後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

剪定していない山地の梅林の風景

2019年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
八王子市の木下沢(こげさわ)梅林は旧甲州街道の小仏峠の下の山の斜面に一面に広がる壮大な梅林です。
ほんど剪定していないので自然な姿に枝が伸び、花がいきいきと咲いています。
山の寒い場所なので満開になるのが平地の梅林より遅くて、毎年3月の中旬頃になります。
木下沢梅林には約1,400本もの紅梅・白梅の木があると言います。
昨日はきっと満開と思い写真を撮って来ました。
以下にお送りする写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。














写真にある木下沢梅林は何時出来たものなのでしょう?
高尾梅郷協会の前田利雄会長(77)によると1962年(昭和37)から次第に作ったようです。
高尾地区、昔の浅川地区の有志が集い、この西浅川・裏高尾地域に梅の郷づくりを決めたそうです。
そして1962年(昭和37)、花火をあげ植樹祭を盛大に開催したのです。
もともとこの地域は梅林の適地と言われ梅栽培が盛んだったそうです。
そして「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」の和歌で知られる菅原道真の銅像が浅川町にあった縁から、たくさんの梅が植えられた、とも言われています。
旧甲州街道沿いの裏高尾にはこうして梅の木が次第に沢山植樹されていったのです。
旧小仏関所跡から木下沢梅林までの道の両側には現在梅の木が沢山あって高尾梅郷と言われています。
まだ数日は梅の花をお楽しみになれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


高尾山入り口参道のソバの美味しい店

2019年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム
時々ソバが無性に食べたくなる時があります。
プロの蕎麦打ちさんが丁寧に打ったソバを鰹節の効いた江戸風のつゆで食べるのです。
そんなソバが食べたくなったら深大寺の門前か高尾山入り口の参道に行きます。
美味しい蕎麦屋が数軒並んでいます。
今日は裏高尾の木下沢梅林の写真も撮ろうと思っていたので高尾山入り口の参道に行きました。長年行きつけた栄茶屋という店のざるソバが絶品です。家内はこの店自慢の自然薯ソバをとりました。

1番目の写真は栄茶屋の写真です。

2番目の写真は手前が自然薯ソバで奥が笊ソバです。ソバそのものが美味しいのです。江戸風のつゆが絶品なのです。自然薯ソバの自然薯が本物の天然の自然薯のようでした。香がり良いとのことです。

3番目目の写真は参道の坂の上の方から撮った栄茶屋の写真です。

4番目の写真は参道の風景です。数軒の蕎麦屋と高尾饅頭の店が並んでいます。

5番目の写真は薬王院が山頂にある高尾山への登り口です。写真の左奥に山頂へ行くケーブルカーの乗り場があります。
ソバの味は店によって微妙に違います。高尾入り口の橋本屋も良い店です。山梨県の北杜市の清春美術館の裏の山林の中のソバの店、「翁」を思い出しながらざるソバをゆっくり楽しんで来ました。暖かい春の日です。

花園に色とりどりの花が咲き今年も春がやって来ました

2019年03月13日 | 写真
東京に京王電鉄という大きな会社があります。その会社が管理運営している花園に「京王フローラルガーデン・アンジュ」という洋風の花園があります。アンジュとは天使のことです。
私の家から車で40分位の調布市にあります。
有料の花園なのでプロの園芸家が四季折々一生懸命花々を植えています。
マグノリアや桜、ミツマタなどの樹々が花咲き、ルピナス、ビオラ、ストック、ムスカリ、アネモネなどの洋花も咲いています。小道や池や橋の足元にも花々を咲かせ歩くと非常に楽しい気分になります。
その上花園全体を西洋風に作ってあるので少し外国に行ったような気分になります。
この花園は冬は何もない淋しい所です。
しかし先日行ってみたら色とりどりの花が美しく咲いていました。
嗚呼、今年も本当に春がやって来たのです。
お送りする写真をお楽しみ下されば嬉しく思います。














花々の写真は如何だったでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

戦争の昭和、平和な平成(3)私が見た東日本大津波の傷跡

2019年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
1989年、ベルリンの壁崩壊から始まった平成時代の日本は戦争が無く平和な時代でした。
しかし大きな自然災害の続発した時代でもありました。平成元年から1990年代には次のような自然災害が起きたのです。
雲仙普賢岳火砕流 釧路沖地震、北海道南西沖地震、阪神淡路大震災、そして平成23年、1911年3月11日の東日本大震災で21000人余の人名が失われたのです。
私は仙台で生まれ育ったので津波に襲われた荒浜や菖蒲田浜へは何度も海水浴に行っていました。
そして松島や野蒜海水浴場やその先の宮戸島にも足繁く行ったのです。
そんな思い出の場所が大津波でどうなってしまったのでしょうか。気がかりでした。
そこで大津波から1年6ケ月経過した2012年の10月に現地に行ってみました。
今日はその旅の報告をお送りいたします。

私は独りで朝早く、仙台駅から仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先、石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっているそうです。
復旧には全く手がついていないそうです。まったく別のルートで山の中を石巻までつなぐそうです。復旧には5年以上かかりそうです。
高城町駅で降りると一台のタクシーしかいません。中年の親切そうな運転手さんがニコニコしています。そこで津波の被災地の様子が気がかりで来ましたと言うと、快くご案内しましょうと答えます。
車に乗り込んで、しばらく走る間にいろいろ聞きました。東松島市の東名(とうな)町に行きますと言います。自分の家のあった町だそうです。
運転手さん自身の家も流されて何も無くなったと言います。幸運にも家族だけは生き延びたと言います。
そこで、私はその運転手さんの家のあった所へ案内して下さいと言いました。車は快調に数キロ走ります。津波の来なかった舗装道路です。
しかし東名駅に着くと、それは下のように幅の狭いホームが残っているだけです。

1番目の写真は津波に襲われプラットホームだけが残った東名駅です。
鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたと言います。そして数年先には向こうの山の中に新しい線路を作るそうです。

この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。
踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民が住んでいて、260人が犠牲になったそうです。

2番目の写真は一面の荒れ地の津波の猛威を示す家の写真です。

3番目の写真は運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。
彼の家の門の所から庭の方向を見ると庭さきは海です。
運転手さんは私と一緒に庭に入って行き、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で枯れているのです。

私は実名で真面目にブログ記事を書いています。出来たらお写真を出させて下さいと頼みました。よいですよと快く応じてくれたのが下の写真です。

4番目の写真は私を案内してくれた運転手さんとタクシーの写真です。彼は悲しそうな表情をしていました。

いろいろな話を聞きましたが、次に彼の家族の助かった理由を書きます。
大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。下の写真の山の上に逃げたのです。

5番目の写真は家族が逃げ登った石切り場のあった山の写真です。
津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。
もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。
この運転手さんは幸運でした。間もなく山沿いに新しく家を作ったそうです。もとの土地は怖くて二度と住めないそうです。その土地は政府が一坪9600円で買ってくれるという話だけはあるそうです。

6番目の写真は津波で亡くなった犠牲者へ家族に供えた花の写真です。
この東名集落には600人位の住民がいて、260人が犠牲になったそうです。私もタクシーを停め降りて手を合わせて冥福を祈りました。

7番目の写真は道端に何事も無かったように咲いていたコスモスの花です。私は何故か救われたような気持になり写真を撮りました。

東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。ですから大津波の被災地はちゃくちゃくと復興が進んでいると思っています。
しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。
三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。
そしてまだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでいて、将来の計画も無い暗然たる毎日を過ごしているのです。
被災地の復興はいまだ進まず。何も進んでいない所のほうが圧倒的に広いのです。

今日は東日本大震災の被害者が、希望の灯を燃やし復興の歩みを進めるようにお祈り申し上げます。
そして不運にも大津波で命を失った方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
                           後藤和弘(藤山杜人)

今年もついに純白のモクレンが咲き出しました

2019年03月11日 | 写真
先程、調布市にある京王フローラルガーデンに行って、撮って來ました。
青空を背景にして咲く白い花に見とれて来ました。私は純白のモクレンの花が大好きです。
そのうち白い可憐なコブシの花も咲くでしょう。
写真をお楽しみ下さいましたなら嬉しく思います。









戦争の昭和、平和な平成(2)中国の巨大経済圏に組み込まれる日本

2019年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
間もなく平成時代が終わって新しい年号が決まります。
ここで戦争と厳しい冷戦が続いた昭和の時代と、災害が多かったけれども対外的には日本が平和だった平成の時代を振り返って日本の将来を考えてみたいと思います。
戦後の昭和と平成の74年間の日本は戦争の無い平和な時代が続きました。嫌な言葉に平和ボケという言葉があります。日本人がのどかにボケている間に日本の外の世界は急激に変化したのです。
この急速な国際情勢の変化は日本の将来に甚大な影響を与えることは明白です。
この連載の一回目では平成元年に起きたベルリンの壁崩壊を振り返って見ました。これこそ国際社会の激震でした。大きな世界史の転換でした。
同じ平成元年に天安門事件が起きました。鄧小平が武力制圧をします。その結果共産党独裁のもとで中国は驚異的な経済成長をとげ、平成10年には日本のGDPを抜いて世界2位になったのです。
平成31年の現在、中国のGDPはアメリカに迫り、5年後には世界一のGDPになると言われています。
日本の将来は一番大きく中国の経済の影響を受けるのです。
日本は間違い無く中国の経済圏に組み込まれてしまうのは明白です。
従って中国の習近平が進めている「一帯一路政策」の一翼を担うことは避けられません。

一方軍事的にはアメリカとの安保条約により中国の軍備増大に対抗しなければいけません。
このように経済では中国に協力し、軍事的には対抗するという難しい外交を進めなければなりません。
中国は日本を自分の陣営に引き寄せる政策を取っています。
日本軍の南京虐殺や満州国の建国を中国は非難しなくなり、靖国神社問題についても沈黙を守っています。
これこそ中国の「日本を自分の陣営に引き寄せる政策」なのです。
日本の将来は中国の経済圏に組入れられる時代になるのです。

そこで今日は中国の平成元年からの経済成長を振り返って見ようと思います。あわせて習近平が進めている「一帯一路政策」も説明したいと思います。

今や経済的に中国が世界の覇権を握る勢いです。
特に経済の分野で、中国はアメリカ、ロシア、そしてEUと競い、世界の経済的主導権を握っているのです。
一方、日本はアメリカと安保同盟を結び、軍事的にはアメリカの支援が無ければ日本の安全を守れません。
日本人は中国の経済力を過小評価する傾向があります。
しかし日本人は中国の経済力とその巨大経済圏のことを客観的に理解すべきと考えています。
今こそ冷静な客観的考察が重要になって来たのです。

以下は中国の急速な経済成長と「一帯一路政策」に関する簡単な説明です。

(1)中国の驚異的なGDPの成長ぶり

1番目の写真は世界の主要国のGDPの19804年から2021年の推移を示す図面です。この図を見ると中国のGDPの増加は驚異的で、2025年には間違いなくアメリカを抜いて世界一になる勢いです。従来、アメリカのGDPを抜いた国は皆無だったのです。これは破天荒なことです。この出典は,各国のGDP、http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html です。

2番目の写真は世界全体のGDPに占める各国の2017年の比率です。出典は1番目の写真と同じです、
この図面の中の中国の15.5%と日本の6.4%とインドの3.1%とを加算すると25、0%になります。この数字はアメリカの24、4%よりも多いのです。
この中国、日本、インドの合計の25%に韓国と台湾のGDPを加えればアメリカのGDPを遥かに抜いてしまうのです。
さらにインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、、ミャンマー、バングラデシュなどのDGPを加えればアジアには巨大な経済圏が既に出来ているのです。21世紀はまさにアジアが台頭する時代なのです。
アジアの盟主として中国はこの情勢に乗じて中国主導の経済圏を作ろうとしています。

(2)一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想
中国政府は中国から西方のアジア諸国、ロシア、中東諸国、ヨーロッパ諸国にまたがる広大な地域を一帯一路でつなぎ巨大な経済圏を作ろうとしています。
一帯とは陸路でつなぐ経済圏で一路とは海路でつなぐ経済圏です。

3番目の写真は中国が進めている巨大経済圏の地図です。青い色の国は一帯だけでつなぐ国で、褐色の色は一路でもつなぐ国です。
この図面の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B8%AF%E4%B8%80%E8%B7%AF です。

4番目の写真は陸路の一帯と海路の一路の見取り図です。陸路の一帯も海路の一路もまだ決まった自動車高速道路もコンテナ線を航海させる決まった航路はまだあるわけではありません。暫くは複数の自動車道路や鉄道をつないで貨物の輸送をします。航路も同様です。
この一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想に従って中国政府は外交活動を展開しています。
中国政府の李克強国務院総理は、沿線国を訪問し、支持を呼び掛けています。
すでに100を超える国と地域から支持あるいは協力協定を得ており、さらに国際連合安全保障理事会、国際連合総会、ASEAN、EU、アラブ連盟、アフリカ連合、アジア協力対話などの場で盛んに宣伝、勧誘を展開しているのです。
その結果、上海協力機構など多くの国際組織が支持を表明しているのです。
この圧胴を補強するために中国は、諸国の経済不足を補うアジアインフラ投資銀行(AIIB)を作りました。
その上、中国・ユーラシア経済協力基金、シルクロード基金などを矢継ぎ早に作っています。
これらの金融資金はインフラ投資を拡大するだけではなく、中国から発展途上国への経済援助を通じ、人民元の国際準備通貨化による中国を中心とした世界経済圏を確立する壮大な目的があるのです。
何故か日本のマスコミはこの中国の世界経済圏を確立に関すづニュースが非常に少ないのです。いたずらに尖閣諸島の中国巡視艇による領海侵犯だけに大騒ぎしています、木を見て森や山を見ていません。

(3)一帯一路フォーラムに対する日本とアメリカの立場
「一帯一路フォーラム」とは、2017年5月14日から15日、中国の習近平国家主席が旗振り役となり開催した国際会議です。
参加者は29か国の首脳と130か国以上の代表団、約70の国際機関、合計約1500人でした。
テーマは、かつてアジアとヨーロッパの貿易に多大な役割を果たしたというシルクロードを現代に復活させ、中国から海と陸のルートでヨーロッパまでをつなぐ一大経済圏を作ろうというものです。

5番目の写真はこの国際会議の参加者の集合写真です。

さて日本の立場はどうなのでしょうか?
一帯一路フォーラムへは、日本からは、安倍首相ではなく自民党の二階幹事長が出席しています。
経産副大臣が同行しているが、あえてトップは政府の人間ではないので、肯定も否定もしない微妙な立ち位置というものが表れています。
無下には出来ないが、二階幹事長に行ってもらう事で最低限のパイプはつないでおくという立場という事です。
二階幹事長は、5月16日に習近平氏と会談し、安倍首相からの親書を手渡し、日中関係改善に向け話し合ったようです。
一帯一路を中国主導の巨大経済圏構想と警戒して、アジアインフラ投資銀行、AIIB参加を見送ってきた日米も慎重です。

一方、トランプ政権は一帯一路フォーラムへにポッティンガーNSCアジア上級部長を団長とする代表団を派遣させております。
ポッティンガーは米国企業の参加準備と一帯一路の作業部会設置を表明しつつ透明性と民間資本の活用を主張しました。
トランプ大統領自身も一帯一路への協力について米国はオープンであると述べています。
トランプ大統領の上級顧問で元中央情報局(CIA)長官のジェームズ・ウールジーはアジアインフラ投資銀行、AIIBへの米国の不参加を前任のバラク・オバマ政権の「戦略的失敗」と批判しています。
トランプ政権は中国の一帯一路に「ずっと温かくなる」との見通しです。
米国内ではキャタピラー社などといった米国企業、カリフォルニア州などが独自に一帯一路構想への参加を表明しています。
トランプ政権になってから北京のアメリカ大使館などで米国企業と中国国有企業を集めた一帯一路での米中協力を謳う会合が行われるようになったそうです。トランプ大統領の訪中の際は習総書記と一帯一路への協力で一致し、成立した約28兆円の商談の中にはシルクロード基金とGEの共同投資プラットフォームなど一帯一路関連のものもあった報道されています。

以上のように中国の一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想は実に数多くの国々に支持されているのです。
世界を動かすのは今やアメリカ一国だけでなくなり、中国も世界を動かし始めたのです。今まさにアジアの時代が始まろうとしているのです。日本の舵取りの如何によって日本民族の運命が大きく変わろうとしているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

宮津の人々を愛し日本の土になったルラーブ神父

2019年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は愛の宗教です。神が人間を愛します。我々も神を愛します。
しかし眼に見えない神の愛を確信することは普通の人間にはなかなか出来ないことです。
それでも神父さんたちや牧師さんたちは神の愛を示してくれます。同じようにシスター達や修道士達も神の愛を感じさせてくれます。
今日は一つの例として宮津市の人々を愛し宮津の土になったルラーブ神父のことをご紹介致します。
遺体は遺言により宮津市惣村の教会墓地に埋葬されたのです。

1888(明治21)年、パリ外国宣教会から来たルイ・ルラーブ神父は宮津に居を定めて、宣教を開始しました。ルラーブ神父の当時の受け持ち区域は、若狭(福井県南部)から但馬(兵庫県北部)までに及びました。
1895(明治28)年に、地元の旧家・田井五郎衛門氏から敷地の寄贈を受け、翌年の5月、当時としては珍しいフランス風の構造に木造・畳敷きという和洋折衷のロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」が竣工され、献堂式が行われました。
1907(明治40)年には、教会敷地内に、現在の京都暁星高等学校の前身である「宮津裁縫伝習所」が設立されました。
1927(昭和2)年の丹後大震災の際には、戸塚文卿神父を中心とするカトリック医療団と共にルラーブ神父も救護活動に尽力しました。尚、この戸塚文卿神は私どもの小金井市に桜町病院やヨハネ女子修道会を作った医学博士の神父でした。その延長に現在のカトリック小金井教会があるのです。

1935(昭和10)年、ルラーブ神父の来日50周年が祝いました。この年、ルラーブ神父の司祭叙階金祝を記念して「宮津暁星幼稚園」の設立が決定され、翌年に開園されました。
1941(昭和16)年、53年間日本で宣教活動を続けてきたルラーブ神父が、83歳で帰天されました。
1888年に日本に来てから1941年まで53年間も宮津市の人々を愛し日本の土になったのです。

1896年(明治28年)に建てられたロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」は日本で2番目に古いカトリック天主堂として、今も現役の教会として祈りがささげられています。1番古い教会は長崎の大浦天主堂です。
宮津の教会はステンドグラスの美しい畳敷きの教会です。信者は入り口で靴を脱いで畳の上を静かに歩きます。
畳敷きの教会も良いものです。少し寛いで自然な気持ちで祈ることが出来のです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.html です。






それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘
===ルラーブ神父さまのこと、======================
ジャン・ルイ・ルラーブ(Jean Louis Relave、1857年12月17日 - 1941年2月1日)は、フランスの神父、パリ外国宣教会に所属していました。
少年期に日本を知り、来日後、宮津教会で司祭として活動した神父です。
1857年12月17日フランス南部リヨン市のはずれサンテアン村で生れました。
日本26聖人殉教者の列聖は5歳の頃です。村の教会で26聖人に献げられた小さな赤玉のロザリオをもらい日本人のために祈り始めたそうです。
8歳で父を失い、弟妹の世話や畑仕事の傍ら独学で中学程度の学課を修得し、パリの外国宣教会神学校に入り、1885年(明治18年)司祭叙階しました。
同年1885年12月22日神戸に上陸し、大阪川口教会で8ケ月日本語を学んだのち、京都でヴィリヨン神父の助任となります。京都に2年滞在しました。
その後1888年(明治21年)12月に宮津に赴任します。
それからは52年間宮津で働いたのです。
1940年(昭和15年)司教の命令で大阪の聖母病院に隠退。
1941年(昭和16年)7月1日同病院にて死去。遺言により宮津市惣村の教会墓地に埋葬。

戦争の昭和、平和な平成(1)ベルリンの壁崩壊こそ歴史の転換

2019年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
間もなく平成時代が終わって新しい年号がきまります。
ここで戦争と厳しい冷戦が続いた昭和の時代と日本が平和だった平成の時代を振り返って日本の将来を考えてみたいと思います。
昭和という時代は満州事変、上海事変、日中戦争そして太平洋戦争と悲惨な戦争が続きました。やっと1945年の敗戦で真の平和が来ると思ったのに厳しいソ連圏とアメリカ陣営の冷戦が続いたのです。
その上日本が米軍出撃の基地になった凄惨な朝鮮戦争や残酷なベトナム戦争もあったのです。
昭和という時代は悲惨な戦争と緊張した冷戦の時代だったのです。
しかし平成元年の1989年にベルリンの壁が崩壊し、やがてソ連が解体し、冷戦が終わったのです。これこそ歴史の大きな転換でした。
平成時代になって中東では戦争が絶えませんでしたが、日本は平和だったのです。そこで私は「平和な平成」という表現を使用することにしました。

今日は大きな世界史の転換になったベルリンの壁崩壊を振り返って見たいと思います。

(1)ベルリンの壁の崩壊は何故世界史の転換点なのか?
1961年に築かれたベルリンの壁は、1989年11月9日にベルリン市民によって壊され撤去されたのです。
東ドイドイツ政府は国民の国外旅行の規制緩和の政令を1989年11月9日に発表したのです。
「事実上の国外旅行の自由化」と受け取れる表現で発表したのです。直後の夜にベルリンの壁に東ベルリン市民が殺到したため国境検問所が開放されたのです。
翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まりました。これがベリリンの壁崩壊というものです。
これにより1961年のベルリンの壁建設から28年間にわたる東西ベルリンの分断の歴史が終結したのです。
ベルリンの壁の崩壊は東欧革命を引き起こし、東欧諸国では続々と共産党政府が倒されます。
そして、翌年1990年10月3日には、東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツが統一されます。
1991年になるとソ連体制も解体され、続いてウクライナ、グルジア、ペラルーシュ、リトアニア、ラトビア、エストニア、モンゴル、ウズベクシュタン、アゼルバイジャン、モルダビア、ラトビア、キルギス、タジク、アルメニア、トルクメンなどの衛星国の全てが独立します。
ですから、このベルリンの壁の崩壊は世界史的な一大転換点と言われているのです。

(2)壁の犠牲者を振り返る
1961年壁の建設以来、西へ逃れるために壁を乗り越えて越境しようとした市民が死亡する悲劇が後を絶ちませんでした。
1961年8月から1989年11月までの28年間で5000人以上が越境して逃れ、約200人以上が越境できず国境警備兵によって射殺され、約3000人以上が越境に失敗し逮捕されたと言われています。
一方、東西ドイツの間の国境線で1961年から1988年までに総計23万5000人が西ドイツに逃れます。
そのうち4万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者でです。
ベルリンの壁を超えようとした未遂者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑でした。そして逃亡幇助の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあったのです。

(3)ゴルバチョフの称賛すべき改革がベルリンの壁崩壊に繋がった!
1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内の東欧諸国でも民主化を求める声が高まります。
このゴルバチョフ改革で事態が進展したことが東ドイツの体制に致命的影響を与えたのです。
東ドイツにとってこのゴルバチョフの改革は大きな希望を与えるものでした。東ドイツのホーネッカー政権もペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を導入しようと考えます。
1987年に当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは西ベルリンを訪問し、ベルリンの壁の前での演説で「Mr. Gorbachev, Tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と訴えます。
こうしてゴルバチョフの称賛すべき改革がベルリンの壁崩壊に繋がったのです。
ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞し日本も訪問しました。

最後にベルリンの壁の恐怖をひしひしと実感した私のささやかな体験を記します。
1970年、西ドイツに留学していた私は西ドイツ政府によって国内観光旅行に招待されます。5月の末頃、西ベルリンにも行きました。
高々と冷たく立つ黒い壁は陰惨で怖ろしいものでした。一緒に行ったドイツ人が恐怖におののく顔で「絶対に東ベルリンには行くな!帰って来れなくなる」と声を潜めて言うのです。
遠方からブランデンブルグ門を指さし、「あの向こうに絶対に行くな」と言うのです。
あのドイツ人の恐怖におののく顔を今でも忘れません。

それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘


今日の挿し絵代わりの写真は梅の実を収穫するための剪定した梅の花の写真です。花を鑑賞するための剪定との違いをご覧下さい。写真を撮った場所は町田市の小野路という農村地帯です。収穫用の梅畑が散在しています。







剪定しない梅の木の花の写真を撮りに行く

2019年03月08日 | 写真
剪定しない梅の木は伸び伸びと育って、その枝に咲く花が活き活きとしています。今年はそのことを発見しました。
桜の枝を切る馬鹿、梅を切らぬ馬鹿と言いますが、梅を切らぬ馬鹿は間違っていると気がつきました。
剪定しない梅の木が沢山ある場所も見つけました。東京の町田市の小山田緑地公園近隣の農村地帯です。
今日は久しぶりの青空なので、午後から写真を撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









頭がクラクラしたら印象派の油彩画を見る

2019年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日次のような記事を書きました。
「お寺と日本の仏教(3)星信仰と仏教の混淆、妙見寺」
この記事を書いていて私の頭はクラクラして気が狂いそうになります。
北極星信仰と佛教と神道が混淆した日本独特の妙見信仰をご紹介しようとして心が迷い、困っています。混淆のあり方が複雑すぎて私にはどうしても理解出来ないのです。・・・
昨日の私の頭のクラクラが今朝まで残っています。
こういう時には印象派の絵画を見て気を静めます。
そこで今日は印象派の油彩画の写真をお送りいたします。
昨日の記事の続きのようなものです。
これで又元気が出て来ましたので今日も楽しく過ごせそうです。

それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘

1番目の写真は「笛を吹く少年」です。(マネ、1866年、油彩、オルセー美術館、パリ)

2番目の写真はドガの『舞台の踊り子』です。(1878年、オルセー美術館)

3番目の写真はユトリロの「アブルヴォワール通り」です。(1914年、ポーラ美実館)

4番目の写真はルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』でえす。(1876年 オルセー美術館)

5番目の写真はクロード・モネの『日傘を差す女」です。(1875年 ナショナル・ギャラリー (ワシントン))

6番目の写真はシスレーの『サン・マルタン運河の眺め』です。( 1870年 オルセー美術館)

7番目の写真はアルマン・ギヨマンの『イブリーの落陽』です。(1873年 オルセー美術館)

お寺と日本の仏教(3)星信仰と仏教の混淆、妙見寺

2019年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事を書いていて私の頭はクラクラして気が狂いそうになります。
北極星信仰と佛教と神道が混淆した日本独特の妙見信仰をご紹介しようとして心が迷い、困っています。混淆のあり方が複雑すぎて私にはどうしても理解出来ないのです。
自分で理解しないものを書くのですから皆様も頭がクラクラして気持が悪くなりそうになると思います。
そこで何故、私が理解出来ないか写真でご説明いたします。

1番目の写真は大阪や関西で有名な妙見山の入り口の写真です。妙見山は東京の高尾山と同じように参拝客やハイキングを楽しむ人々で賑わう所で大阪駅から阪急線の支線の能勢電鉄があり交通の便も良いのです。
妙見山霊場は正式には「無漏山眞如寺 境外仏堂 能勢妙見山」と言います。
私の頭がクラクラするのは妙見山霊場が佛教の日蓮宗なのか神社なのか道教の北極星信仰なのか理解出来ないためです。いくら考えても何がなんだか分からないのです。真剣に考えると気が狂いそうになるのです。

2番目の写真は妙見山の本堂です。ご本尊は道教の北極星信仰の妙見菩薩です。この本堂のことを「眞如寺 境外仏堂」と呼んでいるのです。境外仏堂とは妙見山を管理している眞如寺の境内から離れた場所にある仏堂だと言っているのです。そして眞如寺 は日蓮宗のお寺なのです。妙見山の本堂は元来道教の北極星信仰のためのお堂ですから仏教とは関係がありません。鳥居なんか作っていますが神道とも関係無いのです。元々関係の無いもを無理に一体化しているので私の頭がクラクラするのです。

3番目の写真は東京の稲城市にある妙見寺の山門の写真です。石の柱にこの妙見寺は天台宗のお寺だと明記してあります。しかし道教の北極星信仰は天台宗と何のかかわりもありません。どのように理解したら良いのでしょうか?私は困っています。

4番目の写真は稲城市にある妙見寺の本堂の写真です。ご本尊は阿弥陀如来さまです。
普通のお寺です。本堂から少し離れた場所に檀家のお墓が沢山並んだ広い墓地があります。

5番目の写真は妙見寺の奥の院の妙見宮のある山頂に登る入り口にある大鳥居の写真です。
妙見宮が神道のように祀ってあります。実は妙見宮は古くからあるもので妙見寺は後世に出来たお寺なのです。
参拝人はまず本堂の阿弥陀如来さまを拝み、それから山の階段を登り山頂の妙見菩薩を拝まないといけないのです。天台宗と北極星信仰の混淆とはそういうことなのです。

さて頭のクラクラを解消するためにここで宗教の混淆について整理整頓しましょう。
日本にはキリスト教や仏教や神道や中国の道教などさまざまな宗教が混然一体となって存在しています。そしてそれらは時代の推移にともなって変化して行きます。
妙見信仰をはじめ、風水や陰陽道や庚申塔信仰は仏教とは異質の道教起源の信仰です。
妙見信仰についての明快な説明は、「戸原氏のホームページ」
( http://www.y-tohara.com/ )にあります。
それによると妙見信仰とは道教の北極星(北辰)と北斗七星に対する信仰であり、日本では仏教と混淆し、北辰妙見菩薩に対する信仰に変化したのです。

この北極星信仰は、その動かない星が北の空にあって宇宙の全てを支配する最高神すなわち天帝として崇める宗教なのです。そして北斗七星は天帝の依頼を受けて人間の行状を監視し、その生死や禍福を支配しているのです。美しい信仰です。

この北極星と北斗七星の信仰は推古天皇のころ日本へ入ってきたと言われています。
奈良の飛鳥にある高松塚古墳の天井に北斗七星が描かれ、北壁には北極星の象徴である玄武像(カメと蛇が絡み合った像)が描かれていたのは日本へ北極星と北斗七星の信仰が入ってきた証拠と言われています。
正倉院の御物にも北斗七星が描かれているので奈良時代にも北辰信仰が入っていたと考えられています。
この北辰信仰が時代とともに仏教と混淆して、妙見信仰へと変化していったのです。

私的なことで恐縮ですが、私の祖父が住職をしていた兵庫県の曹洞宗の正林寺に行くために何度も乗った能勢電鉄の終点が能勢妙見さんでした。本尊さんは北辰妙見菩薩なのです。
その関係で能勢の妙見さんのことは昔から知っていた懐かしい場所なのです。
この妙見山霊場を管理する寺の眞如寺は能勢氏が1600年頃に建立したものです。そして能勢氏は日蓮宗の信者だったので法華経の守護神の北辰妙見菩薩をご本尊にしたのです。
この能勢の妙見さんは三大妙見の一つとして江戸時代中期頃から参拝者が増え、大いに賑わっていたのです。関西地方の名所の一つだったのです。

このように日本の宗教的な風土では仏教も道教も神道も混淆して、日本独自の信仰対象にしてしまうのです。日本の宗教は元来の教義や信仰の内容が時代とともに変化するのが特徴と思います。もちろん宗教の変化はどこの国でも起きますが、日本の変化の様子は非常に独特なものです。

頭をクラクラさせないためには単純に考えることです。
日本のあちこちにはお寺から離れた所に独立して薬師堂や観音堂が散在しています。
道端に庚申塔やお地蔵像さまが立っています。
妙見堂もそれらと同じです。宗教の混淆など面倒なことは考えないで祈れば良いのです。
貴方の愛する家族の健康と幸せを祈るのです。そして戦争が無いように祈ります。平和を祈ります。

それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘

今日は美味しそうなものの写真をお送りします

2019年03月06日 | 写真
今日は独りで立川の高島屋に行きました。独りなので自由です。
美味しいものは一般的に体の健康に悪いものです。しかし今日は家内がいないので美味しく、かつ体に悪いものを少しばかり買って来ました。自由とは良いもですね。
美味しそうなものの写真をお送りします。













ゴーンさんの保釈、嗚呼、私は間違っていた!

2019年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴーンさんの保釈が決定し、10億円の保釈金を払えば今日中にでも拘置所から解放されることになりました。
3畳の不自由な独房から出られるので本人はさぞ喜んでいることでしょう。
私は江戸時代から連綿と続く日本の排他性、外人嫌いをつねづね悲しく思っていました。
ですから西川社長たち日本人幹部のクーデターまがいの裏切りを日本人の排他性のお陰だと理解しました。
そして日産再建の大恩人のゴーンさんに対して弓を引く行為は恩人に泥をかける行為であり日本人の美学に反すると感じていました。
その延長としてフランス人は日本人を非難し憎んでいると確信していました。
そこでゴーンさんを支援するような内容の記事を幾つか書いてきました。
しかし今思うと私は馬鹿でした。間違っていました。今回の事件は裁判沙汰になっているのです。裁判のことを知らない素人の私は沈黙を守るべきでした。
自分の感情論を記事にして掲載すべきではないと考えるようになりました。
そんな感情的な記事の例は次のようなものです。
(1)「西川社長一派のクーデターでゴーン会長が逮捕、この事件が面白い
    三つの理由」               2018年11月21日 掲載 
(2)「ゴーンさんんは天才、西川社長は賢い日本人、それぞれの悲しみ」
                         2018年11月24日 掲載
(3)「ゴーンさん逮捕が浮き彫りにした日本の3つの特殊性」
                         2018年11月29日掲載
(4)「ゴーンさんの再逮捕で留飲を下げる日本人、怒るフランス人、しかし」
                         2018年12月22日 掲載
(5)「 早春の花とゴーンさんの罪と罰」
                         2019年01月09日掲載|
これらの記事に加えてフランスに長く住んでお孫さんもいる日本人のMotoko Boutdumonde からフランス人の今回の事件に対する受け止め方をコメントとして投稿して下さいましたので以下にご紹介します。
このコメントによって私の間違いに気がついたのです。
(1)「ゴーンさんの再逮捕で留飲を下げる日本人、怒るフランス人、しかし」という私の記事に対するコメント;Motokoさんより、
おっしゃるようにフランスの人がゴーンの逮捕に怒っているかどうか、私には分かりません。マスコミは厳しく日本側を非難しているところもありますし、またはこの事件を日産とルノーの、アライアンスの中での勢力争いとして扱っています。ゴーンの肩を持った記事を書いているのはChalenge誌ですが、これはルノーがかなりの株を持っています。ゴーンは色々な人に裏切られて売られたのかもしれませんが、新聞などを読む限り無罪ということはあり得ないのではないでしょうか。
フランス人にとってこの事件は一大関心事ではありません。ゴーン逮捕に先立って始まった「ジレ・ジョーヌ」運動の方がどれだけ重要か分かりません。長く続いてマクロンを脅かしているジレ・ジョーヌのデモは、今は(一旦?)静まりましたが、フランス国民の85%もの支持を受けるまでに至った運動です。購買力の低下、国民の声を聞かない政府のやり方が主な理由になっています(ことの起こりは燃料税の増税)が、特に多くの国民が感じるのはある一部の人たちは信じられないほどの収入を得ているのに税金が免除されたということでしょう。この考えは正しいとは言えないのですが、感情論として通ります。ですから高所得者で権力の権化のようなカルロス・ゴーンが逮捕されても当然のように思えるのです。一般庶民の考えはなかなかマスコミには反映されないようですね。
(2)「 早春の花とゴーンさんの罪と罰」という私の記事に対するコメント;
Motokoさんより、
梅が美しいですね。もうそろそろ府中の郷土の森の梅林にも花が咲くことでしょう。もうあの梅林には行かれないかもしれませんが、とても懐かしいです。
さて、カルロス・ゴーンについて諸国のマスコミではいろいろ言われていますが、日本の司法制度と他の国との違いを指摘することなく感情論のような記事も見かけます。ある国の司法制度は他の国からとやかく言われるべきものではないと思います。日本には日本のやり方というのがあってしかるべきだと思います。
私は、あまりこの後藤さんの投稿と関係ないかもしれませんし感情論ではありますが、どうしてもゴーンに解雇された、または倒産させられた人たちのことを考えてしまうのです。ゴーンは拘留されていても毎日日本円で600万円ちかくの給与をもらい続けています。毎日、です。彼がベルギーや日本などで解雇した人たちはどんな思いでしょう?私が時々通訳に行ったこともあるルノーのテクノセンターではノルマの厳しさのため何人もエンジニアが自殺した時期もありました。その家族たちはどんな思いをしているでしょう?他の勾留者のように四畳半の独房で毎日ご飯3杯の粗食はそんなに大問題でしょうか?
ゴーンは絶対に自分の無罪を主張し続け、負けないでしょう。彼にとってそれ以外に救いはないのですから。
ゴーンの逮捕によって日本にあるアメリカとかの企業が恐れをなして撤退するとかいう噂は聞きました。やましいところがある企業はそうなのでしょうね…
=================================
この2つのコメントを見るとフランス人の本音が分かるようです。日本のマスコミには出て来ないフランス社会の実態です。
そしてゴーンさんの裁判はこれから始まるのです。注意深く見守って行きたいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真はユトリロのパリ風景です。