三島由紀夫で男の死をモチーフとするなら本来いの一番に手掛けるべきなのは『聖セバスチャンの殉教』である。しかしすでに本人にやられてしまった。死の前年、滑り込みのように上演された舞台『椿説弓張月』の武藤太の責め場のシーンに私はセバスチャンを見付けた。さすがの三島も歌舞伎の舞台に立つわけに行かず、かといってその場面には歌舞伎役者ではなく、肉体美の俳優を代役に立てた。そこで三島には武藤太になってもらった。これは陰影のない石塚式ピクトリアリズムであればこそである。制作中は、まさに私と三島の二人の世界であった。 昨年の個展は『椿説男の死』としたが椿説(珍説)としたのは篠山紀信版男の死に敬意を払ってのことであったが、それが5ヶ月後に50年ぶりの出版を知ったのは会期中であった。篠山氏は撮影直後に死なれて非常なショックを受けたそうだが撮影自体は三島主導でつまらなかったと答えている。これは私の想像だが、篠山氏は次には『薔薇刑』のように自分主導の撮影の確約を三島から取っていたに違いなく、それを反故にされたショックがそこには含まれていたのではないか。写真の欠点は無い物は撮れないことである。私は無い物しか撮らないけれども。