私が私となった原因の一つには、目の前の現実とほぼ同じように、頭に浮かんだイメージにリアリティーを感じていたことであろう。なので幼い頃、頭に浮かんだイメージは何処に行ってしまうのだろう、確かに在るのに。と不思議がっていた。乱歩がいうように”夜の夢こそまこと”とは思わないまでも、私には等価な物として在った。 それを取り出し可視化し、やっぱり在った、と確認するのが、私の創作行為ということになる。 この間まで続けていた作家シリーズは、殆どが、中学、高校までに読んだ小説を読んで浮かんだイメージがネタ元になっている。しかしその後となると、他人の頭に浮かんだイメージに対して興味が薄くなって行き、小説は読まなくなり、展覧会にも行かなくなっていった。中学生の頃乱歩と共に夢中になり授業中にも読んでいた谷崎潤一郎と、泉鏡花の『高野聖』は、やり残した感は拭えないものの、現在制作しているモチーフは、あまりにも古いので、良くいえばやりたい放題である。可能性としては何処かの坊様に、座禅一つせず、と叱られる可能性は大いにあるが、自然物たる私の中に浮かんでしまったのだから仕方がない。
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