大昔に読んだ「陰翳礼讃」(中公文庫)をひも解いてみると、「懶惰の説」というエッセイが収録されていた。
その中の一節に、目からうろこがとれる思いを抱いた。引用してみる。
「自分が楽しむより人を楽しませることを主眼とする西洋流の声楽は、この点において何処か窮屈で、努力的、作為的である。聞いていて羨ましい声量だとは思っても、その唇の動きを見ていると何んだか声を出す機械のような気がして、わざとらしい感じを伴う。だから唄っている本人の三昧境の心持が聴衆に伝わるというようなことはないと云っていゝ。これは音楽のみならず、総べての藝術においてこの傾きがあると思う。」(p70)
「三昧境」という言葉が出たけれど、芸術を自己完成のための修行ととらえる発想は、おそらく西洋では異端に属するはずである。
そういえば、バレエを観ていつも感じることなのだが、ダンサーはとにかく必死であり、「楽しむ」という気分は微塵もないのではないかと思うのである。もともとバレエは宮廷舞踊であり、要するに「見せる」「楽しませる」ためのもの、さらに言えば「労働」だったからだろう。
その中の一節に、目からうろこがとれる思いを抱いた。引用してみる。
「自分が楽しむより人を楽しませることを主眼とする西洋流の声楽は、この点において何処か窮屈で、努力的、作為的である。聞いていて羨ましい声量だとは思っても、その唇の動きを見ていると何んだか声を出す機械のような気がして、わざとらしい感じを伴う。だから唄っている本人の三昧境の心持が聴衆に伝わるというようなことはないと云っていゝ。これは音楽のみならず、総べての藝術においてこの傾きがあると思う。」(p70)
「三昧境」という言葉が出たけれど、芸術を自己完成のための修行ととらえる発想は、おそらく西洋では異端に属するはずである。
そういえば、バレエを観ていつも感じることなのだが、ダンサーはとにかく必死であり、「楽しむ」という気分は微塵もないのではないかと思うのである。もともとバレエは宮廷舞踊であり、要するに「見せる」「楽しませる」ためのもの、さらに言えば「労働」だったからだろう。