明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



 

昨晩は以前同じマンションにいたYさんから飲酒の誘いがあったのだが、手が空いたら連絡します、といいながら結局午前5時まで制作。朝方夢を見た。 髪を真ん中から分けたロングヘアーの女の子と過ごす夢である。南沙織か重信房子か、私の少年時代はいくらでもいたが、最近めったにみない。そういえば、私にこれを読め、と万引きした澁澤龍彦集成の1冊『エロテイシズム』を押し付けた娘もこのタイプであった。人生を変えた一冊といえばまさにこれで、陶芸作家を目指していたはずが、実は頭でそう考え行動していただけであったことに気付いてしまった。表層の脳の性能が悪く、直感で行くべきだ、とまだ気付いていない時代である。紙コップで十分という私は所詮陶芸作家には向いていなかった。 ところでその娘は見覚えがなかったが、何しろ夢のことであるから相当楽しい。肝心なことがハショラれていたのは残念であったが、一度帰って30分くらいでもどる、と部屋を出ていった。私はトランジスタラジオを着けっぱなしで寝てしまっていたが、永六輔の番組であろう。野坂昭如の『黒の舟歌』がかかった。それはいいのだが、櫓をこぐキイキイいう音が効果音に使われていて、これが実に嫌な音で、キイキイいう度目が覚めてくる。高校の時、担任にお前等現国の点数が悪いから、となぜか野坂の『エロ事師たち』を放課後全員朗読させられたことを想いだした。前の年は石川達三の『四十八歳の抵抗』だったらしい。当時通信販売の野坂の自主制作レコードは、たしかバージンレコードと洒落ていたか、紙製のレーベルに穴がなく、ターンテーブルに乗せる時に...。という物であった。野坂が大島渚をマイクで殴るシーンから、予備校で生徒に腹を殴らせたアントニオ猪木が、反射的に生徒をビンタしてしまうシーンが浮かんだ頃には、彼女が帰ってくる前にすっかり目が覚めてしまった。天井を眺めながら「のーさーかー」。と恨みがましくつぶやいた記憶があるから、今こうして書いている以上に悔しかったようである。

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浜辺の松の木の下でせんべいを食べビールを飲む三人組。すでに完成していたカットを、見開き用の横長の構図に変更する。ロケ地の海岸には都合よく松の木が生えていなかったので、都内で撮影した松を移植した。松の木を移動したら、はるか向こうにサーファーがいた。三島の背景用に灯台を撮影し、作業を大半終えたところで、上で若い男女が抱き合っているのに気づいたこともある。背景を決めるときは、ざっと見てピンとくるぐらいでないと使えないので、すぐに決めてしまうのであるが、こういうことがあるので気をつけなければならない。 先日撮影したカットで、場面の解釈に関し、決めかねているカットがあった。鏡花は読者に任そうと、あえて触れないでいるのであろう。だったら私も余計なことをせず、と考えないでもなかったが、私のやっているのは小説のビジュアル化という、そもそも最初から余計なことをしている訳である。それに迷った場合はやってしまう方を選ぶことにしている。やりすぎて後悔したことは一度もない。 作者の鏡花は極度の潔癖性である。なので当初は考えもしなかったが、ここへきて鏡花の筆の走り方は、完成度より、むしろ生臭くベトベトして幼稚な河童の気分で書いているように思えてきた。こういう作品は、おのれの顔をフィリピンパブのフィリピーナに「苦労ガ足リナインジャナイ?」と評されてしまうような、幼児性を保持した私のような人間こそ手がけなければならない。堀辰雄は『こんな筆にまかせて書いたやうな、奔放な、しかも古怪な感じのする作品は、あまりこれまで讀んだことがない。かう云ふ味の作品こそ到底外國文學には見られない、日本文學独特のものであり、しかもそれさへ上田秋成の「春雨物語」を除いて他にちよつと類がないのではないかと思へる。」と書いている。

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