後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、武蔵野で野生にかえった梅の花の写真を撮りに行く」

2020年02月19日 | 日記
梅は剪定しないと枝が伸び伸びと成長し野生の梅の木のようになります。
埼玉県の所沢の農村地帯には剪定しないで放置されている梅の木が沢山あります。
農家の人が高齢化して農業を止め、梅の木も剪定しなくなったのです。
そんな梅の花を見ると野生の梅はこんなにも 活力があるんだと感動します。
その感動が忘れられず今日の午後も野生にかえった梅の花の写真を撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









老いの日々故郷のことを思い出す、わがふるさと仙台

2020年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
人はみな年老いると故郷のことを懐かしく思い出します。楽しかったこと、悲しかったこと、鮮明に昨日のように思います。
私のふるさとは仙台です。昭和11年に生まれ24歳で離れる迄住んでいました。
今日はふるさと仙台にまつわるエピソードを思いつくままに幾つか書いてみます。お気軽に読流して下さい。

(1)ベーブ・ルースが来て、日本にプロ野球が出来たエピソード
昭和9年11月9日にベーブ・ルースやルース・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが仙台に来ました。仙台の青葉城の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
ルースは日本に来て初めて2本のホームランを打ったほか、ゲーリックなどもホームランを打ちました。試合は7対0でアメリカチームの勝です。
この年、日本の野球界にとっては画期的な事が起きました。年末に我が国初めてのプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部(巨人軍の前身)が創立されたのです。投手の沢村栄治、スタルヒン、内野手の三原脩、水原茂などの19名です。そして翌年6つの球団が生まれたのです。
それから茫々70有余年、プロ野球チームの楽天ゴールデン・イーグルスが来たのです。仙台の市民は戦前にベーブ・ルースが八木山球場で2本のホームランを打ったことを語り継いでいます。そして楽天ゴールデン・イーグルスを応援しているのです。
少年の頃、私はしばしば八木山球場へ遊びに行きました。戦争一色で放置され荒れ放題です。スタンドの盛り土が崩れ、内野席の前にあった鉄製の網は供出され、崩れた白いコンクリートの台座だけが広がっていました。
ベーブルースがホームランを打った八木山球場があった場所は現在、仙台市立動物園になっています。

(2)仙臺味噌と四代目八木久兵衛のエピソード
仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。
江戸時代には仙台藩の御用で製造していましたが現在は宮城県いちえんで製造され、東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。私の家は仙台味噌を使い続けています。
そもそも仙台味噌は、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市衛門が寛永3年(1626年)に現在の仙台市の国分町に、「仙台味噌」の看板を上げたのが始まりと言われています。
明治政府によって仙台藩は解体され、仙台味噌も消えて行く運命にありました。それを救ってくれたのが八木久兵衛という人でした。
この八木久兵衛のお陰で仙台味噌は現在に至るまで醸造が続きます。
八木久兵衛は明治時代の仙台の代表的な財界人で、仙台市の八木山の所有主として町の発展に大きな貢献をした人です。

(3)仙台が見知らぬ町になってしまったエピソード
仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。
その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。賑やかな商店街でした。
しかし、大正、昭和と時が流れるに従って「東一番丁」が繁華街となったのです。
そんな理由で「東一番丁」に三越百貨店と藤崎百貨店が出来、仙台一の商店街になりました。
私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。「芭蕉の辻」や「国分町」へも足をのばし意味も無く歩きまわったものです。
仙台を出て東京に暮らすようになって60年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅に度々行きました。
仙台では、思い出をたどりながら町々を歩き回りました。
しかし仙台は見知らぬ白い街になっていました。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
茫々60年。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。

皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?

さて今日の挿し絵代わりの写真は毎年8月行われるに七夕祭りの風景です。こんな紙飾りの下を幾度も歩いたことを懐かしく思い出します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










ヒロシ山林を買う、孤独に憧れる人は山林を買え!

2020年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
孤独なお笑いタレントのヒロシが小川の流れている山林を1000坪最近買ったのです。
ヒロシは本当に独りでした。孤独に憧れている私は、ヒロシの淋しそうな立ち姿と暗いメロディに乗せて呟く「ヒロシです・・・」で始まる自虐セリフが好きでした。
以下はソロキャンプが大好きなヒロシが小川の流れている山林を買ったというニュースです。

・・・お笑いタレントのヒロシ(47)が2日、都内で自著「ひとりで生きていく」(廣済堂出版刊)の発売記念イベントを行った。(https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20191102_100 )

まもなく50歳の大台に乗る、未婚で彼女も友達もナシのヒロシが、“群れない、媚(こ)びない、期待しない”をモットーに、独り身で生き抜くためのヒントを伝える“サバイバル教本”。
ヒロシは取材が始まると警戒心むき出しで、「何を聞かれるんだろう…まず、税金は払ってます!きっちりやっております」とけん制して笑わせた。
本書については、「『何で結婚しなきゃいけないの?』とず~っと思って生きてきた。俺は一人でも楽しいぞってことを具体的に書いた」と説明。
一生独身を宣言し、「結婚は期待の最大級。勝手に幸せな結婚生活を描くと絶対裏切られる」とキッパリ。・・・
ソロキャンプが趣味で、9月上旬に関東近郊にある約1000坪の山を購入。
金額については「言わない。ロマンをなくしちゃいかん」と明言を避けたが、「別荘地とかじゃないので、すごく安いんです。正直、アルバイトしながらでも買えるぐらいの金額」と明かした。・・・

金額を私が山林を買った経験から想像すると1000坪で数百万円です。
どのような山林でしょうか?それはヒロシちゃんねる、「山林購入 開拓① 草刈り編」などを見ると分かります。
山林購入 開拓① 草刈り編、https://www.youtube.com/watch?v=s98_RXU1bNQ
山林購入 開拓2 開拓キャンプ(前編)、https://www.youtube.com/watch?v=_C5k_L7JCsQ
荒れた山林のゆるい傾斜地で下の方に小川が流ているのです。私が1 974年に購入した山梨県の山林と非常に似ているのです。何故か嬉しくなりました。
そこで私の買った山林を写真でご紹介しましょう。

1番目の写真は山林の中の小屋に入る道路の風景です。奥の山が甲斐駒岳で右側に石空川が流れています。河原に立つ鉄の棒は、ゲージツ家クマさん(篠原 勝之)のオブジェです。近所に彼のアトリエがあります。この道路までは人間の行き来する世界です。

2番目の写真は山林の小屋へ登る細い自動車道路です。冬はすっかり落葉して明るい道になります。夏はうす暗い小道になっています。

3番目の写真は冬の雑木林の美しい風景です。新緑や深緑の風景も良いものですが梢が冬空にシルエットを作る光景も魅力的です。
この山林の中に1974年に小屋を建てたのです。

4番目の写真は小屋の中の薪ストーブです。いろいろなストーブを使いました結局このシンプルな鉄板を瓢箪形にしたストーブが一番使い易いことが分り、長年、愛用しています。

5番目の写真は小屋の庭を流れる小川です。岩魚が棲んでいた時期もありましたが現在は蛙とトンボの幼虫だけが棲んでいます。一年中水が涸れません。
この小川の源流を調べたことがありました。500m位上流がカラマツ林になっていて水があちこちで湧いている湿地帯になっていました。

すっかり落葉して梢が黒いシルエットを描いている山の雑木林は美しいものです。その山林の背景には甲斐駒岳の稜線が連なっています。
遠い森の方から鳥の声が聞こえます。誰もいません。静かです。石空川の瀬音がかすかに響いています。
ストーブで湯を沸かしコーヒーを淹れます。コーヒーの香りが小屋の中に流れます。
午後は活発な家内が庭先の斜面を登って上の雑木林から見下ろしています。
静かな山林の中に座って足もとの小川の水音を聞いています。自然に、「人間は土から生まれ、土に帰る」という言葉を思い出します。

最近、孤独なお笑いタレントのヒロシが購入した山林が私の山林と非常に似ています。嬉しくなったので自分の山林をご紹介しました。ヒロシさんが山林を長く楽しむようにと祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

剪定しないので野生に帰った梅の花

2020年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
梅の枝の剪定は難しいものです。素人が剪定すると黒い枝だけが見えて梅の花が枝に隠れて見えにくくなります。私の庭の白梅、紅梅も毎年剪定に失敗します。
剪定の上手な所は何と言っても水戸の偕楽園です。
ところが全く剪定しないで自然に育った梅も活き活きした花を咲かせます。
東京の郊外の昔は農村だった所には 剪定しないので野生に帰った梅の花が勢いよく咲いています。
嗚呼。野生の梅はこんなに 活力があるんだと感動します。
今日は野生に帰った梅の花の写真をお送りいたします。東京の町田市の小山田緑地公園近隣の農村地帯で撮りました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。










「超大国アメリカの人々の宗教観を日本人は理解し難い」

2020年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカは今や世界の超大国として君臨しています。
航空空母艦を10隻以上も保有し軍事力では中国、ロシアを圧倒しています。
世界中に軍事基地を保有しています。こんな超大国は人類史の中で初めてのことです。
アメリカは軍事的に全世界を占領しようとすれば可能な勢いです。
戦後75年間にわたって日本はこのアメリカを手本にして来ました。アメリカの民主主義を理想として導入してきたのです。アメリカは日本にとって理想社会でした。
しかしここで深く考えてみると日米間の文化、特に宗教観はあまりにも違い過ぎます。
ですからアメリカと日本が宗教に関して共通の価値感を持つことは難しいのです。

今日はアメリカ人の考え方や宗教観が日本人と違う点を強調して書いてみたいと思います。
この日米の違いはペリー提督による日米修好条約以来続いている事実なのです。

まず日本が受け入れた便利なアメリカ文明の例を書きます。
コンビニが全国の津々浦々にあります。その数、7万店舗以上になると言います。スーパーもマックやケンタやスタバのようなファストフードの店もきめ細かく普及しています。
郊外の大型量販店もアメリカ発祥です。この狭い日本の国内旅行に飛行機を使うのもアメリカの風習です。その上、その旅客機はほとんど全てがアメリカ製なのです。 こうしてキーボードを叩いているパーソナル・コンピューターもアメリカ発祥のアメリカ文明の産物です。アメリカ文明が押し寄せて来て日本を飲み込んでいるのです。

しかしアメリカの特徴といえば進歩しつつある科学や技術の他に「キリスト教」に対する強い信仰があることです。
アメリカ人の80%がキリスト教を信じています。

アメリカ社会における人間関係にはその下敷きにキリスト教への信仰があるのです。アメリカは弱肉強食の社会で、貧富の差が大きいので人間関係は殺伐としていると日本人は誤解しがちです。
しかしアメリカに暮らしてみると助け合いの精神が溢れていて、実に暖かい人間関係があるのです。殺伐とした社会というより人間的で温かい社会なのです。
ですからアメリカ人の精神文化を万遍無く公平に理解しようとしたら彼らのキリスト教への帰依を理解しなければなりません。
勿論、アメリカにはイスラム教徒もユダヤ教徒も仏教徒も数多くいます。しかし話を簡明にするために今日はキリスト教だけを取り上げます。

それではアメリカのキリスト教はどのようなものでしょうか?
カトリック教徒も多いのですが、アメリカの特徴はいろいろなプロテスタント宗派が乱立していることです。
しかしその宗派の多くは新約聖書の福音書を大切にしている福音主義なのです。
ですからアメリカ人は以下のことを単純に信じ切っていて疑いません。
1、聖書の無謬性(旧約聖書も新約聖書も間違っていない)
2、キリストの処女降誕(キリストは処女マリア様から生まれた)
3、キリストの贖罪(キリストは全ての人間の罪の解消のために十字架につけられ死んだ)
4、体の復活(キリストも全ての死者も何時かは生き返ってくる)
5、数々の奇蹟物語(水上歩行、水を葡萄酒に変えたなど数々の奇蹟話)

日本人は上にかいた5つのことを信じられません。日本人の3%だけが信じているのです。
ですからこそアメリカ人の精神文化のうち、宗教観だけが日本に導入されていないのです。
よくアメリカには物質文明はあるが精神文化が無いといいます。これは大変な間違いです。
正しくは「日本人の理解出来ない精神文化がある」と言い直すべきです。
私自身はカトリックです。しかし般若心経や大悲心陀羅尼経が大好きです。キリスト教と仏教のバイリンガルのようなものです。ですからアメリカの宗教観もある程度理解出来ます。

楽観的な人は日米には共通の価値感があるとよく言います。共通の価値感があるから強固な日米安保条約があると言います。しかしこれは楽観的な理解に過ぎません。国際間の国々の間に共通の価値感があるというのは幻想なのかも知れません。
それにしてもトランプ大統領はキリスト教の信者なのでしょうか?
以前、ローマ法王のフランシスコ教皇はトランプ大統領はキリスト教の信者ではないと言明しました。
心あるアメリカ人は困ったことでしょう。

今日の挿し絵代わりの写真はアメリカ軍の装備の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「今日の日記、隣人を愛せとは具体的にどういうこと?」

2020年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の朝は「鎌倉仏教の茅葺のお寺の写真」という記事を書きました。
東京のあきる野市にある鎌倉仏教の茅葺の広徳寺を写真で紹介しました。

それからカトリック小金井教会のミサに出ました。

ミサの間、隣人を愛せとは具体的にどういうことか考えていました。
一つの例え話でご説明します。
日本人は韓国人を愛せということです。中国人を愛せということです。
この愛せという人造語がいけません。何のことか分かりません。
そこで日本人は韓国人を大切に思いなさい。中国人を大切に思いなさい。という言い方に変えると判然とします。
そんなこと出来ないという方は次のようにすればよいのです。

韓国人も中国人も春になり花々が咲くと嬉しくなります。梅、桜、桃、サンシュユ、モクレンなどが咲くと日本人と同じように嬉しくなり花見に行くのです。
家では家族が仲良く食卓を囲むのです。職場では理不尽な上役に苦労するのです。親や友人のお葬式では日本人と同じように悲しむのです。
そのように具体的に想うことが「隣人を愛す」という事です。
決して難しい事ではありません。

隣人を愛す反対に隣人を憎む人もいます。そいう人は自分で自分を不幸な状態に落としているだけです。自分を自分で傷付けているだけです。そのことに気がつかない愚か者なのです。
「隣人を愛す」にはもっと広い、深い意味があります。しかし分かり易い幾つかの具体的な例を考えて行くことが深い意味へと繋がるのです。私はそのように考えています。
写真は今日のカトリック小金井教会のミサの風景です。





「鎌倉仏教の茅葺のお寺の写真」

2020年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する記事を書くようにしています。いつもはカトリックに関する記事なので今日は鎌倉仏教の茅葺のお寺の写真をお送りいたします。
東京のあきる野市の広徳寺です。

1番目の写真がその本堂です。

2番目の写真は本堂の右に同じ高さで続く庫裏の写真です。同じ高さで続いているので本堂が非常に大きく見えます。茅葺屋根でも非常に豪華な感じを与えています。

3番目の写真は2階建ての大きな山門です。あきる野市の重要文化財です。
このかやぶき屋根のお寺を見て私は「嗚呼、鎌倉佛教だ!」と強く感じました。
建てられたのは鎌倉時代の後の1373年ですが、お寺全体の雰囲気が鎌倉仏教そのものです。
鎌倉は私も何十回も遊びに行きました。鎌倉のお寺へも何十回も行き写真を撮りました。境内に佇んだり坐ったりしていると、とても穏やかな気持ちになれます。
そうしたら鎌倉佛教とはこういうものだと感じられるようになったのです。それは奈良や京都の佛教と違うのです。
広徳寺は臨済宗建長寺派のお寺で室町時代の応安六年(1373年)に鎌倉建長寺の心源希徹禅師に請うて創建された古刹です。境内が1万2千坪もあり大木に囲まれた静かな別世界です。
山門、総門、本堂が東西に一列になっています。
この寺には有名なカヤの大木とタラヨウの大木もあります。
今日示しました本堂は江戸時代のものですが創建時代の鎌倉佛教の様式を忠実に遺していると言われています。
本堂の前に長く座っていると鎌倉時代にタイムスリップしたような気分になります。
日本は広いです。根気よく探せばこのような茅葺の大きな堂宇があるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、満開になった公園の梅林を眺めに行った」

2020年02月15日 | 日記
午前中は「日本人の優しさを示す5枚の写真」という記事を書きました。
日本人の優しさの一つは日本で死んでしまった外国人に対する同情心です。外国人のために墓を建て供養する美しい心です。そうして下田の玉泉寺にあるペリー艦隊の水兵の墓、同じく玉泉寺にあるアメリカ水兵5人、ロシア水兵3人の墓、幕末に函館で亡くなったロシア人のロシア正教の墓、高麗王の廟などの写真を掲載しました。

昼食は近所のレストランに行きました。
午後に小金井公園の梅林などの満開の梅の花をゆっくり眺めに行きました。
スパーのヤオコーに寄り食品を少々買いました。
今日撮って来た梅の花の写真をお送りいたします。









日本人の優しさを示す5枚の写真

2020年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
「何故、外国人が日本を好きになるのか?」という記事を2020年02月07日に掲載しました。
そして次の5つの理由によって日本の評判が良いと考えました。
(1)いろいろな差別が消え、完全に平等な国
(2)幼少時から好きだったアニメ番組を作った国
(3)人々が親切で何処へ行っても安全な国
(4)清潔で世界一豊かな食生活が楽しめる国
(5)75年間、平和が続いた平穏で風光明媚な四季のある国
日本の評判が良いとは嬉しいことです。
しかし私は日本人の優しさをもっと深い次元で考えてみました。
その優しさの一つは日本で死んでしまった外国人に対する同情心です。外国人のために墓を建て供養する美しい心です。
その心に感動した私は折にふれいろいろな外人墓地の写真を撮ってきました。

今日はそんな写真をご紹介したいと思います。客死した外国人への優しさと供養の気持ちを示す写真です。
遠い異国の日本へは故人の遺族は来られません。日本人が墓を建て何時までも供養を続けるているのです。
私は下田、函館、横浜、そして埼玉県と外国人の墓地を訪れました。数年前のことです。
数多くの写真の中から今日はほんの少しの写真だけを示します。

1番目の写真は下田の玉泉寺にあるペリー艦隊の水兵の墓地の石碑です。

2番目の写真は同じく玉泉寺にあるアメリカ水兵5人、ロシア水兵3人の墓です。

3番目の写真は幕末に函館で亡くなったロシア人のロシア正教の墓地です。

4番目の写真は高麗王の廟の写真です。
日本語で外人墓地と言うと普通は欧米人の兵士や商人の墓地のことを意味するようです。宣教師や神父のお墓はそれぞれの宗派の墓地に眠っています。このように聖職者の墓地はいわゆる外人墓地とは別の所にあります。
一方、日本で亡くなった中国人や百済、新羅、高句麗の人々の墓地は外人墓地とは言いません。渡来人の墓地と言います。
例えば4番目の写真に示した埼玉県の高麗郡にある高麗王の墓地がその一例です。とても古い渡来人のお墓です。
高麗王は戦いに敗れ、日本へ亡命し、大和朝廷から埼玉県に領地を貰ったのです。

さてもう一つ日本人の優しさを示した澤田美喜さんをご紹介したいと思います。
彼女は戦後の進駐軍と日本人女性の間に出来た2000人を超える混血の孤児を「エリザベス・サンダース・ホーム」で育てあげたのです。
500人を超える子どもたちをアメリカへ養子に出す仲立ちを行ったのです。ブラジルに自ら作った聖ステパノ農場へも数多く送り出したのです。戦後の人心の荒廃した時代にこういう立派な日本人もいたのです。

5番目の写真は「澤田美喜記念館」の門です。
設立7年後の1955年に 昭和天皇陛下と皇后さまがこの大磯にある「エリザベス・サンダース・ホーム」を訪れたのです。

今日は日本人の優しさを示す写真をご紹介いたしました。
客死した外国人への優しさと供養の気持ちを示す外人のお墓の写真です。そして2000人以上の混血の孤児の命を救った澤田美喜さんの優しさをご紹介しました。書きたいことはまだまだありますがこれで終わりとします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

隣の邦、韓国の春の花々の写真

2020年02月14日 | 写真
日本の隣りの邦は韓国です。そこではどのような春の花々が咲くのでしょうか?
日本人にとって馴染みの深い梅、桜、サンシュユの花、チューリップの花々の写真を送ります。
写真の出典は、https://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TMC/TE_JA_7_5.jsp?cid=1986928 です。

1番目の写真は白い梅が満開になって小高い山々を覆っている風景です。
ここは全羅南道の光陽市です。梅の花のふるさとだけあって、梅の花の香りで春がやって来たことを実感出来るそうです。毎年、3月に光陽梅花祭りがあります。(전라남도 광양시 다압면 지막1길 55)

2番目の写真は桃色の桜の花です。日本の河津桜のような早咲きの桜です。ここは。 済州島です。毎年、3月に 済州桜祭りが開催されます。会場では桜フォトゾーンをはじめ、様々なイベントが行われます。また夜間でもライトアップされた桜を見物することができます。 ( 제주특별자치도 제주시 애월읍 장전리)

3番目の写真はサンシュユの花が一面に咲いている風景です。ここは京畿道の 利川市 です。樹齢100年を越える山茱萸(サンシュユ)が自生しているところとして有名です。早春には山茱萸の黄色い花が、そして秋には山茱萸の赤い実が村全体を覆います。サンシュユ花祭りでは多彩なステージをはじめ、山茱萸製品作り体験、山茱萸料理作り体験なども行われます 。(경기도 이천시 백사면 원적로 775번길 12)

4番目の写真は公園のチューリップ畑です。ここは 忠清南道 泰安郡です。ここでは 世界の5大チューリップ祭りのひとつとして有名な 泰安世界チューリップ祭りが開催されいろいろなイベントがあります。(충청남도 태안군 안면읍 꽃지해안로 400 꽃지해안공원)

5番目の写真は韓国の伝統的な春祭りの踊りです。 全羅南道霊岩郡です。論語などを日本に伝えたとされる王仁(ワンイン)博士の業績を称え、毎年4 月初旬の桜が満開になる時期に霊岩王仁文化祭りを開催しています。パレートや伝統文化の公演など様々なプログラムがあります。(전라남도 영암군 군서면 왕인로 440)

韓国人はお祭りが大好きです。一年中お祭りがあります。お祭り好きの日本人と非常によく似ています。春にはいろいろな花を楽しむ花祭りが各地で開催されます。
隣の邦、韓国の春は花々が一面に咲いて幸せな邦です。平和な邦です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

あちこちで梅が満開になっている風景

2020年02月13日 | 日記
今日は2月の13日です。暖かい日です。近所のあちこちで梅が満開になり良い香りが漂っています。この2,3日に、梅の満開になっている風景を撮りました。
そんな写真をお送りします。楽しんで頂けけたら嬉しく思います。









春の歳時記、梅の花と雛祭り、そして復活祭

2020年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
あちこちの梅が満開になり春がそこまでやって来たようです。心浮き浮きする季節です。
梅の下で茶会をしたり、やがて弥生の雛祭も来ます。そして復活祭も来ます。
この季節の歳時記と言えば梅の花と雛祭りと復活祭ではないでしょうか?
今日はまず梅と、その下での茶会の写真と、雛飾りの写真をお送りいたします。そ
梅の花の写真は府中市郷土の森博物館公園で撮りました。雛飾りの写真はネット検索してお借りしたものです。









思い返してみると雛飾りを見たのは新婚の頃でした。戦前、戦後の困窮した時代に育った私は雛祭どころではなかったのです。それに男だけの兄弟でしたから女の子のお祭りとは縁が無かったのです。
結婚した妻が持参してきた七段の雛飾りを飾った時には吃驚したものです。
しかし何年か後には七段の雛飾りを毎年飾るのが億劫になりました。そこで最後の写真のような小さなものがガラス箱に入っているものに変えました。
毎年3月3日がちかづくとそれを床の間に飾り、菱餅や雛あられや白酒を供えています。雛を飾って子供達と「今日は楽しい雛祭・・・・」などと歌っていました。孫達が幼い頃は毎年、家内と雛祭りを楽しんでいたものです。菱餅や雛あられを食べたり白酒を飲むのが楽しかったようです。
ある年になったら、孫達は、「もうそんな年じゃないよ!雛祭リは勘弁!」と言って寄り付かなくなりました。
それでも家内は一人で楽しんでいます。3月4日になると急いで雛飾りを仕舞っています。「しまうのを忘れるとお嫁に行けない」と言いながら苦笑しています。自分の年を思い出しているのです。
雛祭リは我が家の季節の歳時記です。

雛祭が終わると復活祭がやって来ます。
ついでに復活祭の意味ついて書いてみたいと思います。
簡単に書いてしまえば復活祭はキリストが金曜日に十字架にかけられ処刑され、3日後の日曜日にに生き返ったことをお祝いするお祭りです。
キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。
その一方で復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のクリスチャン関係者だけが祝っています。
復活祭の期日は春の到来を祝う原始宗教のお祭りを踏襲していますので、日本でももっと有名になっても良いと思います。
しかしキリスト教徒にとっては復活祭は一番重要な祭日です。クリスマスよりも非常に重要な祭日です。
その理由はキリスト教信仰の中心をなすのが、キリストが生き返り、その後、天に登って神の右の座に着いたという事実を信じることなのです。
そして最後の審判の時が来ると、キリストは再び帰って来ます。そして全ての死者の肉体も蘇り、復活するのです。
復活祭とはイエス自身の生き返りを祝い、全ての死者の生き返りを祈る重要な祭日なのです。
上に書いたことはあまりにも荒唐無稽なことですね。少なくとも大部分の日本人には受け入れられない空想に過ぎません。
私も本物の日本人ですから復活祭が日本へ受け入れらなかった事情は痛いほど良く分かります。なにせ仏教にはそんな空想論は皆無なのです。

さて欧米人は本当にキリストの復活や全ての死者の肉体の生き返りを信じているのでしょうか?
これこそ欧米人の心の裏にある迷いなのです。ある時は信じ、ある時は疑います。私はカトリックなのである時は確かに信じています。
100%そのまま信じている欧米人もいます。60%信じている人もいます。20%信じている欧米人もいます。しかしここで重要なことは欧米人なら皆が以上に書いた復活の話を知っているのです。
南米の有名な革命家のチェ・ゲバラでさえ、聖書の一句の「愛が無ければ、」を使った「愛が無ければ、革命家になれない」というセリフを言っていたのです。
このように欧米の文化や政治や社会現象の下敷きに、キリスト教があるのです。無意識のうちに欧米人はその影響を受けているのです。
それは我々日本人が仏教の影響を無意識のうちに受けているのと同様です。カトリックの私も仏教の影響を深く受け、仏教が好きです。
話がそれました。止めます。
今日は春の歳時記としての梅の花と雛祭り、そして復活祭にまつわる話を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、戦争の遺物と菜の花の写真を撮りに行く」

2020年02月12日 | 日記
今日も快晴です。
午前中は「時代の空気、楽しい思い出、悲しい思い出」という記事を書きました。
時代の空気とは何でしょう?
日本の社会にある時代に流れていた空気のことです。その時代の社会の雰囲気です。それは煙のようにはかないものですが独特の香りや臭いを持っていました。
そして東京に都電が走り回っていた時代の空気を書きました。
それからお医者さんに行っていつもの血圧を下げる薬を4週間分貰って来ました。

午後は近所の調布飛行場に行きさきの戦争の遺物の写真を撮りました。
遺物とは旧陸軍の戦闘機、飛燕の掩体壕です。75年前の戦闘機の掩体壕です。
飛燕は首都を守るために調布飛行場に配備されていたのです。
それから東京天文台の下の畑の菜の花の写真を撮って来ました。
写真をお送りします。3番目の写真は調布飛行場を基地にしていた飛燕のカラー化写真です。
写真は、http://blog.livedoor.jp/aoneko57/archives/54493872.html からお借りしました。









三式戦闘機「飛燕」は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機です。製造は川崎航空機がしました。
ドイツの液冷航空エンジンを国産化したエンジンを搭載していました。当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機でした。
総生産機数は各型合わせておおよそ3,150機だったそうです。
一般に中島飛行機の一式戦闘機が5,751機、同じく中島の四式戦闘機が約3,500機生産されたとされているので、太平洋戦争世代の陸軍戦闘機としては第三位の生産機数でした。この10000機以上の戦闘機はほとんど全てが灰燼に帰したのですから戦争の虚しさをしみじみと感じますね。

時代の空気、楽しい思い出、悲しい思い出

2020年02月12日 | 日記
時代の空気とは何でしょう?
日本の社会にある時代に流れていた空気のことです。その時代の社会の雰囲気です。それは煙のようにはかないものですが独特の香りや臭いを持っていました。
その時代の空気のことを考えると楽しい思い出、悲しい思い出が心に浮かんできます。

今日はそんな儚い、そして掴みどころの無いことを書いてみたいと思います。
昭和11年生まれの私は大学卒業まで仙台に育ちました。仙台市の市電に良く乗りました。乗り物が好きだった私は、運転席の後ろに立って、風景が変わるのを楽しみました。それは楽しい思い出として心に残っています。
1962年にアメリカ留学から帰って東京に住むようになりました。
当時は都電の全盛時代のなごりで、都電が都区内の全域に走っていました。
仙台の楽しかった市電を思い出しながら都電にもしょっちゅう乗ったものです。
その時、感じたのですが都電がその時代の東京の空気を作っていると思いました。
武骨な形をした都電にはいろいろな人が乗っていました。楽しそうな顔、悲しそうな顔、その顔顔が時代の雰囲気をかもし出しています。東京の1960年代の時代の空気です。
その都電のある東京の風景の写真をお送りします。

1番目の写真は38系統、砂町方面行きの都電です。1番目から3番目の写真の出典は、http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html です。

2番目の写真は13系統、新宿行きの都電です。

3番目の写真は19系統、王子行きの都電が須田町の停留所に停まっている風景です。

皆様はもう忘れたかも知れませんが当時は車が普及してなく都電だけが庶民の頼りでした。
まだ生活が苦しくて人々は生きるために精一杯働いていたのです。社会には緊張した、しかし希望に満ちた空気が流れていました。
私の楽しい思い出は新婚の家庭生活でした。家内も若々しく2人の小さな子供がいました。
それはさておき、都電の最盛期は1955年頃だったそうです。その頃の営業キロは約213kmもあり、40の運転系統があったそうです。そして毎日、約175万人が利用する日本最大の路面電車だったそうです。
しかし1960年代の終わり頃、都電は少しずつ消えて行きました。
東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年まで都電が廃止されることになったのです。時代の空気が大きく変わり始めたのです。
唯一つ荒川線だけが存続しましたが時代の変化は止めることは出来ません。
都電が消えた原因は地下鉄網の完備と自家用車の普及です。
日本国中で高速道路が建設され日本全体が車社会になってしまったのです。
しかし、地方に行くとまだ路面電車を大切に使っている都市も幾つか残っています。函館市、富山市、広島市、熊本市などです。しかしそれらの都市も車社会になっています。時代の空気が車社会の空気になっているのです。
それでは東京が車社会になった後の風景を示します。

4番目の写真は車が充満している道路の風景写真です。

5番目の写真は都電が撤去され美しく整備された新宿の風景です。

さて日本から市電や都電などの路面電車が消え、車社会になって日本の空気は大きく変わりました。
ついでに、そのずっと前の戦前、戦争中はどんな雰囲気だったのか考えてみましょう。
戦前、戦争中に都電に馴染んでいたある人の回想をお送りいたします。
(1)昔日の池之端七軒町界隈の思い出
市電(その後の都電)は、確か大正7年に、計画が持ち上がったと聞いています。それで、市電の軌道が不忍通りをこの池之端で曲がって、不忍池 の方へ通るようになったんです。私はそのだいぶ後に生まれたわけですが、私の小さい頃は、市電のレール沿いにずーっとドブ川が流れていて、そこでエビガニだとか、オタマジャクシを捕ったりしたものです。
(2)間一髪 !! アメリカの爆撃機に狙われて
戦争中の昭和20年3月の東京大空襲の後、5月だったか、私は都立工芸の夜学に通っていたのですが、授業中に空襲警報が発せられました。皆、家に帰るようにっていうので、水道橋からきて須田町で乗り換えて、こちらに帰ってくる時に末広町で爆弾が落っこったんですよね。
それがねえ、乗っていた電車が当時は「ポール集電」だったでしょう。電車を走らせていると、時々、ポールと架線が離れたりまたくっついたりして、そのときに電流が「バチッ!」とスパークして火花が散るんですよ。灯火管制で町中が真っ暗のなか、アメリカの爆撃機はその一瞬の、火花の光をめがけて爆弾を落っことしてくるんですよね。
そのスパークした場所に正確に爆弾が落とされて、その後続の電車が被害を受けた、というわけです。
(以上は、都電網研究会、
http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html からの抜粋です。)
以上は何気ない都電に関する思い出です。
都電が走っていた戦前の空気が感じられます。人々の感情が描かれています。それは戦前の義理人情の生きていた社会の空気でした。
時代が大きく変わって車社会になって古い義理人情の空気も消えました。
しかし車社会では人々が他人に優しくなりました。ボランティアの精神が行き渡り、見ず知らずの誰にでも優しくなったのです。これが現在の社会の空気なのです。
これも良い時代です。私はそのように楽観的に考えることにしています。

今日は時代の空気という儚い、そして掴みどころの無いことを書いてみました。
何の役にも立たない私の想像です。しかし時代の空気というものを感じる方々には意味のある文章だったかも知れません。そして時代の空気というものは人それぞれなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、江戸時代の小道と平安時代の池の写真を撮りに行く」

2020年02月11日 | 日記
今日も快晴でした。
午前中は「日本の共産主義(2)日本共産党の独特な特徴」という記事を書きました。
さて日本共産党の独特な3つの特徴とは次のように私は考えています。
(1)長いその歴史にもかかわらず一度も政権党になったことが無い。
(2)現存する日本の政党としては最古の歴史を持つ政党である。
(3)現在約28万人の党員を抱え、西側諸国で最大規模の共産党となっている。
国会議員数は、衆議院議員12名、参議院議員13名です。また、約2800人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2018年12月現在62あります。
要するに日本共産党は国政では弱体だが、地方の市町村では重要な政治勢力なのです。

午前中に「角上魚類」という大型の魚屋に行き美しい大きな金目鯛を買ってきました。魚屋さんにさばいて貰いました。

午後は武蔵国分寺の傍にある江戸時代の尾張徳川家鷹狩りの道、「お鷹の道」の写真を撮りに行きました。
ついでに平安時代の伝説がある「真姿の池」の写真も撮りました。
写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。1番目から4番目の写真が「お鷹の道」の風景です。5番目の写真が「真姿の池」の写真です。ここは今日は写真を失敗しましたので以前に撮った秋の写真をお送りします。









=====参考資料================
http://www.natsuzora.com/dew/tokyo-west/otakanomichi.html より転載しました。
(1)お鷹の道、
江戸時代、1748年(寛延元年)から1867年(慶応3年)まで、この辺りの村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていたという。そのことから、湧水を集めて流れる小川沿いの小径が「お鷹の道」と呼ばれるようになったものらしい。1973年(昭和48年)から1974年(昭和49年)にかけて国分寺市が遊歩道として整備し、現在は「真姿の池」と共に国分寺市の名所として知られている。以下省略。
(2)真姿の池と湧水群、
「真姿の池」とは何とも趣のある名だが、その由来は遠く平安時代にまで遡る。「真姿の池」脇に設置された東京都教育委員会の解説板によれば、848年(嘉祥元年)、不治の病に冒された玉造小町という女が病気平癒祈願のために国分寺に参詣すると、二十一日目に一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるように告げた。その通りにすると薬師如来の霊験か、たちどころに病気が癒え、元の美しい姿に戻ったという。それから人々がこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったというのだ。
真姿の池の湧水群とは「国分寺崖線」の下から湧き出る泉のうちの「真姿の池」周辺の湧水群を意味する。「真姿の池湧水群」は東京都指定名勝になっています。