明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



大荒れの天気というのは本当だろうか、と洗濯。結局無事乾いてしまった。 幻冬舎より見本届く。出不精の私が大阪まで撮影に行ったのだから、せめてたこ焼きくらい食べてくるべきであった。背景の『なんばグランド花月』を見て再び思う。 『貝の穴に河童の居る事』で笛吹きの芸人役をお願いしたMさんと、和服の提供とコーデイネイトでお世話になった奥さんと、Sさんの4人でタクシーでティアラこうとうへ。ここへはいつか自転車で落語を聴きに来たことがある。母は上野に用事があったらしく、例によって到着が遅い。前回二人で行ったコンサートでは、最初の一曲目が始まってしまったが、なんとか開演のブザーの鳴る中着席。 前回同様、ヒットメドレーはともかく、手話をしながらのさだまさし作の『いのちの理由』がやはり沁みる。周囲で鼻をすする音がする。そして必殺の(というのも妙だが)『聖母たちのララバイ』。 終演後皆でゾロゾロバックステージへ。人がたくさんいる中、宏美さんは今回も真っ先に母のところへ来てくれた。ステージで観るのと違い、実物は華奢なのが不思議である。 80過ぎのSさん、毎回宏美さんに福耳を触ってもらうことを楽しみにしている。ニコニコ突っ立っているのが可笑しい。人が多かったがなんとか儀式を済ます。 雨の中タクシーでT千穂へ。前回私にお手拭きで片耳を拭かれてしまったSさん。皆の手前、一応笑顔であったが内心穏やかではなかったろう。警戒してか私から離れ、ゴルゴ13のように壁を背にして飲んでいた。 母は早めに帰る。皆さんに大事にしていただくのが有難い。せっかく良いお母さんだ、といってくれるので、喉元までこみ上げてくる言葉をなんとか我慢し飲み込んだ。

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朝っぱらからKさんからの電話が3回鳴って切れる。これはKさんがよく使う手で、自分からではなく、こちらにかけさせれば、多少罪悪感が薄れるとでも思うのであろうか。腹が立つから出ないでいると、先日の“事故現場”から懲りずに酩酊状態でかかってきた。 血が止まらないKさんを病院に連れて行ったFさんから、Kさんが涙ぐんでいた。と訊いた。房総で早朝に自転車に乗ろうとして頭をぶつけ、その後ガードレールに激突して通行人に救急車を呼ばれそうになった時も、携帯の声は涙声であった。「情けなくて泣いたんだろ?」。というと電話の向こうで「カナカナカナ」としか聞こえない高笑いをしている。 百歩ゆずって空っぽでないにしても、頭の中に入っているのは、せいぜい干からびた梅干しの種程度であろう。そう思うとこれは笑い声ではなく、マラカスのように頭の中の種の音ではないのか?という気がしてきた。一見頭のように見える部分は、ガラガラ蛇の尻尾のように、カナカナの音を出すための部位なのであろう。どうりで大事であるはずの頭を守る気配はなく、受身もとらずに必ず頭からいくはずである。尻尾など踏まれようと切られようとたいしたことはないということであろう。

ロシアの文豪は資料写真を見ると眉間に皺をよせ、秘密警察立ち会いのもと撮影したような顔をしている。初個展が『ブルースする人形展』で、以来男ばかり作る私の、どちらかというと得意分野であろう。おかげでこんな駄文を書いていられるほどスムーズに制作が進んでいる。関西の社長を作り、ロシアの文豪が完成すればまた河童である。ここのところ触れ幅が大きい。 社長自伝本は12日発売だそうである。出版社のHPにまだ掲載されていないので詳細は避けるが、初めて作ったサラリーマンであり、なおかつ笑っている。笑っている人物も黒人シリーズの頃、2、3体作った記憶があるが珍しい。と思ったら『中央公論Adagio』で、植村直己も笑わせていた。板橋の商店街にかかる橋の上で白熊の革だかのズボンを履いてエスキモー犬に囲まれている。笑っていなければ他にどんな顔をすれば良いのだ、という話である。と思ったら手塚治虫も笑っていた。こちらなどなおさらである。

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一日  


ニコニコしながらフラフラしているところは仙台四郎の生まれ変わりのようで、しかし迷惑ばかりでご利益皆無のKさんは、傷を保護する頭のネットは取れたようだが相変わらずである。このままだと酒で身体壊すより前に、事故死が待っているであろう。だんだん怪我で流血の間隔が短くなってきた。ある時など車道によろけて出てしまい、私がとっさにシャツの背中をつかんだからいいようなものの、一瞬遅かったら車に頭を砕かれていたであろう。一歩間違えば今頃、「ホントに中に何も入ってなかったんだって!あの頭みたいに見えたのは単なるダミーだったんだよ」。「そんな馬鹿な?じゃあなんで歩いたり喋ったりしたの?」「そのくらいオモチャでもするわ」。「一緒に風呂入ったけど、電池入れる所やゼンマイまわすところなんてなかったよ?」。などと、皆で悲しみにくれていたかもしれない。 あれは18の時であった。友人のアパートに遊びに行く途中、寸でのところで車に轢かれそうになった。死にそうになった、ということでは病気だろうと車だろうと同じことである。しかし目の前で麻雀に興じる連中に、どれだけ死ぬ可能性があったか説明したところで、それがどうした?であろう。これから先、痛い目や様々な目に遭うだろう。生きて行くということは大変なことであるなァ。と一升瓶かかえてボンヤリ友人等を眺めたのを覚えている。 しかしあれから幾年月。とりあえずここまでは無事にきた。私が現在もっとも避けたい死に方は、Kさんを助けようとして死ぬことである。

編集者は著者の顔を画面に入れたい、しかしそれは原稿を読み、著者の方をイメージする限り難しそうである。そこで私が考えた、著者は後ろ姿で顔を見せずに済みながら、なおかつその人物が著者と判り、文豪と同じ画面内に納まる方法。著者からOKが出たそうである。 私は過去に、普通の商店街と住宅しかない馬込に三島由起夫を立たせた。標高の低いところでは画になりようがない植村直己を商店街に立たせ、嫌いなせいか、はとバスのガイドや外人のアベックなど配して、少々皮肉めかせることになったが、坂本龍馬を今の大手町に立たせた。当時、乾物屋のオヤジを火星に立たせることさえ可能な気になったものである。

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昨日から制作開始したロシアの文豪。表紙用である。どの写真も口が半開き。さすがに肖像画や銅像の類いは大作家の名誉のためか、正露丸を噛みつぶしているように口を閉じている。私は当然半開きに作る。 この作品は文豪の翻訳書ではなく、著者がいる。編集者は著者の顔写真を画面内に入れたい、というのだが、原稿を読む限りその案に乗ってくれる方には思われない。しかし同時に、編集者の考えることも良く判る。顔を出さず、たとえ後ろ姿でも著者であることが判る方法はないだろうか。  転々としたあげくT屋の12時過ぎ。携帯に相変わらず不味い果物みたいにネットを被ったまま飲んでいるKさんの画像が送られてきた。この人は不可解なことに、こんな姿を恥ずかしいと思わないようで、むしろ見てほしいようである。鎖骨を折った時など、着替えにくいではないか、といくらいっても、わざわざシャツの上にコルセットつけてフラフラしていた。画像を送ってくれた人に、モンキーセンターにでもぶち込んで欲しいと返信。 ちょうどそこで、例によって棚ぼたのようにアイデイアが浮かんだ。文豪の後ろに立つ人物が顔を出さず。後姿で著者だと判る策である。切り上げて帰宅。 その後、入れ違いに“事故現場” であるT屋にKさんが現れたが追い返されたそうである。せめて昔仙台に実在したという人物のように、訪れた店は繁盛する。というような力でもあれば別だが、かけるのは迷惑のみである。  本日近所のビジネスホテル内の喫茶店にて打ち合わせ。著者の賛同が得られれば私のアイデイアが生かせそうである。

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