明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



87の母はご他聞にもれず今日のことは忘れるくせに昔のことは覚えていて、戦前のことも昨日のように話す。しかも半分独り言のようにああだったこうだったと朝っぱらから。ごく最近、私としては初耳の父の意外な話を聞いた。  私は工芸の学校を出た後、二十歳で岐阜の田舎の製陶工場に就職した。すぐにでも陶芸家に弟子入りしたいところであったが、トラックの運転手で金を貯めて同級生となった8歳も年上の苦労人がおり、好きなことにしかしない私は、さすがにこのままでは生きていけない、とロクロもない量産工場で我慢を覚えよう、と殊勝なことを考えた。もう一人、30近い同級生と二人、用意された古い木造の家は1階は普通の部屋で上が収納スペースなどなく、かがまないと向こうへ行けない抱えきれない太さの梁がある屋根裏部屋になっていた。乱歩ファンで猟奇の徒である私としては嬉々として屋根裏部屋を希望した。そこへ父が東京から尋ねてきた。壁の隙間から降る雪が見え、二人でコタツで寝たのを覚えている。 母がいうには、父は可哀想で連れて帰りたかった。といっていたという。私にしてみると私に対して“可哀想”などと口が裂けてもいいそうにない父だったので、相当驚いた。もっとも父も、私が好きで屋根裏部屋に住んでいるとは夢にも思わなかったろう。当時写真に興味がなかったので、あの不気味な屋根裏部屋が1カットも残っていないのが残念である。
HP

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