なり」とあることから、日本にはその少し前の17世紀・寛永年間(1624-1644)から元禄時代初期にもたらされたと考えられています。

この近所には現在、雪柳や紅白の木蓮や辛夷や連翹や三椏などが一斉に咲いていますが黄梅は珍しく、貫井弁天の傍の野川にしか咲いていません。
皆様のご近所に黄梅は咲いているでしょうか?

略語が多すぎる、もう付いて行けない!

2019年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、新聞を見ていると意味の分からない略語がやたら多くて困っています。自分が老人になってしまったので分からいのでしょう。暇ですから辞書を引きます。でも最近出来た略語は辞書には出ていません。
幸いにも私はコンピューターが少々使えるのでネットで調べます。出ています。意味が詳細に説明しています。
今朝も新聞に「東コレ」という言葉が見出しになっています。
私はハハーン、これは東洋レイヨンという大会社が主催するファッションショーだなと思いました。
記事を最後まで読んでみたら、「東コレ」は経済産業省が支援して開催するファッションショーと理解出来ました。
そこで「東京コレクション」をネットで調べたら出ていません。若い子向けの「東京ガールズコレクション」は数年前から開催されていますが大人むけの「東コレ」はありません。
そこでファッションショーといえばフランスが本場なのでそちらの情報を調べてみました。
そうしたら珍しい雪の中のファッションショーの写真が出てきました。

今日はこの雪の中のファッションショーの写真をご紹介します。
5枚の写真の出典は、「Chanel's Graceful Farewell To Karl 」MARCH 5, 2019です。

1番目の写真はスイスの山の観光地で開かれた雪の中のファッションショーのオープニングです。

2番目の写真はいよいよ一人ずつの歩きが始まった場面です。モデルの顔が寒さで泣き出しそうです。モデルの手に持ったバラの花が震えています。

3番目の写真はドレスのデザインを見せる場面です。観客が皆正装して峩々とした険しい山の前に並んで坐っています。

4番目の写真はファッションショーの終盤近くの場面です。モデルが凍える手をポケットに入れています。

5番目の写真はファッションショーのフィナーレです。モデル達がやっと暖かそうな衣服で出て来ました。ご苦労さまでした。
このファッションショーは世界的に38年間も活躍したデザイナーのカール・ラガーフェルドの引退を記念してフランスのシャネル社が開催したものです。ファッションショーのモデルが着ていた服は彼のデザインしたものです。
カール・ラガーフェルドは1933年生まれ 2019年2月19日に亡くなったドイツ出身のファッションデザイナーでした。享年86歳でした。
「シャネル」や、シグネチャーブランドのヘッドデザイナーを務め、様々なファッション・アートのプロジェクトで業績を残したファッション界の重鎮でした。
パリオートクチュール組合が経営する学校にてファッションを学び、同級生にアルジェリアから来たイヴ・サン=ローラン、それに日本から来た小池千枝がいたそうです。
それにしてもファッションショーは日本の伝統文化には無いものです。その文化論をし始めると長くなるので止めます。

本題の「略語が多すぎる、もう付いて行けない!」に戻ります。
皆様は以下の略語がお分かりでしょうか? 半分以上が分からなければ老化現象がひどく進んでいます。
ASEAN、BRICs 、CAD、CATV、CO-OP、EC 、EEZ、FAQ、FIFA、GPS 、ICBM、IEA 、ILO、JETRO 、JICA、KGB、LPG、MBA 、NATO 、NGO、NPO 、OPEC 、PKO、RV、SNS,TOPIX、TPP 、UFO、UNESCO、VOD 、WTO 、YMCA などなど。
略語の意味は、https://nodoame.net/archives/1937 あります。
それにしても勝手に略語を作ってしまうマスコミには困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今年のポピーの花の写真をお楽しみ下さい

2019年03月19日 | 写真
毎年同じうように咲くポピー畑の花が今年も咲きました。これを見ると本当に春がやって来たという気分になります。場所は小平市の鈴木町です。
どうぞポピーの花の写真をお楽しみ下さい。










藤城清治の影絵と宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」

2019年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
読売新聞の連載に私が愛読している「時代の証言者」という記事があります。
今月は影絵作家の藤城清治さんで、今日の連載は25回目で間もなく終わるようです。
そこで藤城清治さんの影絵を5枚ご紹介したいと思います。
この5枚の絵は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の絵本の挿絵として出版されたものです。
本来、影絵は絵の裏から電燈の光をあてて見るものですが絵本の中の挿絵は全て裏から光をあてて見ているような感動を覚えます。
この5枚の影絵のような挿し絵を鑑賞する前に「銀河鉄道の夜」の荒筋をご紹介いたします。
「銀河鉄道の夜」とは死んだ人があの世に行くために乗る鉄道の話なのです。
いつか貴方も私も乗る鉄道なのです。
このように考えてこの作品を読んでみると書いてあることがよく分かるのです。
さてこの作品のあらすじです。
・・・夏の夜空にかがやく天の川には銀河が流れていて、そこに鉄道があり列車が走っているという話です。人間は死んで天に登り、星になる。ですから銀河鉄道の汽車に乗っている人は死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年が、星祭りの夜に水死した親友のカンパネルラを探しに行きます。カンパネルラは、水に落ちて溺れそうになっている友人のザネリを助けるために飛び込んで、水死したのです。そのお陰でザネリは助かるのです。
ジョバンニ少年がカンパネルラを探そうと暗い丘に登って行きます。そしてジョバンニは、いつの間にか銀河鉄道の汽車に乗っているのです。そして其処でカンパネルラを見つけ、一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つだけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時、無理にボートに乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。
最後に、一緒に乗っていたカンパネルラもみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは降りて現世に帰る時が来ます。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り、病気の母親を助け、真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。・・・

それでは藤城清治さんの影絵のような挿し絵を5枚お送りします。
出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/lightandshadow7111/29013205.html です。

1番目の写真はケンタウロスの星祭りで子供達が楽しく遊んでいる様子を描いた絵です。
この後、ザネリが川遊びに行って、溺れそうになります。それを助けたカンパネルラが力尽きて水死してします。

2番目の写真はジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道での再会する場面です。

3番目の写真は銀河鉄道はいろいろ幻想的な風景の中を通り、まもなく白鳥駅へ着く風景です。

4番目の写真は白鳥駅、すすきの原の風景です。

5番目の写真は近づく別れの時を前にしてジョバンニとカンパネルラが見つめ合っている場面です。
この後、カンパネルラはアッというまに母の方へ飛んで行ってしまいます。訣別がこうして起きるのです。
「ジョバン二はまるで鉄砲玉のようにたちあがりました。そして誰にも見えないように窓の外へからだを乗り出して、力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱいなきだしました。」
その後、ジョバンニはこの世に帰ってくるのです。そして母と一緒に住むのです。・・・

この悲しい、美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
しかし藤城清治の絵のある「銀河鉄道の夜」の絵本には上のようなことは書いてありません。
あくまでも子供が見て楽しいように挿し絵を描いています。
しかし影絵にような絵ですので深く見ると人間の悲しみが暗示さいているようです。宮沢賢治の基調低音を感じさせるのです。それが影絵の世界なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


尚、藤城清治さんのことは、https://ja.wikipedia.org/wiki/藤城清治 をご覧ください。

今日は春の彼岸の入り、明るい陽光の射す暖かい日

2019年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は春の彼岸の入りです。
午前中から日野の大昌寺に墓参りに行ってきました。
彼岸の入りなので多くの人がお墓に花々と線香を供えてました。
今日は明るい陽光の射す暖かい日でした。
写真は最近撮った近隣のお寺の風景です。皆様が故郷のお寺を思い出すようにとお送りいたします。
お寺が見える風景は何故か郷愁を感じさせますね。









世界一過酷な自動車レース、パリ・ダカールラリー

2019年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
昔から自動車レースと言えば同じエンジン容量で速さを競うものが多かったのです。
しかし実際に自動車を使う人にとっては故障しない何時までも使えるという耐久性が一番重要なことです。
幾ら早く走れても直ぐに故障する車は駄目です。新車に買え替えなく同じ車を5年、10年と使えることが非常に重要なのです。
私が現在乗っているニッサン・ノートは走行距離が6万キロ以上になっていますが、新品同様に力強く走り回っています。5年前に買って以来まったく故障しないのです。今まで約12台の車に乗ってきましたが、この小さいノートが一番走りと耐久性に優れています。
こういう車に乗っていると毎日が幸福感に包まれるのです。
ですから車で一番重要なことは耐久性ではないでしょうか。
その自動車の耐久性を競う世界一過酷な自動車レースはパリからアフリカのダカールへのラリーと言われています。
この自動車レースには二輪車の部門から乗用車部門、バギー車部門、トラック部門などがあります。
そして路面が良い舗装道路では競争しないでアフリカの悪路だけを選んだコースを何日も走るのです。
1日の走行距離はコースによって異なり300Kmから1000Kmもあるのです。
ある時、日野オートプラザ(http://www.hino.co.jp/autoplaza/access/index.html )に行った時、ダカールラリーのトラック部門に参加した車が展示してありました。
このトラックの展示を見た時からパリ・ダカールラリーに非常に強い興味を持つようになりました。

そこで今日はパリ・ダカールラリーに参加した日野自動車社のトラックをご紹介したいと思います。

1番目の写真は日野オートプラザに展示してあったトラックと同型のトラックがアフリカを疾走している場面です。2016年に参加したトラックで赤い鯉のぼりが目印の1号車です。
写真の出典はすべて、「ダカールラリー 取材同行の旅No.8、」
(https://gazoo.com/ilovecars/column_terada/160303.html )です。

2番目の写真はエンジン容量10リットル未満クラス優勝の2号車です。

3番目の写真は砂丘と空の白の見分けがつかないような幻想的なステージを走る1号車です。

4番目の写真は川渡りをする1号車です。

5番目の写真は2016年のパリ・ダカールラリーに参加した日野レンジャーのメンバーと2台のトラックです。このラリーでは何日もアフリカの原野に野営しながら走るので多人数の支援隊が必要なのです。
乱暴に酷使したトラックの整備技術者、食料調達や燃料を手配する人などが必要なのです。その上、このパリ・ダカールラリーの公用語がフランス語なので丈夫な体を持った通訳が必要なのです。

さてダカールラリーで人気が高いのが、トラック部門と言われています。巨体を揺らしながら大自然のなかを疾走する光景は乗用車部門やオートバイ部門とは違い非常にダイナミックな光景です。
トラック部門に、1991年から参戦している日野レンジャーは、2016年参戦で25回目となったそうです。
日野は10リットル未満クラスで優勝し7連覇を達成しました。そして全車完走と、高い技術と信頼性を示したのです。
パリ・ダカール・ラリーはアモリ・スポル・オルガニザシオン (A.S.O.) の主催により毎年1月にアフリカ大陸で行われる競技大会です。フランス人冒険家ティエリー・サビーヌの発案により1979年から開催されました。
元々はフランスのパリを出発点にしてアフリカのセネガルのダカールを終着点としています。
日本からは個人での参加、企業での参加、それぞれ様々なものがあります。企業は二輪部門、バギー部門でヤマハとホンダが健闘して来ました。そして乗用車部門とトラック部門では三菱、トヨタ、日野、日産、いすゞの各社が健闘してきた歴史があります。

しかし日本のマスコミはあまりパリ・ダカールラリーについては報道しません。
その理由は次のように考えられます。
(1)公用語がフランス語でありセネガルは昔フランスの植民地であったため、パリ・ダカール・ラリーは
フランスの国内行事と見なされ日本のマスコミがあまり報道しなかったようです。
(2)パリ・ダカール・ラリーのコースが毎年変更されるため。アフリカの事情を知らない日本人には理解されない。
(3)競技のルールが毎年変更され分かり難いのです。
(4)パリ・ダカール・ラリーの過去の日本勢は健闘むなしく全体的に結果は良くありません。やはりヨーロッパ勢が総合優勝しているのです。オリンピックで日本がメダルを取らなければ報道しない原則がパリ・ダカール・ラリーでも適用するのです。
要するに日本人には理解しにくい競技で、しかも日本が劣勢なのです。

これに比べると世界一のヨットレースのアメリカズ・カップのルールは実に単純明快です。
パリ・ダカール・ラリーのコースの決め方や競技ルールの詳細を知りたい方は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ダカール・ラリー をご覧下さい。
そして今年のパリ・ダカール・ラリーについては、「ダカールラリー:2019年大会でトヨタが初の総合優勝。ハイラックス駆るアル-アティヤが通算3勝目」、https://www.as-web.jp/rally/445334 をご覧下さい。

今日は日本であまり報道されていないパリ・ダカールラリーのトラック部門の日野自動車社の努力の様子をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

仏教の「倶会一処」という考え方

2019年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「フランスの魅力は芸術作品だけではない」と題する記事を掲載しました。
そして「パリ外国宣教会」のことを紹介しました。
日本のカトリック信仰は幕末から明治期に来日した「パリ外国宣教会」の神父達の影響を深く受けているのです。このような趣旨の記事でした。
この記事に対して趣味人倶楽部の「でいしゅうさん」から次のようなコメントを貰いました。
・・・多くの熱心な神父様たちが来日され、布教された事が良く分かります。
狂信的な人もいたでしょうが、神父様たちの大部分は真面目な庶民だったと思います。
キリスト様やマリヤ様に現世のご利益を願わなかったでしょうか?
怪我や病気にならない様にとか、故郷に残った家族の健康を祈ったと思います。人間はそのようなものだと思います。
キリスト教を信仰していないあなたの祖父母は地獄にいるのですか?
このように尋ねると家庭訪問の信者さんは答えに窮しています。・・・

このコメントは多くの日本人を代表した質問でもありますので私の答を以下に示します。
・・・でいしゅうさん、ご質問有難う御座います。私の答を次に書きます。
家庭訪問の信者さんとは違って私は答えに窮しません。
どんな宗教でも、それを信じて死ねば浄土や天国や極楽に行きます。
勿論そこには宗教の違いなどという狭量なものは一切無いのです。皆一緒に幸福になっているのです。
倶会一処なのです。でいしゅうさんの考えが狭いだけです。
ところで神父さんも勿論、現世のご利益を願います。しかし、それだけではないのです。神の栄光をもっと強く祈ります。それがキリスト教なのです。でいしゅうさんの考えはかたくな過ぎます。
全ての宗教の本物の信者は心が広いのです。
質問有難う御座いました。お元気で!・・・

さて倶会一処(くえいっしょ)とは仏教の浄土教の考え方です。
死んで極楽浄土に行くと全ての如来や菩薩たちと一処で出会うことができるのです。そして先に死んだ先祖達とも会えるのです。全ての貧しい人も金持ちも皆等しく一カ所で会えて幸せに暮らせるのです。

この倶会一処には他宗教を信じて死んだ人のことへは言及していません。
しかし倶会一処の考えを突き詰めて行けば全ての宗教にも普遍的に通用する考え方になります。
その境地には宗教の違いによる壁など自然に消えて無くなります。
これが私の信じていることなのです。

今日の挿し絵代わりの写真は今朝のカトリック小金井教会のミサの風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









庭の2本の梅の木への感謝と祈り

2019年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
庭に2本の梅の木があります。白梅の木は1964年にこの家を新築したとき妻の両親が贈ってくれました。緑ガク青軸の「月の桂」という木です。もう55年になりますが毎年美しい花を見せてくれます。梅の実も沢山採れ大粒の梅干しが楽しめます。
1964年にはもう一本、紅梅の「紅千鳥」も植えてくれたのですが家を増築するとき切ってしまいました。美しい紅色の濃い花を思い出しては、残念なことをしたと後悔しています。
10年ほど前に神田の湯島天神に行ったおりに紅梅の苗を買ってきました。その紅梅が最近美しく咲くようになりました。清らかな香りも楽しんでいます。
今年はこの紅梅と白梅が散ってしまいましたが写真を沢山撮りました。
今年の紅梅と白梅へ感謝して5枚の写真を掲載して置きます。そして来年も美しく咲くように祈ります。









フランスの魅力は芸術作品だけではない

2019年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスの魅力の一つは絵画や建築などの芸術作品です。
ところがフランスの魅力はこの他にも沢山あります。
その一つとして、揺るぎのないカトリック信仰も魅力の一つと思います。
日本のカトリック信仰は幕末から明治期に来日した「パリ外国宣教会」の神父達の影響を深く受けているのです。

さて日本へカトリックの教義が大々的に伝承されたことは2度ありました。
1回目は戦国時代末期から江戸時代初めにかけてのスペイン、ポルトガルのイエズス会の神父達による宣教でした。
2回目は幕末から明治期の「パリ外国宣教会」の神父達の宣教活動でした。

今日はこの「パリ外国宣教会」の神父達のことをご紹介したいと思います。
この欄で「美しい日本の教会の写真」と題する連載を12回いたしましたが、その多くの教会は「パリ外国宣教会」から派遣された神父達によって設計、建設されたのです。
例えば函館のカトリック元町教会は1859年(安政6年)に「パリ外国宣教会」派遣のカション神父によって建てられました。
「パリ外国宣教会」派遣の神父達の設計、指導によって建てられた教会は他にも沢山あります。
国宝の大浦天主堂、長崎のカトリック出津教会、京都の宮津教会、山形の鶴岡教会など沢山あります。「パリ外国宣教会」の方針は日本の地方の農漁村に布教し、地方の地場産業を興すことだったのです。

そして明治期から日本に来て日本の土のなった主な神父達は次のように多数いたのです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/パリ外国宣教会)
ルイ・テオドル・フューレ
プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール
ピエール・ムニクウ
メルメ・カション(函館のカトリック元町教会)
ピエール・マリー・オズーフ
ベルナール・プティジャン(大浦天主堂)
ヨゼフ・ローカニュ
マルク・マリー・ド・ロ(カトリック出津教会)
ジュル=アルフォンス・クーザン
アンリ・アンブルステ
エメ・ヴィリヨン
ユルバン・ジャン・フォーリー
フランソワ・アルフレ・デジレ・リギョール
ジョゼフ・マルマン
ルシアン・ドルワール・ド・レゼー
ジェルマン・レジェ・テストウィード
ピエール・ザヴィエ・ミュガビュール
アレクサンドル・ベルリオーズ
ジュスタン・バレット
エルネス・オーギュスタン・ツルペン
エミール・ラゲ
フランソワ・ボンヌ
ジャン・フランソワ・マタラ
ミッシェル・シュタイシェン
ジャン・ルイ・ルラーブ(京都の宮津教会)
ジャン・ピエール・レイ
イポリット・ルイ・カディヤック
ジャック・エドモンド・パピノ(山形の鶴岡教会)
プラシド・アウグスチノ・メイラン
ジェレミー・セツール
クレマン・ヨゼフ・ルモアヌ
ウジェーン・クロドミル・ジョリー
ジャン・アレキシス・シャンボン
シルベン・ブスケ
マキシム・ボネ
ルネ・フランソワ・フレデリク・ドシエ
アルベルト・ブルトン
ヨゼフ・フロジャック
ソーヴール・アントワーヌ・カンドウ

これら多数のパリ外国宣教会の神父達の日本の於ける活躍の様子は次の2つの研究書に詳細に書いてあります。
(1)「明治期の宣教師の社会事業の背景」
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180407013419.pdf?id=ART0009680341
佐藤快信 著 - ‎2011
(2)「フランス人宣教師メルメ・カションの 「日本のヒエラルヒーに関する研究」
Brendan Le Roux(https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20190316082841.pdf?id=ART0010103769 )

それにしてもこのように学術的な研究書が手軽にネットで読めるとは驚きです。
さて戦国時代末期から江戸時代初めに日本で活躍したイエズス会の神父達は明治期には来なかったのでしょうか?
イエズス会の神父達は出遅れたのです。しかし再び活動を再開し、上智大学や栄光学院などの高校を数々創設し、現在も隆盛しています。
栄光学院の名前は、イグナチオの座右の銘「神のより大いなる栄光のために」にもとずいているのです。
一方、パリ外国宣教会は以前ほど活発ではありませんが、相変わらず日本で活動しています。現在の日本管区長は、アントワン・デ・モンジュロ神父です。彼はさいたま教区カトリック所沢教会の主任司祭も兼任しています。

今日はここまでで終わりにします。記事の要旨は明治期に活躍した「パリ外国宣教会」派遣の神父達の活躍の大雑把な紹介でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は大浦天主堂、函館のカトリック元町教会、カトリック宮津教会の写真を2枚ずつ順に示し、最後にカトリック鶴岡教会の写真を1枚お送りいたします。宮津と鶴岡以外は自分で撮った写真です。















都立薬草園にもサンシュウ、モクレン、ボケが咲いて春が来ました

2019年03月15日 | 写真
冬の間まったく花が無かった都立薬草植物園にもそろそろ春の花々が咲き出す頃です。
長い間ご無沙汰していましたが今日は久しぶりに行ってみました。
サンシュウ、モクレン、ボケ、アンズ、ミツマタ、トサミズキなどが咲いていました。

春の花々に温かく陽光が射す穏やかな午後でした。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真はサンシュウです。

2番目の写真は白モクレンです。

3番目の写真はボケです。

4番目の写真はアンズです。

5番目の写真はミツマタです。

6番目の写真はトサミズキです。

残雪光る甲斐の山々の写真

2019年03月15日 | 写真
甲斐の国はどちらを向いても山ばかりです。
山に囲まれた甲府盆地に立つと残雪に輝く山稜がぐるりと囲んでいます。
北の奥秩父の山稜から東を見れば富士山とその外輪山が見えます。さらに目を転じて南を向けば南アルプスの主峰、農取、間ノ岳、北岳が聳えています。その西は薬師、観音、地蔵の鳳凰三山です。右端にひときわ高い甲斐駒岳が残雪に光っています。
さらに北西には壮大な八ヶ岳が堂々と座っています。
昨日は久しぶりに甲斐の国へ小さな旅をして甲斐の山々の写真を撮って来ました。
写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は大月市の初狩から見た富士山です。強い西風に吹かれ山頂の雪が舞いあがり白い雲のようになっています。里には春が来ましたが富士山は厳しい冬なのでしょう。

2番目の写真は中央高速道路の甲府南IC付近から見た南アルプスの主峰、農取、間ノ岳、北岳です。昨日は雲がかかっていて山頂が明瞭に見えませんでしたが、何時もは農取、間ノ岳、北岳が明瞭に見える場所です。

3番目の写真は中央高速道路の須玉IC付近から見た八ヶ岳です。
中央高速道路が甲府盆地に入るとこのような周囲の山々の風景が車窓に見えるのです。
昔、元気だったころに登ったこれらの山々を見ると当時の登高の情熱を思い出し心が熱くなります。

4番目の写真は北杜市大武川沿いの道路から見甲斐駒岳です。河原に斜めに立つ鉄の柱の先端から鎖が垂れその端に大きな鉄球が付いている芸術作品は、地元にアトリエを持つ篠原勝之(クマさん)の作品です。
左の方はアサヨ尾根です。この写真には写っていませんがアサヨ尾根の東に地蔵岳などの鳳凰三山があります。
昨日は鳳凰三山も残雪に美しく輝いていました。

5番目の写真は見甲斐駒岳の山頂部分です。山頂付近は白い花崗岩で覆われているので雪の無い夏でも白く光っている美しい山です。
昨日の小さな旅はこ甲斐駒岳の山林の中の小屋に家内と一緒に遊び行く旅でした。
その小屋は甲斐駒岳を右手に見ながら石空川を遡った森の奥にあります。

6番目の写真は雑木林の中の小屋へ登る道の風景です。こんな道を車でゆっくり登っていると時々鹿や野猿に会います。

7番目の写真は森の奥にある私の小屋です。小屋の向こう側に水の涸れない清い小川が流れているのです。その小川の落ち葉の掃除をして綺麗な砂の川底を見えるようにするのが家内の仕事です。行く度に家内が没頭する楽しい仕事です。私は小屋の中でストーブを焚いています。
1974年に小屋を建てた時、私は赤い三角屋根の木造の小屋にしようとしました。そうしたら現地の棟梁が木造では数年すると腐って倒壊するから鉄筋コンクリートにしなさいと言ったのです。そう言って建てくれたのが写真のような小屋です。爾来45年経過しましたが小屋は建てた当時のままの姿です。
その後、小屋の周囲に作った木造の風呂場や焚火小屋やバンガローなどは朽ち果てて皆消えてしまいました。
45年前の棟梁の優しそうな顔を思い出して小屋へ行くたびに感謝しています。

昨日はそんなささやかな小さい旅をしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

美しい日本の教会の写真(12)カトリック鶴岡教会

2019年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
10年位前のことでした。カトリック鶴岡教会を訪問したのです。
その美しさに胸が熱くなったことを忘れません。
この「美しい日本の教会の写真」の連載でご紹介しようと思いつつ時が流れてしまいました。
この教会は1903年(明治36年)に建てられたヨーロッパ中世紀頃のロマネスク様式をもつ教会です。
1979年(昭和54年)から国の重要文化財に指定されています。

フランス人のパピノ神父の設計で、日本人大工の相馬富太郎が棟梁となって建築しました。
高さ23.7メートル、正面の幅10.8メートル、主棟奥行き23.75メートルの木造瓦葺のロマネスク様式の建物です。東北地方ではこの様式の最古の建物です。
窓にはステンドグラスに代わり、絵が描かれた透明な紙を2枚のガラスで挟んだ絵窓と呼ばれるものが使用されています。日本で絵窓が使われているのは、この建物が唯一です。

鶴岡カトリック教会天主堂の祭壇に飾られているのは、天主堂ができた記念にフランスのデリヴランド修道院から贈られた「黒いマリア像」です。日本にある「黒いマリア像」はこの一体のみであり、世界的にも貴重なものdふぇす。写真をお送りします。









さて次にパピノ神父のご紹介をします。
ジャック・エドモンド=ヨゼフ・パピノ(Jacques Edmond-Joseph Papinot、1860年11月18日 - 1942年11月21日)はフランス人の神父です。
パリ外国宣教会に所属していました。
浅草、佐渡、神田、鶴岡の教会建築に携わったのです。ローマ字版の聖歌編集を行い、フランス語及び英語による日本紹介を行いました。

1860年11月18日フランス北東部のセーヌ河畔にある町シャロンで誕生。幼くして両親を亡くし祖母や従姉妹に育てられ、子供のための神学校を卒業。1885年にパリ外国宣教会に入会、1886年に司祭に叙階され、3ヵ月後の1887年(明治20年)1月に来日し、関東以北を管轄する北緯聖会に配属された。
建築家でもあったパピノは同年4月より佐渡島の夷町(現在の両津市)の聖堂を設計。同年9月より浅草教会助任。同年10月より浅草教会聖堂建築。1888年(明治21年)4月神田教会の主任司祭として働き、巡回布教。1889年(明治22年)現在麻布教会がある場所に土地を借り受け、自身の設計により木造平屋建による和洋折衷の聖堂を建築した。1890年(明治23年)7月1日、聖堂は、オズーフ大司教により祝福された。パピノは、この麻布教会でもフランス語を教えながら活動した。

その後、東京神学校で教師となり15年間多くの科目を担当したといわれる。1891年(明治24年)神田教会を改築。同年8月より自身の設計により長崎市の中町教会建設に着手。
1896年(明治29年)10月28日神田の天主堂完成。1897年(明治30年)9月中町教会竣工。1900年(明治33年)からは1903年(明治36年)竣工の山形県の鶴岡の聖堂設計に携わる。一方では1899年(明治32年)日本の歴史及び地理に関する辞典をフランス語で刊行。
パピノは他にもローマ字版の聖歌編集の編纂を行うなど、幅広い知識を発揮し活躍した。1903年(明治36年)1月横浜の若葉町教会主任となる。
1906年(明治39年)日本の歴史及び地理に関する辞典を英語で刊行。
1911年(明治44年)9月に約25年間滞在した日本を離れ、1913年(大正2年)にはトゥシェ=メルキュレの司祭、1914年(大正3年)から1919年(大正8年)まではソーヌ=エ=ロワール県のジヴリの司祭を務める。
1919年(大正8年)からは香港へ赴任し、教会誌の発行などに尽力した。その後、1927年(昭和2年)フランスに戻り、パリ外国宣教会本部の出版物の編集業務を担当した。
1942年(昭和17年)11月21日サン・ラファエルにて死去。