貝原益軒の「養生訓」(655)では、前医の治療法に誤りがあったとしても前医をそしってはならぬと書かれている。「他医をそしり、わが術をほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず」云々とある。
理由としては、① 医の本道は病人を助けることであり、他医を批判することではない、② 他医を批判するのは客観的に見て見苦しい行為である、ということであり、もっぱら倫理的なものである。
この説は、一面では正しいと思うけれども、間違った治療法が流布しているのであれば、それを批判して正すのが職業人としてあるべき態度であるというもうひとつの「倫理」もあるはずだ。
ところが、現在の医師業界では、貝原益軒的な倫理が大勢を占めていると思う。というのも、医療過誤訴訟において、医師の過失を立証するために協力してくれる他の医者を見つけることは容易ではないからである。後医は、前医の過失を指摘することまではするものの、法廷で証言することまではしてくれないことが多い。
こんなところにも儒教道徳の影響がみられるのである。
理由としては、① 医の本道は病人を助けることであり、他医を批判することではない、② 他医を批判するのは客観的に見て見苦しい行為である、ということであり、もっぱら倫理的なものである。
この説は、一面では正しいと思うけれども、間違った治療法が流布しているのであれば、それを批判して正すのが職業人としてあるべき態度であるというもうひとつの「倫理」もあるはずだ。
ところが、現在の医師業界では、貝原益軒的な倫理が大勢を占めていると思う。というのも、医療過誤訴訟において、医師の過失を立証するために協力してくれる他の医者を見つけることは容易ではないからである。後医は、前医の過失を指摘することまではするものの、法廷で証言することまではしてくれないことが多い。
こんなところにも儒教道徳の影響がみられるのである。