Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

背景的情動としての「無気力」(4)

2025年01月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感」、「抽象的なプリンシプルに対する畏怖心」という言葉からすると、森嶋先生は、(知的階層を含む)日本社会のトップに立つべき(立っている)若い人たちについての、「モラル・フィロソフィー」(倫理(学))の欠如を指摘しているように思える。
 これにはいくつか反論が可能であり、真っ先に思いつくのは、「モラル・フィロソフィー」以前の問題として、そもそも「クリティック」が成り立っていないではないかという批判である(3月のポトラッチ・カウント(2))。
 もっとも、この分野について、私は読書が進んでいないので、これ以上確かなことは言えない。
 次に考えられる反論は、当時の若い人たちは、「神」を筆頭とする超越的なものに対する「畏怖心」ではなく、帰属集団に対する「恐怖心」に支配されていたというものである。 
 私見では、森嶋先生は、どうやら大学に入る前の若い人たちの状況を余り重視していなかったか、または時代の境目にあって死角が生じていた可能性がありそうだ。
 どういうことか、分かりやすく説明してみる。
 約25年前の大学生(概ね1975~1980年生まれ)の小・中学校時代、学校教育においては、地域格差はあると思われるものの、体罰が猛威を振るっていた(笑う人・笑わない人)。
 例えば、小学校では、宿題を忘れた生徒には、教師がホウキで尻を叩く「百叩きの刑」が待っていた。
 「ファニーとアレクサンデル」のヴェルゲルス主教が、「教育」と称してアレクサンデルに「ムチ」で行ったのとほぼ同じで、違いはパンツを脱がせるかどうかである。
 外国人が称賛する日本の「学校清掃」だが、教師には(ムチに代わる)体罰の道具を提供してくれているのである。
 中学校でも同様で、公然と体罰が行なわれていたし、「部活」の開始と共に、閉鎖集団内で、体罰に加え上級生による下級生に対する暴力も横行するようになる。
 こういう状況だと、生徒たちは「恐怖心」に支配され、その行動は、ひとえに「先生・先輩から怒られないか」という基準によって左右されることとなる。
 ここでのポイントは、体罰・暴力が、原則として生徒たちの面前で行われることである。

 「「とくに1970年代の後半から80年代終盤にかけて、体罰は正当性をもって使用されました。当時はいい大学に入り、いい企業に就職するのを第一目標とする傾向が今より強く、学校側も進学率を非常に重要視していました。生徒に学びのおもしろさを理解してもらうことは二の次だったのです。
 これが何を引き起こしたのか。それは中高生の非行です。これは80年代にヤンキーブームが加速していたことからも頷けるでしょう。そうした状況のなか、一部の教員が生徒をコントロールするための解決策として見出したのが、体罰だったと私は見ています」
 「体罰行為には、人を従わせる効果が確かにあるからこそ危険」だと内田氏は続ける。
「体罰はたいていほかの生徒や部員が見ている場で行われることが多いです。これは“見せしめ”として、他の生徒を萎縮させる効果があるからですね。組織をコントロールしやすくする効果は確かにあるのですが、背景にあるのは反抗的な態度を暴力で支配するという反社会的な思考であり、肯定する理由にはなりません」

 このため、生徒たちが抱える「恐怖心」には、「みんなの前で『恥』をかかないか?」という「恥」に基づく不安がブレンドされることとなる。
 つまり、江戸時代の武士などと同じメンタリティーが生まれる。
 高校に入ると、さすがにあからさまな体罰・暴力は部活などに限定されるようになるが、進学校では、代わって「受験競争」という新たな「ムチ」が現れる。
 
コメント
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