阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

神田の「くじらのお宿 一乃谷」で食べたクジラの竜田揚げと鯨カツは何ともおいしかった。

2022年05月14日 | 食べる飲む

神田駅の南口を出て5分くらいの出世不動通り近くに仙台から来たクジラ料理の店があることを相方が検索でみつけたので 某日でかけた。

 二人ともにクジラ料理は好きなので、かなり前だが 神戸から紀州和歌山の勝浦・太地へ一泊旅行した時にもクジラ料理を楽しんだclick。

 事前に相方が調べたgooglemapのおかげで迷うことなく店はみつかった。地下へ降りる入り口は狭かったが店内はかなり広くて 適度に客がいた。

私は☝竜田揚げ定食、相方はカツ定食を頼んだ。

肉はなんの臭みもなく柔らかく実に旨かった。メニューを見るとさすが専門店で豊富な内容だ。

 この店にはまた来ようね。次は鯨の大和煮を試すねと相方が言った。

店は出店して10年とサイトに出ていた。OLやサラリーマン、年配の女性客二人組などいまや固定客がついている店のようだ。

店のサイトから引用。

 店を出てから神田警察通りに向った。この辺りは往時 神田美土代町にあった会社に13年間通ったところなので 今もよその街と言う感じはしない。

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 2006年9月6日 「阿智胡地亭の非日乗」掲載

昭和20年代当時は家でカツを食べるなんていうことはありませんでした。

当然外食などという事は全くありませんから、おそらくカツと言うのは小学校の給食で鯨のカツを食べたのが初めてだったでしょう。

小学校3年生までの九州の若松市二島の島郷小学校ではまだ給食は脱脂粉乳のミルクとコッペパンくらいでしたから、

鯨のカツが出たのは尼崎市の塚口小学校か四日市の納屋小学校かのどちらかだと思います。

硬い硬い肉のカツに早くにかけれらたソースがへばりついている。それでもこんな旨い物があるのかと思って食べました。

最近は調査捕鯨の鯨の肉があまって、結構鯨肉がスーパーなどにも出回っているので、時々家でも作ってもらいますが、喜んで食べるのは私だけなのが寂しい。

また、居酒屋のメニューに鯨関係があればついオーダーしてしまいます。

後に東京勤務のおり、鯨肉の旨さの話をしたら関東の人は誰も乗ってきませんでした。あんな不味いものというのです。

あるとき漁業関係にいた人に聞いたら、古代から鯨をよく食べてきたのは西日本で、しかも鯨も和歌山の太地のように西日本各地でよく取れていた。

戦後、全国に鯨肉が流通するときも「鯨の美味しいところ」は西日本で販売し、東日本は肉にしてから日数が経つ上に、あまりいい肉はいかなかったと聞きました

それであんな不味いものと言う理由がわかりました。当時の貨車やトラック輸送ではそのハンデイもあったと思います。

いずれにせよ私にとってはこれからも憧れの一品であり続けます。
            

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2016年1月30日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載 

墨田区・曳舟駅の目の前、居酒屋「七七」でクジラ料理を楽しむ。 

 両国の江戸東京博物館のダヴィンチ展を見た後、ずっとご一緒した森哲雄さんと両国から錦糸町へ、地下鉄半蔵門線に乗り変えて二駅、

曳船駅で下車して駅の目の前の「七七」に入りました。

店内はそう広くありませんがゆったりした雰囲気の店でした。クジラを売りにしている店でおいしく楽しみました。


  サシミ


竜田揚げ

ベーコン


煮込み


イカ焼きなども。


この店は吉田類のテレビ番組「居酒屋放浪記」で知りました。

店名 七々
ジャンル 居酒屋
TEL・予約 03-3610-0882
住所 東京都墨田区東向島2-16-16 1F
交通手段 曳舟駅から72m
営業時間 17:00 ~ 00:00
夜10時以降入店可、日曜営業
定休日 第3水曜

 

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早乙女勝元さんが亡くなられた。  墨田区で焼夷弾爆撃を受け 戦後 下町の工員から作家へ。  葛飾柴又の町を山田洋次監督に紹介した人 

2022年05月14日 | SNS・既存メディアからの引用記事
 東京大空襲を体験し、戦争の実態を語り続けた作家の早乙女さおとめ勝元かつもとさんが10日、90歳で死去した。早乙女さんに初めて会ったのは戦後60年の2005年。東京大空襲被害者が訴訟を起こすとの記事に賛同する早乙女さんの投書がきっかけだった。穏やかな語り口は、話題が元軍人への巨額の補償になると一転。「民間人はゼロなんです。ゼロでは比較すらできませんよね」と熱を帯びた。(橋本誠)2022年5月12日東京新聞朝刊
自身の戦争体験などを語る早乙女勝元さん=2019年8月15日、東京都江東区の東京大空襲・戦災資料センターで

自身の戦争体験などを語る早乙女勝元さん=2019年8月15日、東京都江東区の東京大空襲・戦災資料センターで

 戦時中「民草」と呼ばれた民間人に寄り添う姿勢は、被害者の徹底した聞き取りに根差している。1945年3月10日の東京大空襲で家族4人を失い、同年8月に右手を切断された女性に会った際は「踏まれたり蹴られたり、これほどまでにさんざんな目に遭わねばならないとは」と驚いたという。横浜空襲で顔にケロイドを負った女性が亡くなったときは、「たまたまあなたは運が悪かったと言わんばかり。民主主義と言っても、民は置き去りなんです」と政府を批判した。
 調査を怠る国に代わり、東京大空襲の死者を「10万人」と算出。訴訟の証人尋問では体験談に加え、米軍の作戦や、火葬できない遺体の公園への仮埋葬なども証言した。空襲の体験者と同時に、専門家でもある希有けうな存在だった。
 「聞いた以上は、伝える責任がある」と晩年も出版や講演を続けた。「私はなぜか生き残った。生き残らせてやるから語り継いでくれるかね、と言われたと思っています」。米寿を祝う会でそう語った言葉に、抱えてきた思いを感じる。国会の被害者救済法案の行方も見届けたかっただろう。
 長女の愛さんによると、空襲が続くロシアのウクライナ侵攻にも、「この戦争はどうにかならんのか」と心を痛めていたという。最後まで平和を求め続けた生涯だった。
追悼のため早乙女勝元さんがあいさつする開館時の写真パネルを展示した東京大空襲・戦災資料センター

追悼のため早乙女勝元さんがあいさつする開館時の写真パネルを展示した東京大空襲・戦災資料センター

◆東京大空襲センターで追悼のパネル展示

 戦争の惨禍を伝えるため早乙女勝元さんが創設した「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)では11日、2002年3月9日のセンター開館式であいさつする早乙女さんが写るパネルを展示し、追悼の意を表した。
 センター事務局の石田博美さん(63)は、早乙女さんが子どもたちに優しく語りかけていた姿を記憶する。「ソフトでありながら『絶対に戦争はしてはならない』という強さがありました」。家族によると、最近は、ロシアのウクライナ侵攻に心を痛めており、早乙女さんは「一刻も早く止めないと何世代にもわたって悲しみが続くことになる」と話したという。
 館長業務を19年に引き継いだ吉田裕館長(67)=一橋大名誉教授、日本近現代史=は「民衆の戦争体験をきちっと記録する活動を始め、運動を広げた人。東京大空襲の存在を国内外に認知させた役割は大きい」とたたえる。紙芝居を制作するなど、若い世代に戦争体験を少しでも分かりやすく伝える工夫に情熱を傾けた姿が印象深いという。
 東京大空襲で祖母ときょうだい4人を亡くした東京都葛飾区の船渡和代さん(89)は、早乙女さんとは半世紀のつきあい。著書「東京大空襲」に刺激を受けた。「文章が穏やかで、まるで下町のお兄ちゃんと話しているよう。自分もこういうふうに発信しなければと思っている」と、遺志の継承を誓った。(三宅千智、井上靖史)

◆寅さんを柴又に呼んだのも…

 足立区で生まれ育った早乙女さんは、20代、30代のころ葛飾区で暮らした。親交のあった山田洋次監督を葛飾柴又に案内し、国民的人気映画「男はつらいよ」シリーズの舞台となるきっかけをつくったとされる。
 本紙連載「わが街わが友」では「とらさんの登場で全国にその名を知られた柴又の帝釈天だが、それはスタッフが足を棒にして探し出したというのはうそで、監督を最初に案内したのは私である」と書いている。戦時中、旧満州で暮らした山田監督には、草団子や土産物店が並ぶ風情ある街並みが珍しく映ったらしく、気に入ってもらえたという。
 早乙女さんが山田監督とよく立ち寄り、おでんや茶飯を食べたという団子店兼飲食店「高木屋老舗ろうほ」を営む石川宏太さん(69)は「早乙女さんは柴又の人間にとって救世主で、大恩人だった」と悼む。「早乙女さんがいなければ映画は存在せず、昔ながらの街並みを残すことはできなかった。柴又を変えないよう、守っていきたい」と話した。(太田理英子)

2022年5月12日東京新聞朝刊

作家の早乙女勝元さん死去 90歳 東京大空襲体験、ルポがベストセラー 語り部活動ライフワークに

取材に応じる早乙女勝元さん=2003年、東京都江東区の東京大空襲・戦災資料センターで

取材に応じる早乙女勝元さん=2003年、東京都江東区の東京大空襲・戦災資料センターで

 10万人が亡くなった東京大空襲を体験した作家で、東京大空襲・戦災資料センター名誉館長の早乙女勝元さんが10日、老衰のため死去した。90歳。東京都出身。葬儀は後日、関係者で行う予定。
 1945年3月10日未明、下町を狙った米軍の東京大空襲に遭い、降り注ぐ焼夷しょうい弾と猛火の中を逃げ惑った。戦後は町工場で働きながら文学を志し、20歳で自分史「下町の故郷」を刊行。ルポルタージュ「東京大空襲」がベストセラーとなり、空襲体験の聞き取りと語り部活動がライフワークになった。
 70年、「東京空襲を記録する会」を結成。都民の空襲体験記や米軍資料を集めた同会は「東京大空襲・戦災誌」(全5巻)で菊池寛賞を受賞した。2002年に東京都江東区北砂に開館した「東京大空襲・戦災資料センター」の初代館長に就任。元軍人のような補償がない空襲被害者が国に救済を求めた訴訟では、証人として空襲体験を語った。
 著書に「東京が燃えた日」「下町っ子戦争物語」「アンネ・フランク」「私の東京平和散歩」「東京空襲下の生活日録」「平和のための名言集」など多数。
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東京都横網町公園の復興記念館にて撮影 引用元























 

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5月13日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年05月14日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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