頭の中のイメージに陰影がないのに気付いてコンビニの袋を落としそうになったのは去年だったか一昨年だったか。浮世絵、日本画に陰影がないことと、日本的遠近法について考えていた。家に着いてやったことは、浮世絵や日本画ではなく、奴だったらきっと、とアンリ・ルソーの画像を検索することであった。やはり陰影はないし、遠近法も西洋のそれとは違っていた。西洋人であろうと頭から自分独自の現実をそのまま取り出そうとした人物はいる。陰影の多少で内と外、どちらの現実に重きを置いていたか、そう単純に判断はできないが、ゴッホにしたって、日射病になるような日差しの中、イーゼル立て描いているのに陰影がない。私は幼い頃から写生の類いが苦手で、図工の時間も写生になるとガッカリであった。外の世界をデッサンするのをきらい、使用してきた素材は、知らないうちに記憶に刻まれた物だけである。観ながら作ったのは、カタログ観ながら作った、ジャズ・ブルースシリーズ時代の楽器と、実在したミャージシャンと、作家シリーズからである。それはともかく。食事は何でも腹に入れれば良い訳ではないように、ただ学べば良いという訳でもないだろう。身に付いた物は出ていかない、余計な物を身につければ、出来ないことが必ず出てくる。要らない物は見ない聞かない。自分の身は自分で守らなければならない。さらに写真のことは写真から学ばず、人形のことは人形から学ばず。それらはみんな私のうちなる声がそうせよといっていた。注意を擁することといえば、誰もやらないのは、誰も要らないからだ。という疑念を抱かないことである。私は長らくやっているのでそれは得意である。新HP
旧HP
『石塚公昭 幻想写真展 生き続ける作家たち』 2018年7/25~9/2 リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.Pyoutube
2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtube
※『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載10回『劇場の永井荷風』 、
| Trackback ( 0 )
|
|