明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



6時に『山の上ホテル』呼びかけ人 高橋睦郎 細江英公 巌谷國士 四谷シモン 川本三郎 平出隆  あれは鎌倉での何回忌の時だったろうか、法要に参加せずホテルの会だけに参加しようと出かけたら係の人に「まだ間に合います」。おそらくその日、日本で最も濃い人達の注視の中最後に焼香をするという、悪夢のような経験をしたので本日は早めに。 澁澤龍彦の死。その日会ったこともないのに呆然として30分間座り込んだのを覚えている。私の人形制作と澁澤は無関係ではあったが、いずれは作品を見てもらいたいと思っていた。その後、澁澤邸で撮影する機会も訪れ、作家シリーズを早く思いついていればと悔やんだ。 カメラを持っていったが、何処向けても有名文学者や、しまいには“昇り竜のお銀”までがファインダー内を横切ってしまう。私は気付いていない人を勝手に撮ることができない性格なので、ちゃんと撮れたのは四谷シモンさんと挨拶中の麿赤児と四方田犬彦と人々の後頭部のみ。1983年に日本TVの『美の世界・アートナウ 』に出演した時、司会をされていた榎本了壱さんに、あれ以来のご挨拶。アシスタントはマリアンであった。 地元に帰りT千穂に寄ると、いつもの顔。さきほどとのギャップに疲労がどっと押し寄せる。

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色紙が出てきた。『松岡洋右』『香椎浩平』『山下泰文』『荒木貞夫』『辻政信』。歴史物を読む際、こんなものが傍らにあるとリアル感は高まる。さらに歌舞伎役者。何代目かは不明だが『尾上梅幸』『二代目市川段四郎/初代市川猿之助』『十三代目片岡仁左衛門』『初代中村吉右衛門』『七世市川八百蔵/七代市川中車』『七代目澤村宗十郎』『中村魁車』『六世中村歌右衛門』ついでに『市川右太衛門』。『島田正吾と辰巳柳太郎』。そして初代河原崎権十郎/九代目市川團十郎』。 七代目團十郎が五男の後の九代目を河原崎に養子に出したが、そのあまりに厳しい稽古に連れ戻そうとしたという。古い雑誌で幼さない九代目の稽古スケジュールを読んだが、涙を拭っている暇さえないようなものであった。書画も稽古のうち。当然達筆である。 近所の古書店で入手した『三遊亭圓朝』(永井啓夫著)を読む。演劇改良運動を後援した井上肇邸で、明治20年に天覧歌舞伎があり、それ以降歌舞伎、及び歌舞伎役者の地位が上がった。それまでの歌舞伎役者は、と十二代目がNHKで解説しているのを観たことがある。 井上肇を検索すると、九代目がかつての養家から泣きつかれて背負いこんだ、河原崎座の借財整理に協力したこともあった、とある。そして展覧歌舞伎の二年後に、西郷従道邸の演芸会で、圓朝は御前に召され、『塩原多助』を口演申し上げたということである。

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必要のないものは身につけない。知る必要のないものも知らないままでよい。情報過多の時代、自分を守るのも大変だが、技術も必要になってからで充分。私の容量の乏しいハードディスクを考えてそう心がけている。将来必要かどうか判らないものも、とりあえず学んでおけ、という学校は実に時間を無駄にしてくれる。子供のころ、算数などという苦痛ばかりのつまらないものが、大人になって必要になるわけがない。と思ったが。そのとおりであった。自分に必要で知りたいことは私しか知らないのだから放っておいてもらいたかったという話である。 しかし逆にいえば、あるイメージが頭に浮かび、さてどうしよう、と思った時、やったことがないので素人同然。そこから悩まなくてはならない。頭に浮かぶイメージというものは、御主人様の状況など無視して勝手に浮かんでしまうものだから厄介である。それをその時々こなしていって少しずつ変化してきたのではあるが。 本日のところは、いったいどうやって作ればいいのだ?不勉強を恥じ途方にくれる私。というおなじみの一日であった。こんな時はとりあえず腹の中をアルコール消毒して一つ溜め息。

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私が想定した着物の着方は普通はありえないようだが、わずかながら日本画の表現にあった。和服のことについて教えてもらっている呉服屋勤めの女性に「妾宅の女性に見えてきます」というと「むしろお妾でなきゃそんな着方しないはず笑」とのお返事。 江戸庶民のある状態はどういう有様なのか、と江戸時代の風俗について図書館で調べていると、つくづく良い時代である。先日の世間のドタバタのせいもあり、よけいそう思うのかもしれないが。 欲しがらないしがんばらないし人と比べないし腹八分だし。家は開けっ放しだし銭湯は混浴だし、火事が多いから持たないし。永井荷風が江戸の風景を求めてぼやきながら歩いた気持ちが良く判る。さぞかし下駄が減ったことであろう。“天気がよし、夢でもよし、いつでもよし、どちらでもよし、もうよし、なんでもかでもずっとよしよし” この時代にタイムスリップしたら絶対帰エらねえ。

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『』



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人形制作の開始早々、つまり頭部の制作初め、これが憂鬱とまではいわないが楽しくはない。架空の人物はともかく、実在した人物の場合、無事に完成する気がしないのである。さすがに長い間作って来たので、結局いずれは無事完成するだろう、とは思うのであるが。それでも作り始めはいつもこの調子である。そして一日、二日でなんだか調子がよく、この段階ですでに◯◯に見えるじゃないか、などというときはまず間違いなく駄目である。それを知っているので、作り始めは機首を上げないように、低空飛行で進めていく、大事なのは調子が地震計のように上下せず、なるべく滑らかなラインを描きながら上がってくることである。そして頭部ができたら完成も同然。ポケットに頭部を入れてK本にでかけ、常連に披露したりして。どうです?などと、たとえば三遊亭園朝の首を見せられても、何もいいようがないだろうけれども。 そういえば噺家の旦那に圓朝を継がせたがった女房がいたが随分大胆である。それは旦那を双葉山にしようというような話であろう。

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私はそれほど写真を観ているわけではないが、遠くから見てもいかにも“名作”というような作品が少々苦手である。たとえばアンセル・アダムスなど家の窓からこんな景色が見えていたら我慢ならない、と辟易とした。カメラという機械を使うからなおさらなのかもしれないが、写真家は男性が多く、簡単にいってしまえることではないが、男性的作品世界があまり得意ではない。そのせいか、女性の写真家に印象に残っている人が多い。今開催されているなどマーガレット・キャメロンなどおそらく安心して観られるだろう。 以前、サンディエゴ写真美術館館長のデボラ・クロチコさんに写真を観てもらう機会があった。ユニークを連発してくれたのが嬉しかったが、何か質問は?と聞かれて世界には私のようなアプローチをしているアーチストはいますか?と聞いてみた。しばらく考えて、紙に書いてくれたのが“Cindy Sherman”であった。他人になりきるセルフポートレイトの女性作家である。古典技法の勉強のために入手した写真集以外で作品集を持っている、数すくない写真家である。いるとしたら女性だろうと予想はしていたが内心『全然違うんじゃないの?』と思った。さらに「あなたの作品は大きく引き伸ばして現代美術として展示した方が良い」。といわれた。深川江戸資料館の個展で会期中、中日あたりでようやくシンデイ・シャーマンのことを含めデボラさんのいわんとしたことが解ってきた。

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鏑木清方が圓朝の横に配した燭台を入手したという理由で圓朝を作ることにしてしまった。GW中の深川江戸資料館の個展は、中締めとしたかったので、すでに頭部がある物を完成させ、数を出品するため新たな人物を手がける事は避けた。その復帰第一作が季節はずれ?になるであろう圓朝になるとは思わなかった。自分でも思わなかったようなことになるのは、私が流れに逆らわないからである。たまたま燭台を目にして1000円で落札したのが、今回のスイッチとなった。しかしもし圓朝を作ることになれば、灯りはヒトダマにしようと考えていたので、燭台は結局使わなかったりして。使うとしたらやはり鏡花や柳田に登場してもらうことになるかもしれない。 それにしても鏑木清方のデフォルメの仕方には惚れ惚れする。圓朝とは親しかったらしいが、お茶をすすりながら、この後怪談を語るのだ、という態勢に入っている。写真よりよほど圓朝していて私の理想ともいえる表現である。 一方個展には間に合わなかった太宰治や完成寸前までいった坂本龍馬もついでに作っておきたい。それに3年近く更新していないHPも、記録しておくためにも、まず隙間を埋めることから始めたい。と思う事は思っているのであった

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燭台  


先日落札した燭台(蠟燭立て)だが届いてみると、やはり鏑木清方描くところの三遊亭圓朝の横に立っている物と同じ物であった。幕末から明治の物であろう。違うといえば菊型の台の部分が清方の方が木部剥き出しのように見えるのに対し、こちらは黒い漆塗りだった、らしいことである。塗りはボロボロである。剥がして木部を剥き出しにするか黒塗りにするか、どうしようか、というところである。蠟燭を立てる部分は、転倒を防ぐ輪がついているが、錆が出ていて長年実用の痕がある。これはせっかくなので残したい。 アンソロジストの東雅夫さんが、昔書かれた怪談会の様子を復刻してくれたが、泉鏡花、柳田國男、ついでに三遊亭圓朝に集ってもらうのはどうだろう。 百物語の会に一度参加したことがあるが、若い人が大半だったこともあり、笑いを交えてさっぱり怖くない。妖怪が子供の味方する嫌な時代である。私の子供時代でもガメラが子供を助けていたが、そんな路線が長続きするわけがない。現実社会が怖すぎて妖怪怪獣の類いが格上げ?されているのであろうか。やはり怪談も、私が小学生の時に封切られた、大映『妖怪百物語』における当時の林家正藏、後の彦六語る、あの調子が望ましい。 昔の灯りの暗さは、写真、映画、絵画、共に描かれていない。リアルに再現したい気もするが、本当に暗いから、そのままではそれこそ画にならないだろう。 いずれにしても圓朝の横に配されたこの燭台。怪談会にもっとも相応しい燭台といって良いだろう。

石塚公昭HP

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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『幽』人形/ヒトガタ特集に私と人形ということで一文を書かせてもらっている。 人形が怖いか怖くないか、という意味からいえば、作る側の想い、作為欲望に満たされている分、作家作品は、たとえ恨めしそうな表情をしていても怖くない。その文の中で、幼い頃、親類の家のTVの上に置いてあった20センチほどのバレリーナの人形が怖かった話をほんの少しだけ触れた。透明な柔らかい樹脂製で、怖い怖いといいながら、親戚の女の子と田んぼの向こうに捨てにいった。顔自体も粗製な分気持ち悪かったと思うが、むしろ中の透明でウツロな部分が人さらいでも可能な容積を持っているようで怖かった。あれは量産品で、作る側の念も何も感じようがないところが怖さのポイントだったろう。漫画『巨人の星』で強打者に限って打てないスローボール大リーグボール3号は、体力を消耗させてようやく打てたわけだが、体力はともかく、作る側の作為、欲まで消すのは難しい。拝む側の念を受ける容積が必要な仏像を作る仏師なら可能なのであろうか。 作りながらも無心で、となると私は溶接でベランダから下がっている物干の製作と、焼き物工場に勤めた時だけである。それ以降は作りたい欲望まみれであり、私の作る人形は怖くない、ということにかけては作者の保証付きである。

石塚公昭HP

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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圓朝、圓朝いってるからどうせ作るんだろうと思っている人はいるだろう。いつもの私の流れからするとそう思われてもしかたがないが、実は鏡花でやりたいことと被っているし、鏡花はすでにある。よってそれほど真剣に考えていた訳ではないのだが。ところがである。ここ最近、ヤフオクで撮影用の照明器具を探していたことは書いた。もうこの辺で良いだろう、と最後に眺めていたら、鏑木清方が圓朝の横に描いた燭台とまったく同じ物が出品されているではないか。初めて見た。しかも即決価格1000円。1000円にしといてやるから早く持って行って園朝作れ、といわんばかりである。さすがにボロいが、鏑木清方の画では木製の台に竹だと思っていたが、総木製で、こちらは金に塗られている。塗装し直すにしても難しくはない。落札。 木場109にてようやく『ミスター・ダイナマイト』を観る。これはスクリーンで観たい。ジェームス・ブラウン実にカッコ良く堪能した。少々せわしなかったが、JBの人生を一辺に描こうというのだからしかたがない。生きていたら出来なかったであろう証言も。有名なマントショーは悪役レスラー『ゴージャスジョージ』のパフォーマンスを真似た、と聞いてはいたが、スクリーンに一瞬とはいえ、ゴージャスジョージが映ってびっくり。私は作家シリーズの前は黒人ミュージシャンを作っていた。ステイービー・ワンダーBBキングには直接人形を渡すことができたから、後はマイルス・デイビスとジェームス・ブラウンだ、と本気で思っていたのだが、マイルスの死でその野望も挫折した。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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鏑木清方が描く三遊亭圓朝は、高座に上がり湯飲みを捧げ持っている。確か岡本綺堂だったと思うが、少年の頃。圓朝の怪談を読んで、たいしたことはないと思って実際聴いたら怖くて早く家に帰った、という話を読んだ記憶がある。その時綺堂が書いていたのが寄席の暗さであった。清方の絵は日本画独特の表現で明るく描かれているが、横にあるのは燭台に蠟燭である。向かって右側しか描かれていないが、おそらく左右で一対置かれていただろう。高座がこれであるから客席の暗さは推して知るべしである。それは怖いだろう。 泉鏡花作『貝の穴に河童の居る事』の長ツラの夏帽子、元々麻布あたりの金持ちであった笛吹きの芸人は、私が考えるに『鹿嶋清兵衛』がモデルである。当時低照度の劇場内に、照明器具を持ち込み、九代目市川團十郎『暫』の撮影に成功している。これが日本初の舞台撮影となる。その照明技術を買われて鏡花の舞台『高野聖』舞台の照明を担当し、大型照明装置の暴発で一部指を失い、後々能の笛吹き方に転向している。つまり劇場だろうと寄席だろうと家庭だろうと、日本の夜は暗かったわけである。それをそのまま再現するのも一興であろう。行灯はすでにあるし、漆塗りの燭台も本日届いた。立体は作ってしまえばどんな光も当てられる。いっそゆらゆらとした人魂を光源とすることも可能であろう。

石塚公昭HP

『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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