後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「まだまだ惜別しなくて良いKITAHOさんのブログから『野ブドウ』の話」

2023年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
KITAHOさんは「八ヶ岳南麓-横浜・・・KITAHO World 。」というブログに毎日記事を掲載してしております。KITAHOさんも木内正夫さが紹介してくれたかたです。八ヶ岳南麓での山里生活と横浜での2地域居住を続けています。、原種バラを中心とするガ-デニングや菜園 を楽しんでいます。何年か前に彼の八ヶ岳南麓の別荘を訪ねたことがあります。懐かしい方です。
そのKITAHOさんの8月16日の野ブドウに関する記事を掲載します。

・・・KITAHO著、「野ブドウが美しく色づいてきましたね。」・・・
 野ブドウの彩りは・・・ベージュからライトブルー・・・・そして瑠璃色・・・濃紫色とたくさんの彩りが混在して見せます。
 宮沢賢治はこの野ブドウのことを、めくらブドウと表現し、『めくらぶどうと虹』という童話を発表していますね。
『めくら』というのは岩手県花巻地方の方言と言われていますが、以前から私は子供への注意として、この野ブドウには毒性があり、野ブドウに触れた手で目に触れると、危険!と言う表現をとっていたものと、思っていました。
 土地柄、そんな表現を宮沢賢治は、この童話にも使い、表現していたのでしょう。
 しかし、この野ブドウの毒性は危険なものではなく、漢方にも利用されるものと言うことを知りました。
また、『めくら』と言う表現は、差別語として、最近は注意しなければいけない言葉となっていますね。・・・・・・・

■野ブドウが美しく色づいてきましたね。 ブドウ科野ブドウ(学名: Ampelopsis glandulosa var. heterophylla)

■まだ色づかない、ベージュのものもいっぱいです。


「琵琶湖の畔に住む『ちひろ』さんとの惜別」

2023年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
2007年に甲斐駒岳の麓の木内正夫さんに紹介してもらった
「ちひろ」さんとも惜別の時が来たようです。
最近、重い病気になったという記事を最後に『ちひろ』さんのブログも更新がありません。
2007年から最近までインターネットの上での交友が16年間続きました。長い間の交友に感謝しています。
そこで「ちひろ」さんのブログの8月14日の記事を掲載します。
お世話になりました。ありがとうございました。

・・・ちひろ著、「墓しか残っていない寂しい里帰り」・・・
「今日は子供を連れて、実家へ帰らせていただきます!」・・・と、夫に言って息子と家を出た。
実家とは,義理のおじいちゃんとおばあちゃん、海軍で戦死の為遺骨の無い父と母と兄と弟2人のお墓が残っているだけ、寂しい里帰り。
墓石に色々話しかけて慰めてあげた・・・・・喜んでもらえたと思う。
家を出る時は曇り空で園部の辺りでは土砂降りの雨だったけれど、福知山のお墓に着いた頃はがんがん照り,
蔓延った笹を取り除いて墓石を磨いたりしていると、汗が滴り落ちて熱中症になりはしないかと心配するほどの晴天となった。
やっぱり晴女だと言うと、「ご先祖さんが守っていてくださっているんやろ」と息子が言った。
縦貫道路を走って思ったより早く帰宅できて、おビールの美味しい事。
車中より福知山城をパシャツ!
福知山出て長田野超えて~駒を早めて亀山へ~ ドッコイセ~ ドッコイセ~
下駄がちびるほど踊り明かした福知山音頭
実家のあった場所も道路になって昔の面影は無く、故郷は次第に遠い存在になってゆく。
(原文は2014-08-14 19:37:38 、里帰り! - カメラと遊ぶ日々 (goo.ne.jp) です。


「山林の中に独り住む友人との惜別と感謝」

2023年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
甲斐駒岳の麓の山林の中で長年親しくしていた木内正夫さんが北杜市の施設に入ってしまいました。もう会うことも難しくなりました。惜別です。
以下は木内正夫さんのブログの最後の投稿です。
詳しくは、http://sizen068.blog95.fc2.com/ にあります。
・・・さようなら・・・
眼の状態が思わしくなく、ブログの記事さえ満足に読めなくなり皆様のブログにも訪問がむずかしく なりました。本日をもって終わりにします。
本を読む、テレビ、DVD等も満足に見えなくなってしまいました。飯を炊くなどの生活視力は少し残 っています。
2月下旬からの過激な道路工事も原因の一つだと思います。後少しで完成しますので頑張ります。
今まで応援していただき感謝しています。
コメント欄は開けておきますが返信は出来ません。ブログは人生の記録として残しておきます。さようなら。

以下は私の木内正夫さんへの感謝の文です。

・・・「山林の中に独り住む友人への感謝」・・・
甲斐駒岳の麓の山林の中に独りで何十年も住んでいる友人がいます。木内正夫さんという方です。
最近、視力が弱くなる眼病になってインターネットへの書き込みが出来なくなりました。そのせいで10年以上毎日のように更新してきたブログを止めることにしました。
残念なことですが、ブログを止めることにした彼にこの際、感謝の記を送りたいと思います。
私がこうしてインターネットの上で毎日、写真や文章を掲載出来るようになったのは彼のお陰です。
2007年の秋に私を訪問してくれて、ブログを始めませんかと勧めてくれたのです。そして彼の山荘へ私を誘いインターネット上に写真や文章を掲載する技術を丁寧に教えてくれたのです。
そのお陰で私は2007年の11月から「後藤和弘のブログ」を始めました。
その後、木内さんとは大変親しくなり、いろいろとお世話になったのです。
彼は山荘の周囲の広い敷地にいろいろな花を育てていました。水芭蕉の花、クリンソウ、ヒトリシズカ、イカリソウ、フクジュソウ、ヤマブキ、などなど多種多様な花々を咲かせていました。
そして雑木の丸太を並べて椎茸やナメコも栽培していました。敷地にはクリタケが沢山生えていました。
草花の好きな家内へクリンソウやヒトリシズカやイカリソウを鉢に入れてくれました。私はシイタケの原木を5本も貰ったのです。東京に持ち帰った原木から3年間もシイタケが採れたのには驚きました。
私の家の庭には今年も木内さんから貰ってきたヒトリシズカやイカリソウの花が咲きました。
木内さんは優しい性質の人でした、
自然を愛し小さな花や森の中の生き物を注意深く観察していました。
とくに熱心に努力したことは珍しいモリアオガエルを育てることでした。

彼の山荘の敷地の真ん中に小川が流れています。その傍の樹木の枝に直径10cm位の白い泡の塊があるのを見つけました。春、オタマジャクシが泳ぐ頃です。彼は直ぐにモリアオガエルの卵塊と気が付き、生まれたオタマジャクシを少しだけ分け取って、家の中で飼うことにしたのです。
モリアオガエルは本州と佐渡島にしか棲んで居ない日本固有種で深山にしか居ない珍しいカエルです。
白い泡の塊の中にある数百の卵が オタマジャクシになると下の水溜まりへ落下して小さな可愛いカエルになります。まだ尻尾が付いているのに樹木の枝に這い上がり、一生、樹上生活をします。
飛び跳ねる力が強く一回に3メートル位を飛びます。ですから樹から樹へと、猿のように飛び回って、虫を食べて大きくなります。大きくなるとガマ蛙くらい大きくなります。手足に吸盤がついていて木の葉にしがみ付きます。

ここで5枚の写真を示します。
1番目の写真は木内さんの山荘に行く道です。なお私の山小屋は木内さんの山荘から更に500m位入った山林の中にあります。
2番目の写真は森の中に埋まるように建ててある木内さんの山荘です。この位森と溶け合っていないとモリアオガエルは産卵に来ないのです。
3番目の写真は木内さんが庭に作った池の上の木の枝に産み付けられたモリアオガエルの卵塊です。中に数十匹以上のモリアオガエルの卵が入っています。
4番めの写真はオタマジャクシから孵って手足が消えた若いモリアオガエルです。これに虫の餌をやって育てると大きくなります。
5番目の写真は越冬して大きく育ったモリアオガエルです。翌年は自分が生まれた池の上の枝に卵塊を生むために森の中から帰って来ます。

このように写真を順に見て行くと簡単に飼育出来るように見えます。しかし木内さんの苦労は並大抵ではありません。
オタマジャクシを家の中の容器の水に移し、毎日、ゆで卵と野菜の餌で細心の注意を払って飼育します。
手足が出てきたら草の葉を入れ、這い上がらせます。これで水中生活から一生の間、縁が切れます。
そこからは別の大きな飼育箱へ入れ、ヨーロッパイエコオロギの小さな子どもを餌としてやります。春に孵化したオタマジャクシが11月なってやっと2cmから3cm位に成長するのです。
イエコウロギはインターネットで購入し、数個の飼育箱で子供を産ませます。これが難しくて大変だったと言います。コオロギの飼育箱とモリアオガエルの飼育箱をベットのそばに置いて毎日注意深く飼育しています。冬になったので冬眠させるため暖房の無い寒い部屋へ移そうとしていました。
一方、庭の人工の池で育った数百匹の小さなモリアオガエルは樹木に登って、何処かに飛んで行ってしまいました。森のなかを飛び回って大きくなり、冬眠を始めるのです。

木内さんにモリアオガエルを見せて貰う度に、私は自然の営みの不思議さに吃驚しました。モリアオガエルの美しさに感動しました。
彼は人間が、たまたま独りで森に住んで、そして死んで行くのも自然なことですと言います。モリアオガエルと同じだと言うのです。お葬式もいりません。発見したら玄関の外に書いてある遠方の弟へ電話して下さいと笑っていました。その弟さんは馬場駿という小説を書いている人です。伊豆で岩漿という文学会を主宰していました。

最近、木内正夫さんが眼病になってインターネットの世界から退場すると言うのです。10年以上毎日のように更新してきたブログを止めると言うのです。


 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「信仰を貫いてフィリピンに追放された高山右近」

2023年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
フィリピンの国教はキリスト教です。80%ほどがカトリックで、10%がその他のキリスト教です。つまり合わせて90%以上もの人がキリスト教徒ということになります。
1521年のマゼランのフィリピン到着とその後300年にわたるスペインの統治の歴史がフィリピンをカトリック国にしたのです。
そのフィリピンへ1614年に62歳の高山右近が追放されました。高山右近は有力な戦国大名でした。キリシタンの信仰をつらぬいて追放されたのです。フィリピンではスペインの総督やカトリック関係者に大歓迎されます。
今日はユスト高山右近のことをご紹介いたします。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受け人々の引きとめる中、加賀を退去します。
長崎から家族や内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラには12月に到着しました。
イエズス会の神父たちからの報告ですでにローマ法王に知られていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバやカトリックの信者達から大歓迎を受けたのです。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1615年2月3日に息を引き取りました。享年63歳でした。マニラ到着からわずか40日のことでした。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で10日間という長期間にわたって盛大に行われます。
そして右近の亡骸はイエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられたそうです。

右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
そして約300年後の1977年11月、フィリピン国鉄南方本線パコ駅の前にマニラ市、高槻市、財団法人東南アジア文化友好協会等の協力によりプラザデラオ日比友好公園が作られ、公園内に高山右近像が立てられました。右近のフィリピンに来た経緯が刻まれた碑も設置されたのです。高槻市は昔、高山右近が治めていたのです。
そうした関係で、1979年(昭和54年)1月25日、高槻市とマニラ市は姉妹都市となります。
公園はその後もアロヨ政権期に再び整備され、像や碑も綺麗に立っています。これらに関連した写真を示します。
1番目の写真はスペイン植民地時代に造営されたカトリック教会のサン・アグスティン・デ・マニラ教会です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピンの歴史 です。
2番目の写真はマニラのプラザ・ディラオ(日比友好公園)にある高山右近の記念碑です。後方に高山右近の像が見えます。その後は旧パコ駅舎です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/高山右近#国外追放と死 です。
3番目の写真はマニラの日比友好公園にある高山右近の銅像です。この銅像は高槻市高槻城址公園にある銅像と同じ姿のものです。この近所にはかって日本人町があったそうです。写真の出典は、vel.jp/travelogue/11103053 です。

さて高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。
翌2016年(平成28年)に教皇フランシスコが認可しました。そして2017年2月7日に大阪府大阪市の大阪城ホールで列福式が執り行われたのです。
4番目の写真は高槻城跡公園 に立つ高山右近の銅像です。マニラにあるものと同じ姿です。
これと同じ姿の銅像が次のように各地に立っています。
・大阪府高槻市 高槻城跡公園
・富山県高岡市 高岡古城公園
・石川県羽咋郡志賀町 高山右近記念公園
・香川県小豆島 小豆島教会

ところで日本人の列福式と言えば2008年11月24日 にも長崎で行われ188人の日本人が列福しました。
1603年から1639年にわたって信仰を捨てないで徳川幕府に処刑されたペトロ岐部と187人の殉教者を、ローマ法王が福者と宣言する式典は日本ではじめて行われたのです。式典は188人の殉教者の子孫の代表が遺物を祭壇に供えることから始まりました。
続いて岡田大司教が188人の殉教の証拠やいきさつをローマから来たマルティンス枢機卿へ説明し、福者として正式に認めるように願います。それを受けて、ローマ法王は認めますという宣言をジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が代読しました。

福者はいずれ数年後にはカトリックの聖人として認定されます。高山右近と合計189人の聖者がやがて生まれるのです。日本の26聖人に加えて215人の聖者が生まれるのです。

個人的な蛇足です。1974年頃、塚本神父様の立川教会で私達の堅信式をしたときに司式して下さったのが、当時の白柳大司教様でした。
その後も何度か白柳大司教様の感動的な説教を聞きました。10年以上拝眉しませんでしたが、2008年11月24日にテレビでお元気なご様子を見て嬉しさに堪えませんでした。
それに当時、立川教会で塚本神父様のお世話をしながら作曲をしていた新垣さんの曲が長崎から聞こえてきました。
立川教会のことが懐かしくいろいろ思い出されました。当時、洗礼を受けたとき代父をして下さった山本教授のご子息山本量太郎様がその後、小金井教会の主任司祭様になって来られました。

高山右近から話が外れてしまって申し訳ありませんでした。お許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「8月に咲く花の写真」

2023年08月16日 | 写真
8月に咲く花の写真です。
初夏から初秋に花を咲かせる植物のなかからご紹介します。
写真の出典は、https://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_p_addup_007 です。

1番目の写真はニューギニア・インパチェンスです。(開花期:5月~11月上旬)
耐暑性もあり、育てやすいです。自生地では多年草となりますが、耐寒性がないため日本では春まき一年草として扱われます。

2番目の写真はセンニチコウです。(開花期:5月~11月)
センニチコウの仲間は、暑さと乾燥に強く、日本の夏に適した性質で、長い間花を咲かせ続けてくれます。

3番目の写真はペンタスです。(開花期:5月~10月)ペンタスは春から秋まで長期間、暑さに負けずによく開花します。熱帯の植物で本来は低木状に育ちますが、タネから育てる矮性に改良された品種が小型~中型の鉢物や花壇苗としてよく普及しています。

4番目の写真はマンデビラです。(開花期:5月~10月)
マンデビラは春から秋にかけて長期間開花し、夏でもよく開花します。近年は品種改良が進んでさまざまな品種が登場し、人気が高まっています。

「嗚呼、小樽!、哀愁漂う北の町」

2023年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
小樽は何度行っても旧懐の情や哀愁の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方に赤い火がポッと灯ります。
今日は小樽の風景写真と小樽で育った小林多喜二の『蟹工船』をご紹介したいと思います。写真は2010年の6月17日の夕暮れに撮りました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
小樽と言えば私は『蟹工船』を書いた小林多喜二を思います。1933年に特高警察の酷い拷問を受けて、29歳で没しました。
小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして1933年2月20日に29歳で没しました。

『蟹工船』のあらすじは次にあります。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9 )
蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用された船です。
小林多喜二の資料の常設展示は小樽文学館、(http://otarubungakusha.com/past/200302398 )にあります。

小林多喜二は死の間際まで執筆活動を続け作品の中に込めた弱者救済の思想は現代社会においても通じるものがあります。そして日本の暗い時代の歴史の裏面を知ることが出来るのです。

今日は曾遊の地、小樽の6月の風景をお送り致しました。そして小樽で育った小林多喜二の「蟹工船」をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「8月に美しく咲く花々」

2023年08月15日 | 写真
梅雨が終わり、真っ青な空に太陽が輝く夏。そんな厳しい日差しや暑さに負けず咲く花を見ると、元気を分けてもらったような気持ちになります。
写真の出典は、https://horti.jp/21966 です。

写真は順に、ラベンダー、アサガオ、ペチュニア、ダリア です。

「島根県の宗安寺と父と弟、そして住職の役割」

2023年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
宗安寺は、島根県鹿足郡吉賀町にあります。仙台の東北大学を定年で辞めた父はその後、この宗安寺の住職になりました。父の没後は弟が住職になりました。2人とも曹洞宗の本山の永平寺で修行して僧職の資格を持っていたのです。
宗安寺の住職は名義だけで父も弟も宗安寺に住みこまなかったので本来の住職の役割をほとんど果たしていませんでした。
荒れ果てた昔の宗安寺を再建したのは父の功績でした。父の記念石碑を宗安寺 に建てた時、私と弟が島根県の宗安寺を訪ねて行きました。
小さな本堂だけが建っています。それでも地元の人々があたたく私と弟を歓迎してくれました。
1番目の写真は宗安寺です。インターネットからお借りした現在の宗安寺の写真です。
2番目の写真は宗安寺の近所の島根県鹿足郡吉賀町の風景です。インターネットからお借りした写真です。
さて住職の役割ては何でしょうか?いろいろありまが列挙します。
1、檀家の先祖の位牌を本堂に祀り朝夕に住職が読経をして冥福を祈ります。
2、お彼岸やお盆に住職が檀家の家を訪問して仏壇へ読経をして先祖の冥福を祈ります。
3,檀家の人々の相談に乗って人々の世話をする。
4,檀家の人々の持って来る食べ物をご本尊様へ供える。
5、寺所有の田畑で作物を作り自給自足に努力する。
6,いろいろな所げ出向き仏教のはなしをして布教に努める。

ちなみに父の弟の孝元和尚は上に書いた役割を全部していました。召集されてマレー半島で英軍と戦った人です。しかし戦争の話は一言もしませんでした。何事もなかったように本堂で静かにお経を詠んんでいました。
3番目の写真は曹洞宗の本山の永平寺です。福井県にあります。
4番目の写真は永平寺の本堂へ登って行く長い階段です。私はこの長い階段を登りながら何とも言えない幸福感につつまれたことが忘れられません。

今日は父と弟が島根県の宗安寺の住職になったこと、そして住職の役割について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「立秋の後は残暑、涼しい季節が少しずつやって来ます」

2023年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
ことしの立秋は8月8日の火曜日でした。この日を境に暑中見舞いが残暑見舞いになるそうです。
東京地は相変わらず蒸し暑いのですが、上空の空の色が心なしか秋の色になってきたようです。
この夏は猛暑の日続きで今日は雨が降りました。
立秋も過ぎたので秋が早くやって来るように祈っております。
そこで今朝は「秋立つ」という季語を用いた俳句を読んでみました。
下に私が気に入った幾つかの俳句をご紹介いたしま

秋立つや雨後の夕ベは樹も匂ふ    田口泡水

秋立つや軽井沢にて購ふ髪飾り    柴田蓉子

秋立つや残り風鈴鳴りやまず     永野秀峰

身ほとりに物を少なく秋立ちぬ    田中藤穂

川波の縹渺として秋立てり      斎藤道子

灯台の白さに風の秋立ちぬ      須藤常央

秋立つや山に小さな美術館      前田達江

熊笹の鯖街道に秋立ちぬ       大島翠木

秋立つや蝉声はたと止むあした    久保晴子

以上は季語、「秋立つ」の句集(http://www.haisi.com/saijiki/akitatu.htm)より。

「秋たちぬ」とは美しい言葉です。秋風が吹き清涼の季節が始まるという情感が込められた言葉です。
そこで以下に過ぎ去りつつある夏の花々の写真をお送りします。
はじめの2枚は自宅の庭で撮ったものです。残りの3枚は三鷹市の「緑と花の広場」で撮りました。

それはそれとして、今日は残暑をお見舞いし、皆様のご健康をお祈りいたします。  後藤和弘(藤山杜人)

「夏に花が咲く木の花」

2023年08月14日 | 写真
真夏の太陽の日差しにも負けず、たくさん樹木が鮮やかな花を咲かせる夏の季節です。そんな元気の良い花々の写真をお送りします。
写真の出典は、https://horti.jp/21433 です。

1番目の写真はサルスべリです。
初夏から秋まで長い間花を咲かせることから、「百日紅」とも呼ばれます。フリルのようなかわいらしく鮮やかな紅色の花が咲き誇る姿は、とても魅力的で夏の青空によく映えます。

2番目の写真はキョウチクトウです。
キョウチクトウは、頑健で乾燥にも強い性質をもち、強い日差しの中でも美しい花を長期間にわたって咲かせ続ける低木です。

3番目の写真はフヨウです。
夏から秋にかけて美しい白やピンクの大輪の花を咲かせます。朝に開花し、夕方にはしぼんでしまう1日花ですが、最盛期には毎日新しい花を次々に咲かせるので、長い間楽しませてくれます。

4番目の写真はクチナシです。
クチナシは、初夏にすずしげで美しい純白の花を咲かせる花木です。花の香りは強く、甘く濃厚なことから、春の沈丁花、秋の金木犀と共に、世界3香木の1つとして親しまれています。

「祖父が住職をしていた懐かしいお寺の写真」

2023年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
祖父が住職をしていた懐かしいお寺の写真です。
そのお寺は兵庫県篠山市の郊外の谷山という地域にある曹洞宗の 法福寺 でした。いかにも貧し気な質素なお寺でした。
祖父が若い頃に住職をして、後に叔父が長く住職をしていました。私の父は長男でしたが寺を出て東北帝大の教授になっていました。
この法福寺には毎年夏に何度も泊まりに行ったものです。少年の頃でした。茫々70年前のことです。
懐かしいのでインターネットから現在の写真をお借りしてお送り致します。

1番目の写真は本堂です。左右の客間に一緒に行った弟と毎晩寝ました。

2番目の写真は法福寺 の入り口の門です。

3番目の写真は現在改装中の母屋です。

4番目の写真は兵庫県篠山市の郊外の谷山の風景です。笹谷の中心街から離れた農村です。

「今日の年間第19日の主日のミサの動画配信」

2023年08月13日 | 日記
今日の年間第19日の主日のミサの動画配信です。

関口教会の動画配信、
https://www.youtube.com/watch?v=RfqDB22GDMY

8月13日10:00 司式 天本昭好神父(主任司祭)
入祭の歌  カ典3 荒れ地のかわき果てた土のように
いつくしみ・栄光の賛歌 ミサ曲605・607
答唱詩編  典81③④⑤ 神よわたしに目を注ぎ
アレルヤ唱 典269 年間第19主日
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(2)
奉納  典195 めぐみのパン
感謝・平和の賛歌 ミサ曲608・609   
拝領  カ典322 平和の祈り
閉祭  典406 平和のほのお

イグナチオ教会のミサ動画配信、
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html


なお平和旬間は8月6日~8月15日です。

写真はカトリックの関口教会とイグナチオ教会の以前ミサの風景写真です。