明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



最初に着彩するのは『タウン誌深川』新年号エッセイ用にしゃれこうべを枕の一休禅師の予定。新年号だけに”門松は冥土の旅の一里塚“の竹竿にしゃれこうべを掲げる一休を、と考えていたが、眺めているうちにこの髑髏枕の一休が気に入って来て、むしろこれで行こうと。もちろん“門松は冥土の旅の一里塚”のその後のことなので、竹竿にしゃれこうべの一休もいずれ作ることになるが、そんな絵は描いた人が結構いるだろうが、骸骨を枕にした一休禅師はいくらなんでもないだろう。当時は飢饉などで、そこらをちょっと掘ればいくらでも出て来たろう。そういえば、父が学生時代、友人のアパートに行ったら、日大医学部の学生が遊びに来て、カバンに人間の腕を入れていたそうで、家で解剖の練習をしたんだろうといっていた。父は子供を楽しませるために面白い話をしてやろう、なんて了見など爪の先程もない人間だったので多分実話だろう。寝床で桃太郎の話をしてもらったのを覚えているが、全く面白くなかった



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ここのところ依頼もあり、あまり得意とはいえない分野を手掛けて来た。私の普段使っている粘土も合わないので、馴染みのない粘土も使っている。しかしそれもこれも夏休みのバイトの如く、夏休みが終わる頃にようやく慣れてくる。そうなると夏休みの始め頃の物が頼りなく思えてくる。まあ、そうならないと困るわけだが。 まだ黒人のミュージシャンを作っていた頃、日々発見がある訳だが、ほんの少しづつ常識が変わって来る。ある日、振り返って棚に並んだ作品に目をやったら、昨日までと違って見えてギョッとしたことがある。そうしてチビチビと変化を続けて来た訳である。その人物像の変化に、ただカタログ、資料を見て作る、創作の余地があまりない楽器が追いつかなくなり、元々何かを参考に作るというのが、子供の頃から苦手だったこともあり、嫌気が差して行った。他人が作った物をただ写すなんて苦痛なだけである。 昨日知った隣人(59歳)の死もあり、改めて“人生も夏休みのバイトの如し、慣れた頃に夏休みは終わる〝 高校生の頃、鉄骨運びのバイト時に得た教訓が、当時の当てずっぽうとは違ってリアルに感じる今日この頃である。



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