共産主義はキリスト教が生んだ鬼っ子です。この意味を理解するにはキリスト教の限界を理解する必要があります。この問題は先に回して今日の連載では「日本共産党の独特な特徴」を簡明に書きたいと思います。
利用する資料は「日本共産党」、https://ja.wikipedia.org/wiki/日本共産党 です。
この資料は詳し過ぎるので省略や抜粋をし編集し直して分かりやすく書き下しました。
まずはじめによく使われる言葉、「コミンテルン」と「ボリシェヴィキ」の意味をご説明しておきます。
「コミンテルン」とはモスクワにあった国際共産主義運動の指導組織、国際共産党のことです。
「ボリシェヴィキ」はロシア社会民主労働党が分裂して形成された、レーニンが率いた左派の一派のことです。この一派がソ連体制を作り、日本共産党に大きな影響を与えたのです。
ついでに言えば、ブルジョアは資本家階級でありプロレタリアートは労働者階級を意味します。
さて日本共産党の独特な3つの特徴とは次のように私は考えています。
(1)長いその歴史にもかかわらず一度も政権党になったことが無い。
(2)現存する日本の政党としては最古の歴史を持つ政党である。
(3)現在約28万人の党員を抱え、西側諸国で最大規模の共産党となっている。
国会議員数は、衆議院議員12名、参議院議員13名です。また、約2800人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2018年12月現在62あります。
要するに日本共産党は国政では弱体だが、地方の市町村では重要な政治勢力なのです。
日本共産党の歴史:
1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立しました。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいます。モスクアでコミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながしたそうです。
11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部、日本共産党となったのです。
これが日本共産党の全ての始まりになりました。
「綱領草案」では、天皇制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会 、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていました。
さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの日本軍の完全撤退を求めたのです。
当時としては驚くべき活動方針でした。
当然、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかったのです。
そして日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となったのです。
その結果1924年に共産党はいったん解散します。
1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村により共産党は再結党されます。
中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけたのです。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一ら初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生します。
しかし、1928年に治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年には約1000人が検挙されて、日本共産党は多数の活動家を失ったのです。
1932年5月、コミンテルンにて「32年綱領」が決定され、戦前における活動方針が決定されます。
そして日本の革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定したのです。つまり、「帝国主義戦争および警察的天皇制反対、米と土地と自由化、労働者農民の政府のための人民革命の実施」を主張したのです。
戦時下の活動
1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかったのです。
日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの闘争を企図しました。
その後も1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙されます。また、国外に亡命していた野坂は、延安で日本軍捕虜の教育活動をします。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていました。
あまり長くなるので今日は此処までとします。
以上要約すると戦前、戦争中に日本共産党は戦争反対を貫き通したのです。
しかしソ連の国際共産党運動にあまりにも忠実だったために日本文化の伝統を無視し過ぎた活動方針を取り過ぎたのです。そのために日本人の支持が広がらなかったのです。
日本共産党の弱体化は単に官憲の弾圧のためだけでなかったのです。
これほど強いモスクワのコミンテルン崇拝が日本にあったとは驚きです。
今日の挿し絵代わりの写真は平和な大磯の海岸の風景です。早春の浜部です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
利用する資料は「日本共産党」、https://ja.wikipedia.org/wiki/日本共産党 です。
この資料は詳し過ぎるので省略や抜粋をし編集し直して分かりやすく書き下しました。
まずはじめによく使われる言葉、「コミンテルン」と「ボリシェヴィキ」の意味をご説明しておきます。
「コミンテルン」とはモスクワにあった国際共産主義運動の指導組織、国際共産党のことです。
「ボリシェヴィキ」はロシア社会民主労働党が分裂して形成された、レーニンが率いた左派の一派のことです。この一派がソ連体制を作り、日本共産党に大きな影響を与えたのです。
ついでに言えば、ブルジョアは資本家階級でありプロレタリアートは労働者階級を意味します。
さて日本共産党の独特な3つの特徴とは次のように私は考えています。
(1)長いその歴史にもかかわらず一度も政権党になったことが無い。
(2)現存する日本の政党としては最古の歴史を持つ政党である。
(3)現在約28万人の党員を抱え、西側諸国で最大規模の共産党となっている。
国会議員数は、衆議院議員12名、参議院議員13名です。また、約2800人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2018年12月現在62あります。
要するに日本共産党は国政では弱体だが、地方の市町村では重要な政治勢力なのです。
日本共産党の歴史:
1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立しました。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいます。モスクアでコミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながしたそうです。
11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部、日本共産党となったのです。
これが日本共産党の全ての始まりになりました。
「綱領草案」では、天皇制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会 、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていました。
さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの日本軍の完全撤退を求めたのです。
当時としては驚くべき活動方針でした。
当然、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかったのです。
そして日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となったのです。
その結果1924年に共産党はいったん解散します。
1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村により共産党は再結党されます。
中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけたのです。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一ら初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生します。
しかし、1928年に治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年には約1000人が検挙されて、日本共産党は多数の活動家を失ったのです。
1932年5月、コミンテルンにて「32年綱領」が決定され、戦前における活動方針が決定されます。
そして日本の革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定したのです。つまり、「帝国主義戦争および警察的天皇制反対、米と土地と自由化、労働者農民の政府のための人民革命の実施」を主張したのです。
戦時下の活動
1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかったのです。
日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの闘争を企図しました。
その後も1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙されます。また、国外に亡命していた野坂は、延安で日本軍捕虜の教育活動をします。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていました。
あまり長くなるので今日は此処までとします。
以上要約すると戦前、戦争中に日本共産党は戦争反対を貫き通したのです。
しかしソ連の国際共産党運動にあまりにも忠実だったために日本文化の伝統を無視し過ぎた活動方針を取り過ぎたのです。そのために日本人の支持が広がらなかったのです。
日本共産党の弱体化は単に官憲の弾圧のためだけでなかったのです。
これほど強いモスクワのコミンテルン崇拝が日本にあったとは驚きです。
今日の挿し絵代わりの写真は平和な大磯の海岸の風景です。早春の浜部です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)