明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



私のように独学で、作る方法としてただ祈る、じたばたとただ祈り続けるしか方法を持たない人間とすると、不思議でならないのが、繰り返しになるが、知りえた團十郎像3作のうち、歌舞伎座の朝倉文夫作、本人を撮影して制作した浅草寺の新海竹太郎作、ラグーザお玉作。これが同一の人物を制作したとは思えないほど異なっている。これはいったいどうした訳か。ラグーザお玉作はまだ見ていない、という高村光太郎はそれらをボロクソにくさし、『團十郎の首』というエッセイでは、自分だけは團十郎の秘密を把握している、みたいなことを言いながら未完に終わったようである。これが現存していれば答えが出ていそうだっただけに惜しい。彫刻家でないのが残念だが、私が知る限りこの謎を解明していると思われるのが明大の神山彰氏で“この人物の写真は、見る側の期待や欲求に応えていないという。本人が写真嫌いなことは有名なのだが、そういうことではなく、ここには“美ならざるもの”がある。“美たりえないもの”それまで対象たり得なかった物が呈示されている異様さが感じられる。何も美化されることなく、ただ眼前にあるものがただ写っている。そこにあるものがただ写ってしまっているという不思議な感覚であり、そこから團十郎の写真が持つ独自の迫真性や奇妙な切迫感が生じている。” そして当然のように私の團十郎もまた先達3作とは別人なのであった。

HP






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