明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ここのところ無性に聴きたくなり朝からずっとジミー・リードを流している。レコーディングの時に奥さんが歌詞を耳打ちしないと駄目なくらいのアル中だったらしいが、時にヨダレを垂らさんばかりのヘロヘロ感はなんともいえず、余人をもって代え難し。 以前ヤフオクで入手した、あまりな塗装で、一緒にスタジオを借りるSに燃やして焦げたギターといわれてしまう国産のレスポールもどきであるが、この酷い塗装が良いわけで、これは自分でやろうとしても無理な、その違和感良いのである。ただヘッドにギブソンという嘘のブランド名が貼られている貧乏臭さがどうにも我慢がならず、ペーパーで剥がした。さらに別のギターからピックアップを移植したり、コンデンサを換えたりの練習台にしている。私は子供の頃から、開腹だけして手術室から出て行ってしまうような、何でも分解しておいて元に戻さず(せず)放ったらかしにしてしまうという悪癖がある。このギターはなんとしても死なせないようにしたい。
K本に行くと、当ブログをご近所に向けて発信しているものと思い込んでいる人がいて、オイルプリントの話なんかつまらない。娘が婚約者を連れてきたMさんの結末を何故書かない、といわれる。すぐ横にいるのだから本人に訊けばよいと思うのだが。 Mさんは以前から、娘には幼い頃から包み隠さず、大事なことは教えてきた、といっていた。なかなかできることではない。感心していたが、逆にいえば、昔の何を考えているか判らないお父さんと違って、包み隠さなかった分、娘に手の内を知られているということもいえよう。おかげで先手を取られて、こうきたらこうしうようと考えていたことが、すべてすかされてしまったらしい。さらに奥さんがあちら側の作戦参謀についている。私は昨年、制作上のことで奥さんには大変お世話になっている。よって奥さんの「きっとこう来るから、そういう場合はこうした方がいいわよ」。というような参謀本部での作戦会議の様子を、まるで聴いていたかのように想像してしまうのである。そう思うと、酒場で横で飲んでいる私に聴こえるような溜息をついているようでは、初めから勝負はついていたようなものであろう。その後は無事にことは進んでいるようで何よりである。

過去の雑記

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