後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「座禅と禅宗、そして弘法大師のこと」

2023年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は座禅と禅宗のこと、そして弘法大師のことを書きたいと思います。短く、簡単に書きます。
早速ですが、禅宗とは何かという事から説明します。
座禅をすればお釈迦さまの教えが理解出来る。こういう考え方が中心になっているのが禅宗です。
禅宗は判りやすいので中国や朝鮮半島や日本に広がり数多くの禅宗系の宗派のお寺があります。
その禅宗の言葉に「不立文字」という言葉があります。
「不立文字」とは経典だけをいくら読んでも経典の意味が実感できないという意味です。読んだだけでは信じる事ができないというのです。
すなわち宗教は言葉では説明がつかないのです。
座禅の体験を繰り返しているとある時、目からうろこが落ちるように経典の内容が理解出来るのです。
そして、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静などという言葉の意味が氷が解けるように簡単に理解出来るのです。
宗教を信じるためにはいくら本を読んでも駄目です。座禅とかミサに参加するとか巡礼をするとか体を動かさないと駄目なのです。
それは仏教の座禅や滝行や回峰行などいろいろな修行に相当します。
宗教は理屈でなく直観で判る分野なのです。
科学では、仮説の理論を組み立て、実験で証明出来る自然現象が研究の対象です。宗教は実験で再現不可能な人間の心の問題を対象にしています。
科学と宗教の違いを簡単に言えば、理論で説明が出来るのが科学であり、説明出来ないのが宗教なのです。

さてここで話は変わります。心温まる弘法大師さまのことについて気楽に書いてみようと思います。
日本の仏教は奈良時代からの古い仏教と、新しい鎌倉以後の仏教の二つに分けることが出来ます。
古い仏教には弘法大師の真言宗など5つの宗派があります。
弘法大師さまは、空海とも呼ばれ、高野山の真言宗を開いた方です。
民衆の救済を非常に大切にした方で、現在風に言えば民衆に対する愛が溢れていた方です。
弘法大師さまは諸国を巡って人々の苦悩を解決し、農業用の溜池を作り、文化の恩恵を受けない大衆のために、綜芸種智院という学校を開かれ、民衆の教育につとめたのです。
話は飛びますが、日本は明治維新の文明開化以来、熱心に西洋文化を取り入れて来ました。
しかし取り入れ方が科学や工業技術に重点が置かれたため合理的な文化のみに偏っていたのです。
奇蹟を信じ、マリア様の処女懐妊を信じ、イエスの復活を信じる宗教を下敷きにしたヨーロッパの民族文化の導入にはあまり熱心ではなかったのです。
ヨーロッパにある密教的な民族文化を無視し過ぎていたのです。
現在、空海の始めた真言宗の信徒は、高野山真言宗:548万人、真言宗智山派:153万人、真言宗豊山派:120万人、真言宗醍醐派:56万人、合計約900万人もいるのです。現在、全国にはお大師さまを祀ったお寺が沢山あります。
日本人が密教が好きな理由の一つには、弘法大師さまの暖かい心にあるようです。弘法大師に対する人気が密教の隆盛を支えているようです。
現在でも四国のお遍路行脚は人気が高いといいます。同行二人といって弘法大師さまが一緒に歩いて下さるのです。
現在の日本人も大師さまの暖かい心を忘れていません。

今日は座禅と禅宗のことを書いて、その後て弘法大師さまのことを書きました。 

今日の挿絵の写真は小金井市に残っている江戸時代の念仏坂、白伝坊の坂や質屋坂で撮った夏の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







「毎日蒸し暑いので富士山5合目の涼しい写真をお送りします!」

2023年08月21日 | 写真

もう少しは涼しくなるかと毎日天気予報を見ています。でも相変わらずジメジメと蒸し暑い日がえんえんと続いています。秋の爽やかな日が永遠に来ない様な絶望感に捉われています。そこで元気が出るようにと、以前に富士山5合目で撮った涼しげな写真をお送りします。ご覧になって暑さを忘れて頂ければ嬉しくおもいます。

 


「北海道に続いて雄大な阿蘇山の夏と冬の写真をお送りします」 

2023年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃は時々登山をしました。北アルプスや南アルプスや東北地方の蔵王連山などに登りました。しかし阿蘇山はこれらの山々とは全く違います。抜群に雄大なのです。
特に南北25km、東西18kmにおよぶカルデラは圧倒的です。
そのカルデラを3度ほどバスで横切ったことがあります。バスが遥かに広がる緑の草千里に停まり、しばらく草原を散策します。そしてロープウェイで火口へ登ります。一面の深い霧で、すぐ傍に歩いている筈の家内の姿が見えないので驚いたことなど思い出します。
雄大さが忘れられない阿蘇山は曾遊の地なのです。この阿蘇山の夏景色と雪景色の写真をお送りいたします。

1番目の写真は阿蘇山の全体の写真です。
2番目の写真は阿蘇山の主峰の火口湖の写真です。
3番目の写真は標高1592mの火口のある主峰の雪景色です。
写真の出典は、https://www.pmiyazaki.com/kyusyu/aso/win.htm です。
4番目の写真は阿蘇山の火口西駅周辺のパノラマです。
写真の出典は、http://k-kabegami.com/asofuyu/20.html です。
5番目の写真は阿蘇山の霧氷です。樹氷で有名な蔵王連山にも霧氷も沢山ありました。その蔵王の霧氷を何度も見ていましたが、南国の阿蘇山に霧氷があるとは驚きです。写真の出典は、https://www.photolibrary.jp/img153/6804_776619.html です。

「あそ」はアイヌ語で火を噴く山の意味と言われています。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E5%B1%B1 )
阿蘇山は世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持ち「火の国」熊本県のシンボル的な存在です。火口に近づいて見学できますが、火山活動が活発化し、有毒ガスが発生した場合は火口付近の立入り禁止です。
阿蘇山のカルデラ内部に出来た中央火口丘群の中核に一列に並ぶ根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を阿蘇五岳(あそごがく)と呼びます。

今日は曾遊の地の雄大な阿蘇山の雪の風景写真をお送りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「松浦武四郎と北海道のロマン」

2023年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の自然には太古のままのような雰囲気があります。風景もヨーロッパを思わせる景観で旅心をかき立てます。ロマンチックです。特に秋深い北海道は、やがて来る厳しい冬の予感を与えています。もう何十回も訪れました。
今日はまず北海道の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は知床五湖の第一湖です。2015年に道東に行った時の写真です。駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです。背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。
2番目の写真は道東の広い牧場です。
3番目の写真は摩周湖です。
4番目の写真は北海道大学のポプラ並木の夕暮れです、

5番目の写真は札幌郊の夕暮れ風景です。
さて、この北海道の名前をつけ、アイヌ民族を愛したのが松浦武四郎でした。
それまでは北海道は蝦夷地と呼ばれ、北海道という名前は無かったのです。
北海道には4万年前の石器時代からアイヌ民族が住んでいました。
松浦武四郎の生涯をご紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。
松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。
父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。
安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。
明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。
翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。
明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。
明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。享年70歳でした。

松浦武四郎はアイヌの伝統文化を尊重し、北海道の各地の地名にアイヌ語の地名をそのまま残したのです。ご存知のようにサッポロも漢字表記にして札幌と書いたのです。その他のアイヌ語の地名は末尾に示してあります。

今日は北海道の美しい写真を示しました。そして幕末から北海道を6回も訪れ各地に地名をつけた松浦武四郎をご紹介しました。アイヌ語の地名をそのまま残したのです。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===北海道のアイヌ語の地名==========~=



赤平(あかびら)
旭川(あさひかわ)
芦別(あしべつ)
足寄(あしょろ)
厚岸(あっけし)
厚沢部(あっさぶ)
厚田(あつた)
厚別(あつべつ)
厚真(あつま)
網走(あばしり)
虻田(あぶた)
硫黄山
伊香牛(いかうし)
幾春別(いくしゅんべつ)
生田原(いくたはら)
石狩(いしかり)
一巳(いっちゃん)
糸魚沢(いといざわ)
岩尾別(いわおべつ)
有珠(うす)
臼尻(うすじり)
ウスタイベ岬
歌志内(うたしない)
歌登(うたのぼり)
ウトロ
卯原内(うばらない)
ウブシ
浦臼(うらうす)
浦幌(うらほろ)
雨竜(うりゅう)
江差(えさし)
枝幸(えさし)
絵鞆(えとも)
択捉(えとろふ)
恵庭(えにわ)
恵庭市(えにわし)
江部乙(えべおつ)
江別(えべつ)
襟裳(えりも)
遠軽(えんがる)
遠別(えんべつ)
雄阿寒(おあかん)
追分(おいわけ)
大岸(おおきし)
大滝(おおたき)
大沼(おおぬま)


士幌(しほろ)
島牧(しままき)
島松(しままつ)
清水(しみず)
占冠(しむかっぷ)
下川(しもかわ)
下頓別(しもとんべつ)
舎熊(しゃぐま)
積丹(しゃこたん)
斜里(しゃり)
朱鞠内(しゅまりない)
白老(しらおい)
知内(しりうち)
尻岸内(しりきしない)
尻羽岬(しりはみさき)
後志(しりべし)
尻別(しりべつ)
知人(しれと)
知床(しれとこ)
新得(しんとく)
寿都(すっつ)
砂川(すながわ)
瀬棚(せたな)
層雲峡(そううんきょう)
壮瞥(そうべつ)
空知(そらち)
大樹(たいき)
高ボッチ
滝川(たきかわ)
竹浦(たけうら)
立待(たちまち)岬
多度志(たどし)
多寄(たよる)
端野(たんの)
近文(ちかぶみ)
チキウ岬
築別(ちくべつ)
チセヌプリ
秩父別(ちっぷべつ)
千歳(ちとせ)
忠別(ちゅうべつ)
忠類(ちゅうるいぺつ)
知利別(ちりべつ)
対雁(ついしかり)
津別(つべつ)
手稲(ていね)
天売(てうり)
天塩(てしお)
弟子屈(てしかが)
手宮(てみや)
問寒別(といかんべつ)
戸井(とい)
濤沸(とうふつ)湖
当別(とうべつ)
当麻(とうま)
塘路(とうろ)
徳舜別(とくしゅんべつ)
常呂(ところ)
トッカリ崎
トッカリショ岬
徳富(とっぷ)川
椴法華(とどほっけ)
利根(とね)
十弗(とふつ)
苫小牧(とまこまい)
苫前(とままえ)
泊(とまり)
トムラウシ
豊頃(とよころ)
豊富(とよとみ)
豊似(とよに)川
豊似(とよに)岳
豊平(とよひら)
頓別(とんべつ)
中標津(なかしべつ)
中頓別(なかとんべつ)
長沼(ながぬま)
長和(ながわ)
名取(なとり)
七飯(ななえ)
南幌(なんぽろ)
新冠(にいかっぷ)
西興部(にしおこっぺ)
西帯広(にしおびひろ)
西ヌプカウシヌプリ
ニセイカウシュッペ山
ニセコアンヌプリ
根室(ねむろ)
野花南(のかなん)
野付(のつけ)
沼前(のなまい)
野辺地(のへじ)
登別(のぼりべつ)
萩野(はぎの)
函館(はこだて)
抜海(ばっかい)岬
発寒(はっさむ)
花咲(はなさき)
羽幌(はぼろ)
浜頓別(はまとんべつ)
浜中(はまなか)
浜益(はまます)
早来(はやきた)
張碓(はりうす)
パンケトウ
花畔(ばんなぐろ)
美瑛(びえい)
東鷹栖(ひがしたかす)
東ヌプカウシ山
東藻琴(ひがしもこと)
比布(ぴっぷ)
美唄(びばい)
美深(びぶか)
美幌(びほろ)
平取(びらとり)
風連(ふうれん)
深川(ふかがわ)
福島(ふくしま)
二股(ふたまた)
風不死(ぷっぷし)岳
富良野(ふらの)
古平(ふるびら)
別海(べっかい)
別保(べっほ)
ボッケ
穂別(ほべつ)
幌加内(ほろかない)
ポロト湖
幌内(ほろない)
幌延(ほろのべ)
幌別(ほろべつ)
幌満(ほろまん)
幌武意(ほろむい)
奔別(ぽんべつ)
本別(ほんべつ)
幕別(まくべつ)
増毛(ましけ)
摩周(ましゅう)
マスイチ浜
真狩(まっかり)
松前(まつまえ)
丸瀬布(まるせっぷ)
御園(みその)
三石(みついし)
室蘭(むろらん)
雌阿寒(めあかん)
目梨(めなし)
目梨泊(めなしどまり)
女満別(めまんべつ)
藻琴(もこと)
本泊(もとどまり)
茂辺地(もへじ)
モユルリ島
モヨロ貝塚
森町
門静(もんしず)
紋別(もんべつ)
門別(もんべつ)
紋穂内(もんぽない)
湧洞(ゆうどう)沼
夕張(ゆうばり)
勇払(ゆうふつ)
湧別(ゆうべつ)
遊楽部(ゆうらっぷ)
由仁(ゆに)
余市(よいち)
羅臼(らうす)
蘭越(らんこし)
陸別(りくべつ)
利尻(りしり)
留寿都(るずつ)
留辺蘂(るべしべ)
留萌(るもい)
礼文(れぶん)
礼文華(れぶんげ)
鷲別(わしべつ)
稚咲内(わっかさかない)
稚内(わっかない)
和寒(わっさむ)
輪西(わにし)
フウレーピラ・アカピラ
チュップペツ
アシュペ・アシュベツ
アシュロペット
アッケシイ
ハチヤムペット
アツシ
アツペツ
アツマト
チパシリ
アプタペッ
イワオヌプリ
イカウシ
イクシュンペッ
イクタラ
イシカラペツ
イチャン
チライカリペツ
イワオペツ
ウシ
ウセシリ
ウシュタイペ
オタウシュナイ
ウタヌプリ
ウトルチクシ
オバラナイ
フプウシ
ウムイウシ
ウライポロ
ウリロペツ
エサシ
エサシ
エンルム
エトウルプ・イトルップ?
エエニワ
かつてはイジャニ
ユウペオット
エベット
エリモン
エンガルシュペ
ウイエベツ
ピンネシリ
ウエンナイ
オプケスペシレト・オプケシ
トクシシュウシュウペツ
ポロトウ
オカチイ
イクシュンシリ・オクシリ
オケツウンナイ



ウコッペ
オサット
オサルンペツ
オシャマンペ
オショロ
オタエト
オタノシケ
オタルナイ
オクチシ
オトイネプ
オテシウンペツ
オトプケ
オトペ
オニウシぺツ
オヌプウンナイ
オペレペレケプ
オビラウシュペッ
ウフイプ
オポロベツ
オヤフル
オンネトウ
オンネトー
オンネペッ
オンネユ
オンペツ・ウェンペツ
カイエウトル
ヘッチエウシ・ヘイチェウシ
カックニ
カムイリ
ペニウングルコタン
ペンケトウ
ユウペット
カムイ
カムイコタン
カムイヌプリ
カムイナイ
ヌプゥシケシ
キモーペツ
クスリ・クシュル・クッチャロ
クッチャロ
クッタラ
クチャウンナイ
クンルル
クロマツナイ
クンネナイ・クネンプ
クンネップ・クンネプ
ケネニペツ
コイドェイ
コタン
クッチャロ
コムケト
コンポヌプリ
サクル
サットポロ
エサマニ
サロプト
サロロ
サルオペツ
サラオマペツ
サラ
ユックルペシペ
シコタン
シコツ
シュトナイ・シフッチナイ
シプッチャ
シプペ
シベツ
シホロ・シホルカペツ
シュマコマキ
シュマオマプ
ペケレペツ
シュムカプ・シモカプ
パンケヌカナン
トウンペツ
イサッケクマ
シャックコタン
サルイ・シャリ
シュマリナイ
シラウオイ・シララオイ
チリウシ・チルシ
シリキシラリナイ
シリパ
シリペツ
シリペツ
シリエト
シリエトク・シレカンライ
シントク・シントコ
スプキペツ・シュツ
オタシナイ
セタルペシュペナイ
ソーウンペツ
ソーペツ
ソラプチ
タイキウシ
ボッチ
ソラプチペツ
シキウ
ピウシ
タトウシナイ
タイオロオマペツ
ヌプンケン
チカプニ
チケプ
チュクベツ
チセヌプリ
チックシベツ
シコツ
チュプペツ
チュウルイペツ
チリベツ
トイシカラ
ツペツ
テイネイ
テウレ
テシウ
テシュカガ
テムムンヤ
トイカムペツ
トイ
トープツ
トーペツ
トウオマ
トーオロ
トクシシウンベツ
トーコロ
トッカリ
トッカリショ
トク
トゥーポケ
トンナイ
トプツ
トーマコマナイ
トマオマイ
ヘモイトマリ
トンラウシ
トヨコロ
エベコロベツ
トヨイペツ
トエニヌプリ
トイピラペット
トウンペツ
シベツ
トウウンペツ
タンネトー
オサルウスンぺツ
ヌクトリ
ナムナイ・ヌアンナイ
ポロモイ
ニカプ
オウコットペ
フシコペツ
ヌプカウシ
ニセイカウスペ
ニセイコアンヌプリ
ニムオロ・ネモロ
ノカナン
ノッケウ
ノナオマイ
ノンベチ
ヌプルペツ
シリエトク
ウスケシ
パクカイ
ハチャム
ポロノツ
ハポロペツ・ハプル
トーウンペツ
オタノシケ
アマムシュケ・マシュキニ
ハイキト・サクルペシペ
ハルウシ
パンケトー
パナウングル
ピイエペツ
チカップニ
ヌプカウシ
モコト・モユト
ピピ
ピパオイ
ピウカ
ピポロ
ピラウトルイ
フレペツ
ナエ
オリカナイ・イルカナイ
ペツエウコピ
フプウシ
フラヌイ
フルレピラ、フィーピラ
ペツイイエ
ペッホ
ポプケ
ポペツ・ポンペツ
ホロカナイ
ポロト
ポロナイ
ポロヌプ・ホロノブ
ポロベツ
ホルマンペツ
ポロモイ
ポンペツ


赤い崖・山稜の崖
朝日の出る東の川
魚の背びれ・川底深くけわしい
沿って下る川
カキのいるところ
サクラドリのいる川
アツシの原料のオヒョウがとれた所
アツシの原料のオヒョウのある川
湿原にアシの茂る所

釣り針を作り魚を釣った川
硫黄のある山
いつもあふれるところ
かなたを流れる川
ササの葉
非常に屈曲する川
サケの産卵場
糸魚をとる川
硫黄の流れる川

突出した地
湾内にある川
砂原の多い川
すりばち型の山
岩間の通路
河口がひろい川
トドマツが多い
網代の場所
大きな網代
鵜の川
昆布? 突き出した岬?
昆布? 突き出した岬?

エトウ(鼻)ルプ(頭)のあて字
鋭くとがった山
シャケの多いところ
チョウザメの多いところ
但汁のような川
うずくまったネズミの形
眺望するところ
さわがしい川
雄山
悪しき川
槍の石突きに似た岩のある・石突岬
アメウオのいる川
大きな湖
われわれの住居



向かいの島・悪い陸
川尻に獣皮を乾かす張りのある谷川
川尻の合流するところ
川尻の乾いたところ
河口にアシ原のある川
カレイの居るところ
尻をついたような形の湾
砂の岬
砂浜の中央
砂だらけの川
山の鞍部
川口の汚れているところ
川尻にやなのある川
髪の毛
川尻に沼地のある地
川口に木の多くある川
川尻に原野のある川
川尻がいくつにも裂けているところ
川口に崖のあるところ
燃えているもの
河口の大きい川
つぎの岡
大沼
大沼
年老いた川
年老いた温泉
水の悪い川
岸壁が折れたようになっているところ
神楽岡
カッコウのいる木
神瀑、美しい岩
上の人の村

滑らかな水の湧くところ

神のいます所、神聖な里
神山
美しく神秘的な沢
野の端
奥の方の川、山間の川
温泉・通路・のど
クチョロ川? のど、湖水の流出口
イタドリの多いところ
猟人の小屋のある沢
危険な道
和人の女の多くいる沢
黒い沢・黒いところ
黒いところ、湿地が多く川の水が黒い
ハンノキの川
波が崩すところ


曲がっている沼
こぶ山
夏路
乾燥した広大な地
カワウソのいるところ
アシの生えた河口
アシのなかにある川
アシの多い川
カヤのあるところの川
やや広い砂州(洲?)
沿って下る鹿の道
大いなる村、最良の村
大きな谷、穴
ブドウのある沢・祖母の沢、先祖の沢
大川端の丘陵
大いなる川
サケのいるところ、大いなる川
広大な土地・本流の後戻りする川
背後に岩のある
石のあるところ
清き流れ
白樺の群生した所・清流
下の川、下の沢
沼に行く川
魚干すさお
魚の場所
アシの生えているところ・湿った沢
石の多い高い川
アブのおおいところ・湖のあるところ
鳥のいるところ
岸壁に形像があるところ
大地の端
大きい川
大きい川
大地の鼻
大地の頭の突端・国土の先
清水の流れ・山の肩、漆器を作る所
川の名・山の麓
砂、大きい、川
犬の路の川・沢
滝の多い沢
滝の川
滝がかかる
ノミの多いところ
巨大な高原
滝の下る川
アシ
魚が来るのを待つ
カバの木の多い沢
森の中にある川
野の端
鳥のいる木
断崖
秋川
家の屋根のかたちをした山
泥炭地
大きな窪地
東川
波の立つ沼川
鳥のいる川
回流沼
2本の川
山霧多く湿潤

やな
岩の上
海藻の寄る岸
土のかさぶる川

沼の口
沼川
沼、湿地のあるところ
湖沼のあるところ
アメマスのいる川
沼、湖水のあるところ
アザラシの地方称
アザラシの岩
小山
岬の陰
巨渓、大河
沼の口
沼の後ろにある川
エゾエンゴサクの花の多い地
サケが湾にはいる港
水あかが多くあるところ
無人
食糧の豊富にある川
土川
豊富な木のある山
川の水がその岸を切り崩す
湖のある川
サケの多くいるところ
沼からでる川
長い沼
川口にアシ原がある川
湿地
冷たい川・豊かなる谷
大平原
オヒョウの皮
川尻の合流するところ
古い川
原野にある山
峡谷の上にあるもの
峡谷によりかかる山
樹木が繁茂するところ
仕掛け弓の糸を置くところ
あごの岬
ウニの多いところ
野なかを流れる清い川
色の濃い川、濁れる川
大地の頭の突端
湾の端
丘の上に大岩がある
桜鳥が多い
大きな岬
流失広大な川・柔らかな
沼から出る川
砂浜の真ん中
米を炊く・ニシンの多い所
アサ、カヤのある沼・夏超るいく沢道
食糧の多いところ
下の湖
川下の人
油の川、濁った川
大鳥の巣があるところ
原野のある山
小さな沼・眠っている沼
石が多いところ
カラスガイの多いところ
石が多い
水多く大いなるところ
崖の間
赤い川
谷川

川がわかれる
トドマツの多いところ
イオウ臭い火炎の土地
赤い崖
破れ川
小川
煮え立つ





「キリスト教の洗礼を受けると気持ちが広々として楽になる」

2023年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄ではカトリックのことなどを何度も書いています。そうすると、たまに洗礼を受けたほうが良いでしょうかという相談を受けます。私の答えは、「是非受けて下さい」と明快です。
キリスト教の洗礼を受けると気持ちが広々として、その後の人生が楽になるのです。
日本人何故、抵抗感を感じるのでしょうか?
いつも考えて来た2つの理由書いておきたいと思います。

一つは「自分は洗礼を受ける資格が無い」と考える人が多いのです。洗礼は国家資格ではありません。学歴も能力も問いません。貧富の差も問いません。寄付も絶対に要求しません。「洗礼を受ける資格が無い」と考える人は、それでもう充分です。洗礼を受けて良いのです。

私が1971年に洗礼を受けたカトリック立川教会の塚本金明神父様は私の資格を一切問いませんでした。カトリックの教理の勉強などしていませんと言いましたが、そのことも問題にしませんでした。一切の質問をなさらないで洗礼を授けてくれたのです。

日本人が洗礼を受けないもう一つの理由は、洗礼を受けると日本人として生けて行けなくなると考えるからです。社会から疎外されるという心理的な怖れを感じることです。
この考えは全く間違っています。洗礼を受けた私は以前より鮮明に日本人の長所や善さが判るようになったのです。仏教の重要性もより深く理解出来るようになったのです。神社に参拝します。お墓参りやお葬式には欠かさず行くようになりました。
以前より一層日本が好きになりました。洗礼を受けたおかげで私はより一層日本人らしくなったのです。

洗礼を受けたら社会から疎外されるという心理的な怖れは人間の弱さの証明です。私もそれを感じました。しかし社会が疎外するのではなく自分が自分を疎外しているのです。そんな信者もたまには居ます。しかしそれも一時的な間違いに過ぎません。
日本人は真面目過ぎます。肩の力を抜いて明るく前向きに考えれば良いと思っています。

添付の写真は世界のカトリックの本山のバチカンのサン・ピエトロ教会の外観と内部の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」

2023年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本の人々は意識していませんが仏教の影響を深く受けています。日本は正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。
キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。
ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。
キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。
私はカトリック信者です。毎週、日曜日にはミサにあずかります。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。
例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。
そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。
そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。
そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。
まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

写真はバチカン市国の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「今日の年間第20日の主日のミサの動画配信」

2023年08月20日 | 日記
今日の年間第20日の主日のミサの動画配信です。

関口教会の動画配信、
https://www.youtube.com/watch?v=lT-BwlaoK30

8月20日10:00 司式 星野正道神父様(教区本部協力司祭)
入祭の歌  典102 しあわせな人
いつくしみ・栄光の賛歌 ミサ曲610・612
答唱詩編  典55①②③ 神のみ旨を行うことは
アレルヤ唱 典272 年間第20主日
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(2)
奉納  典393 主が手をとって起こせば
感謝・平和の賛歌 ミサ曲613・614   
拝領  カ典21 このパンを食べ
閉祭  カ聖31 ほめたたえよ

イグナチオ教会のミサ動画配信、
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html

なお平和旬間は8月6日~8月15日です。

写真はカトリックの関口教会とイグナチオ教会の以前ミサの風景写真です。
 

「藤田嗣二画伯の油彩画の追加」

2023年08月19日 | 写真

1番目の写真は『眠れる女』と題される作品です。サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こしたそうです。この絵で藤田は一躍パリの画壇の寵児になった有名な油彩画です。特に肌の色の白さが独特な美しさを放っており他に誰にも描けない白だったのです。藤田の第一期の作品です。

2番目の写真は『カフェにて』という作品で胸もとの肌が藤田の独特の透きとおるような筆致で描いてあります。これも藤田の第一期の作品です。

3番目の写真は秋田の祭りの様子を描いた非常に大きな絵画です。絵の前に並んでいる人間の大きさと比較してご覧ください。秋田に長期間滞在して描いた大作です。彼は日本の平和な風景も描いていたのです。

4番目の写真は『秋田の行事』の一部です。これは藤田の第二期の作品です。まだこの頃は偏狭な愛国心にとらわれていませんでした。
1936(昭和11)年7月に平野政吉が建設構想を打ち出した美術館の壁を飾るため、翌年の1937(昭和12)年に制作された作品です。

5番目の写真も『秋田の行事』の一部です。『秋田の行事』は藤田の大作です。彼は「秋田の全貌」「歴史的秋田の意味」を描くことを意図し、約半年間頻繁に秋田を訪れ取材を重ねました。
平野邸のあった外町に視座を据え、外町から眺望した「秋田」を描き出したのです。秋田の祭りと祈り、暮らし、産業、歴史が、祝祭と日常の対比のなかに、色彩豊かに展開する壮大な壁画です。
現在は秋田県立美術館の新美術館に展示してあるそうです。

「昭和という時代に翻弄された藤田嗣二画伯の生涯」

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代にフランスと日本の両方に住んでいたレ藤田嗣二画伯は波乱万丈の生涯を過ごしました。今日は彼の生涯を簡略にご説明します。
戦争中には陸軍の要請で陸軍美術協会理事長になり数多くの戦争画も描いたのです。そして敗戦後、日本人に排斥されフランスに逃れ、フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受けました。藤田嗣二画伯は昭和という時代に翻弄されたのです。
多くの日本人画家は印象派の真似をしますが、レオナール・フジタだけは真似をせず独創的な芸術を創ったのです。その作品は現在でも世界中で高く評価されています。
彼の父は森陸軍軍医総監という役職についていました。それは陸軍中将相当の地位だったそうです。
兄の嗣雄の義父は、陸軍大将児玉源太郎です。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野がいました。
幼少のころから陸軍特有の偏狭な軍国主義の雰囲気の中で育ったのでしす。藤田嗣二ももともと軍国主義者だったので戦争画も描いたのです。
その上、パリで絵描きと成功すればするほど藤田は内心では日本人としてのアイデンティティーを思い悩んでいたのです。
1932年に帰国し、陸軍から戦争画を描くことと陸軍美術協会理事長就任の要請を受け、それを承諾しました。彼は率先して戦争に協力したのです。
それでは彼の戦争画を見てみましょう。

1番目の写真は『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』です。
ハルハ河のそばでロシア軍の戦車を勇敢な日本兵が攻撃している場面です。ノモハン事件の遺族の依頼で藤田が描きました。

2番目の写真は「アッツ島玉砕」の絵画です。この絵は忠実な写実であり、藤田は戦争を鼓舞した訳ではないと藤田を弁護する人がいます。
しかし展覧会場のこの絵の前で、藤田は軍服姿で遺族のための募金箱をもって直立不動の姿勢で立っていたそうです。募金箱にお金を入れる人がいると藤田はそのつど最敬礼をしていたのです。

3番目の写真は「サイパン島同胞臣節を全うす」という絵でしす。同胞の日本人が天皇陛下に忠節を示し死んで行くのですというメッセージです。
これらの戦争画だけを見ると彼が戦争を鼓舞していたとは解釈出来ます。
その他、落下傘部隊の舞い降りる絵や、日本の爆撃機が敵の艦隊を攻撃している絵などを見ると彼は戦争に協力していたのは客観的な事実でしょう。

敗戦後に戦争へ積極的に協力した藤田へ非難が集中します。
また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあったそうです。
このような批判に嫌気が差して彼は1949年に日本を去って再び帰らぬ人となったのです。
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており再会出来なかったのです。フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったそうです。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いたのです。
1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消しました。
1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなったのです。彼は正真正銘のフランス人になったのです。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死亡し、遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られました。
ランス市にあるレオナル・フジタの作った「平和の聖母礼拝堂」は現在でも日本人を始め多くの人々が訪れているそうです。
藤田は建物の外装と内装も監修し、80歳の年齢で着手したチャペルの壁を飾るフレスコ画は今でも美しく輝いています。礼拝堂は1966年10月1日に、マリア様に献堂され、18日にランス市に引き渡され、1992年に歴史的な記念碑として指定されたそうです。

4番目の写真はその礼拝堂の外観です。

5番目の写真は礼拝堂の祭壇の上の壁画です。
レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。

これで終わりにしたいのですが、補足として彼のその他の絵画も続編でご紹介したいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「昭和という時代、私個人の忘備録」

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和という時代はどんな時代であったかと問われれば日本の歴史上一番激動が大きかった時代で言うことが出来ます。大きな戦争があり、徹底的な敗戦、そしてアメリカ軍による占領を経験したのです。外国軍による日本全土の占領は歴史上はじめての一大事件です。
今日は昭和という時代の私個人の忘備録を書いてみたいと思います。
昭和11年に生まれ、昭和35年にアメリカへ留学するまで住んでいた仙台での体験です。まず戦前の仙台駅の風景写真を示します。
戦前、戦後に生きた日本人ならきっと懐かしい思いでご覧頂けると思います。

1番目の写真が戦前の仙台駅です。ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。
下は戦後、新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。

2番目の写真は昭和30年頃の仙台駅と市電です。市電には市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

3番目の写真は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。

4番目の写真は国分町と大町通りの交差点です。高札場跡の芭蕉の辻です。
繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて町には何時も軍人が歩いていました。第二師団長の多門大将の名前をつけた「多門通り」という通りもあったものです。

5番目の写真は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いています。
仙台の繁華街は東一番丁通りと大町通りでした。藤崎百貨店がありました。仙台の地元の百貨店ですが、この他に三越の仙台店が東一番丁通りの北にありました。
藤崎も三越も戦災で内部が少し焼けましたが、戦後すぐに復興して仙台市民を明るくしてくれました。
昭和という時代には強烈な国家目標が2度挫折しました。二度の挫折とは
「敗戦」と「バブル経済の崩壊」のことです。
武力でアジアの盟主になり、大東亜共栄圏を作るという国家目標は1945年の敗戦で完璧に挫折してしまいました。
経済復興と高度成長で世界の経済発展の旗手になるという国家目標も1990年前後のバブル経済の崩壊で一朝の夢となってしまいました。
私の人生観はこの強烈な国家目標に大きな影響を受けました。いろいろな思い出が湧きあがって来ます。一つだけ思い出を書きます。
それは昭和天皇の境遇の変転です。初めて見た写真は軍服姿で白馬に跨った写真です。通っていた小学校の校長室の壁に飾ってありました。そして全ての教室には天皇陛下と皇后陛下の神々しい写真が飾ってありました。

6番目の写真は軍服姿で白馬に跨った昭和天皇の写真です。(写真の出典は、http://tamutamu2011.kuronowish.com/daigennsui.files/image003.jpg です。)
校庭には奉安殿という建物があり教育勅語や式典の時使う大きなご真影が奉安されていたのです。
そして敗戦です。打ちひしがれた国民を励ますために昭和天皇は全国の津々浦々を巡幸したのです。それは徹底的に地方、地方を精力的に回ったのです。
小学校3年生だった私も仙台の荒れ果てた青葉通りの台の上に立つ天皇へ小さな日の丸の旗をふりました。天皇は何も言わずに中折れ帽子を振るだけでした。

7番目の写真は昭和天皇の巡幸の様子です。(写真の出典は、http://kukikei.sakura.ne.jp/shouwa-emperor.htmです。)
ご覧下さい、上の写真に写っている人々の表情を。天皇は集まった人々の目を見ながら歩いて行きます。
そして経済復興が終り、いよいよ経済成長が始まる頃に美智子さまが皇太子の妃として民間から天皇家に加わりました。やがて孫達も生まれ、昭和天皇にもやっと平穏な日々が巡ってきたのです。

8番目の写真は昭和天皇ご一家です。(写真の出典はp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/734/83/N000/000/002/129550121501116313547_img20070907120222.jpg です。)
この昭和という激動の時代に、天皇はどのような気持ちで過ごしたのでしょうか。
戦争中は天皇の気持ちは一切報道されません。声も終戦を決意したことを告げる1945年8月15日の放送までは一般人には公開されませんでした。
しかし戦後、天皇が側近へ漏らした本当の気持や発言が沢山の本になって出版されました。
支那事変に反対し、すぐ終わると言う軍部のウソに怒り、いらいらしていました。2・26事件の時は政治家を殺した青年将校を激しく叱りました。そして日独伊三国同盟に反対し、ベルリンで同盟を推進していた大島大使を非難し、松岡洋右外務大臣を忌み嫌いました。昭和天皇は日英同盟を心情的には希望していたのです。昭和天皇は軍部に騙され、利用されていると知りつつもどうしようも無かったのです。無念だったに違いありません。
戦後、東京裁判でA級戦犯として逮捕すべきという意見も連合国の一部にはありました。
それをとどめたのがマッカーサーだったのです。
シルクハット、モーニング姿で訪問した天皇をマッカーサーは平服で迎えたのです。そのマッカーサーが天皇の人格に感銘を受けたそうです。
昭和という時代はどんな時代だったかという問題に対する正解はありません。昭和時代を生きた人それぞれの経験から描きだしたら、千差万別な答えが出てきます。
いろいろ書いていたらキリがありませんので止めます。最後に以前に参拝して来た昭和天皇の御陵の写真をお送りして終りと致します。

今日は昭和という時代の私の個人的な忘備録を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
特に戦前生まれの老年の方々の平穏な老後をお祈りいたします。
後藤和弘(藤山杜人)
===日本の戦争に反対した2人の僧侶========
昭和時代に反戦を主張した僧侶が2人居たことを記しておきます。
はじめは竹中彰元住職のことです。
昭和12年に日中戦争反対を公言して、昭和20年の敗戦までその主張を変えませんでした。軍刑法の流言飛語罪で禁固4か月の刑をうけましたが、仏の教えに従ってまでなので考えは変わらないと敗戦まで主張続けたのです。
詳しくは「竹中彰元」を検索すると沢山の資料が出てきます。
竹中彰元を破門した大谷派は70年後に破門が間違いだったとして竹中師の名誉回復をしたのです。
戦争反対を主張した僧侶をもう一人は植木等さんの父の僧侶の植木徹誠さんです。知る人は少なかったのですが、植木等さんの父は筋金入りの反戦平和主義の僧侶だったのです。三重県伊勢市の大谷派の常念寺の住職でした。
「戦争というものは集団殺人だ」などと説教していたのです。当然、治安維持法違反で逮捕です。そして4年間も投獄されていたのです。
植木等は小学生でしたが牢屋にいる父の住職の仕事を代行して、お経をあげたり檀家の世話をしていたそうです。そして牢屋にいる父へのために毎日自転車で鶏卵を差し入れに行っていたそうです。
父は息子へ「等、いいか、戦場に行っても絶対に銃を撃つんじゃないぞ」と言っていたそうです。
植木等がコメディアンとして有名になった後も父の話を忘れませんでした。大部分の芸能人が自衛隊の後援会に入っていますが、植木等だけは終生入会しませんでした。
ちなみに等(ひとし)という名前は人間はお釈迦様の前ではみんな等しいのだということで父の徹誠がつけた名前だそうです。 

「まだまだ惜別しなくて良いKITAHOさんのブログから『野ブドウ』の話」

2023年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
KITAHOさんは「八ヶ岳南麓-横浜・・・KITAHO World 。」というブログに毎日記事を掲載してしております。KITAHOさんも木内正夫さが紹介してくれたかたです。八ヶ岳南麓での山里生活と横浜での2地域居住を続けています。、原種バラを中心とするガ-デニングや菜園 を楽しんでいます。何年か前に彼の八ヶ岳南麓の別荘を訪ねたことがあります。懐かしい方です。
そのKITAHOさんの8月16日の野ブドウに関する記事を掲載します。

・・・KITAHO著、「野ブドウが美しく色づいてきましたね。」・・・
 野ブドウの彩りは・・・ベージュからライトブルー・・・・そして瑠璃色・・・濃紫色とたくさんの彩りが混在して見せます。
 宮沢賢治はこの野ブドウのことを、めくらブドウと表現し、『めくらぶどうと虹』という童話を発表していますね。
『めくら』というのは岩手県花巻地方の方言と言われていますが、以前から私は子供への注意として、この野ブドウには毒性があり、野ブドウに触れた手で目に触れると、危険!と言う表現をとっていたものと、思っていました。
 土地柄、そんな表現を宮沢賢治は、この童話にも使い、表現していたのでしょう。
 しかし、この野ブドウの毒性は危険なものではなく、漢方にも利用されるものと言うことを知りました。
また、『めくら』と言う表現は、差別語として、最近は注意しなければいけない言葉となっていますね。・・・・・・・

■野ブドウが美しく色づいてきましたね。 ブドウ科野ブドウ(学名: Ampelopsis glandulosa var. heterophylla)

■まだ色づかない、ベージュのものもいっぱいです。


「琵琶湖の畔に住む『ちひろ』さんとの惜別」

2023年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
2007年に甲斐駒岳の麓の木内正夫さんに紹介してもらった
「ちひろ」さんとも惜別の時が来たようです。
最近、重い病気になったという記事を最後に『ちひろ』さんのブログも更新がありません。
2007年から最近までインターネットの上での交友が16年間続きました。長い間の交友に感謝しています。
そこで「ちひろ」さんのブログの8月14日の記事を掲載します。
お世話になりました。ありがとうございました。

・・・ちひろ著、「墓しか残っていない寂しい里帰り」・・・
「今日は子供を連れて、実家へ帰らせていただきます!」・・・と、夫に言って息子と家を出た。
実家とは,義理のおじいちゃんとおばあちゃん、海軍で戦死の為遺骨の無い父と母と兄と弟2人のお墓が残っているだけ、寂しい里帰り。
墓石に色々話しかけて慰めてあげた・・・・・喜んでもらえたと思う。
家を出る時は曇り空で園部の辺りでは土砂降りの雨だったけれど、福知山のお墓に着いた頃はがんがん照り,
蔓延った笹を取り除いて墓石を磨いたりしていると、汗が滴り落ちて熱中症になりはしないかと心配するほどの晴天となった。
やっぱり晴女だと言うと、「ご先祖さんが守っていてくださっているんやろ」と息子が言った。
縦貫道路を走って思ったより早く帰宅できて、おビールの美味しい事。
車中より福知山城をパシャツ!
福知山出て長田野超えて~駒を早めて亀山へ~ ドッコイセ~ ドッコイセ~
下駄がちびるほど踊り明かした福知山音頭
実家のあった場所も道路になって昔の面影は無く、故郷は次第に遠い存在になってゆく。
(原文は2014-08-14 19:37:38 、里帰り! - カメラと遊ぶ日々 (goo.ne.jp) です。


「山林の中に独り住む友人との惜別と感謝」

2023年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
甲斐駒岳の麓の山林の中で長年親しくしていた木内正夫さんが北杜市の施設に入ってしまいました。もう会うことも難しくなりました。惜別です。
以下は木内正夫さんのブログの最後の投稿です。
詳しくは、http://sizen068.blog95.fc2.com/ にあります。
・・・さようなら・・・
眼の状態が思わしくなく、ブログの記事さえ満足に読めなくなり皆様のブログにも訪問がむずかしく なりました。本日をもって終わりにします。
本を読む、テレビ、DVD等も満足に見えなくなってしまいました。飯を炊くなどの生活視力は少し残 っています。
2月下旬からの過激な道路工事も原因の一つだと思います。後少しで完成しますので頑張ります。
今まで応援していただき感謝しています。
コメント欄は開けておきますが返信は出来ません。ブログは人生の記録として残しておきます。さようなら。

以下は私の木内正夫さんへの感謝の文です。

・・・「山林の中に独り住む友人への感謝」・・・
甲斐駒岳の麓の山林の中に独りで何十年も住んでいる友人がいます。木内正夫さんという方です。
最近、視力が弱くなる眼病になってインターネットへの書き込みが出来なくなりました。そのせいで10年以上毎日のように更新してきたブログを止めることにしました。
残念なことですが、ブログを止めることにした彼にこの際、感謝の記を送りたいと思います。
私がこうしてインターネットの上で毎日、写真や文章を掲載出来るようになったのは彼のお陰です。
2007年の秋に私を訪問してくれて、ブログを始めませんかと勧めてくれたのです。そして彼の山荘へ私を誘いインターネット上に写真や文章を掲載する技術を丁寧に教えてくれたのです。
そのお陰で私は2007年の11月から「後藤和弘のブログ」を始めました。
その後、木内さんとは大変親しくなり、いろいろとお世話になったのです。
彼は山荘の周囲の広い敷地にいろいろな花を育てていました。水芭蕉の花、クリンソウ、ヒトリシズカ、イカリソウ、フクジュソウ、ヤマブキ、などなど多種多様な花々を咲かせていました。
そして雑木の丸太を並べて椎茸やナメコも栽培していました。敷地にはクリタケが沢山生えていました。
草花の好きな家内へクリンソウやヒトリシズカやイカリソウを鉢に入れてくれました。私はシイタケの原木を5本も貰ったのです。東京に持ち帰った原木から3年間もシイタケが採れたのには驚きました。
私の家の庭には今年も木内さんから貰ってきたヒトリシズカやイカリソウの花が咲きました。
木内さんは優しい性質の人でした、
自然を愛し小さな花や森の中の生き物を注意深く観察していました。
とくに熱心に努力したことは珍しいモリアオガエルを育てることでした。

彼の山荘の敷地の真ん中に小川が流れています。その傍の樹木の枝に直径10cm位の白い泡の塊があるのを見つけました。春、オタマジャクシが泳ぐ頃です。彼は直ぐにモリアオガエルの卵塊と気が付き、生まれたオタマジャクシを少しだけ分け取って、家の中で飼うことにしたのです。
モリアオガエルは本州と佐渡島にしか棲んで居ない日本固有種で深山にしか居ない珍しいカエルです。
白い泡の塊の中にある数百の卵が オタマジャクシになると下の水溜まりへ落下して小さな可愛いカエルになります。まだ尻尾が付いているのに樹木の枝に這い上がり、一生、樹上生活をします。
飛び跳ねる力が強く一回に3メートル位を飛びます。ですから樹から樹へと、猿のように飛び回って、虫を食べて大きくなります。大きくなるとガマ蛙くらい大きくなります。手足に吸盤がついていて木の葉にしがみ付きます。

ここで5枚の写真を示します。
1番目の写真は木内さんの山荘に行く道です。なお私の山小屋は木内さんの山荘から更に500m位入った山林の中にあります。
2番目の写真は森の中に埋まるように建ててある木内さんの山荘です。この位森と溶け合っていないとモリアオガエルは産卵に来ないのです。
3番目の写真は木内さんが庭に作った池の上の木の枝に産み付けられたモリアオガエルの卵塊です。中に数十匹以上のモリアオガエルの卵が入っています。
4番めの写真はオタマジャクシから孵って手足が消えた若いモリアオガエルです。これに虫の餌をやって育てると大きくなります。
5番目の写真は越冬して大きく育ったモリアオガエルです。翌年は自分が生まれた池の上の枝に卵塊を生むために森の中から帰って来ます。

このように写真を順に見て行くと簡単に飼育出来るように見えます。しかし木内さんの苦労は並大抵ではありません。
オタマジャクシを家の中の容器の水に移し、毎日、ゆで卵と野菜の餌で細心の注意を払って飼育します。
手足が出てきたら草の葉を入れ、這い上がらせます。これで水中生活から一生の間、縁が切れます。
そこからは別の大きな飼育箱へ入れ、ヨーロッパイエコオロギの小さな子どもを餌としてやります。春に孵化したオタマジャクシが11月なってやっと2cmから3cm位に成長するのです。
イエコウロギはインターネットで購入し、数個の飼育箱で子供を産ませます。これが難しくて大変だったと言います。コオロギの飼育箱とモリアオガエルの飼育箱をベットのそばに置いて毎日注意深く飼育しています。冬になったので冬眠させるため暖房の無い寒い部屋へ移そうとしていました。
一方、庭の人工の池で育った数百匹の小さなモリアオガエルは樹木に登って、何処かに飛んで行ってしまいました。森のなかを飛び回って大きくなり、冬眠を始めるのです。

木内さんにモリアオガエルを見せて貰う度に、私は自然の営みの不思議さに吃驚しました。モリアオガエルの美しさに感動しました。
彼は人間が、たまたま独りで森に住んで、そして死んで行くのも自然なことですと言います。モリアオガエルと同じだと言うのです。お葬式もいりません。発見したら玄関の外に書いてある遠方の弟へ電話して下さいと笑っていました。その弟さんは馬場駿という小説を書いている人です。伊豆で岩漿という文学会を主宰していました。

最近、木内正夫さんが眼病になってインターネットの世界から退場すると言うのです。10年以上毎日のように更新してきたブログを止めると言うのです。


 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「信仰を貫いてフィリピンに追放された高山右近」

2023年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
フィリピンの国教はキリスト教です。80%ほどがカトリックで、10%がその他のキリスト教です。つまり合わせて90%以上もの人がキリスト教徒ということになります。
1521年のマゼランのフィリピン到着とその後300年にわたるスペインの統治の歴史がフィリピンをカトリック国にしたのです。
そのフィリピンへ1614年に62歳の高山右近が追放されました。高山右近は有力な戦国大名でした。キリシタンの信仰をつらぬいて追放されたのです。フィリピンではスペインの総督やカトリック関係者に大歓迎されます。
今日はユスト高山右近のことをご紹介いたします。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受け人々の引きとめる中、加賀を退去します。
長崎から家族や内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラには12月に到着しました。
イエズス会の神父たちからの報告ですでにローマ法王に知られていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバやカトリックの信者達から大歓迎を受けたのです。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1615年2月3日に息を引き取りました。享年63歳でした。マニラ到着からわずか40日のことでした。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で10日間という長期間にわたって盛大に行われます。
そして右近の亡骸はイエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられたそうです。

右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
そして約300年後の1977年11月、フィリピン国鉄南方本線パコ駅の前にマニラ市、高槻市、財団法人東南アジア文化友好協会等の協力によりプラザデラオ日比友好公園が作られ、公園内に高山右近像が立てられました。右近のフィリピンに来た経緯が刻まれた碑も設置されたのです。高槻市は昔、高山右近が治めていたのです。
そうした関係で、1979年(昭和54年)1月25日、高槻市とマニラ市は姉妹都市となります。
公園はその後もアロヨ政権期に再び整備され、像や碑も綺麗に立っています。これらに関連した写真を示します。
1番目の写真はスペイン植民地時代に造営されたカトリック教会のサン・アグスティン・デ・マニラ教会です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピンの歴史 です。
2番目の写真はマニラのプラザ・ディラオ(日比友好公園)にある高山右近の記念碑です。後方に高山右近の像が見えます。その後は旧パコ駅舎です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/高山右近#国外追放と死 です。
3番目の写真はマニラの日比友好公園にある高山右近の銅像です。この銅像は高槻市高槻城址公園にある銅像と同じ姿のものです。この近所にはかって日本人町があったそうです。写真の出典は、vel.jp/travelogue/11103053 です。

さて高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。
翌2016年(平成28年)に教皇フランシスコが認可しました。そして2017年2月7日に大阪府大阪市の大阪城ホールで列福式が執り行われたのです。
4番目の写真は高槻城跡公園 に立つ高山右近の銅像です。マニラにあるものと同じ姿です。
これと同じ姿の銅像が次のように各地に立っています。
・大阪府高槻市 高槻城跡公園
・富山県高岡市 高岡古城公園
・石川県羽咋郡志賀町 高山右近記念公園
・香川県小豆島 小豆島教会

ところで日本人の列福式と言えば2008年11月24日 にも長崎で行われ188人の日本人が列福しました。
1603年から1639年にわたって信仰を捨てないで徳川幕府に処刑されたペトロ岐部と187人の殉教者を、ローマ法王が福者と宣言する式典は日本ではじめて行われたのです。式典は188人の殉教者の子孫の代表が遺物を祭壇に供えることから始まりました。
続いて岡田大司教が188人の殉教の証拠やいきさつをローマから来たマルティンス枢機卿へ説明し、福者として正式に認めるように願います。それを受けて、ローマ法王は認めますという宣言をジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が代読しました。

福者はいずれ数年後にはカトリックの聖人として認定されます。高山右近と合計189人の聖者がやがて生まれるのです。日本の26聖人に加えて215人の聖者が生まれるのです。

個人的な蛇足です。1974年頃、塚本神父様の立川教会で私達の堅信式をしたときに司式して下さったのが、当時の白柳大司教様でした。
その後も何度か白柳大司教様の感動的な説教を聞きました。10年以上拝眉しませんでしたが、2008年11月24日にテレビでお元気なご様子を見て嬉しさに堪えませんでした。
それに当時、立川教会で塚本神父様のお世話をしながら作曲をしていた新垣さんの曲が長崎から聞こえてきました。
立川教会のことが懐かしくいろいろ思い出されました。当時、洗礼を受けたとき代父をして下さった山本教授のご子息山本量太郎様がその後、小金井教会の主任司祭様になって来られました。

高山右近から話が外れてしまって申し訳ありませんでした。お許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)