Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

背景的情動としての「無気力」(16)

2025年01月18日 06時30分00秒 | Weblog
 その小説は、「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」(「稲垣足穂コレクション 4 ——ヴァニラとマニラ」に所収)である。
 「稲生物怪録」をモチーフにした短編小説で、そのあらすじは、「物怪が取り憑くと言われる古塚に触って、日夜化物の来襲を受けることになった勇敢な16歳の少年:稲生平太郎(後の稲生武太夫)が、変幻果てない化物の執拗な脅しにもめげず、ついに一ヶ月を耐え通したのを見て、その健気さに感心した化物のボス:山ン本五郎左衛門が姿を現し、一挺の手槌をのこして立ち去る」というもの。
 だが、山ン本は、一体なんのために「脅し」をしていたのだろうか?

 (怪物が)「扨々御身、若年乍ラ殊勝至極」ト云ウノデ、「其ハ何者ゾ」ト口二出スト、「余ハ山ン本五郎左衛門ト名乗ル。ヤマモト二非ズ。サンモトト発音致ス」・・・。
 「・・・御身当年、難二遭ウ時期ヲ迎エタリ。コハ16歳二限ラズ、大千世界総テノ人々ノ上二有ル事ナリ。ソノ人ヲ驚カシ恐レサセテ行クヲ我業トスルナリ。コレ、ワタクシノ所為二非ズ。」(p201~203)

 山ン本は、人々に恐怖を与えることを仕事としているが、自ら進んでやっているのではなく、目的があってやっているのである。
 山ン本は、恐怖を克服した平太郎をたたえた後、「怪事があればこの槌を叩くとよい、私が助けに来るから」と述べて手槌を渡し、大空に飛び立つ。
 では、山ン本は何を目的としていたのだろうか?

 主「・・・一体、愛の経験は、あとではそれがなくては堪えられなくなるという欠点を持っている。だから主人公たちは大抵身を持ち崩してしまう。若し稲生武太夫が至極平穏な生涯を送ったのだったら、それは又それでよいでないか。」(p206)

 ラストの一節が、この小説の肝である。
 平太郎による語りのパートが終わると、唐突に「主」と「客」が登場し、この逸話について論評し始める。
 いわゆる「メタ化」である。
 「主」(=作者:稲垣足穂の分身)は、様々な怪事によって「恐れ」を与え、平太郎の勇気を試みた山ン本の行為を、「愛」と表現している。
 なぜなら、山ン本は、16歳の平太郎少年が社会に出る前に、ありとあらゆる類のこの世界のデフォルメされた姿=「物怪」を見せつけて、それに対する「恐怖心」を見事に取り去ってやったからである。
 一見すると「恐怖心」を植え付けるかのような手法のようだが、効果は全く反対だったのだ。
 この「『愛』の通過儀礼」を経た平太郎の目には、社会のどんな恐ろしい姿も全て虚妄であり、単なる虚仮威しに過ぎないと映るはずである。
 森嶋先生は、「現代の若者は「愛」を知らない」と嘆いたが、平太郎(と山ン本)は、「愛」を知っていたのである。
 私は、山ン本のような、「恐怖心」を克服するテクニックを教えてくれる人物の力で、平太郎のような「恐れを知らない若者」を、毎年100人ずつ養成することを提案したい。
 つまり、「稲生平太郎100人計画」である。
 そして、これと「黒い狩人100人計画」とが、森嶋先生のいわゆる「唯一の救済策」に代わることを期待したい。
 そうすれば、日本の政治・社会を蝕んできた「競争的独裁」は一掃され、ベートーヴェンのような「心の中に持っているものを(自由に)外に出すことが出来る人間」(背景的情動としての「無気力」(1))が次々と社会に現れ、活躍する時代が到来すると思うのである。
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