「彦山権現誓助剣」の作者が、ゲノム思考を克服していたことはほぼ確実と思われる。
だが、イエ的な思考を克服していたかどうかは微妙である。
というのも、登場人物は、何らかの家業を承継することを運命づけられていたようにも読めるからである。
すなわち、六助とお園は、剣術・八重垣流を家業として承継していくし、内匠(あるいは弾正)は、父・明智光秀の仇討ち、つまりイエの再興を使命としていたからである。
その上で、因果応報(善因・善果、悪因・悪果)の法則に基づき、前者のイエが勝利し、後者のイエが敗北するという構図に見える。
こういう風に考えて来ると、「彦山権現誓助剣」の作者は、ゲノム思考を克服したとはいえ、イエ的な思考を脱却するところまでには至っていなかったというのが、妥当な評価のようである。
ところで、この演目では、刀の持つ意義が重要である。
六助は、お幸から一味斎の形見である刀を授けられるし、内匠(あるいは弾正)は、光秀の亡霊から小田春永遺愛の名剣・蛙丸(かわずまる)を授けられる。
これらの刀は、イエの表章、大雑把に言えば、「苗字」に代替するものとみると分かりやすいようだ。
ちなみに、この刀の祖型は、おそらく三種の神器の一つ・草薙の剣ではないかと思われる。
「日本の三種の神器の1つである宝剣「天叢雲剣(草薙剣)」が、下関に眠っていると言われているのをご存じですか?
現在の関門海峡で、源平合戦の壇ノ浦合戦が行われた際に三種の神器が入水。鏡と勾玉は見つかりましたが、宝剣だけは今にいたるまで見つかっていないそうです。
失われた宝剣は形代(分身)であると言われていますが、下関に自然災害が少ないのは何か不思議な力によるものかもしれません。
いにしえのロマンに想いを馳せながら、関門海峡を眺めると、また違った趣を感じられます。」
三島:君はずいぶん西洋的だなあ。(笑)ぼくはそういう点では、つまり守るべき価値を考えるというときには、全部消去法で考えてしまうんだ。つまりこれを守ることが本質的であるか、じゃここまで守るか、ここまで守るかと、自分で外堀から内堀へだんだん埋めていって考えるんだよ。そしてぼくは民主主義は最終的には放棄しよう、と。あ、よろしい。言論の自由は最終的に放棄しよう。よろしい、よろしいと言ってしまいそうなんだ、おれは。最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
石原:三種の神器って何ですか。
三島:宮中三殿だよ。
石原:またそんなことを言う。
(p541)
三島氏は、「三種の神器」の意義を正確に捉えた上で、日本文化の象徴=天皇、天皇の営為(日本文化の実践)の象徴=三種の神器、という風に、2つの分節化を行っている(傑作の救済(4))。
ところが、石原氏には、これが全く見えていなかったのである。