明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



これから手がけようという海外の作家の制作を決める前、次回作の第一候補は室生犀星の『蜜のあはれ』であり、本物の金魚を使って制作するつもりでいた。犀星の着流しの懐や袖の間から、コロンとしたメスの金魚がヌラリと行き来する様子などは、絵で描くのでなければ、作家を作る私の方法しかない。金魚は一部の人以外には若い娘に見える、ということになっていて、その娘役も決めていたのだが、少々画が細部にわたり、頭の中に浮かびすぎていた。制作に入るにはまだ足りないものがある、と私は判断した。作ってみなけりゃ判らない部分がなければ、面白い作品にはならないものである。完成して、私はこういう物を作ろうとしていたのか、と人事のように感心するぐらいでないとならない。 まだ作り始めていない某作家は、何点か画が浮かび始めた。この作家も動物を撮影する必要がある。おそらく最低でも2種類。 『貝の穴に河童の居る事』を制作することになり中断してしまったが、直前まで内田百間で、本物の猫を使って『ノラや』を構想していた。そして犀星で金魚、と妙に動物づいている。私は常日頃、本当のことなどどうでも良く、真を写す、という意味の“写真”という言葉を嫌い、まことなど写してなるか、と画面から排除することを心がけているといっている。本物の金魚や猫を使うことを考えるのは、上手い嘘をつくには、本当のことを混ぜるのがコツ、ではあるけれども、実はこれは写真である、ということを逆手にとって利用しているのであろう。 

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