全国展開していないカイシャを含め、より広く社員に「恐怖心」を植え付けるために用いられている手段の最たるものは、「ノルマ」である(「インテリ」などと並んで『日本語化したロシア語』の筆頭に挙げられる:ロシア語由来の外来語2 ノルマ)。
日本のカイシャが「ノルマ」を導入するようになったのは戦後と言われているが、これによって破滅したカイシャは枚挙にいとまがない。
その「破滅ラッシュ」の第一弾が、90年代、主に金融業界に訪れた。
これについての森嶋先生の指摘は的確である。
「銀行は遮二無二営業活動を拡大した。それはノルマ制の強行である。ノルマ制は日本の企業では銀行を含めてかなり前から実施されていたが、八〇年代の銀行は危機意識の下で、過重のノルマを行員に課した。たとえば、「××円の融資を今年上半期に達成せよ」とノルマが指示されると、それは行員の至上命題となった。ノルマを達成できなかった者は出向という名で関連子会社に出され、永久にその銀行に戻ってこれないからである。」(p77)
あくまで私見だが、「ノルマ」の存在は、イエ原理をビルトインした組織(=「カイシャ」)のメルクマールである。
森嶋先生が「危機意識」(当時における「エクイティ・ファイナンス」の興隆による間接金融の需要減退)という言葉を用いたところから分かるように、「ノルマ」は、顧客の需要に応じて設定されるものでは全くない。
では、何のために「ノルマ」が設定されるのか?
「ノルマ」は、顧客の需要とは無関係に、当該組織の「存続」を目的として設定される。
「存続」(「存続」の主体が何であるかはひとまず措くとして、)こそが、「イエ」である当該組織の究極の目的だからである(カイシャ人類学(8))。
おおざっぱに言うと、自己目的化である。
・・・ところが、「破滅ラッシュ」は1回では終わらなかった。
その第二弾は、約10年前に始まったと私は見ている。
今回は、金融業界に限定されず、しかも「公的資金」などによる救済もないため、事実上のカイシャの消滅も起きている(今後も起こるはずである)。
「東芝、スルガ銀行、かんぽ生命およびビッグモーターの調査報告書を見ると、各不正の原因として次の共通点が顕出されます。
①上層部のコンプライアンス意識の欠如
②過剰なノルマによるプレッシャーの存在
③ガバナンスや内部統制システムの問題
が共通して指摘されています。」
この分析がやや甘いと思うのは、①②③が発生する根本のところに、「組織存続」を至上命題としてしまう思考・行動(「イエ」原理から発している)がある点を見逃しているからである。
・・・だいぶん話が逸れたが、初等・中等教育→高等教育→カイシャを通じて、森嶋先生が言うところの「社会のトップに立つ人たち」に植え付けられてきたのは、何よりも「恐怖心」だった。
森嶋先生が四半世紀ほど前に見た大学生たちは、ありとあらゆる局面で「ラット・レース」に巻き込まれ、脱落すると生きていけないという「恐怖心」をさんざん味わった状態で、社会人になった。
しかも、その後はカイシャ内部において、「ノルマ」や「転勤地獄」に直面しながら日々を過ごしてきた。
こうして生きてきた人間が陥るのは、「無気力」であり、森嶋先生もそのことに気付いていた。
「日本では二十数年前には浅間山荘に閉じこもった左翼学生は、武装警官隊に銃撃戦を挑んだ。・・・学生の多くはそのような学園に背を向けて、そのあと全てに無関心になった。このような日本の学生気質は、1989年にベルリンの壁が取り壊された時にも---依然として左翼思想をもち続けていた人達を除いて---変らず、ほとんどが無関心組だった。
こういう年齢層は現在20歳代から40歳代の後半までを占めている。こういう世代がデモクラシーを育むことはありえない。彼らは選挙で投票することはないであろうし、政府の経済運営に反対することもないであろう。」(p115)
「徳川末期に欧米の使節が日本にきて下した採点は、文化的にも経済的にも程度は高いが、政治的には無能であるということであった。そして彼らは、朝廷も幕府もともに世襲だから日本はいつまでも政治的に幼稚なのだと判定した。幕府はつぶれた。朝廷もシンボルだけの役割しかしなくなった。そして徳川末期に世襲制であったものは、最大限に打破してしまった。にもかかわらず、日本は依然として、政治的に無能であることを世界にさらけ出している。そういう意味で1998年末は徳川末期とほとんど変わることはない。
しかし人は言うかもしれない。今でも政界は、二世議員が示すように、世襲ではないか。世襲だから悪いので、世襲でなくすればよくなるのではないか。確かにそうであるが、世襲状態が続いているのは制度の故ではなくて、そういう状態を打ち破る勢力が、既成政治グループの外に現れてこないからである。これは政治グループのせいではなくて、政治グループ外の人の政治的無気力のせいであろう。政治が悪いから国民は無気力であり、国民が無気力だから政治は悪いままでおれるのだ。」(p145~146)
このあたりはスーッと読んでしまいそうだが、大きな誤りがいくつかある。
例えば、「政治的無気力」というが、「無気力」の原因が「恐怖心」にあり、それをシステム化してしまった教育体制やカイシャの思考・行動にあること、それゆえ「無気力」はそもそも政治の領域に限られないことが見落とされている。
前に指摘したとおり、これは、森嶋先生が当時の初等・中等教育の状況を余りご存じなかったためである可能性が考えられる。
もっと大きな誤りは、「徳川末期に世襲制であったものは、最大限に打破してしまった」というところである。
これが誤りであることはもはや言うまでもないだろう。
それにしても、森嶋先生が「財界の世襲制」について一言も触れないのはどういうことなのだろうか?
まさか、サントリーとトヨタに共同出資してもらってSTICERD(The Suntory and Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines)を作ったことが理由だなんて、言わないよね?