明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先日NHKの『ごちそうさん』を見ていたら、娘のふ久が食事中も勉強を止めず叱られていた。私の小学生時代を見ているようで可笑しかった。私の場合は勉強ではなく単に読書であったが。 床屋にいけば、そこの本を読み出して帰ってこない。学校の図書室では授業のチャイムが鳴っても出てこない。家族で縁日に出かけても、もらった小遣いを使わず、シャッターを半分閉じた本屋を待たせ粘る始末であった。家でもその調子で、小遣いを止められてしまった。ふ久同様、全体主義に馴染まず学校ではロクなことはなかったが、駄目なのは教師であって、鍵っ子だった私は友人に恵まれたのは幸いであった。 当時から愛読したのは人物伝の類で、それが結局現在に至っているわけで、人の姿を見てきたようにイメージするのはあの頃の読書の賜物であろう。 何度か書いているが、未だに思い出すと笑ってしまうのは、小学校の低学年の頃は、伝記の類は、その場で見ていた人が書いていると思い込んでいたことである。確かに見て来た様に書いある。仮に私が桜の枝を折っても、ジョージ・ワシントンのような訳にはいかない。私の周囲には気の利いた証言者など居らずガッカリしていた。  ようやく制作する人物の著作を読み始める。今まで何度も文庫を買っては読んでいる。しかし『貝の穴に河童の居る事』で細かいディテールを案外誤読していたことが判った。まして今回は海外の作家である。二種の翻訳を比べながら読んでみる。 T千穂のカウンターでも読み続けたが、相手をしないものだから、唯一読んだ小説が二十歳の時の『十五少年漂流記』というKさんが、老眼で読めやしないのに空いてる本を覗いていた。

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