志ん生無事に、ただ座っている状態に。撮影用と展示用では作り方が違う。撮影用は写らないところは作らないし、こういうことをしている所、として作る場合があるが、展示する作品は、できるだけ具体的なことをさせない方が良く、その日の気分によって見え方が変わるぐらいの方が良い。 伊集院静、三島由紀夫、古今亭志ん生の仕上げを同時に進めながら、次に手がける人物を考える。見える所に坂本龍馬の首が転がっている。写真が長時間露光の時代の人物であるから、それこそじっとした姿しか残っていない。そうなると前述の話と矛盾するが、何かしている所を作りたいが浮かんでこない。作るかどうか微妙なところである。村山槐多は初期作品にかかわらず、色々な場所で撮るつもりで撮影用にしか作っておらず、首しか残っていない。写真作品はずいぶんあるので人形も出品したいところ。九代目團十郎は衣装を考えると、今の段階では負担が多すぎる。迷う。
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