後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

石山望著、「英国が大きく揺らいでいる」

2019年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム
著者の石山望さんはイギリスに永住している私の友人です。趣味人倶楽部に時々イギリス社会の実態を投稿されています。住んでいなければ理解出来ない社会の実態です。
今日ご紹介する文章は2月1日に投稿されたものです。大変貴重な内容なので、この欄でもご紹介しようと思いつつ、あっという間に時が過ぎてしまいました。
EUの離脱を国民投票で決定したイギリス人は愚かでしょうか?
年月が過ぎてやがて歴史が教えてくれるでしょう。ご一読下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は陽光を受けて生き生きと咲く花々の写真です。
先週、三鷹市の「花と緑の広場」で撮って来ました。









===石山望著、「英国が揺らいでいる、大きく揺らいでいる」======
英国(UK)が揺いでいる。大きく揺らいでいる。。ご存知だと思う。

英国がEU(欧州連合)を離脱するため。その期日が3月29日。もう2ヶ月というところまで来た。

EUというのは、第二次世界大戦直後の廃墟と化した欧州(大陸部分の)を、皆で協力して立て直そうということで、ドイツ、フランス、それにイタリア、ベネルックス3国が発起国になり、1952年に発足した。
いわば、欧州連邦を作ろうというわけ。経済的協力、それにいろんな決まりも基を一にする。何より、国境がないのも同然であるから、人の往き来が自由である。どこでも仕事ができる

そうすればまず、戦争が起こることもないであろう。今では、28ケ国に膨れ上がった。ご存知の通り、その大抵の国で、統一通貨が使える。ユーロ(英国は、これを使ったことがない。正しい選択であったと思う)。

ただ、英国が、このEUに加盟するのは、ずっと後のことで、1973年、保守党ヒース首相の時。

その頃、英国は「英国病」などと言って、恥かしい汚名を頂戴し、経済は混迷していた。ストライキも多かったし。ヒースは、EUに参加することによって、なんとか活路を見出そうとしたのではないであろうか。
しかし、英国の経済が本当に回復するのには、ヒース退陣後5年からのサッチャー政権を待たなければならなかった。

それはそれとして、EU。

英国は、ヨーロッパに属すると言っても、島国であって、大陸部のヨーロッパ諸国とは大いに違う文化を育んできた。また、EUの一員だと、他の国からの移民を多く受け入れなければならない。こういうことを苦々しく思う国民もまた多かった。

したがって、英国では、EUに加盟してからも、他のヨーロッパ諸国とは「一線を画したい」という人間が非常に多く、それが、EU加盟後43年、2016年の国民投票で爆発した。

時の保守党首相キャメロンが、「EUに存続するか、否か」ということを世に問うたのである。どうやら、国会議員の中の多くの離脱派から圧力をかけられたらしい。

首相自身は、「存続派」であったから、どうしてそんな危ない橋を渡るのかと、私には不思議であったが、それは、その前の総選挙での、保守党公約であったという。私、これは立派であると思う。何しろ、この国、「選挙公約(マニフェスト)は、きちんと履行するもの」という大前提がある。

そして、2016年6月の国民投票では、なんと離脱派が51%の票を集め、存続派を100万人の差で破ってしまったのである。

蜂の巣をつついたような大騒ぎ、それからというもの、英国では、政治家も一般国民も、その話で明け暮れた。

キャメロン首相、この人は存続派であったので、たちどころに辞職。すぐに、女性のメイ内務大臣が後を継いだ。この人も、もともと存続派であったが、そんなことは言ってられない。英国EU離脱に向けて、何とか、お互いに納得のいく「離婚策」はないものかと、英国とEUの間を奔走した。

手切れ金を払う、これは、一番手間のかからない問題で、もっと厄介なのがいくつかある。EUを離れると言っても、離脱後、それらEU諸国と、国交を断つ訳ではない。貿易をするのである。その折の関税の問題をどうするか。また、困ったのが、アイルランドと北アイルランドの国境問題。それらは当然地続きで、もともと同じ国。今の所、国境と言っても何にもない。しかし、アイルランドはEU国で、英国がEUから抜けると、北アイルランドは、UKの一部であるので、じゃ今度は、はっきりした国境線を作らないといけないのか、。

昨年暮れ、メイ首相が、ブラッセルのEU幹部と掛け合い、英国離脱の条件を取り付けてきた。もちろん、理想的とはいえず、あくまで「妥協案」である。

これ以上は望めないという妥協案。EUも、そう言っている、「これ以上は、譲歩できません」。

しかし、英国では、いくら首相がそういう案を持ってきても、それが国会で通らなければ、法案にはならない。

はじめのその妥協案は、国会ではねられることがわかっていたので、メイ首相、再度ブラッセルと掛け合い、少しは、色よい案を持ってきた。

それでも、それを議案として提出すると、大きく負けてしまった。

それから、少しづつ「歩み寄り」があるが、目下の状況はそんなところである。誰にも先行きはわからない。

私、密かに思うが、こういう状況に日本が置かれるということは、ちょっと考え難い。

日本の与党党首(すなわち首相)が、何か議案を持ってきたとしよう。もしその与党が、国会で過半数の議員数を有するならば、その与党議員は、全員、その議案に賛成するはず。だから、この議案は法案として成立することになる。
ここで問題は、その首相が持ってきた議案というのが、多くの国民の反感を買うような、鼻持ちならないものであっても、という点である。

それが、英国では、そう簡単ではない。それは、与党議員の中に、党首である首相に、正面切って、はっきり「ノー」という人がいくらでもいるからのことである。因みに、メイ首相の保守党は、現行の国会で、過半数をわずかに下回る。

そういう時、日本人のやり方だと、なんとかして、事態を「丸く」納める方向に持っていくのではないであろうか。私は、そう思う。

どちらが、健全な、国会のあり方であると、皆様は思われるか。

PS:それにしても、一国の首相か大統領にになるほどの人は、実にタフ。いつも、感心している。ただ、それだけでも。
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「雨の中、野の梅の花の写真を撮り行きました」

2019年03月04日 | 写真
町田市の小山田緑地公園の近隣の農村地帯には剪定していない梅の木に花が活き活きと咲いています。
今日は雨ですが車を駆って野の梅の花の写真を撮って来ました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









お寺と日本の仏教(2)多神教の佛教、檀家は宗派に無頓着

2019年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教には一人の神様と、神様によってこの世に派遣されたイエス様しかいません。従って信仰の対象は単純明快で、唯一の神と一人のイエス様です。これを一神教と言います。
ところが日本の佛教には釈迦如来、観音菩薩、薬師如来、弘法大師、伝教大師などなど多数の「佛様」が同列に崇拝されています。これを多神教的信仰と言います。的と語尾に着ける理由は「佛様」は神様ではないからです。
さて日本のお寺の住職さん達は上座部仏教が一神教的で日本の大乗仏教が多神教的だということに関心がありません。
しかし住職さん達は宗派の違いに非常に関心があります。宗派の違いによって葬式や法事で唱えるお経が違うからです。宗派の違いによって修行の仕方が違うからです。ですから自分の宗派のお経と儀式の仕方や自分の宗派の伝統だけは知っています。他の宗派のことには関心がありません。
しかし一方、檀家や一般人は宗派の違いを重視しません。はっきり言えば無頓着にならなければ社会生活が上手く行かないのです。
親類や友人のお葬式や法事に行けば自分のお寺の宗派とは違うお経を詠んでいます。お葬式や法事の進め方も少し違います。お葬式や法事の終りに立派な袈裟を着たお坊さんがやおらこちらを向いて「南無阿弥陀仏と10回唱えて下さい」と言います。これには吃驚です。私の馴染みの宗派ではそんな事は強要されません。
しかし私は目くじらを立てずに素直に「南無阿弥陀仏」と10回唱和します。
日本人が上手く社会に順応して生きて行くためには宗教や宗派の違いに無頓着にならなければいけないのです。
この日本社会の現実は日本の佛教の多神教的性質から来ているのです。
それぞれ違う宗派のお寺の住職さん達はこの現実に妥協せざるを得ません。
私はこの「お寺と日本の仏教」という連載記事を書くために十数軒のお寺を訪問し、その建物と檀家の多数のお墓の配置を注意深く観察して来ました。
その結果です。
(1)お寺は宗派に関係無く、山門、本堂、庫裏。鐘楼、そして広大な墓地から成り立っています。もっとも墓地が離れた場所にある場合もあります。
(2)墓地へは何時でも自由に入れ、墓に花を供えられる。庫裏や本堂に寄らなくても良いように別の通路があります。
(3)檀家へのサービスとして立派な水くみ場の建物があります。その中に新しい手桶と柄杓が棚に整然と並んでいます。清潔なトイレの建物もあります。それはセルフサービスの店のようで気持ちの良いものです。
(4)すこし余裕のあるお寺では本堂とは別に観音堂や薬師堂があり、そこにも賽銭箱が置いてあります。
(5)広い墓地にあるお墓の形には宗派の違いが殆どありません。
下に前の連載記事の5つのお寺の写真に続けてもう5つのお寺の写真をお送りします。

1番目の写真は踊り念仏で有名な時宗の稱名寺の写真です。府中市の中心部にあります。

2番目の写真は土方歳三の墓のある石田寺です。日野市の石田にあります。宗派は真言宗、高幡山金剛寺の末寺です。

3番目の写真は小平市小川町にある流泉寺の山門です。臨済宗円覚寺派の寺です。

4番目の写真は八王子市高月町の山際にある圓通寺です。圓通寺は近郷に数多くの塔頭・末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったのです。宗派は天台宗です。

5番目の写真は奥多摩の鳩ノ巣の棚沢集落にある正法禅院です。宗派は曹洞宗です。山里の墓地を守る素朴はお寺で、住職一家の住む部屋と本堂は同じ屋根の下になっています。別棟の庫裏は存在していません。

さてこれらの写真で示した多数のお寺の本尊はみな違います。祖父が住職をしていた正林寺は曹洞宗なのでご本尊は釈迦如来でした。
佛教はお釈迦様が教え始めた宗教なので、全てのお寺のご本尊は釈迦如来の筈です。
しかし日本の大乗仏教ではいろいろな如来や菩薩がお寺の本尊になっているのです。
そして日本では江戸時代から特に13の佛が大切にされるようになり、お寺の本尊として祀られるようになったのです。その様子を写真で示します。

6番目の写真は13佛の石像の写真です。東村山市の正福寺本堂の前にある13佛の石像の写真です。臨正福寺は済宗建長寺派の禅宗寺院です。

7番目の写真は府中市の曹洞宗の高安寺の山門前に並んでいる13佛です。曹洞宗の高安寺では釈迦如来は別格で13佛の石像には含まれず大きな別の石像になっています。

十三仏は江戸時代になってから日本で考えられたもので、冥界の審理に関わる13の仏のことです。
また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様とも考えられて来たのです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E4%BB%8F )
13の仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官とされる仏です。
この十三佛は以下の13の佛のことです。

1、不動明王、 秦広王、 初七日(7日目・6日後)
2、釈迦如来、 初江王、 二七日(14日目・13日後)
3、文殊菩薩、 宋帝王、 三七日(21日目・20日後)
4、普賢菩薩、 五官王、 四七日(28日目・27日後)
5、地蔵菩薩、 閻魔王、 五七日(35日目・34日後)
6、弥勒菩薩、 変成王、 六七日(42日目・41日後)
7、薬師如来、 泰山王、 七七日(49日目・48日後)
8、観音菩薩、 平等王、 百か日(100日目・99日後)
9、勢至菩薩、 都市王、  一周忌(2年目・1年後)
10、阿弥陀如来、五道転輪王、 三回忌(3年目・2年後)
11、阿閦如来、 蓮華王 、 七回忌(7年目・6年後)
12、大日如来、 祇園王、 十三回忌(13年目・12年後)
13、虚空蔵菩薩、法界王、 三十三回忌(33年目・32年後)

6番目の写真の13佛の石像の一番右に不動明王があり、その隣が釈迦如来です。そこから左方向に文殊菩薩、普賢菩薩、普賢菩薩、、、、、阿弥陀如来、、虚空蔵菩薩と並んでいます。
大乗仏教では多神教的にこれら数多くの如来や菩薩を大切にして信仰の対象にしているのです。
ちなみに不動明王の起源は、ヒンズー教の最高神シヴァ神にあるとの説が有力なのです。そして不動明王を祀る仏教は密教なのです。
不動明王は、密教仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊なのです。
大日如来の化身とも言われ、また、五大明王の中心となる明王でもあります。
そして真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。

一般的な仏教でのご本尊や仏像は優しい姿をしたものが多いですが、不動明王は悪を絶ち仏道に導くことで救済する役目を担っていることから恐ろしい表情をしています。
怖い様相から「戦いの仏」のように見えますが、実際は迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏で慈悲深いのです。
また日本では「敵国退散の守護神」として扱われたり「疫病退散の守護神」としても扱われています。
日本のあちこちの「ご不動さん」という祠やお寺があり、日本人に馴染みやすい佛さんなのです。

それにしても日本の佛教は理解しにくいものです。お釈迦様の教えにインドのヒンズー教や中国の道教など沢山の考え方が重層的に加わっているから簡単にはその全貌が分かり難いのです。
そんなことを考ええながら多数のお寺の風景写真を撮ってきました。暖かい春ももうすぐです。
おおらかな気持ちで日本の佛教のあり方を考えるのが良いと思います。全ての宗教は平和をもたらすのですから。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北海道のトラピスト修道院の写真です

2019年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は異文化の色濃い北海道の函館の郊外にあるフランスのトラピスト修道院をご紹介したいと存じます。
あれは随分と前の2012年の6月のことでした。
函館の湯の川温泉に3連泊して、4日間、レンタカーで道南を丁寧に見て回ったことがありました。
函館の西の松前は日本海に面しています。南は津軽海峡です。東の恵山道立公園は太平洋に面しています。
4日間いましたので西の松前の城下町から東の太平洋岸まで観光しました。
東では、恵山道立公園、白尻町縄文土器展示館、森、大沼公園、と丁寧に見て回りました。
しかしこの旅の中で、特に強烈な印象を受けたのがトラピスト修道院でした。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあります。
この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。
1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来ましたフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です。
石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて、何年もかけて畑や乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。
レンタカーを駆って訪問してみると、観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。
何故か深い印象を受けたので、4日間に4回も訪問しました。
トラピスト修道院の見える牧草地を散歩しました。そして裏手に回って古い木造の牧舎を長い間、見上げて来ました。周囲の景観にロマンがあり素晴らしいだけでなくこの修道院の苦難の歴史に感動したからです。

このトラピスト修道院の中での生活を少し調べました。
一番大切なのは「祈り」だと書いてあります。
聖務日祷の時刻には、合図の鐘の音が聞こえます。それが聞こえると、どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しなければならないそうです。
修道者の最大の務めは、一日に7回の祈りをささげることです。
ご聖体のパンが安置されている聖堂に全員集まって熱心な祈りをささげます。
修道者の祈りは自分たちのためだけではなく、神の助けを必要とするすべての市井の人々のためにささげられているのです。
そして労働をします。
怠慢は霊魂の敵です。みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者といえるのです。
祈りの生活を続けていくためには、自分たちの働きで生計を維持し、同時に精神的、肉体的健康を保っていく必要があります。
修道者たちは自然界の中での酪農、菜園、果樹園、庭園などの世話をする労働を行います。
このような厳しい生活を想像しながら、トラピスト修道院の見える牧草地を散歩しました。
そして裏手に回って古い木造の牧舎を長い間、見上げて来ました。

この地にヨーロッパから数名の修道者が来た当時は「石倉野」と言われていた程、石ころが多く、熊笹の生い茂る荒涼たる原野だったそうです。
 渡来した修道士たちは徐々に日本人の入会者を得て、苦労しながらこの原野を開拓し、道を作り、丘を平らにし谷を埋めて畑に変え、今日の姿にしたのです。
生活の糧として、牛乳から作ったバターやチーズを売り出しました。
当初、乳製品は日本人に売れません。なじみが少なかったのです。製酪工場の経営は困難をきわめたようです。しかし、よく耐え抜いたのです。
私の撮った写真をご紹介いたします。

1番目の写真は修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。

2番目の写真は修道院の入り口です。
正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。小さなレンガ造りの建物が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。

3番目の写真は古い牛舎の写真です
修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。

4番目の写真は修道院の下に広がっている牧草地です。

5番目の写真は修道院の内部の聖堂でのミサの光景です。
この写真の出典は、http://www3.ocn.ne.jp/~trappist/ です。

この当別修道院は、函館から西方に約30Km、JR江差線「渡島当別駅(としまとうべつ)」で下車して徒歩25分のところにあります。

以上のように北海道の旅は美しい風景とともに何か異文化もあり楽しみが深いのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

また菜の花の写真を撮って来ました

2019年03月02日 | 写真
2月18日に菜の花が沢山咲いている写真を掲載しました。
今日は同じ三鷹市の「花と緑の広場」でまた菜の花の写真を撮って来ました。
陽光が暖かく射し本当に春が来たような気分になりました。
菜の花に囲まれた芝生の上で子供たちが今日も遊んでいました。
今日の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









お寺と日本の仏教(1)檀家、お墓、位牌、住職

2019年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の佛教は寺院仏教だと言われています。
日本人は幼少の頃からお寺の境内で遊び、お葬式や法事には本堂でお経を聞き、春秋の彼岸には墓参りに行きます。夏のお盆には先祖の霊を自宅へ迎えて祀ります。お釈迦様の教えを厳密に知らなくても日本人は一生の間お寺さんとお付き合いが深いのです。
私も祖父が山里の小さな寺の住職だったので少年の頃、盆には檀家の家を回ってお経をあげたこともあります。現在はカトリックですが日本のお寺や仏教が好きです。
そこで最近多くの普通のお寺を訪問してお寺と日本の佛教のありかたを考えて来ました。
感じたこと、考えたことを「お寺と日本の仏教」という連載記事として気軽に書いてみようと思います。
そんな目的があったので、最近10箇所以上のお寺の写真を撮りに行きました。すべて有名でない普通のお寺です。早速ですが今日は5つのお寺の写真を示します。

1番目の写真は日野市にある大昌寺です。浄土宗です。

2番目の写真は小金井市にある海岸禅寺です。臨済宗妙心寺派です。

3番目の写真は府中市にある高安寺です。曹洞宗です。

4番目の写真は清瀬市にある圓通寺です。真言宗豊山派です。

5番目の写真は相模湖のそばにある善勝寺です。高野山の真言宗です。
写真で示したお寺の他にも幾つものお寺を訪問していろなことを観察して来ました。
日本のお寺には檀家の墓が多数並んでいます。そして本堂の須弥壇の後ろには檀家の先祖の位牌が並んでいます。住職さんは毎日、朝夕お経をあげて檀家の先祖の冥福を祈っています。住職さんは作務として境内の掃除をします。檀家の幸せを祈って鐘を突きます。鐘の音を聞いた人々は安らかな気持ちになります。
檀家さんは墓参りに行ったら住職さんへ挨拶し菓子折りなどお供え物を差し上げます。
檀家のお寺へ納めた位牌と同じものをもう一つ作り自宅の仏壇に祀ります。
自宅の仏壇には毎日線香を焚き手を合わせます。
お盆には住職さんが檀家の家を周り家々の仏壇にお経を上げ、お布施を貰います。
お寺から離れて山裾にある孤立した檀家の墓地にはお盆の時、住職さんが世話人とともに訪れてお経をあげます。
以上書いたことは昔の風習ですが、しかし現在でも農村では行われていることです。
さて私が最近訪れた10以上の東京近郊のお寺では上に書いた風習はほとんど消え去っていたのです。
どこのお寺の墓地も綺麗に掃除してあります。清潔です。
しかしプロの掃除人が定期的に掃除をしているのです。例外は住職と奥さんが中心になって掃除をしていた日野市の大昌寺だけのようです。
檀家の人々は美しい花束を持って墓参りに来ますが、住職さんのいる庫裏には寄りません。
本堂の前では本尊と先祖の位牌に頭を下げません。
本堂から線香の匂いがしません。住職のお経の声も聞こえません。
鐘は騒音だとして使わないのです。ある山の中の寺では鐘つきは自動装置になっていました。
これらの観察結果から私はお寺と檀家の間にあった宗教的絆が消えてしまったと感じたのです。
それはもはや寺院仏教でも無くなったのです。
この書き方は極端過ぎることを知っています。熱心に仏教を勉強し、修行に励みつつ檀家の面倒をみている住職さんもいます。
しかし昔のお寺と檀家の間の深い信頼関係は消えつつあるようです。淋しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北朝鮮の非核化は幻想!面白い記事を見つけた!

2019年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今回のトランプ大統領の交渉決裂を見て、私は北朝鮮の非核化は幻想であると確信しました。
いろいろな報道の中で分かり易く説明した興味深い記事を見つけましたのでお送り致します。
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『腰を抜かした金正恩。決裂の米朝会談でトランプは何と言ったのか」
https://www.mag2.com/p/news/388579
ベトナム・ハノイで27、28日と2日間に渡って行われ、北朝鮮の「非核化」について今度こそ合意に至るか否か注目が集まっていた第二回目の米朝首脳会談。しかし、いざフタを開けてみれば「合意せず」という中途半端な結果に終わりました。韓国在住歴30年の日本人著者が発行する無料メルマガ『キムチパワー』は、韓国に住む日本人という視点で今回の米朝会談について率直な感想を綴っています。

決裂の第二回「米朝首脳会談」で、トランプは何を北に要求したのか?
2月27日、28日の両日開かれた米朝首脳会談(第二次)が、合意点を見出せず決裂した。
結論的な部分だけ書けば、トランプは北の核施設の全てをリストアップして教えろといい、金正恩はヨンビョンの核施設だけを提出するだけでも経済制裁を全面的に解除してくれと要求した。
段階的にちょこちょこと出し合う形式ではなく、それこそビッグディール(莫大な取引)を双方が各自の視点から望み、それが(予想通り)全面衝突して決裂したという格好だ。だったら、いままでの2、3か月間、双方の高級幹部たちが水面下でやってきたミーティングは何の意味があったのかといいたいところだ。
いったい何を議論してこの日を迎えたのかと。結果だけからみると、高級幹部らがやったことは何もないように見える。
次の会談の約束はしていないとトランプは言った。こういう形で決裂するとはちょっと想像をはるかに超えるダメージだ。トランプはいつも、「彼(金正恩)はいいやつですばらしい指導者だ」という。今回も、決裂後の記者会見で同じような表現をしている。これはリップサービスレベルでとらえるしかないのかもしれない。
今回の会談は決裂したけれど、しかし筆者としては、意味はあったと思える部分もある。当たりさわりのないレベルでお互いの腹のうちをうかがっていた2018年のシンガポール会談よりは、具体的に双方が「どういうことを望んでいるか」がはっきりと分かったからだ。
米としては、それこそ「CVID」つまり「完全(Complete)かつ検証可能(Verifiable)で不可逆的(Irreversible)な非核化(Denuclearization)」を望んでいるのであり、これ以上でも以下でもないということ。
北朝鮮としては、ヨンビョンの核施設の全てを申告するくらいのレベルで全面的な制裁の緩和を頼むということ。
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これで明確になったことは北朝鮮は将来も永久に核兵器保有国になることです。そして中国やインドやフランスやイギリスのように核兵器不使用の政策を続ける「普通の国」に7なることです。
アメリカの経済制裁は続行されますが、北朝鮮と国交のある数多くの国々との貿易や経済交流でゆっくり少しずつ北朝鮮の国民の生活は向上して行くのでしょう。こんな状態では拉致問題は無視され続くでしょう。
これが現実というものなのですね。嗚呼。


八丈島のフリージア祭りと常夏の島の風景

2019年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
八丈島フリージア祭りは春を告げる季節の風物詩です。私は2009年の1月28日から4日間、八丈島を巡る独り旅をして以来、毎年この八丈島フリージア祭りの案内文を掲載しています。そして暖かい島の風物を思い出しとても楽しいのです。
今年も第53回八丈島フリージア祭りが2019年3月24日(日)から4月7日(日) まで開催されています。
この期間中にはフリージア畑に入って香り高い花を摘むことも出来るのです。そして数々の楽しいイベントが行われます。詳しくは、https://rurubu.jp/andmore/spot/20003519#spot-modal をご覧ください。
八丈富士を望むフリージア畑で、美しい花を無料でつみ取ることができます。約35万本の黄色、白、ピンク、紫、赤など、色とりどりの愛らしい花に囲まれて、春の訪れを感じられるのです。フリージアの花の鑑賞と摘み取り、島内スタンプラリー、八丈太鼓演奏&黄八丈着つけ体験などのイベントもあります。
それではフリージア祭りの2枚の写真と私が撮った八丈島の風景写真3枚を示します。

1番目の写真は三原山の眼に広がるフリージア畑の写真です。   
出典は、www.hachijo.gr.jp/blogs/第52回八丈島フリージアまつり%E3%80%80325日%EF%BD%9E48日/ です。

2番目の写真はフリージア畑の拡大写真です。
出典は、https://fukusuke.tokyo/archives/19777.html です。

3番目の写真は八丈島の冬でも咲いているブーゲンビリアの花です。2009年1月28日から4日にわたって八丈島へ独り旅をした時に撮りました。

4番目の写真は三原山の麓にあったアロエの花です。2009年1月の末なのにウグイスが啼いていました。

5番目の写真は人間の手の入っていない文字通り自然の八丈島の様子です。八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。

八丈島は想像以上に大きな島です。東に10万年前に噴火で出来た三原山、西に1万年前に出来た八丈富士、そして西の海上には八丈富士の弟のような急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠う過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmで東京の千代田区、港区、新宿区、中央区などの合計位の大きさだそうです。
八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。
伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。
八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
そして忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来たばかりの島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。
そんな楽しかった八丈 島への独り旅の思い出を楽しみながら島で撮った風景写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)